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        <title>WirelessWire &amp; Schrödinger&#039;s</title>
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        <description>for Researchers and Engineers Dedicated to Innovate and Elevate Quality of Life</description>
        <lastBuildDate>Mar 10 2026 18:31:19 +0000</lastBuildDate>
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                <title>日常は、未知のものに感覚を解放する可能性を秘めている</title>
                <link>https://wirelesswire.jp/2026/03/92889/</link>

                <dc:creator><![CDATA[久野 愛]]></dc:creator>
                <pubDate>Mar 09 2026 21:00:00 +0000</pubDate>
                                                    <category><![CDATA[科学技術芸術と社会]]></category>
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                <description><![CDATA[<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>「日常とは何か」を考えれば考えるほど、その実態は思考の隙間をすり抜けていく</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:html -->
　<blockquote>日常とは発見することがもっとも困難なものである。<br>
　モーリス・ブランショ（1962=2017）</blockquote> 
<!-- /wp:html -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>「日常」とはなんだろうか。毎日の凡庸な生活やルーティンなど、私たちが普段慣れ親しんだ生活を思い浮かべるのではないだろうか。一方でそんな変わり映えのしない平凡な日々も、一日として全く同じ日であることはない。ならば日常を日常たらしめているのは何なのだろう。同様の問いは、例えば「日用品」にも当てはまる。「日常生活に必要な消費財」というのが一般的な定義であるが、日常生活に必要と言っても、当然ながら誰にとって必要なのか、さらには国や文化、時代によっても必要なモノは異なる。こう考えると、何の変哲もない日常を定義することや、それを取り巻くモノや行動が、実は非常に複雑なものにみえてくる。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>冒頭で引用したフランス人作家で哲学者のモーリス・ブランショは、日常に関する論考で以下のような問いかけをしている。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:html -->
<blockquote>何も起こらないということこそが日常なのである。しかし、こうした不動の動きの意味とはどのようなものだろうか。この「何も起こらないということ」はいかなる水準に位置づけられるのだろうか。私にとってつねに必ず何かが起こっているというのに、誰にとって「何も起こらないのだろうか」。換言すれば、日常の「誰？」とはいかなるものだろうか。また同時に、この「何も起こらないということ」のなかには、なぜ、本質的な何かが生じうるという主張が含まれるのだろうか。</blockquote> 
<!-- /wp:html -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ブランショが「日常は逃れ去る」と述べるように、「日常とは何か」を具体的に考えれば考えるほど、その実態は思考の隙間をすり抜けていく。日常は「つねにすでに現に存在する」のだが、それは日常がアクチュアルなものであることを意味しない。ブランショの言葉を借りれば、日常は「まさにその実現した状態においてつねに実現しないまま」であり、「私たちがつねにすでに接近している接近しえないもの」という両義性のうちにあるのだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>日常はいつもコンベンションを破り、新しい必然性を造り出している</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ブランショに大きな影響を与えたアンリ・ルフェーヴルも、「もっとも卑近なものはもっとも未知—神秘ではない—に富んでいる」と述べ、日常を「うまく定義できない、不定形の巨大な塊」と表している。同時にルフェーヴルは、日常生活が消費活動の場として組織化されていく中で、近代化における日常生活を「疎外（alienation）」されたものとして捉える。資本主義システムの中で個人の生活は「個人主義的傾向に慣らされ」、日常生活が「私生活」（私有する生活）と同義となる。私有財産が疎外の根源であるように、日常生活は「《奪われた（私的な）》生活、現実と世界とのつながりを奪われた生活—人間的な一切のものと無縁な生活」となるのである。ルフェーヴルにとって日常は、生産と消費プロセスとが結びつき再編成されるループの中に取り込まれているのだ。つまりルフェーヴル（そしてブランショ）は、資本主義による搾取と疎外が、工場の中だけで起こるのではなく、より広い領域で作用するものだと措定する。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>日用品を含め消費財が溢れる今日の日常は、ルフェーヴルが述べるように、疎外、そしてフェティシズムや物象化と無関係ではない。そしてだからこそ、日常はある種の可能性を秘めているといえるかもしれない。戸坂潤によれば、日常生活の特徴は、毎日「一定の生活条件の下に、感受し反省し計画し実行するというサイクルを反復」することだという。だがそれは、単に同じことの平凡な繰り返しではない。日常生活は、「コンベンションや歴史の『必然性』などにそのまま追随」しているのではなく、「いつもコンベンションを破り新しい必然性を造り出して行くことによってのみ事実保たれている」のだ。換言すれば、ハリー・ハルトゥーニアンが「日常性とは、不穏の形式であり、宙吊りにされた瞬間」、すなわち「伝統を暴力的に中断し、過去の描く流れや運動を宙吊りにする『歴史的状況』」だと述べるように、世界が中断し、ずらされるまさにそれこそが日常であるともいえるだろう。つまり、ある種当たり前のこととして反復しているように思えるものと、その反復を中断させ、戸坂の言葉を借りれば「新しい必然性」を作り出すものという、二つの相入れないものが錯綜する場が日常であるともいえる（ここでは、前者の場合には「日常性」という言葉を使いたい）。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>日常は、未知のものに感覚を解放する可能性を秘めている</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>この日常をアクチュアルな経験たらしめるのがエステティクス（美学の意ではなく、感覚的・感性的認識。<a href="https://wirelesswire.jp/2025/04/88355/" data-wpel-link="internal">以前の論考</a>を参照）なのではないだろうか。日常性を獲得したモノや行為は、「役に立つ」といった機能的な側面だけでなく、感覚的・感情的な要素も伴っている。例えば、あるモノを見たり触ったりすることで得られる感覚や、喚起される感情は日常性の一部となっている。一方で、ベン・ハイモアが述べるように、日常生活は「習慣的な価値観を維持するもの」であるとともに、「身体が新しいもの（新しい匂い、新しい味、新しい音）を好きになることを学ぶ場」でもある。つまり、「未知のもの、新しいもの（馴染みがないもの、異質なもの）に対して感覚を解放する可能性」を日常は秘めている。こう考えると、ジャック・ランシエールのいう「感性的なものの分割＝共有」、つまり既存の秩序とそれに対する特定の見方が日常性を作り出し、それを宙吊りにし再編成するのがエステティクスであり、その実践の場が日常であるともいえるのではないだろうか。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>日常生活におけるエステティクスのあり方については、特に哲学者たちの間で「日常の美学（everyday aesthetics）」という概念により議論されてきた。日常生活におけるエステティクスには、美しい・心地よいといった「ポジティブ」な感覚・感情だけではなく、醜い・気持ち悪いなどの「ネガティブ」なものも考慮される。哲学者のユリコ・サイトウによれば、日常の美学では、「あらゆる物体、現象、活動の感覚的および／またはデザイン的な特質」に対する人々の反応と体験が重要となる。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>工業デザイナーが文化装置を構成する「中心人物」となった</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>こうした日常の経験の一例として、以下では20世紀半ばのアメリカ合衆国における工業デザインについて考えてみたい。1920年代後半、世界恐慌のさなか、アメリカでは「工業（インダストリアル）デザイナー」と呼ばれる職業が誕生した。その多くはステージデザインや広告業界出身者で、消費財メーカーをはじめとする多くの企業が商品デザインに力を入れ始める中で、工業デザインという（職業）分野が生まれたのである。その後、1940年代から1950年代にかけて登場した新しいデザインは、例えば雪のように真っ白な冷蔵庫からアルミニウム製のトースター、カラフルなプラスチック皿にいたるまで、多くの中産階級家庭における日常の感覚環境を劇的に変化させた。きらびやかな新素材と滑らかで曲線的なラインは、まさに近代性と技術進歩のシンボルであり、人々に新しい感性をもたらした。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>実際、工業デザイナーの多くは、五感全てを含む感覚的要素の重要性を認識していた。デザイナーのJ・ゴードン・リッピンコットは、1947年に出版した『Design for Business』の中で、「デザインに対する私たちの基本的な評価は、結局のところ、視覚、味覚、聴覚、嗅覚、そして感情を通して何を感じるかに拠っている」と述べる。リッピンコットと同時代のデザイナーであるドナルド・ウォランスも、1956年の著作『Shaping America’s Products』で次のように書いている。「私たちは、ほとんどのモノに純粋に感覚的なレベルで反応する。私たちの官能的な反応において、視覚的影響は最も重要なものかもしれないが、触覚、嗅覚、さらには聴覚までもが、それほど意識的ではないにせよ、多くの場合関係しているのだ。」工業デザイナーは、社会学者のC・ライト・ミルズが、「文化装置」を構成する「中心人物」として措定したように、自身を含む人々の「文化的感性を創造し」日常生活を作り出すアクターだったともいえるだろう。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>新しい感覚をもたらす「素材」</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>デザインの感覚的要因を左右するものの一つに「素材」がある。例えばアルミニウムやプラスチックといった素材は、木材や紙で作られた製品とは全く異なる新しい触感を提供した。このように新しい感覚体験を生み出しうる素材は、デザイナーにとって大きな可能性を秘めている。20世紀半ば、ウォランスは、「これほど可能性の幅が広がった素材は他にない」として、プラスチックを高く評価している。プラスチック素材は「滑らかで温かみのある手触りで、手になじみやすい形に成形しやすい」、さらにこうした「触感の良さ」に加えて、「熱、水、化学薬品に対する耐性」があることも評価された。色彩のバリエーションやピカピカした見た目もプラスチックの特徴で、ウォランスによれば「パレットのほぼ全ての色を、鮮やかに、あらゆる透明度で作ることができた」のだ。プラスチックは多くの商品で利用されるようになり、1940年から1945年にかけて、アメリカ国内の年間生産量は3倍近くに増加した。1947年、家庭向けインテリア雑誌の『ハウス・ビューティフル』誌は、プラスチック製品の特集を組んだ際、安価でありながら美的に優れたこれらの商品を「39セントのファイン・アート」と呼び、同誌編集者のエリザベス・ゴードンは、「翡翠のような指触りの良さ」だと賞賛した。街の中にも家庭内にもプラスチック製品が溢れ、「プラスチック」という言葉も一般的に使われるようになったことで、プラスチックは日常性を獲得したといえる。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>プラスチックは日常に取り込まれ、さらに別の評価を獲得した</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>しかし、1960年代になると、プラスチックが持つイメージは大きく変化することとなる。1940年代、デザインに未曾有の可能性をもたらすと思われていたプラスチックの感覚的要素が、ネガティブなイメージ持つようになったのだ。1957年、ロラン・バルトは、著書『現代社会の神話』の中で、プラスチックが発する音は「空虚であると同時に単調」であり、その「化学的な色」は無駄なものを連想させると批判した。これは環境問題への意識の高まりや大量消費社会への懐疑的態度が広まる中で、プラスチックは、モダンで便利な無限の創造性を想起させるイメージから、無駄や物質主義と結びつけられるようになったためである。そうした社会的・文化的変化の中で、それまで生活の一部となっていたプラスチック、その色や触り心地、音がマイナスの感情を喚起するようになったことは、まさに人々の感性の変化、つまりエステティクスの変化により日常なるものが置き換わったことを示している。ここで、この感性（エステティクス）とは、単にプラスチックがもたらす感覚的・感情的認識を指すだけではなく、環境問題や消費主義社会といった、社会的そして時に政治的な諸相に対するものも意味している。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ピーター＝ポール・フェルベークが「物質的媒介」と呼ぶように、（広義の）デザインは、解釈レベルだけでなく、感覚レベルで人とモノとを媒介し、特定の社会的枠組みの中でそれらの関係を作り出す。デザインは、多くの人々にとってそれまで馴染みのなかった新素材や新技術を<ruby>飼い慣らす<rt>ドメスケイト</rt></ruby>ことで、新たな消費財を人々の生活の中に組み込み日常的なモノへと再編成する。つまりデザインは、人々に対して新しい社会規範や科学技術、そしてより一般的にはその時代の雰囲気に、感覚的・感情的なレベルで迫ると同時に、人々によって理解され、やがてはありふれたものとして日常化されていくのである。一方で、プラスチックの例が示すように、時代の変化とともに新たなエステティクスが醸成されることで、感覚体験とそれを通したモノの認識が変化し、日常がつくられもするのである。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>日常を観察することで見える、歴史的な時間の流れ</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>戸坂潤は、風俗に関する論考の中で次のように述べる。「ファッションやモードと云っても、それはただの伊達ごとではなくて、それとなく、時代やジェネレーションや又社会階級の、世界観を象徴しているもの」である。だからこそ「世の中の風俗の褶や歪みや蠢きから、時代の夫々の思想の呼吸と動きとを、敏感に抽出することも出来る」のだ。デザインも同様である。そして、これらファッションやデザインは、時代を反映するとともに、人々の生活に深く根差したものであるからこそ、コンベンションが壊され日常がつくられるその契機を見つける手がかりにもなりうるといえるだろう。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>さらに、日常なるものを考える上で重要なのは、時間のあり方である。日常は、私たちが生きる「いま」という瞬間、現在性を示すものでありながら、同時に日常性の反復を伴う時間のまとまり、すなわち歴史的時間の流れでもある。「いま」を過去と対比し、ある意味で現在を歴史化することによってしか、日常であることを認識できないからだ。そしてこの日常がいかに作られてきたのか、つまり、あるモノや行為がいかに日常となるのかを明らかにすることは、ある特定の歴史的文脈において世界の中断がなぜ・どのように起きるのか、そして既存秩序の宙吊りが、誰に・いかなる形で影響を及ぼすのかを考えるヒントとなるだろう。「日常は逃げ去る」ものかもしれないが、誰も日常から逃れることはできない。日常は常に既にあるのだ。そして、ブランショが言うように「接近しえない」かもしれない日常において、それでも人々の何かしらのアクチュアルな体験を掬い出し、日常を歴史的な時間の流れの中に位置づけるための一つの足がかりとして、エステティクスの可能性をみてみたいと思うのだ。<br>（久野愛／東京大学）</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p><strong>参考文献</strong><br>『<a href="https://www.keisoshobo.co.jp/book/b26691.html" target="_blank" rel="noreferrer noopener external" data-wpel-link="external">戸坂潤全集　第三巻</a>』戸坂潤（勁草書房　1966年）<br>『<a href="https://www.keisoshobo.co.jp/book/b26692.html" target="_blank" rel="noreferrer noopener external" data-wpel-link="external">戸坂潤全集　第四巻</a>』戸坂潤（勁草書房　1966年）<br>『<a href="https://www.msz.co.jp/book/detail/08113/" target="_blank" rel="noreferrer noopener external" data-wpel-link="external">現代社会の神話</a>』ロラン・バルト　下澤和義訳、石川美子監修（みすず書房　2005年［1957年］）<br>『歴史の不穏—近代、文化的実践、日常生活という問題』ハリー・ハルトゥーニアン　樹本健訳（こぶし書房　2011年）<br>「日常の言葉」『<a href="https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480775528/" target="_blank" rel="noreferrer noopener external" data-wpel-link="external">終わりなき対話　II　限界―経験</a>』モーリス・ブランショ　湯浅博雄・岩野卓司・上田和彦・大森晋輔・西山達也・西山 雄二訳（筑摩書房　2017年）<br>『感性的なもののパルタージュ』ジャック・ランシエール　梶田裕訳（法政大学出版局　2009年）<br>『日常生活批判　序論』H・ルフェーブル　田中仁彦訳（現代思想社　1968年［1947年］）<br>『日常生活批判　１』H・ルフェーブル　奥山秀美・松原雅典訳（現代思想社　1969年［1947年］）<br>Highmore, Ben. <a href="https://www.routledge.com/Ordinary-Lives-Studies-in-the-Everyday/Highmore/p/book/9780415461870" target="_blank" rel="noreferrer noopener external" data-wpel-link="external"><em>Ordinary Things: Studies in the Everyday</em></a>. Routledge, 2011.<br>Lefebvre, Henri, and Christine Levich. “The Everyday and Everydayness.”<em> </em><a href="https://www.jstor.org/stable/2930193" target="_blank" rel="noreferrer noopener external" data-wpel-link="external"><em>Yale French Studies</em> </a>no. 73 Everyday Life (1987): 7–11.<br>Lippincott, J. Gordon. <a href="https://archive.org/details/ost-design-designforbusines00lipprich" target="_blank" rel="noreferrer noopener external" data-wpel-link="external"><em>Design for Business</em></a>. Paul Theobald, 1947.<br>Saito, Yuriko. <a href="https://global.oup.com/academic/product/everyday-aesthetics-9780199575671?cc=jp&amp;lang=en&amp;" target="_blank" rel="noreferrer noopener external" data-wpel-link="external"><em>Everyday Aesthetics</em></a>. Oxford University Press, 2007.<br>Verbeek, Peter-Paul. <em>What Things Do: Philosophical Reflections on Technology, Agency, and Design</em>. Trans. by Robert P. Crease. Pennsylvania State University Press, 2005.<br>Wallance, Donald. <a href="https://catalog.hathitrust.org/Record/001114742" target="_blank" rel="noreferrer noopener external" data-wpel-link="external"><em>Shaping America’s Products</em></a>. Reinhold, 1956.</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph {"style":{"elements":{"link":{"color":{"text":"#333333"}}},"color":{"text":"#333333"}},"fontSize":"small"} -->
<p class="has-text-color has-link-color has-small-font-size" style="color:#333333">（当記事はModern Times 2023年8月に公開された記事の再掲載です）</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p></p>
<!-- /wp:paragraph -->]]></description>

