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        <title>WirelessWire &amp; Schrödinger&#039;s</title>
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                            <item>
                <title>量子論で人間を考え直す／生命・認知・AIを貫く Quantum Thinking</title>
                <link>https://wirelesswire.jp/2026/04/93371/</link>
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                <dc:creator><![CDATA[シュレディンガーの水曜日事務局]]></dc:creator>
                <pubDate>Fri, 17 Apr 2026 06:15:10 GMT</pubDate>
                                                    <category><![CDATA[物質知性]]></category>
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                <description><![CDATA[今回は、量子論と哲学のあいだに見いだされる構造的な響き合い、身体をもつAIにおける間主観性の問題、そして量子的な発想を単なる比喩に終わらせず、反証可能な研究や実機実験へどう接続するか、という論点が立ち上がります。前半の話題提供、後半の討論を通じて、量子論をただ物理学の外へ拡張するのではなく、人間を理解するための新しい記述原理としてどこまで鍛えられるのかを、参加者のみなさんと一緒に考えます。]]></description>
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                    <![CDATA[<!-- wp:html -->
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<!-- wp:paragraph -->
<p>メインコーディネータ＆キャスターの入來篤史先生（（帝京大学 先端総合研究機構 ／理化学研究所）からいただいた5月13日開催の「シュレディンガーの水曜日」の趣旨をご紹介させていただきます。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<!-- /wp:separator -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>量子論は、もともとミクロな物理現象を記述する理論として生まれました。しかし近年、その考え方や数理を手