                <post-id xmlns="com-wordpress:feed-additions:1">92889</post-id>
            </item>
                    <item>
                <title>ブリスターが変われば、コンタクトレンズユーザーの「見る」はもっと豊かな行為になるかもしれない</title>
                <link>https://wirelesswire.jp/2026/03/92873/</link>

                <dc:creator><![CDATA[野原佳代子]]></dc:creator>
                <pubDate>Mar 08 2026 21:00:00 +0000</pubDate>
                                                    <category><![CDATA[科学技術芸術と社会]]></category>
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                <description><![CDATA[<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>「見る」ことを改めて意識する</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>見る、とは人にとってどういう行為なのだろう。見えなくなったとき、見えにくくなったとき、それまで当たり前だった「見る」を人は意識する。もちろん視力を持たない人や、それに頼らない人も数多いることは承知だが、自分を含めたいていの人は、「見ながら」毎日を過ごしている。たとえば、目を覚ませばまず目を開けて、明るいこと、遅刻していないこと、自分が自分であること……などをゆっくり認識することで私の朝は始まっていくように思う。私は、眼鏡は手元を見るとき用の老眼鏡のみ使っているので、朝起きて活動を開始するのに眼鏡を装着することはない。しかしもっと視力が落ちていったなら、いずれ「見る」を開始するのに目を開けるだけでは間に合わない、そんな時もやってくるのだろう。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>科学技術とアートをかけ合わせる意味</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>サイエンス＆アートという分野がある。筆者はとくに、自分や自分回りのコミュニティがデフォルトとしてもっている思考の型や枠組みから意図的に逸脱する手法として、科学技術とアート／デザインの融合、中でも科学技術とアートのかけ合わせを推進している。普段は言語学や翻訳学を専門分野として人文社会科学系の仕事をしているが、なんであれ科学は事象を切り出し、整理し、名前と定義を与えた上で互いの関係性を調べていくことだと認識している。できるだけノイズの少ない法則性を見つけたいと、知らず知らずのうちに探しながら言語データの海をさまよう。しかし法則は、必ずしも当たり前のように見えてはこない。予想通りの答えを探すのではなく、予想そのものをずらし、斜めからアプローチしてみることが必要なのだが、なかなか簡単なことではない。そこで、アート的思考やアプローチが、きらめきを放つことがある。もちろんアートにもいろいろな型や手法、慣習があるけれども、それらに加えて慣習を破って他の手法を試したり、感性や偶然を楽しんだりといった自由さがあり、その辺りにポイントがあるような気がしている。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p><a rel="noreferrer noopener external" href="https://www.tse.ens.titech.ac.jp/~nohara/ja/lab/" target="_blank" data-wpel-link="external">東工大の野原研究室</a>は、2022年度4月から1年間、コンタクトレンズの某外資系メーカー（α社とする）との研究コラボレーションを実施したのだが、それがなかなか良い具合でサイエンス＆アートな内容だったのでその話をしたいと思う。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>罪悪感を感じながらもブリスターを捨てているコンタクトレンズユーザー</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>コンタクトレンズは高度管理医療機器であることから衛生面が重要視され、液体に入った状態でポリプロピレン製のブリスターと呼ばれる容器に収められ、アルミでフタをされて保存されるのがふつうである。使うたびにレンズそのものに加え、このブリスターがプラごみとして世に送り出されることになり、その環境に与える影響は小さくない。プラスチックは化学的・物理的に弾力性を持ち、何年にもわたり使用可能な素材であるが、それがマイクロプラスチック（マイクロビーズ、マイクロファイバー）となり環境に負荷をかけていることは、科学者、エンジニア、デザイナー、メーカー、消費者全てに関わる問題であり、よりよいソリューションが必要である。かくしてα社は新しいアプローチを模索し野原研究室との共同研究を提案、「プロジェクト・ビジョン2022（PV22）」が実現した。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":92876,"sizeSlug":"large","linkDestination":"none","align":"center"} -->
<figure class="wp-block-image aligncenter size-large"><img src="https://wirelesswire.jp/wp-content/uploads/2026/03/p20230528-161839-1024x640.jpg" alt="" class="wp-image-92876"/><figcaption class="wp-element-caption">コンタクトレンズを安全に保護するブリスター。使用後はゴミとして捨てられている。（著者提供）</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:image {"id":92878,"sizeSlug":"large","linkDestination":"none","align":"center"} -->
<figure class="wp-block-image aligncenter size-large"><img src="https://wirelesswire.jp/wp-content/uploads/2026/03/p20230515-02-kenkyu-1024x640.jpg" alt="" class="wp-image-92878"/><figcaption class="wp-element-caption">「プロジェクト・ビジョン2022（PV22）」に参加した学生たち。（著者提供）</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ブリスターケースは、リサイクル可能なポリプロピレン（PP）製ではあるが、廃棄物処理プロセスにおいてなかなか適切に分別・リサイクルされず、一般廃棄物に混ざって埋め立てられてしまうことが多い。レンズ自体は別の種類のプラスチック（シリコーンハイドロゲル）であり、重さは水泡の数分の1しかないため、環境への負荷は小さいように思われがちである。しかし米国での調査では、20％以上のユーザーがレンズを定期的にトイレに流しているらしく、これらのレンズはマイクロプラスチックとなって海を汚染し、海洋生物を危険にさらすことになる（Chen他 2022）。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>この問題について世間の認知度は低く、レンズを正しくリサイクルしているユーザーは1％未満という調査結果が出ている。またコンタクトレンズ専門店が行った調査では、会員の約7割が、空のケースがリサイクル可能であることを知らなかったという結果もある（朝日新聞 2019年2月12日）。ここでユーザーの意識・行動調査結果の詳細を述べることは避けるが、若者の環境意識が意外に高いこと、ブリスターの排出について罪悪感を感じながらもリサイクル回収には乗せず捨てているユーザーが多いことなど、驚くようなデータにも出会っている。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>人は、見たい。しかも、多くの人が眼鏡をかけずに見たい、という願いを持つ。その思いと価値は、プラごみ排出が生む環境問題とで天秤にかけられ、現実社会の中で揺らめいているのだが、それに気づく人は少ない。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>「見る」という行為には、ブリスターをどうするかという選択行為も含まれる</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>研究室の学生たちは前期にまず自主的に調査を行い、コンタクトレンズとそのブリスターについて発見したことをチームで共有し、自らの考察を書きとめた。4月から5月にかけて行われた広範な文献調査では、グローバル規模で広がるプラスチック廃棄物問題が指摘された。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>こうした科学的に把握できた実態をベースに、それをアートあるいはデザインに変換、翻訳するのが次のフェーズである。ここでの議論から浮かび上がってきたのは、「見る」という行為には、ブリスターをどうするかという選択行為も含まれるということである。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>議論においては、捨てられるブリスターを減らすためには包装デザインが中心的な役割を持つことを強調する学生も、ブリスターを軽量化したり、バイオプラスチック製へ切り替えたりすることを主張する学生もいた。レンズを適切に廃棄するユーザーへのインセンティブや報酬の必要性が説かれることもあった。また一般の人々を感化するビジュアル・コミュニケーションの役割についても、先輩学生により指摘されている。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>使い捨てコンタクトレンズから出るプラスチック廃棄物は、他の活動から出る廃棄物の量に比べれば、取るに足らないものとして見過ごされがちであるが、実際に排出されるブリスターの規模をビジュアル化することで何かが伝わるのではないか。関連データを視覚的に表現したインフォグラフィクスを用いることが、ひとつの解決策となるかもしれない。彼らがたどりついたそれらの解はプロジェクトビジョンの最終成果発表として作品化され、アートとして展示された。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":92879,"sizeSlug":"large","linkDestination":"none","align":"center"} -->
<figure class="wp-block-image aligncenter size-large"><img src="https://wirelesswire.jp/wp-content/uploads/2026/03/p20230515-03-kenkyu-1024x640.jpg" alt="" class="wp-image-92879"/><figcaption class="wp-element-caption">プロジェクトビジョンの成果発表。（著者提供）</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>使い捨てコンタクトレンズから出る廃棄物への理解を深める</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>まず、データを可視化・物理化し、思考だけでなく身体的体験とする要素の強い作品から紹介しよう。「Contact Future　未来とつながる」（木内晶基, 古溝尚嘉, 三浦雄馬)　、これは視力矯正の歴史と未来の可能性をタイムラインに集約した作品であり、さらに来場者が自分の情報をインプットし、流れの一部であることをインタラクティブに実感できるよう工夫されている。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":92880,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none","align":"center"} -->
<figure class="wp-block-image aligncenter size-full"><img src="https://wirelesswire.jp/wp-content/uploads/2026/03/p20230515-04-art.jpg" alt="" class="wp-image-92880"/><figcaption class="wp-element-caption">「Contact Future」（著者提供）</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:image {"id":92881,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none","align":"center"} -->
<figure class="wp-block-image aligncenter size-full"><img src="https://wirelesswire.jp/wp-content/uploads/2026/03/p20230515-01-hitobito.jpg" alt="" class="wp-image-92881"/><figcaption class="wp-element-caption">展示会では参加者に「Contact Future」を体験してもらった。（著者提供）</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>次に「The Wall of Nine Percent　9%の壁」（内野萌花, 手塚太地）である。このコリントゲームは、リサイクルのプロセスをたどるように設計されている。体験者は玉に見立てたブリスターを発射し、それをリサイクルしようと試みる。しかし、その成功率はプラスチックのリサイクル率である9%にとどまるだろう。このように、9%がいかに小さい数字であるかを身をもって体験できるような設計になっている。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":92882,"sizeSlug":"large","linkDestination":"none","align":"center"} -->
<figure class="wp-block-image aligncenter size-large"><img src="https://wirelesswire.jp/wp-content/uploads/2026/03/p20230528-575-1024x640.jpg" alt="" class="wp-image-92882"/><figcaption class="wp-element-caption">「The Wall of Nine Percent　9%の壁」（著者提供）</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>&nbsp;「Contact Lens as a Media　メディアとしてのコンタクトレンズ」（石井諒太）は、数値的データより、プラスチック素材の特性を掘り下げ、現在と未来をつなごうとした作品だ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":92883,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none","align":"center"} -->
<figure class="wp-block-image aligncenter size-full"><img src="https://wirelesswire.jp/wp-content/uploads/2026/03/p20230515-05-art.jpg" alt="" class="wp-image-92883"/><figcaption class="wp-element-caption">「Contact Lens as a Media　メディアとしてのコンタクトレンズ」（著者提供）</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:image {"id":92884,"sizeSlug":"large","linkDestination":"none","align":"center"} -->
<figure class="wp-block-image aligncenter size-large"><img src="https://wirelesswire.jp/wp-content/uploads/2026/03/p20230528-243-1536x960-1-1024x640.jpg" alt="" class="wp-image-92884"/><figcaption class="wp-element-caption">「Contact Lens as a Media　メディアとしてのコンタクトレンズ」においてメッセージを残すための入力デバイス。（著者提供）</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>コンタクトレンズの素材はプラスチックである。軽くて丈夫で分解されにくい。いつかの将来世代に、コンタクトレンズに載せて、ひと言のメッセージを残してみよう。今を生きる我々が地層や発掘を通して過去の人間の活動を考えてきたように、我々の痕跡をプレゼントしてみよう。そのメッセージを受け取る将来世代はどんな暮らしをしているのだろうか。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>さらに、技術の発展によって「見える」ようになったことを、それによって「見えなくなったものは何か」という発想に反転させたことから生まれた作品もある。「Flipping Poetry めくる詩」（木内晶基, 古溝尚嘉, 三浦雄馬）は、コンタクトレンズの消費速度に合わせて言葉を消費する詩である。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>コンタクトレンズの蓋に印字された詩の文字を、毎朝2文字ずつめくる。本来であれば10秒、20秒で読めてしまう詩を、1週間、1カ月かけて読む。大切な人から送られてきた詩の言葉が、毎朝心の中で反芻されて、コンタクトレンズと共に体に少しずつ馴染んでいくのを感じるものだ。瞬時に見える喜びから、時間をかけて情報を得る重みへと思いを馳せる。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>古くは活版印刷に始まり、今やパソコンやスマートフォンが発明され、我々は大量の情報を瞬時に消費することができるようになった。しかし、本のページやスマートフォンの画面を目元に近づけて見る行為が近視につながることもまた事実である。コンタクトレンズのような便利な視力矯正器具が、我々に視力を与える一方で、我々から見えなくしてしまったものはないだろうか。手元で瞬時に情報を消費することで必要になったコンタクトレンズから、ゆっくりと情報を消費することの喜びを思い出させる。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":92885,"sizeSlug":"large","linkDestination":"none","align":"center"} -->
<figure class="wp-block-image aligncenter size-large"><img src="https://wirelesswire.jp/wp-content/uploads/2026/03/p20230528-4773-1536x960-1-1024x640.jpg" alt="" class="wp-image-92885"/><figcaption class="wp-element-caption">「Flipping Poetry めくる詩」（著者提供）</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>展示全体のコンセプトを示す作品として「Project Vision」（渡辺光章・山口 拓　PROTOTYPE Inc.（コンセプト：野原佳代子））がある。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":92886,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none","align":"center"} -->
<figure class="wp-block-image aligncenter size-full"><img src="https://wirelesswire.jp/wp-content/uploads/2026/03/p20230515-01-art.jpg" alt="" class="wp-image-92886"/><figcaption class="wp-element-caption">「Project Vision」（著者提供）</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>モチーフに使ったブルーデイジーの花はフェリシアともいい、「恵まれた人」を意味する。見えることは、恵みだと思う。しかしコンタクトレンズを支えるブリスターの存在、プラスチックとその先を逃げずに見つめ問い続けるなら、私たちの「見る」は、もっと幸せな何かに育つはずだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>「見る」ことは、もっと豊かな行為になるかもしれない</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>社会的課題には、必ず科学的な面も、アート的な面もある。科学は理論的、実証的、厳密な手続きを踏んで事実を積み上げ、グレーゾーンを消していく。一方アートは物事のグレーな部分や裏側、ノイズを拾い上げて浮き彫りにしていく。どちらもものごとを追求する方法論だが、科学が事象をとらえフォーカスし切り取るのに対し、アートはできあがった 「事実」に対し「他にオルタナティブはないのか」と、再定義、再発見を促していく傾向が強い。この事実を明確にとらえることと（科学）と、問い直しとしてのアートが絡み合うところに、異分野融合のおもしろさがある。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>見ることは、目を開けて視覚的にものを認識するだけだ、と考える人も多いだろう。しかしコンタクトレンズユーザーの場合、見ることにはいろいろな行為がもれなくついてくる。プラスティックのブリスターのフタをめくる、はがす、捨てる。捨てるのは、どこに捨てるのか。燃えるゴミ？不燃ゴミ？リサイクル回収ボックス？それによって環境への最終的な負荷は変わる。見るとは、プラスチックを捨てることか。あるいは捨てずに回収ボックスに入れ、リサイクルのルートに乗せ、循環させることか。見ることの意味は、人の行為次第で変わっていく。そのことが、アート作品を通じて来場者に伝わり、サステナブルな未来へ向けて次の思考につながれば、と思う。<br>（野原佳代子／東京科学大学）</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>研究指導 / 執筆協力：　東京工業大学環境・社会理工学院　朱心茹助教・Giorgio Salani特任助教</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph {"style":{"elements":{"link":{"color":{"text":"#333333"}}},"color":{"text":"#333333"}},"fontSize":"small"} -->
<p class="has-text-color has-link-color has-small-font-size" style="color:#333333">（当記事はModern Times 2023年5月に公開された記事の再掲載です）</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p></p>
<!-- /wp:paragraph -->]]></description>

                <post-id xmlns="com-wordpress:feed-additions:1">92873</post-id>
            </item>
                    <item>
                <title>DIYが開く、建築業界の未来</title>
                <link>https://wirelesswire.jp/2026/03/92835/</link>

                <dc:creator><![CDATA[松村秀一]]></dc:creator>
                <pubDate>Mar 05 2026 21:00:00 +0000</pubDate>
                                                    <category><![CDATA[科学技術芸術と社会]]></category>
                                <guid isPermaLink="false">https://wirelesswire.jp/?p=92835</guid>

                <description><![CDATA[<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>自由と責任を直感させる「do it yourself」</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>私がまだ中学生か高校生だった頃、小学校からずっと使ってきたノートというものが型通りで窮屈に感じられ始めた時期があった。もう大学生だった兄の影響だったかもしれないが、いわばノートの1頁1頁がバラバラになり、左端に連続的に穴があいているルーズリーフとそのバインダーという組み合わせが、自由でより大人びていると感じた。最初に手にしたのは、半透明のプラスチックカバーの中に、黒地に白抜きで大きく「do it yourself」と書かれた紙が差し込まれているものだった。今検索してみると、スケッチブック等で知られるマルマンという文具メーカーが、1971年に発売したルーズリーフバインダーだったようである。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>私が手にしたのは、この発売の1〜2年後だっただろう。「do it yourself」という言葉もロゴも印象的だった。「自分でやれよ」。自由と責任の両方を直感させるものだった。実際には、この「do it yourself」と書かれた紙の代わりに、自分の好きな絵や写真を差し込むという、このバインダーの使い方自体をも意味していたのだと思う。私も慣れてくると、「do it yourself」と書かれた紙を抜き取り、代わりにデビューしたてのオリビア・ニュートンジョンの写真など差し込んでみたりしていた。型通りのノートの世界からは、随分と自由な世界にステップアップしたような気がしたものだった。「do it yourself」のお陰で。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>「自分でやろう」の精神を産業化したアメリカ</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>この「do it yourself」という言葉は、第二次世界大戦後の荒廃したロンドンで、故郷の復興を望む元軍人たちが、「何でも自分でやろう」と声を掛け合い、再建のために働いたところから出てきた言葉だと言われている。その言葉（D.I.Y.あるいはDIYと略されることも多い）とそれが表す「自分でやろう」精神は、その後欧州とアメリカに伝わっていったのだそうだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>アメリカの動きは速かった。例えば、1954年8月2日号の“Time”誌の特集タイトルは“DO.IT.YOURSELF&nbsp; The new billion-dollar hobby”（DIY&nbsp; 新たな数千億円趣味市場）。芝刈り機に載った男性（お父さん）が、様々な工具を手に、自動車を直し、庭木の枝払いをし、家の壁を塗り替え、木材の加工をし、釘打ちもしているというような、いわばDIY千手観音的なマンガが表紙を飾っている。このマンガが表現しているのは、DIYが趣味としてのめり込める分野であることだけでなく、多くの工具（その多くが電動工具）の需要の大きさである。遅くとも1954年のアメリカでは、「自分でやろう」精神を趣味の領域に持ち込み、いわば産業化する動きが始まっていたのである。そして、このマンガを見る限り、最も多くが期待されていたのは、家の模様替えや修繕といった分野のようだ。つまり建築のものづくり世界にDIYという新しい生活文化が少なからず関わり始めたのである。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>アメリカのホームセンターには家を建てるのに必要なすべてのものが揃っていた</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>アメリカにおける住宅建築分野でのDIYの産業化とその規模の大きさを、私自身が肌で感じたのは、1990年代にアメリカ人に連れていかれた全米に展開する巨大ホームセンター“Home Depot”の1店舗においてだった。広大な駐車場。巨大倉庫そのもののような建屋。中に入ると、合板、セメント、便器、ドア、規格製材、キッチン、洗面化粧台、床仕上げタイル、ペンキ、瓦、窓、建具金物、電動工具等々、数えればきりがない程の種類の建材や道具が置かれている。およそ家を建てるのに必要なすべてのものは売っている。今でこそ、日本にもこういう品揃えの大規模なホームセンターが見られるようになってきたが、1990年代は比較すべき店が日本には全くなかった。見たことのない大きさのカートに、客達が選んだ建材を入れてレジに持っていく。大きさは違うが、ここはスーパーと同じ。皆カードか現金で支払いを済ませ、自分の車のところまでカートを押していく。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ここで面白いのは、日本で言えば工務店にあたるビルダーも同じようにホームセンターで建材を購入しているということ。プロ向けの割引位はあるのかもしれないが、基本的にはDIYで工事をする素人と、業務として日々工事をしているビルダーが、同じものを同じ価格で買っている。日本では考えられないことだった。日本では、プロ向けの流通、決済のシステムは、DIY向けの流通、決済のシステムとは全く異なるものだった。DIYがアメリカのように生活文化として定着し大きな市場を形成すると、プロのものづくりの世界のあり方自体が大きく揺さぶられる予感に、とても興奮したのを覚えている。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>出口を出て振り返ると、DIYをする人向けの実践講座の案内が出ていた。基本的には、毎日、皆が仕事を終えた19時～で、曜日によって「月曜日：あなたは床のビニルタイルを貼ることができるようになる」というように、講座内容が決まっている。おそらく、この講座を受ければ、自分の家を自分で模様替えをするのに、どういう材料をどの程度購入すれば良いかも明確になり、必要な工具も含めて手に入れて家に帰ることができるのだろう。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ホームセンターを案内してくれた友人の家に行ってみると、地下に彼自慢の作業部屋があった。電動工具が揃っていて、壁には、日本に行った時の土産で買ってきたという大工道具が誇らしげに飾られていた。まさに趣味の城。多くのアメリカ人が、DIYという趣味のためのこういう空間を持っているのだろう。1954年にTimes誌が予言した「数千億円趣味市場」は、その規模を超えて現実のものになっていた。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>広がる日本のDIY市場とYouTube</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>1990年代にはアメリカのそれとは随分違っていたが、今では日本でも大規模なホームセンターが各地で身近なものになりつつある。実際日本DIY・ホームセンター協会の調べによると、ホームセンターの数は右肩上がり、2019年の時点では4,800店を超えた。ただし、その売上げ高の総計は21世紀初頭から横這いで、概ね年4兆円というところである。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>このところの目立った動きと言えば、自ら発信するDIYerの動きだろう。今からもう10年程前のことになるが、北九州で開催した「リノベーションスクール」の中に「DIYリノベ」のコースが初めて用意されたことがあった。そのコースには、私の知っている神戸芸術工科大学の女子学生が参加していたのだが、4日間続いた「リノベーションスクール」の最後の打上げ時に、私のところにやってきて<br>「あの『クメマリ』さんが来てるんですよ。本当の『クメマリ』さんが。私、感激で涙が出ちゃいました」<br>と言うのである。その人物を全く知らなかった私は<br>「『クメマリ』？誰？」<br>と聞き返した。<br>「そこにいらっしゃいますよ」<br>ということで、その知らない「クメマリ」さんと初めて挨拶を交わした。関西に住む若い女性だったが、色々聞いている内に、様々な部屋の模様替えの方法をネット上で紹介しているDIY界のカリスマ「<a href="https://www.youtube.com/c/KumeMariDIYLIFE/about" target="_blank" rel="noreferrer noopener external" data-wpel-link="external">久米まり</a>」さんだということがわかった。それから動画を観たが、賃貸マンションの契約の中に含まれる原状回復の約束を守れるように、元の内装や設備を一切傷つけずに、新しい仕上げ等を施していく工夫等には、驚くべきノウハウとデザイン力があった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>今では、久米まりさんと同様に、かなりのフォロワー数を誇るDIYインスタグラマーやDIYユーチューバーが何人も出てきている。男女は問わないが、女性の発信者が多いのも事実だ。多くが、自分自身の生活空間を変える、或いは作り込んでいくと言った方がより適当かもしれないが、その様子をリアルに発信している。それらの映像を見ていると、DIYが料理などと同じように、暮らしの大事な一部になっていることに気付かされる。自分と家族のためのものづくり。それは今では、ごく自然な行為になりつつあるのかもしれない。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>DIYで目覚めた関心を、趣味のその先へ</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>もう15年程前のことになるが、DIYの腕を磨き、DIYアドバイザーという日本DIYホームセンター協会の認定資格を持っているある男性にお話を伺ったことがある。数年前に、何か月もかけてDIYでリノベーションした6畳の部屋を見せて頂いたが、その後はどうも十分な活躍の場がないらしい。それ以外の部屋に手を付けようとすると、奥さんの許可が出ない。まして、頼まれてもいない他人様の家をDIYの対象にすることはできない。仕方なく何をしているかと言うと、近所に捨てられていた椅子を拾ってきて、それを直し、新しい仕上げも施して生まれ変わらせるという作業。2脚程やったが、その後は適当な椅子が見つからず、先の2脚の椅子の1/10のミニチュア模型を製作して遊んでいると言って、その椅子の模型を見せて下さった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>この時に、DIYの趣味としての限界に気付かされた。普通趣味と言えば、やりたい時にできるものだが、自分の家のDIYリノベーションということになると、やるべきことがなくなってしまうことが一般的にあり得る。趣味としては大きな欠点である。この欠点を補うには、他人様の家を対象とすることの可能性の検討が早道ではないか。つまり、DIYを入り口として、新しいものづくり人の世界に入っていく形の追求があって良いと考える。DIYで目覚めたものづくりへの関心を、技能を高める方向に結び付ける教育・訓練の場や、或いは仲間とのチームワークで実践を積み重ねる継続的な場の形成等が考えられると良い。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ものづくり未来人の世界には、DIY精神の持つ自発性が欠かせない。その意味でも、今後増えていくであろうDIYerをものづくり未来人の世界に導くことは、大きな可能性を持っている。<br>（松村秀一／神戸芸術工科大学）</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph {"style":{"elements":{"link":{"color":{"text":"#333333"}}},"color":{"text":"#333333"}},"fontSize":"small"} -->
<p class="has-text-color has-link-color has-small-font-size" style="color:#333333">（当記事はModern Times 2022年6月に公開された記事の再掲載です）</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p></p>
<!-- /wp:paragraph -->]]></description>

                <post-id xmlns="com-wordpress:feed-additions:1">92835</post-id>
            </item>
                    <item>
                <title>木の地産地消・まちの木造化・木質バイオマスが地域を潤す―富山県西部・森林資源フル活用の挑戦（2）</title>
                <link>https://wirelesswire.jp/2026/03/92852/</link>

                <dc:creator><![CDATA[森林循環経済編集部]]></dc:creator>
                <pubDate>Mar 04 2026 21:00:00 +0000</pubDate>
                                                    <category><![CDATA[森林循環]]></category>
                                <guid isPermaLink="false">https://wirelesswire.jp/?p=92852</guid>

                <description><![CDATA[<!-- wp:paragraph -->
<p>清らかな水と豊かな森に囲まれた富山県西部地域。この地でいま、地域の恵みを最大限に活用し、自給自足に近い形で資源とエネルギーを賄う「新しい森林文化」を創造しようとする動きが進んでいる。その核となるのが、地域内で森林資源を循環させ、木造建築やエネルギー供給の原料として活用する「地域内エコシステム」の構築である。化石資源への依存から脱却し、脱炭素社会の実現を目指すこの取り組みは、単なる環境対策に留まらず、地域経済の活性化や経済安全保障の強化にもつながる。富山県西部森林活用事業検討協議会が推進する、地域資源が地域を潤す新たな循環モデルを『森林循環経済』編集部がレポートする。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading">ひみ里山杉の魅力を活かした林産品も</h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>海と山が近接し、豊かな里山の風景が広がる氷見市には、地域の自然とともに育まれてきたブランド木材「ひみ里山杉」がある。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>氷見の里山は、日本海に面して湿潤で、適度な寒暖差があり、冬には豊富な雪が降る。こうした気象条件は、スギの生育にとって非常に恵まれた環境だ。年間を通じて水に恵まれた土壌は、スギの健やかな生育を支え、柔らかくしなやかな木質を育む。冬の雪は枝を自然に間引き、まっすぐで節の少ない幹を育てる。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>こうして育った、ひみ里山杉は、淡い赤身と白太が織りなす美しいグラデーションを持ち、ゆるやかに波打つ年輪がやわらかな印象を与える。木目に光が当たることで、やさしい陰影が生まれ、空間に落ち着きを感じさせる。さらに、杉ならではの芳香は、セドロールなどのリラックス成分を含み、室内に森林浴のような癒しをもたらす。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":92857,"sizeSlug":"large","linkDestination":"none","align":"center"} -->
<figure class="wp-block-image aligncenter size-large"><img src="https://wirelesswire.jp/wp-content/uploads/2026/03/toyama21-1024x984.jpg" alt="" class="wp-image-92857"/><figcaption class="wp-element-caption">ひみ里山杉からインク、スプレー、ビール、ストローなど多様な林産品を生み出している</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>異業種との連携による新商品開発も進んでいる。ウッドチップを蒸留し香り付けしたビール、樹皮を利用したインク、森林浴の気分を味わえるアロマ製品などが開発されている。さらに、富山国際大学の学生と協力し、フォトフレームやキーホルダーを製作するなど、産学連携も進めている。間伐材を利用した割り箸の製造も行われており、木材資源を余すところなく活用しようとする姿勢が伺える。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading">公共施設でも地域材の採用を促進</h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ひみ里山杉は、建築材としての性能にも優れている。柔らかく加工しやすいため、構造材や内装材として施工しやすく、現場での使い勝手が良い。さらに、「葉枯らし乾燥」や「月齢伐採」といった伝統的手法を取り入れ、木材の狂い・割れを最小限に抑える。これにより、高い寸法安定性と耐久性が保たれている。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":92859,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none","align":"center"} -->
<figure class="wp-block-image aligncenter size-full"><img src="https://wirelesswire.jp/wp-content/uploads/2026/03/toyama22.jpg" alt="" class="wp-image-92859"/><figcaption class="wp-element-caption">あいの風とやま鉄道の観光列車「一万三千尺物語」の客車の天井や床、テーブルなど内装材に、ひみ里山杉が使われている（出典：岸田木材）</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>また、加圧注入によって防腐処理・難燃処理が可能なことから、都市部や公共施設でも採用が進んでいる。氷見市議場、JR富山駅、県立リハビリテーション病院、富山県美術館、富山県会議事堂などに採用され、ひみ里山杉の品質と美観を広くアピールし、ブランドイメージ向上に大きく貢献している。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ひみ里山杉が育つ氷見市は、山・川・海がつながる多様性のある環境が広がっている。山の健全な管理は、やがて川の水を潤し、海の漁場にも良い影響を与える。だからこそ、森を守ることは地域全体の自然環境を守ることにもつながる。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>地産地消を推進し、地域材の価値を高める活動を続ける「ひみ里山杉活用協議会」の岸田毅会長は「平成24年にボカ杉のブランド化から始まった協議会はいま、森と人との未来をつくる事業に注力しています。山・川・海・そして人をつなぎ、生まれてから死ぬまでの生涯木育も進めています。ひみ里山杉は単なる資材としてではなく、地域の文化や暮らしを豊かにする存在としてとらえ、氷見市民全体が協力して世界農業遺産の認定を目指しています」と展望を語る。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":92860,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none","align":"center"} -->
<figure class="wp-block-image aligncenter size-full"><img src="https://wirelesswire.jp/wp-content/uploads/2026/03/toyama23.jpg" alt="" class="wp-image-92860"/><figcaption class="wp-element-caption">氷見市と一般社団法人ひみ里山杉活用協議会は「ひみ里山杉等（氷見産木材）利用促進に関する協定」を締結している</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading">プレカットで地域材を「選ばれる木材」へ</h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>富山県西部森林活用事業検討協議会では、地域の森林資源を持続的に活用するため、川上（伐採）から川下（建築）までのバリューチェーン強化に取り組んでいる。木材の高付加価値化を担う「川中」の役割も極めて重要だ。高岡市に本社を構えるウッディパーツは、その象徴的存在である。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>同社は、木造建築向け構造材のプレカット加工に特化した企業だ。「国産材の積極活用」を経営方針とし、富山県産スギをはじめとする地域材を、高度な設計・加工技術で高付加価値化し、住宅から公共施設・商業建築にいたるまで幅広い建築現場へと送り出している。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>その要となるのが、設計と製造を一体化させた自社工場の存在だ。CADによる構造設計とCAMによる自動加工がシームレスにつながるこの工場では、1本の木材に対して設計図に基づいた正確な継手・仕口加工がミリ単位で施されていく。これにより、スピーディかつ柔軟な対応が可能となり、在来軸組工法、ハイブリッド工法、金物工法など多様な工法に対応し、羽柄材、合板、サイディングのプレカットまで手掛ける「フルプレカット工場」としての能力を備えている。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":92862,"sizeSlug":"large","linkDestination":"none","align":"center"} -->
<figure class="wp-block-image aligncenter size-large"><img src="https://wirelesswire.jp/wp-content/uploads/2026/03/toyama24-1024x963.jpg" alt="" class="wp-image-92862"/><figcaption class="wp-element-caption">ウッディパーツでは、通常のラインでは対応出来ないサイズ・加工形状には特殊加工機である6軸制御多目的加工機OIKOSと手加工で対応している</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>高効率な生産体制を支えるのが、先進的な設備だ。特に、6軸制御多目的加工機は、これまで大工技能を持つ作業員が複数人で行っていた複雑な加工を、プログラム制御により1〜2名で対応可能にした。これにより生まれた人員の余裕を他の工程へ再配置することで、工場全体の生産性を向上させた。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>効率化・省人化をさらに後押ししているのが、CAD/CAM連携システムと自動木材供給・排出装置だ。設計データから加工データを自動生成する仕組みにより、入力ミスのリスクがなくなり、短時間で高精度な加工が可能に。さらに、加工機への木材供給や排出を自動で行う装置の導入により、作業者の負担軽減とラインの連続稼働を可能にした。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":92863,"sizeSlug":"large","linkDestination":"none","align":"center"} -->
<figure class="wp-block-image aligncenter size-large"><img src="https://wirelesswire.jp/wp-content/uploads/2026/03/toyama25-1024x646.jpg" alt="" class="wp-image-92863"/><figcaption class="wp-element-caption">ウッディパーツでは柱材加工では2台の柱ラインと小屋束ラインで効率的に生産。段積装置などを用いて省人力化を実現している（画像の一部をぼかし処理しています）</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>工場は整理され清潔で、作業員はモニターを確認しながら作業を進め、製造から品質管理までが一貫して管理されている。富山県産のスギをはじめとする構造材が、大型のプレカット機によって次々と加工されていく。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>同社では、伝統的な木造工法に対応する加工から、非住宅の大断面材まで幅広く対応可能だ。複雑な接合部や曲面形状など、意匠性を求められる構造にも柔軟に対応できる体制を整えており、構造の自由度を保ちながら木の美しさを活かす“見せる木構造”としての需要も獲得している。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>高精度な加工技術により、現場では部材の調整や加工が不要になり、木造建築の施工効率は飛躍的に向上する。結果として、木材の信頼性や使い勝手は大幅に向上し、地域材に対する「手間がかかる」「品質が不安定」といった従来のイメージも覆す。都市建築にも採用される「選ばれる木材」へと進化させる仕組みが、同社の工場には詰まっている。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":92864,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none","align":"center"} -->
<figure class="wp-block-image aligncenter size-full"><img src="https://wirelesswire.jp/wp-content/uploads/2026/03/toyama26.jpg" alt="" class="wp-image-92864"/><figcaption class="wp-element-caption">ウッディパーツ工場内に10年前に建てられた木造平行弦トラス倉庫。約7メートルの高さがあり、8割は県産材が使用されている</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>地域材の活用を推進するポイントについて、同社環境管理部の大谷直之部長は「弊社では、JAS構造材等の使用を積極的に進め、建築物のニーズに適合する信頼性の高い構造材を提供できるよう努めています。安定した品質と供給体制を確立することで、設計者や施工者の皆様に安心して選んでいただける高付加価値な構造材を提供することが不可欠だと考えています」と語る。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>プレカット加工の進化により、富山など地方で育った木材が、都市の商業施設や公共建築の構造材として採用される時代が到来している。とりわけ、高精度・高効率な加工は、都市型木造建築に求められる「工期短縮・品質安定・現場省力化」の実現に不可欠だ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>都市の木造化における自社の役割について大谷部長は「地域材を積極的に活用した木造建築物の普及は、地球温暖化対策への貢献はもちろんのこと、森林の健全な育成、地域経済の活性化、さらには都市部への木材供給基地としての役割を担うことにもつながると考えております。弊社は、公共建築物への木材利用促進や、大規模木造建築物への地域材の活用を推進するとともに、木材の地産地消にとどまらず、都市部のニーズにも応えられる高品質な地域材供給体制の構築を目指し、川上から川下まで連携を強化してまいります」と展望を語る。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":92865,"sizeSlug":"large","linkDestination":"none","align":"center"} -->
<figure class="wp-block-image aligncenter size-large"><img src="https://wirelesswire.jp/wp-content/uploads/2026/03/toyama27-1024x754.jpg" alt="" class="wp-image-92865"/><figcaption class="wp-element-caption">ウッディパーツでは事務所やショールームにも木材が多く使われており、ラウンジスペースには木にまつわる書籍200冊が展示されている</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>また同社では、品質と信頼性の裏づけとして、合法伐採材の使用を徹底し、社内の品質管理体制を厳格に整備している。ISO 9001の認証を取得し、材料受け入れから製品出荷までの各工程を文書化・記録する仕組みも確立。供給エリアは富山県内にとどまらず、石川、福井、新潟、岐阜など広範囲に及んでいる。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>プレカットという加工工程が、「川中」として地域木材を都市の現場へと橋渡しする。川中の加工業者は、<a href="https://forestcircularity.jp/2025/06/num-45/" target="_blank" rel="noreferrer noopener external" data-wpel-link="external">前回の記事で紹介したストックヤード</a>から供給される素材を、JAS認定などの高品質建材へと変換する起点として機能しており、地域内エコシステムの回転軸となっている。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading">地域の森から生まれるエネルギー</h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>市域の約8割を森林が占める南砺市では、すでに木質バイオマスボイラーが稼働し、温浴施設や温水プールに熱を供給している。これは、山から出た間伐材や製材端材といった未利用木材を燃料として活用する木質バイオマス熱供給事業の好例だ。小中規模分散型の木質チップボイラーによる熱供給は、輸送コストを抑え、地域内での利用を進める上で有効な手段とされている。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":92866,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none","align":"center"} -->
<figure class="wp-block-image aligncenter size-full"><img src="https://wirelesswire.jp/wp-content/uploads/2026/03/toyama28.jpg" alt="" class="wp-image-92866"/></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>富山県西部森林活用事業検討協議会は熱供給事業を森林資源活用の重要な軸の一つとして位置づけ、木質バイオマスボイラーなどの設備導入に向けた、林野庁の「地域内エコシステム」補助事業への申請も計画している。これは、地域主導でエネルギー自給率を高めるための具体的な一歩となる。化石燃料に頼らない地域エネルギーシステムの構築は、脱炭素化に直接貢献するだけでなく、エネルギーの地産地消を進めることで、外部環境の変化に強い地域経済を築く上でも重要となる。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading">地域内エコシステム構築の課題と展望</h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>富山県西部森林活用事業検討協議会が推進する地域内エコシステムは、まさにプラチナ森林産業イニシアティブが描く「森林循環経済」の縮図だ。川上で生産された木材が、ストックヤードを経て、製材やプレカットといった川中の加工工程へ進み、最終的に木造建築や熱供給として地域内で活用される。そして、これらの需要が再び川上の林業を活性化させる。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>このエコシステムの実現には、様々な課題もある。安価な輸入材との競争、林業の担い手不足、木質バイオマス熱利用施設の導入・運営コストなどだ。そして、地域住民や企業の理解と参画、政策的な誘導（地域材・バイオマス利用促進） や、民間投資を呼び込むための金融メカニズムの確立も必要となる。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>地域の企業が、それぞれの強み（地域材のブランド化、先進的なプレカット技術）を活かし、協議会の活動に連携・貢献していくことが、この地域内エコシステムの成功には不可欠だ。その活動は、単なる経済活動に留まらず、「新しい森林文化」の醸成という社会的な目標にもつながっている。森と地域が共生し、資源が循環する未来の姿が、富山県西部から見え始めている。<br>（森林循環経済／編集部）</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p><strong>■関連記事</strong><br><a href="https://forestcircularity.jp/2025/06/num-45/" target="_blank" rel="noreferrer noopener external" data-wpel-link="external">木材全量買取ストックヤードと効率化・省力化で「儲かる林業」へ―富山県西部・森林資源フル活用の挑戦（1）</a></p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>※『森林循環経済』<a href="https://forestcircularity.jp/2025/06/num-058/" target="_blank" rel="noreferrer noopener external" data-wpel-link="external">2025年6月23日</a>の記事を転載しました。<br>※森林×循環経済×地域の専門メディア『森林循環経済』から、産業・政策・研究・地域をつなぐ専門知と最新事例を毎週厳選配信→ <a href="https://forestcircularity.jp/newsletter/" target="_blank" rel="noreferrer noopener external" data-wpel-link="external">ニューズレター登録（無料）</a></p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p></p>
<!-- /wp:paragraph -->]]></description>

                <post-id xmlns="com-wordpress:feed-additions:1">92852</post-id>
            </item>
                    <item>
                <title>これは楽しい!エージェンティックAIの自家醸造</title>
                <link>https://wirelesswire.jp/2026/03/92849/</link>

                <dc:creator><![CDATA[清水 亮]]></dc:creator>
                <pubDate>Mar 04 2026 04:18:16 +0000</pubDate>
                                                    <category><![CDATA[.カテゴリーなし]]></category>
                                <guid isPermaLink="false">https://wirelesswire.jp/?p=92849</guid>

                <description><![CDATA[<!-- wp:paragraph -->
<p>Claude Codeの威力がようやく一般の人にも理解されつつあるようだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>筆者のタイムラインには、毎日のようにClaude Codeで思い思いのツールを開発する非エンジニア職の人々の感動と嘆息が埋め尽くされている。いい兆候だ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>高性能なGPUを手軽な価格で使えるようになったという点で画期的なDGX Sparkが発売されたことに加え、最近のSLM(小規模言語モデル)の進歩は目覚ましく、最近ではQwen3.5 9Bがその脅威的なコンパクトサイズに反して高度な推論機能を持っていることが衝撃を持って受け止められている。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ここで最近、筆者とその周辺の興味は、</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>クラウド上のAIは、確かに高性能かもしれないが、大量のユーザーを同時に捌くため、どうしても一人一人への対応は雑になる。一人の秘書が100人のボスに仕えているような状態だからだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>それに対して、ローカルAIを使った自家醸造(ホームブリュー)なエージェンティックAIは、100%のリソースが全て自分一人のために使われる。これはバスに乗るのと、自家用ジェットに乗るくらいの違いがある。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":92850,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://wirelesswire.jp/wp-content/uploads/2026/03/unnamed.jpg" alt="" class="wp-image-92850" /></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ローカルだからといってそこで完結する必要はなく、ローカルのエージェンティックAIは、必要に応じてクラウドの巨大なAIの助けを借りることもできる。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>最近のクラウドAIは、例えば日によって調子がよかったり悪かったりする。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>筆者のオフィスでは毎朝のように「今日はChatGPTの機嫌が悪い」とか「今日はViduの調子がいい」といった会話が交わされる。彼女たちの仕事はAIを使ったクリエイティブがメインで、AIの調子が悪いのは死活問題になるからである。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>特にGoogleの作画AIであるNanobanana2は出来はすごいのだが波があるらしく、Nanobanana2などクラウドAIの調子が悪いと感じた時は、彼女たちはFlux.2 Kleinなどのローカルで動く画像生成AIを使うという使い分けをしている。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>これがエージェンティックになると、人間がLLM(例えばChatGPTとかGeminiとか)を使って「行ったり来たり」で作業するプロセスを丸ごとエージェントが肩代わりする。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>例えば筆者は毎日AIニュースを調べて配信する番組「デイリーAIニュース」をやっているのだが、それまで手動で集めていた情報に加えて、自作のエージェンティックAIであるSiki(式神に由来する)が、いつのまにか24時間ニュースを監視するようになった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>もちろん、そのように仕向けたのだが、自分でエージェンティックAIを作る、つまり自家醸造することの良さは、「自分が欲しいエージェントに仕立て上げることができる」という点に尽きる。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>実は、すでにトップエンドのLLMの世界では、人類の上位数パーセント(あるいは数人)の知性と闘うほど賢くなっている一方、日常の業務、例えばユーザーが本当にやって欲しいことにきめ細かく答えるようなことはおざなりになっている。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>それは、LLMの「ベンチマーク性能」が企業の株価に直結するからであり、そちらを優先するとどうしてもユーザー向けのサービスを向上させること、つまりユーザビリティへの配慮が疎かになる。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>しかし、ローカルエージェントの場合は、暇さえあればユーザー一人のために「ユーザーはどんな人か」「ユーザーが次に求めることは何か」「それを先にやっておけないか」と考えて、自律的に行動することができるようになる。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>あるいは、関連する情報を集めて、簡単なローカル画像生成モデルを使ってインフォグラフィックに仕上げたり、スライドショーにしたり、動画を生成したりと言った作業をさせることができる。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":92861,"sizeSlug":"large","linkDestination":"none","align":"center"} -->
<figure class="wp-block-image aligncenter size-large"><img src="https://wirelesswire.jp/wp-content/uploads/2026/03/c460bfab5a746197b337bc23509c9bb2-1024x890.png" alt="" class="wp-image-92861" /><figcaption class="wp-element-caption">筆者が開発中のローカルエージェンティックAI Siki　アイドリング時にユーザーを分析している</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>人によって、扱いたい情報は、ニュースなのか、それとも株価の値動きなのか、メールなのか異なる。<br>OpenClawはSlackやDiscordなどかなりの範囲をカバーしているが、筆者はSlackはあまり使わないのでできればメールでサマリーが欲しい。ローカルエージェントなら、新しい機能が欲しければ自分で追加することができる。当たり前だがすごい進歩なのだ。これは。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>この開発そのものもClaude Codeのようなエージェントで行なっているのだが、近い将来、これ自体もローカルエージェントに置き換わる予感がしている。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>Claude CodeはMAX20倍プランだと月額3万円。その強大な機能を考えれば安すぎるほどだが、使えば使うほど、制限に苦しめられることになる。筆者は3つのアカウントで3つの20倍プランに課金しているが、それでも10万円だ。これは、普通に大学生のインターンを一人雇うよりも圧倒的に安く、しかも能力は、大学生のインターン20人分以上だ。プロのプログラマー5人分くらいに相当する。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>しかし、例えば筆者が<a href="https://note.com/shi3zblog/n/ne72c2316c0a3" data-wpel-link="external" target="_blank" rel="external noopener noreferrer">Raspberry Pi5と5060tiという廉価なGPUの組み合わせで、システム合計15万円以下で作ったマシン</a>でも、ローカルエージェンティックAIを動作させることができる。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>これはクラウドのAIと違い、電源さえ供給されれば無制限に思考することができる。<br>実はすでに、<a href="https://www.microsoft.com/en-us/research/publication/inference-time-scaling-for-complex-tasks-where-we-stand-and-what-lies-ahead/" data-wpel-link="external" target="_blank" rel="external noopener noreferrer">小規模な言語モデルでも、時間をかけて推論すれば大規模言語モデル並の結論を出せることがある</a>という研究がある。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>多分、トップノッチで比較されているような高度な数学的推論は難しいのかもしれないが、世の中の人が必要とする大抵の割とそこまで賢い人間でなくてもできるようなタスク、例えばあるキーワードについて調査してまとめて報告書の形にしたりとか、アンケート結果をまとめてグラフにしたりとかと言ったことについては全く問題ないどころか、人間より上手く正確にやってくれる可能性すらある。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>唯一の違いは、人間の場合、成果物が間違っていると「お前が悪い」と責任をなすりつけることができるが、エージェンティックAIを使った場合、それを使った人間の責任になるということだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>筆者の周囲でエージェンティックAIの自家醸造に精を出している人間の多くは、経営者だったり経営経験者だったりして、「責任を取る」ことに慣れている人たちだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>この辺りの動きがあまりにも面白いので、自家醸造のエージェンティックAIを作っている知人を集めてイベントを開催することにした。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>名付けて、「ホームブリュー(自家醸造)・エージェンティックAIクラブ」である。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>Wireless Wire Newsのライターの一人である川崎裕一や、筆者、AIやプログラミングの著書を多数出している布留川英一、同じく多数の書籍を執筆しているからあげ氏、そして元ユニティテクノロジーズジャパンの代表で、ゲームプログラマーの大前広樹といった面々が集まった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>どんな話が飛び出すのか、今から楽しみであると同時に、筆者自身も発表するために日々自分のエージェンティックAIを改良するのが楽しくてたまらない。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>会場が狭いのでオンライン配信も行う予定。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>イベントのページはこちらです。 <a href="https://homebrewai.peatix.com/view" data-wpel-link="external" target="_blank" rel="external noopener noreferrer">https://homebrewai.peatix.com/view</a></p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p></p>
<!-- /wp:paragraph -->]]></description>

                <post-id xmlns="com-wordpress:feed-additions:1">92849</post-id>
            </item>
                    <item>
                <title>80歳を過ぎても脳は育つ？スーパーエイジャーの記憶力を支える『再生力』</title>
                <link>https://wirelesswire.jp/2026/03/92841/</link>

                <dc:creator><![CDATA[中村 航]]></dc:creator>
                <pubDate>Mar 03 2026 21:00:00 +0000</pubDate>
                                                    <category><![CDATA[科学技術芸術と社会]]></category>
                                <guid isPermaLink="false">https://wirelesswire.jp/?p=92841</guid>

                <description><![CDATA[<!-- wp:paragraph -->
<p>人間の脳は一般的に加齢とともに衰えていくものだが、高齢になっても20～30歳若い世代と同等の記憶力や脳機能を保つ人もいる。「スーパーエイジャー」と呼ばれるこのような人々の脳の中で一体何が起こっているのか。英科学誌『Nature』に掲載された最新の研究が、こうした人々の脳に共通する特徴の一端を明らかにした。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>この研究では、イリノイ大学などの研究チームが亡くなった人から提供された脳の組織を詳しく調査。健康な若者、一般的な高齢者、スーパーエイジャー、そしてアルツハイマー病などの認知症患者の脳を比較した。その結果、スーパーエイジャーの脳内では、高齢になっても記憶をつかさどる領域で新しい神経細胞が活発に作り出されていることがわかった。実際、一般的な健康な高齢者と比べて2倍も多くの新たな細胞が作られていたという。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>研究者は、脳内で新しい細胞が育つプロセスを「人間の赤ん坊が幼児になり、やがて10代の若者へと成長していくようなもの」と例えている。スーパーエイジャーの脳内では、未熟な細胞が立派な神経細胞へと育つ活発な様子が多数確認できたが、逆に認知症患者の脳では、新しい細胞の誕生がほとんど見られなかった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>今回の研究は、加齢とともに脳機能が必ずしも一方的に低下するわけではないことを示した点で大きな意味を持つ。将来は、新しい細胞が生まれるプロセス（神経新生）を促す治療法や生活習慣の改善策が、認知機能の維持につながる可能性もあり、今後の研究の進展が注目される。<br>（中村 航／翻訳家）</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p><strong>参照</strong><br><a href="https://www.nature.com/articles/s41586-026-10169-4" target="_blank" rel="noreferrer noopener external" data-wpel-link="external">Human hippocampal neurogenesis in adulthood, ageing and Alzheimer’s disease | Nature</a><br><a href="https://www.news-medical.net/news/20260225/Superagers-show-greater-neuron-growth-linked-to-strong-memory.aspx" target="_blank" rel="noreferrer noopener external" data-wpel-link="external">Superagers show greater neuron growth linked to strong memory | News-Medical</a><br><a href="https://www.nytimes.com/2026/02/25/well/mind/super-agers-brain-neurons.html" target="_blank" rel="noreferrer noopener external" data-wpel-link="external">Super-Agers’ Brains Have a Special Ability, New Study Suggests - The New York Times</a></p>
<!-- /wp:paragraph -->]]></description>

                <post-id xmlns="com-wordpress:feed-additions:1">92841</post-id>
            </item>
                    <item>
                <title>野又穫はなぜ論じられてこなかったのか。社会学的想像力をかき立てる現代アーティストを観る</title>
                <link>https://wirelesswire.jp/2026/03/92806/</link>

                <dc:creator><![CDATA[福島真人]]></dc:creator>
                <pubDate>Mar 02 2026 21:00:00 +0000</pubDate>
                                                    <category><![CDATA[科学技術芸術と社会]]></category>
                                <guid isPermaLink="false">https://wirelesswire.jp/?p=92806</guid>

                <description><![CDATA[<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>野又穫という作家から透けてみえる、アート業界の構造</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p><a href="https://www.nomataminoru.com/biography-jp" target="_blank" rel="noreferrer noopener external" data-wpel-link="external">野又穫</a>という画家がいる。長いこと幻想的な建築の絵を描いてきた美術家だが、その名を知らなくても、彼の絵はどこかで見たことがあるという人は少なくない。私の家族も基本的に彼の来歴はよく知らないが、「白い巨塔」というテレビシリーズのタイトル画というと何となく覚えているという。『文学界』という雑誌の表紙や、何を隠そう我々の『<a href="https://www.utp.or.jp/book/b383240.html" target="_blank" rel="noreferrer noopener external" data-wpel-link="external">予測がつくる社会</a>』という編著でも、彼の不思議なバルーンの絵を表紙に使わせてもらっている。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>私自身、かなり昔から彼の作品のファンで、その初期の画集も、結構高価だったにも係わらず、家族へのプレゼントも含め二冊購入し、結局両方とも手元にある。基本的に国内で活動する作家だったが、近年、ロンドンのホワイトキューブという、先端的な現代アートを扱う画廊の専属になり、急に国際的な注目度が上がってきた。知り合いのキュレーターがこうした事情を知り、その英文評論という大役を引き受ける事になった。それが縁で、ご本人にも話を伺ったが、その詳細は上記評論に詳しく書いてある。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>野又の作品、特にその初期のものは、神秘的な雰囲気をはらむ建物の絵が多いが、もちろんそれだけではない。中期以降、植物園や地形のような、より有機的な対象も増える。その後、ヨット、バルーン、あるいは一度見たら忘れられない、個性的な瓢箪型の人工湖といったバリエーションが加わり、最近は、震災の影響からか廃墟のような光景を描くこともある。その具体的な内容や来歴については、上記評論に詳しいが、ここで論じたいのは、野又穫という作家の存在から透けてみえる、本邦を含めたアート業界の構造の断面である。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>魅力は充分なのに論じられない。アート・ワールドの不可解</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>野又は1987年以降、西武百貨店の美術画廊や広島の画廊などで定期的に個展を開いて作品を売るほか、寺田コレクションで有名な寺田小太郎のコレクションの一部として数点ずつ作品を購入してもらうことで生計を成り立たせてきた、いわば商業作家である。彼はデザイン学科の出身で、卒業後はその分野での仕事もしている。他方、彼の立ち位置として面白いのは、本邦の現代アートシーンの言わば中心の一つ、小池一子主催の「佐賀町エキジビット・スペース」で現代アートシーンにデビューしているという点である。これは江東区佐賀町（佐賀県ではない）にあった食糧ビルを改築し、画廊や美術館ではない作品発表の場として1983年に造られた、日本で初の「オルタナティブ・スペース」である。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>2020年に群馬県立近代美術館でその回顧展があったが、内外の現代アート関係の錚々たるメンバーがそこに出展している。野又は創設から3年後の1986年に自分の初期作品をそこで展示しており、ある意味「佐賀町組」の代表的なメンバーの一人である。日本の現代アートシーンという意味では、かなり中心に近いところから出発しているのがこれで分かる。しかしその後、現代アートを語る標準的な言説の中に野又の名前が挙げられるのをあまりみた事はない。佐賀町スペースの主催者や著名コレクターが一瞬でその作品に魅せられている点からも、その作品の力は疑うべくもない。だが、ここが社会学者ベッカー（H.Becker）のいう、アート・ワールドの不可解な点でもある。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>同業者ばかりが評価をする科学、様々な社会集団を必要とするアート</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>アート・ワールドは複数の極からなるが、言説面を統括するのは学術に直接、間接に関係する集団、すなわち研究者、評論家、美術館関係者といった人々である。その認識・評価システムは学術一般のそれ、つまり過去の蓄積に対する貢献という、いわば広い意味での科学モデルに近い面がある。この場合、（西洋）美術史という文脈において、過去の蓄積に対してどういう新規性、独創性があるかという点がいわば学術的評価の対象となる。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>だが話がそれほど単純ではないのは、このやり方は、厳密な意味での科学モデルと異なる面も多いという点である。科学モデルの基本は、ピア・レビュー、すなわち同業者による評価である。ある数学者が自分の仕事について、「少数の同僚の渋々とした称賛を得るための職業」とやや自嘲気味に解説していたが、まさにピア・レビューの本質をついている。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>他方、芸術作品を評価するのは、同業者ではなく、観客（聴衆）一般である。作品がそれとして機能するには、観客が必要なのだ。デュシャン（M.Duchamp）が主張したように、作品の構成において、アーティストはその一部分を担うに過ぎない。同業者さえ存在すれば、そこから特定の研究分野を立ち上げ可能な科学界に対し、アート・ワールドでは、その作品を観る、多様な役割をもった様々な社会集団が必要となる。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>評価という点で話が複雑になるのは、この観客の多様性が、多様な水準の評価を生むからである。実際、どの分野でも一般的な人気と、学術的なそれは基本的にあまり相関しない。大衆的人気はあるが評論家の受けが悪い、あるいはその逆といったケースはどこにでもあり、文学のようにそのベクトルの差が賞の違いで示される場合も少なくない。現代アート作品は、一般に分かりにくく観念的とされるが、それは文脈的前提を理解しないとその価値がよく分からないからだとされる。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>アート・ワールドでも、専門家集団が過去の蓄積との関係で作品を評価するという点では科学モデルに似たやり方をとるが、それはピア・レビューほど厳密ではなく、また当該作品に関して適切な評価者が存在するとも限らない。実際、美術賞についての発言を読むと、その評者の背景、すなわち伝統派か、現代アート派か、あるいは評論家か学芸員か、といった違いにより、その評価基準が大きく異なるという。これはピア・レビューとはかなり異なる評価実践である。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>「新しきゃいいというものでもない」</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:image {"id":92811,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none","align":"center"} -->
<figure class="wp-block-image aligncenter size-full"><img src="https://wirelesswire.jp/wp-content/uploads/2026/02/20230908-01nomataminoru2.jpg" alt="" class="wp-image-92811"/><figcaption class="wp-element-caption">Windscape-8, 1997, acrylic on canvas, 51.3 x 100.2 cm&nbsp;©&#xfe0f;Minoru Nomata,&nbsp;Private Collection &nbsp;</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>また、科学界周辺では、データや理論の「新しさ」が評価の基本中の基本であり、既に成された研究と同じ内容のものが評価されることはない。だが、はたしてアートにおいて、新しさが全てなのか、というのはかなり疑問が残る。例えば、新しいテクノロジーを使った表現は、その点だけ挙げれば新しいが、それが無条件に評価されるということでもなさそうだ。「新しきゃいいというものでもない」という知り合いのキュレーターの発言は、まさにそうした同一視の限界を示している。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>他方、アート・ワールドのみならず、学術業界にも一般の社会同様一種の流行というものがある。研究者も公的資金を使って研究を行う以上、一定期間内に成果を挙げる必要がある。それゆえあるタイプのテーマがそれなりに成果が出そうだと見ると、研究者が集中する場合がある。科学技術社会学（STS）では、それをバンドワゴンと呼ぶが、昨今のアート業界、とくにその学術面に近い分野でもそうした傾向は顕著にある。現在多くの展覧会でフェミニズムやエコロジーが大はやりだが、そうした流行に従って諸作品の傾向も大きく変化する。それゆえ、作品評価にあたって、どの時点のどの蓄積と特定作品を結びつけるかは、評者の恣意による面も少なくない。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>更にアート・ワールドにおいては、科学モデルとは決定的に異なる評価の軸がある。あえて名付けると、それは実存モデルとでもいうもので、作品と観客の間の、出来事としての出会い、ほとんど現象学的な経験である。勿論この側面は、評者の学識と関係がない訳でもなく、経験を積むことで感受性も変化する。かつてある高名な人類学者が、当時開催されていた印象派展についてつまらなかったと印象を述べていたが、本人曰く、これまでに数多くの印象派作品をみたので、飽きたのだろうという。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>こうした観客側の移ろう感受性に対抗するように、作者側も観客の反応を無視すると公言する人もいる。国際的によく知られたタイの映画監督は、雑談の際に自分は観客の反応には全く関心がないと強弁し、座が白けた事があった。しかし友人の一人はその話を聞いて、そんなはずはない、ではなぜいつも作品を国際コンペに出すのか、と指摘していた。国際的批評家の反応にだけ敏感というのも面妖な話である。だが実際は、観客の反応というのは一種のブラックボックスであり、恐怖の対象だというのが真実なのだろう。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>野又の作品は、曖昧な評価構造の窪みに落ち込んでしまった？</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>以上の話は、野又のような作家を論じる際の困難を指摘するためである。彼の作品が多くの人を魅了する力があるというのは、疑いの余地はない。上記の実存モデル的な意味では、その力は圧倒的ともいえる。他方、彼の作品を学術的に位置づける場合、アート・ワールドの複雑で曖昧な評価構造の窪みに落ち込んでしまったのでは、という印象も受ける。野又はアート・ワールドにおけるバンドワゴンには概して無関心だが、それに乗ることのメリットは、人々の注目を浴びて、評価されやすくなるという点である。他方彼の作品はそもそもそのルーツ自体が分かりにくい。従来の解説にはしばしば建築家が登場するが、野又作品を建築史に位置づけても埒が明かないだろう。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>本人はそのルーツについて、アメリカの画家シーラー（C.Sheeler）といった人の作品を挙げているが、1920年代以降米国で、都市的、工業的な景観を絵画や写真で描いた、プレシジョニストと総称されるグループの一人である。米国美術史の専門家以外にはあまり知られていないこうしたグループ、いわゆるマシーン・エイジの作家達との、遠い縁戚関係があり、そこに様々な分野の影響が加わり、独自の作風を完成させたのである。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":92810,"sizeSlug":"large","linkDestination":"none","align":"center"} -->
<figure class="wp-block-image aligncenter size-large"><img src="https://wirelesswire.jp/wp-content/uploads/2026/02/20230908-01nomataminoru3-1024x374.jpg" alt="" class="wp-image-92810"/><figcaption class="wp-element-caption">Skyglow-H2, 2008, acrylic on canvas, 53.5 &nbsp;x 145.8 cm&nbsp;©&#xfe0f;Minoru Nomata</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>だがこうした来歴は、現代アート業界の流れとは一致しない。結果として、言わば一般的な人気はあり、専門家の評価も高いが、しかしどう位置づけたらいいか、はっきりしない作家という状況が続いたという印象がある。勿論最近の国際的画廊との関係は、そうした関心の高まりを証明するが、しかしそこにも潮流の変化がある。端的にいえば、それは欧米アート業界における、非西洋アートに対する学術的／商業的な関心の拡大であり、そうした流れが、言わば彼の国際評価の高まりを後押ししたのだろう。しかしこの点でも野又作品がある種のアノマリーを示すのは、彼の作品がアジア的な雰囲気をあまり持っていないという点である。実際その作品に影響を与えた要素はほぼ西洋の文物であり、どちらかというと、神秘的ではあるが、無国籍的なのだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>野又作品は、アート・ワールドにおける興味深い特異点である。その作品自体が、様々な美的想像力を観客に喚起すると同様に、その作家の立ち位置そのものが、いわば社会学的想像力をかき立てるという点でも、特異な作家なのである。<br>（福島真人／東京大学）</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph {"align":"left"} -->
<p class="has-text-align-left"><strong>参考文献</strong><br>ハワード・Ｓ・ベッカー　後藤将之訳(2016)『アート・ワールド』慶應義塾大学出版会<br>美術の窓　No.438　2020年3月号「美術賞完全ガイド」生活の友社<br>山口富子・福島真人 編(2019)『予測がつくる社会—「科学の言葉」の使われ方』東京大学出版会<br>小池 一子　林 雅之 （写真）　佐賀町アーカイブ編(2020)『佐賀町エキジビット・スペース1983-2000—現代美術の定点観測』HeHe<br>福島真人(2019)「遙かなる未来を語ること――『予測がつくる社会』」　<br>野又稔(1991)NOMATA – Standing Still　ゲイン株式会社<br>Fujimura, J.(1996) <em>Crafting science : a sociohistory of the quest for the genetics of cancer</em>, Harvard University Press<br>Fukushima,M.(2019) Regimes on newness: an essay of comparative physiognomy, <em>Interface Critique</em>  2 ：105–122.<br>Fukushima,M.(2021) Minoru Nomata: The allure of polychromatic topology, in <em>Companion</em>, White Cube.</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph {"style":{"elements":{"link":{"color":{"text":"#333333"}}},"color":{"text":"#333333"}},"fontSize":"small"} -->
<p class="has-text-color has-link-color has-small-font-size" style="color:#333333">（当記事はModern Times 2023年9月に公開された記事の再掲載です）</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p></p>
<!-- /wp:paragraph -->]]></description>

                <post-id xmlns="com-wordpress:feed-additions:1">92806</post-id>
            </item>
                    <item>
                <title>英語圏のnatureでは捉えきれない「自然」の概念。環境保全の推進に必要な「人文学」のアプローチ</title>
                <link>https://wirelesswire.jp/2026/03/92796/</link>

                <dc:creator><![CDATA[小松原織香]]></dc:creator>
                <pubDate>Mar 01 2026 21:00:00 +0000</pubDate>
                                                    <category><![CDATA[科学技術芸術と社会]]></category>
                                <guid isPermaLink="false">https://wirelesswire.jp/?p=92796</guid>

                <description><![CDATA[<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>保全活動によって守られようとしている「自然」は、自然科学の想定するnatureで</strong>しかない</h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>気候変動をはじめとした環境問題は全世界の注目を集める喫緊の課題である。環境問題の特徴は多国間の協力が必要なことにある。大気汚染や海洋汚染は簡単に国境を超えて広がる。また、CO2排出抑制には各国が協働で取り組まなければならない。すなわち、一国の利害を超えた地球規模の環境政策の立案が望まれている。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>他方、国連をはじめとした国際的な環境政策について話し合う場は、英語が第一言語となり、欧米諸国が旗振り役となって議論を進める。最先端の技術を駆使し、統計データや将来予測が提示され、自然科学者たちが環境保全に向けた対応策を検討する、そのときに想定されている「守るべき自然」とは自然科学の想定するnatureである。これらの議論は欧米諸国が中心になって進めている。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>しかしながら、環境破壊がもっとも深刻なのはグローバルサウスと呼ばれる国々だ。アフリカ、南米、アジア等の国々の貧困問題を抱えた地域こそが、環境破壊の影響を受けやすい。たとえば、自然とともに暮らす先住民は、環境の変化により、それまでの狩猟や採集の手段を奪われる。また、貧しさゆえに、汚染された危険なゴミを輸入し、集積することで現金収入を得る地域もある。環境破壊の害は弱い立場の人々に襲いかかる。かれらの声は、国際的な環境政策の議論に反映されているのだろうか。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>「かまどの神様」はnatureに含まれるのか</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>実は、この問題は日本における環境問題の議論にも深く関わっている。日本語の「自然」の概念は、英語のnatureの語と完全に重なるわけではない。たとえば、私の祖母は「台所で流しに熱湯を流してはいけない」と説いた。なぜなら、かまどの神様が火傷をして怒るからである。祖母がどれくらい本気で私にそう言ったのかわからない。おそらく、昔の日本の流しは熱湯を捨てると配管が傷んだので、それを避けるための知恵だったのだろう。なんにせよ、祖母は「かまどには神様がいる」と当たり前に言っていた。さて、かまどの神様は自然だろうか？　人工物だろうか？　かまどは人工物ではあるが、かまどの神様は人間が作り出したものではない。もちろん、人間の空想だと断じて人工物に分類してもいい。だが、日本文化に馴染みがあれば、「もしかすると自然の側ではないか」「人を超えたものだ」という直感が働く人もいるように思う。だが、自然科学者が英語で環境政策について議論する場では、natureのなかにかまどの神様は含まれていない。日本語の自然が指し示すものは、自然科学のnatureのカテゴリーとは完全には重ならない。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>環境保全に実効的な政策を考えていくうえでは、人文学のアプローチが欠かせない</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>こうした自然概念の地域差は、文化の多様性に根ざしている。人々は異なる気候に囲まれ、異なる暮らしを営んできた。そのなかで異なる自然観が生まれてくるのは当然のことである。実は、<a href="https://www.ipbes.net/" target="_blank" rel="noreferrer noopener external" data-wpel-link="external">国際機関IPBES（生物多様性及び生態系サービスに関する政府間科学-政策プラットフォーム）</a>も、文化多様性に着目し、次のように述べている。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>自然についての多様な概念化と可能な価値の多元性が存在するということは、この分野において政策決定をすることは困難であり、意見の相違や議論にさらされることを意味する。したがって、評価、管理、政策の目的に向けて、異なる利害関係者が明示的にまたは暗黙理に自然やその利益に対して抱く複数の価値を認識し、意思決定においてどのように扱い、対処するのかについて透明性を担保することは重要である。これは、方法論的アプローチや政策過程をデザインするなかで、世界観の影響の重要性を理解するとともに、どの世界観をあてはめる、もしくは考慮するのかについて、透明性を保つことを含む。（IPBES ‘<a href="https://www.ipbes.net/diverse-worldviews-diverse-values" target="_blank" rel="noreferrer noopener external" data-wpel-link="external">Diverse worldviews &amp; diverse values</a>’ 、原文は英語。筆者訳。）</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>このように、環境保全を進める国際機関においても、世界の人々が持つ自然観が一つではなく、複数であり、それぞれが異なっていることを認識する重要性を述べている。さらに、IPBESは、「交流、発展、創造性のみなもととして、自然にとって生物多様性が必要なように、人間にとって文化多様性は必要である」（<a href="https://www.ipbes.net/node/40942" data-wpel-link="external" target="_blank" rel="external noopener noreferrer">cultural diversity</a>）としている。したがって、私たちは環境保全に実効的な政策を考えていくうえでは、人文学のアプローチにより世界の各地域の自然概念を理解することが不可欠なのである。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>アジア12カ国の「自然」が意味するもの</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>それでは、どうやって各地域の自然概念を知ることができるのだろうか。私は友人のライナ・ドロズ（東京大学・特任助教）とともに、この難問に向き合うために、<a href="https://asiaenviphilo.com/" target="_blank" rel="noreferrer noopener external" data-wpel-link="external">アジア環境哲学ネットワーク</a>を2019年に設立した。一人では世界中の自然概念を知ることはできなくても、各地域の研究者が協力すれば前に進めるかもしれない。簡単なことではない。特に、アジアはそれぞれが異なる言語を用い、歴史をたどってきた。交流するにも英語に苦手意識がある人が多い。それでも、お互いの文化的な壁を超えて、協力して環境哲学について取り組むチャレンジを始めたのだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>そうは言っても、たった二人の初期キャリア研究者が、なんの予算も支援もなく、手作りで始めたネットワークである。私たちはウェブサイトを立ち上げ、メーリングリストを作り、個人的にスカウトしてメンバーを増やしていった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>そして、2021年、meaning of nature project（「自然の意味」プロジェクト）が始まった。このプロジェクトには、12カ国の異なる地域から15人の参加者がいた。最終的には英語の査読付き論文を執筆し、出版に至る。論文では、中国語、日本語、ベトナム語、フィリピン語、タガログ語、セブアノ語、ルマド語、インドネシア語、ビルマ語、ネパール語、クメール語、モンゴル語の「自然」の語が意味するものが記述されている。以下より、無料でアクセスできる。<br><a rel="noreferrer noopener external" href="https://www.nature.com/articles/s41599-022-01186-5" target="_blank" data-wpel-link="external">Exploring the diversity of conceptualizations of nature in East and South-East Asia | Humanities and Social Sciences Communications</a></p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>この論文がユニークなのは、オンライン・ワークショップを基盤にした共著論文であることだ。私たちは2021年6月にメーリングリストで参加者を募集し、7月にどんな論文を書くのかを検討するキックオフミーティングをした。さらに、10月に草稿をもとにして議論をし、11月に最終稿に向けて検討を行った。これらは全てズームのオンライン会議と、グーグルドライブを利用したワードの共同編集機能によって行われた。つまり、私たちは一度も対面で会うことなく、共著論文を完成させたのだ。2021年といえばまだまだコロナ禍の真っ最中だ。オンラインでの研究活動が盛んになった、まさにそのときに、私たちは初期キャリア研究者を中心に手探りでアジアの環境哲学の共同研究に取り組んでいた。苦労したのは、インターネットの接続回線が弱い地域の参加者がいたことだ。かれらは、カフェやレストランなど、通信環境が良いところを探して議論に加わってくれた。各地域のインフラ整備の格差を痛感した。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>正直にいえば、この論文の完成度は決して高くない。たとえば、東アジア・東南アジアの自然概念の探究を謳いながらも、東アジアの重要な地域・朝鮮半島がまるまる抜けている。私たちが協力してくれる研究者を見つけられなかったからだ。また、各地域の自然概念の記述はアカデミック/非アカデミックの度合いがバラバラだ。参加したメンバーは、哲学の研究者だけではなく、法学者や活動家も含まれる。かれらは「抽象的な概念のことはわからない」と言いながら、四苦八苦して私たちの議論に参加し、自分たちの知見を用いて論文に貢献してくれた。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>さらに、東アジア・東南アジアとひとくくりにしても、日本や中国のように書記言語で自然観を探究する分厚い歴史のある地域もあれば、日常生活の中にある非言語的な自然観が優勢ある地域もある。後者の地域では、文献資料が少ないし、あったとしても英語ではないので他のメンバーが確認できない。ドロズが執筆過程で一貫性のある記述になるように苦心して体裁を整えてはいるが、まだまだ各地域の記述の厚みを増して、掘り下げることはできるだろう。これは欠陥ではなく、未来へ続く可能性の話である。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>「私たちは西洋とは異なる自然と共生する世界観を持っている」と公式化したとき、文化の本質化が始まる</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>このプロジェクトはプロセスを重視する。私たちは、あらゆる地域の資料をさばく博覧強記の大学者でもなければ、書斎で沈思黙考することで世界の謎を解く深遠な哲学者でもない。誰かが蹴り出したボールを目掛けて、みんなが走ってパスを出しながら前に進んでいく、サッカーのような研究スタイルだ。不完全ではあっても、新しい発見のある一本の論文が書けた。そうすると、新しい課題が見えてくる。そうやって、各地域の自然概念の探究は広がっていく。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>私たちは、今、エコ・オリエンタリズム/エコ・ナショナリズムについてのプロジェクトに取り組んでいる。アジアにはたしかに各地域の独自の自然観がある。それらの特徴を言語化したとき、英語圏で議論されている欧米中心の発想とは異なる環境思想が生まれることがある。しかしながら、それを「私たちは西洋とは異なる自然と共生する世界観を持っている」と公式化したとき、文化の本質化が始まる。自文化礼賛がナショナリズムと結託して、一国内の自然観が一元化される危険もある。それぞれの地域が持つ自然観を尊重しながらも、自己に閉じず、他者と繋がることができるような環境思想の議論はどうすれば可能なのだろうか。再び、私たちは新しい論文の作成に挑戦している。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>私たちの試みが、国際的な環境政策の議論の場に反映されるのは、いったいいつのことだろうか。初期キャリア研究者の細々とした取り組みと、国連までの距離は遠い。それでも、私たちはアジアの環境哲学のプロジェクトをスタートした。今年は11月にオンラインシンポジウムを開催する。ここでの新しい出会いと議論が、私たちに次のステップを与えてくれるかもしれない。無料で誰でも開かれるオープンな場である。あなたが興味があれば、ぜひ私たちのプロジェクトに加わってほしい。<br>（小松原織香／作家）</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p><a href="https://font-da.hatenablog.jp/entry/2023/05/17/181845" target="_blank" rel="noreferrer noopener external" data-wpel-link="external">NAEPオンラインシンポジウム（2023） 参加者募集のお知らせ</a><br><a href="https://asiaenviphilo.com/2023/05/22/call-for-papers-for-the-2023-naep-online-symposium/" target="_blank" rel="noreferrer noopener external" data-wpel-link="external">Call for Papers for the 2023 NAEP Online Symposium</a></p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph {"style":{"elements":{"link":{"color":{"text":"#333333"}}},"color":{"text":"#333333"}},"fontSize":"small"} -->
<p class="has-text-color has-link-color has-small-font-size" style="color:#333333">（当記事はModern Times 2023年7月に公開された記事の再掲載です）</p>
<!-- /wp:paragraph -->]]></description>

                <post-id xmlns="com-wordpress:feed-additions:1">92796</post-id>
            </item>
                    <item>
                <title>あまり他人を信じない日本人。精神科医が患者の信頼を獲るためにしていることとは</title>
                <link>https://wirelesswire.jp/2026/02/92822/</link>

                <dc:creator><![CDATA[岡村 毅]]></dc:creator>
                <pubDate>Feb 26 2026 21:00:00 +0000</pubDate>
                                                    <category><![CDATA[科学技術芸術と社会]]></category>
                                <guid isPermaLink="false">https://wirelesswire.jp/?p=92822</guid>

                <description><![CDATA[<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>最先端の知識をもち、的確な判断をし、真面目であれば信頼される？</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>様々な専門家が信頼を失っているともいわれる今日、精神科医の臨床目線から信頼について考察してみよう。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>信頼される精神科医とはどのような医師だろうか？</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>専門家としては、まずは最先端の知識を持っていることは必要だろう。「えーと、睡眠薬って、どれがいいのかな？わかんないや」と言っている精神科医には診てほしくない。最先端の知識は論文等を読んで覚えておく必要があるが、一定の記憶力（つまりはHDD/SSD）があれば対応できる。問題は、患者さんは様々な生活をしている人々なのであって、正解がないということである。「これが最先端の睡眠薬ですからこれを内服してください」というだけなら機械でもできる。しかし、持病、他の薬、就寝時間、起床時間、家族形態、就業形態等々を鑑みてこの薬がいい、という判断はなかなか難しい。それなりの頭の回転（CPU）が必要だろう。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>また個人としての資質ももちろん必要だ。患者さんのことを馬鹿にしたり、なんの共感も示さないような、人として信頼できない人には診てほしくないだろう。神は細部に宿るというが、服装だって重要だ。私が20年前に医学生だったころ病院実習である科の教授が「医師というのは多少ダサい方が信頼される。色付きのシャツとかはダメだよ。遊んでいると思われる」と言っていた。今となっては昔の価値観というべきものだが……しかし「イケメンでキラキラした医師は遊んでそうで信用できない」なんて言う意見はいまだに聞く（あくまで個人的な観察でありデータの裏付けはありません）。さらに、私が研修医時代は大学病院で「若手医師のみなさん！先生方が寝る間も惜しんで学んでいるのは分かりますが、白衣は洗濯に出しましょう。黒衣になっている人がいます」という注意があった。あまりにも不潔というのはまずいだろう（なお、私はきちんと洗濯に出していた）。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>以上を踏まえると「最先端の知識をもち、的確な判断をし、個人の欲望よりも仕事に真面目に打ち込んでいるのが信頼される精神科医だ」となるだろう。なんともつまらない。最先端のCPUとSSDを備えた、機能的でシックなデザインのパソコンがいい、みたいな感じでこの話はおしまいになってしまう。そう、「信頼される精神科医になろう」などというだけでは何かを言っているようで何も言っていないのだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>「もうよくなったので薬はやめたいです」と言われたら</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>問題は、信頼を得ることが試される局面があることなのだ。それは上記の〈専門家〉と〈個人〉の立場が相克するときである。以下は、あくまで私個人の臨床に基づいて説明しよう。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>1番目の例である。うつ病で受診した患者さん（Ａ子さん）がいたとする。Ａさんは抗うつ薬を始めるとみるみるよくなり、4週間ほどで職場に復帰した。6週間目にA子さんが「もうよくなったので薬はやめたいです」と言ってきたとする。専門家としては、絶対に止めるべきだろう。国内外のガイドラインでも1年前後は内服を継続することを推奨している。私なら「A子さん、気持ちは分かりますが、国内外のガイドラインでも少なくとも半年はきちんと内服して、維持した方がいいとされています。自分で止めてしまって、すぐに悪化して、結果的にはこじらせてしまった人を何人も知っています」と伝える。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>とはいえ、力が及ばず、「それでも止めたいのです」といわれることがある。どうすればよいだろうか？私は「A子さんはもう何を言っても考えを変えないな」と思ったら、「では、あなたの考えは尊重します。専門家として正しいと思うことは伝えましたが、あなたに強制することはできません。しかし個人としてはとても心配なので、何か不安があったらすぐに来てください」と伝えている。そのまま来ないケースもあるし（つまり楽しく生活しているのであろう、よいことだ）、再燃してすぐに駆け込んでくるケースもある。不思議なことに、数年してまた来るケースも何ケースかあった。そういう場合、なんとなく「先生、また来ちゃいました、懐かしいです」といった雰囲気なのだ。そしてその時は、こちらの言うことに素直に従ってくれるものである。長い目で見て、信頼関係ができたということだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>専門家としての判断と、常識ある個人としての感性が相克し、後者に賭けたともいえる。これにより信頼を得たといえるだろう。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>治すのが難しい症状がある患者に「よくなるよ」と言うこと</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>2番目の例である。「自分のことを悪く言っている声が聞こえてくるんです。道を歩くとベランダの上から聞こえてくる。後をつけられて悪口を言われる」「本当なんです、信じて下さい」と汗をだらだら流して青白い顔で訴えるB男さんがいたとする。これは統合失調症で間違いないだろうから「ああこれは幻聴だ、病気の症状です。あなたの頭の中で聞こえているだけだ。さっさと薬飲みましょう」というと、おそらくB男さんは悲しそうな顔をして、「いや、これは本当なんです」と帰ってしまうだろう。私なら「それは大変ですね、あなたが大変な思いをしていることは信じますよ」ときちんと信頼関係を構築してから、「たくさんの人がここにきて薬を飲んでよくなっていくのです、早く苦しみをとりましょう」と伝える。「本当？絶対によくなる？」と言われたら皆さんはどうするだろうか。「統合失調症はよくなることもあるが、難治性の人もいる。そういう人は幻覚妄想が固定化して社会機能を失っていくんです。あなたもそうかもしれません」などというのは論外だろう（たとえそれが厳然たる事実だとしても）。私だったら、若いころなら「絶対はないですが、よくなってほしいから、治療しましょう」と言っていた。最近は「うん、よくなるよ」とシンプルに言えるようになった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>このケースは専門家としての判断は揺るがない。しかし個人としての思いやりが常にコミュニケーションの形式を支配している（伝えるニュアンス、順序といったものが大事なのである）。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>ときには訴訟や暴力による脅しを受けながらも、本当のことを言わなければならない</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>3番目の例である。双極性障害の方が、躁状態で「自分はものすごい発明をした、いま数億かけてこれを商品化したら何兆も儲かる。自宅を売りたい」といって家族が連れてきたケースである。しかし発明というのは荒唐無稽なものである。医師は「あなたは躁状態で、躁状態では失うものが大きいのです。今のあなたは自宅を失おうとしています。まずは入院治療しましょう」と伝える。こういうとき何が起きるか？もちろん、とてつもなく罵倒される。躁状態では頭の回転は矢のように早いので、こちらが言われたくないことを矢継ぎ早に言ってくる。「あとで損害賠償を請求する。何兆もだ！」といわれると、訴訟恐怖症の医師は震えあがってしまう。また躁状態では睡眠もとらずに本を速読することだってできるので、「この薬は〇〇という副作用があるだろう、あんたヤブだな」とか、「日本の精神医療は入院中心で遅れてると新聞にあったよ、よく入院とか言えるな」とか、場合によってはシャドーボクシングをしながら「覚えとけよ、わかってんだろうな」などといわれるとよい気がしない（もちろん以上の記述はとても薄めて書いたものだ）。「何の因果でこんな仕事をしているんだろう、患者さんの言う通りに帰したいよ」と思うことは自然な感情だろう。とはいえ、心を奮い立たせて「あなたのその発言、行動のすべては、躁状態であることのさらなる証拠であり、あなたを今保護しないとあなたが失うものが大きいので、あなたのために入院治療が必要です」と伝えて（対決して）入院させねばならない。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>多くの場合、躁状態がおさまると「大変失礼をしました。止めてくれてありがとうございました」となるので心配することはないのだが、このようなケースは、個人の感情（例えば恐怖）をわきに置いて、専門家としてなすべきことをなさねばならない。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>このように、専門家と個人の相克が起きるときに信頼が生成されるのである。臨床家は時にどちらかに賭けねばならない。臨床は、安全地帯で批評しているのとはわけが違い、常に後戻りできない1回だけ起きる出来事であり、正解はない。1回だけの、生きるか死ぬかの、投機的な事象なのである。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>求められるのは専門家への信頼性と個人への信頼性</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>平たく言えば、専門家と個人のバランスが重要だともいえる。ハーズバーグの二要因理論をご存じだろうか。社員のモチベーションをどうやって高めるかということを説明するモデルである。職場というのは、やりがいがあってもあまりにもひどい職場環境だと人々はやめていくし、逆に給料がよくてもあまりにもやりがいがないと、やはりやめていく。前者は一部の学校の先生、後者は一部の金融業などをイメージするとよいだろう。これはつまり仕事のモチベーションはやりがい（動機付け要因）と給与など（衛生要因）の2つの要因があり、どちらもなければモチベーションはもたない。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>それは信頼でもおなじことなのだ。それを図示するとこうなる。●は専門家、■は個人の信頼の高さを表す。専門家としての信頼性が低いと、信頼はたまらない（中）、もちろん個人としての信頼性が低くても信頼はたまらない。どちらも一定水準を満たしてこそ、一定の信頼がたまる。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://wirelesswire.jp/wp-content/uploads/2026/02/p20230415-01-zu-1024x640.jpg" alt="" class="wp-image-92827"/></figure>
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<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>日本人が人を信頼しないのは、リスクの低い社会だから</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>最後に信頼について、そもそも日本人は人を信頼しないという説について述べておく。著名な社会心理学者の故・山岸俊男は「信頼のパラドックス」について興味深い分析をしている。これは日本が比較的に安心安全な社会であり、一方で米国は危険も大きな社会であるにもかかわらず、日本人には「一般的に人は信頼できる」と答える人が少ない（そして米国は高い）というパラドックスである。山岸によれば、信頼とはある危機的状況で「相手は自分と同じように考えるだろう」と「えいやっ」と考えること、つまりリスクをとるということなのだという。信頼とはすべての人を信頼するわけではなく、信頼する相手を選ぶ権利はだれもが持っているということだ。つまり戦場でも信頼は生まれる。そして日本は安心な社会だが、人々はリスクを取ろうとしないので一般的信頼は低いと説明される。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>そう考えると近年、危機にあって（原発事故、パンデミック）、信頼が醸成されないことも説明可能である。適切な専門家を正しく嗅ぎ取り（怪しげな人ではなく）その人を思い切って信頼するということは社会としてはできていないように思われた。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>考えてみれば、医療現場こそ人生のリスク場面の最たるものだろう。例えば、手術か、放射線か、抗がん剤かという選択だ。〈手術は20％の確立で完治するが、60％の確立で体は弱るし、20％の確率で死亡する〉、〈放射線は10％で完治、90％でがんがやや縮小〉、〈抗がん剤は、10％で完治、20％で重たい副作用、20％で効果なし、50%でがんが縮小〉みたいな場合だ（あくまでこれは架空の例です）。こういう時には適切な医療者（怪しげな人ではなく）を信頼しなければならないのだ。医療においては、われわれ日本人が嫌いな〈リスクをとってアクションを起こす〉という場面にいやおうなしに置かれている。民間療法（単に○○を食べるとよいといった療法）に救いを求める人は、リスクをとってアクションを起こすということを回避しているだけかもしれない。そう考えると民間療法は、痛くなく、なんとなく美味しい、生活の延長みたいなものが多いのも納得だ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>以上をまとめると、あなたが信頼されない状況では、①自分の専門家としての能力が低い（と思われている）可能性、②自分の個人の信頼が低い（と思われている）可能性、③対象者がリスクのある危機的状況に激しい恐怖心を抱いている可能性、の3つを虚心坦懐に考えてみてもよいのではと思う。<br>（岡村 毅／医師）</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<p class="has-text-color has-link-color has-small-font-size" style="color:#333333">（当記事はModern Times 2023年4月に公開された記事の再掲載です）</p>
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                <title>江戸の御用調達商人による流通支配で地方の森林資源に打撃　徳川林政史研究所『森林の江戸学』を読む（前編）</title>
                <link>https://wirelesswire.jp/2026/02/92789/</link>

                <dc:creator><![CDATA[森林循環経済編集部]]></dc:creator>
                <pubDate>Feb 25 2026 21:00:00 +0000</pubDate>
                                                    <category><![CDATA[森林循環]]></category>
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                <description><![CDATA[<!-- wp:paragraph -->
<p>私は<a href="https://forestcircularity.jp/2025/05/num-027/" target="_blank" rel="noreferrer noopener external" data-wpel-link="external">コンラッド・タットマンの著書</a>を読んで、日本の森林は江戸時代初期の乱伐でほぼ崩壊してしまったが、我々の先祖たちが叡智を結集して全国的にそれを復活させたという育成林業成立の物語を知った。その軌跡は世界史的にも極めて貴重であるらしい。もう少し、そのことを知りたい。そんな気持ちに応えてくれる一冊が徳川林政史研究所の『森林の江戸学』（東京堂出版、2012年）である。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading">島崎藤村も所蔵資料を利用し執筆</h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>徳川林政史研究所とは、その名の通り尾張徳川家の子孫の方が大正時代に設立した民間研究所である。江戸時代の林政に関わる資料を幅広く収集管理し、それらを利用しつつ江戸時代から現代に至る全国各地の森林の歴史を産業史あるいは政策史の観点から調査研究し発表している。作家の島崎藤村は同研究所に足繁く通い、所蔵資料を利用して『夜明け前』を執筆したのだそうだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>『森林の江戸学』は総論にあたる「概説編」、各論あるいは辞典としても読める「基礎知識編」の二部構成である。太田尚宏氏が執筆した概説編の流れは「乱伐と抑制の17世紀」「植林と育成の18世紀」「保続と活用の19世紀」であり、タットマンの著書と大きくは変わらない。そして現代林業の課題まで視野に入れた熱量の高い論考である。以下ではその「概説編」を中心に、私が強い印象を受けた箇所をいくつか紹介したい。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading">17世紀における鬼のような林産物市場化</h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>秀吉と家康による全国統一は、物財の全国的な流通網整備を促進した。これは木材も同様で、17世紀には城下町の発展や人口増、寺社などの社会資本整備、そして木造都市における火災の頻発などにより全国を結ぶ木材流通は拡大の一途を辿った。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>流通を担う産業も発展した。大消費地である江戸、大坂、名古屋などに材木商が現れ、大規模な公共事業（寺社の新規建立など）の造営材調達を請け負う「御用調達商人」として幕藩と関係を深め成長した。その代表例が紀伊國屋文左衛門（紀文）で、幕府要人への貸付けなどで幕閣との関係を結び、江戸城修築や寺社造営の御用材調達を請け負った。バブル経済とも言える元禄時代（1688-1704年）、その活動は頂点に達したようである。しかし流通資本が森林資源を仕切ることには大きな弊害があったと本書は指摘する。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>その一例が紀文による元禄5年（1692年）からの大井川上流（静岡県）における御用請負である。この時、紀文は伐木・造材を行う「杣（そま）」や運材を担当する「日用（ひよう）」と呼ばれる職人たちを、すべて自分たちが雇用した他所者で固めてしまい、利益の地元還元を行わなかった。地域事情を知らない杣や日用は、老齢の巨木だけでなく将来の森林維持のために必要な若木まで伐採した可能性があると本書は指摘する。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>別の江戸木材商人が飛騨地域で請け負った伐り出しには地元の村々が強硬に反対した。その腹いせに江戸商人は、御用材だけではなく、請負内容にはない売木の伐り出しまで行い、小木・苗木まで悉く伐り捨てたという。このため飛騨国内では、請負終了後の山々を留山（伐木禁止）にせざるを得ないほど、森林資源が大きな打撃を受けたと本書は記す。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>木材の全国的な流通網の発展期において、このように傍若無人な政商たちの振舞いがあったこと、その結果、日本の森林資源が大きな損失を被ったことは認識しておいてよい。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading">「山林書」は地方行政官が執筆した</h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>育成林業の全国的な普及には、各地域で編纂された植林の技術書である「山林書」の存在が大きかった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>元禄期以降、小農経営をより充実させる目的で農産物の栽培技術を記した「農書」が多数登場した。その著者には農民出身者が多かった。林業も当初はその中で扱われた。代表例に宮崎安貞『農業全書』がある。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>その後、林業を単独で扱う「山林書」が現れたがその数は少ない。事例として、輪伐を詳しく論じた萩藩『弍拾番山御書付』、亜熱帯林の天然更新などを扱った琉球王国の『林政八書』、寒冷地でのスギ植林方法を記した盛岡藩の『山林雑記』、実生苗の育成方法に詳しい黒羽藩の『太山の左知』などがある。これらの各藩は、地域の自然・社会・市場などの条件に合わせた造林や計画的な伐採に関する技術を、体系的に記したのである。黒羽藩の場所は現在の栃木県大田原市周辺である。同藩は植林先進地域である吉野（和歌山県）の技術も参照しながら、安易に模倣せず地域特性に適した技術の確立を目指したとされる。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>山林書の編纂は、このようにもっぱら地方行政（藩）が担っていた。これは立派な地域産業政策であり、結果として山林が全国的に復活したとすればボトムアップの取り組みは大成功だったといえるだろう。なお徳川林政史研究所は、幕府や藩の統制のもとに御用材生産を行う「領主的林業地帯」、具体的には東北地方や中部地方の事例が研究の中心である。このため「山方農民」が担い手となった吉野、尾鷲、青梅、西川などの「農民的林業地帯」に関しての記述は少ないという断り書きが「はしがき」にある。この点は留意が必要かもしれない。（プラチナ構想ネットワーク理事　長澤光太郎）</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p><strong>■関連サイト</strong><br><a href="https://www.tokyodoshuppan.com/book/b97267.html" target="_blank" rel="noreferrer noopener external" data-wpel-link="external">徳川の歴史再発見　森林の江戸学（東京堂出版）</a></p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>※『森林循環経済』<a href="https://forestcircularity.jp/2025/06/num-051/" target="_blank" rel="noreferrer noopener external" data-wpel-link="external">2025年6月18日</a>の記事を転載しました。<br>※森林×循環経済×地域の専門メディア『森林循環経済』から、産業・政策・研究・地域をつなぐ専門知と最新事例を毎週厳選配信→ <a href="https://forestcircularity.jp/newsletter/" target="_blank" rel="noreferrer noopener external" data-wpel-link="external">ニューズレター登録（無料）</a></p>
<!-- /wp:paragraph -->]]></description>

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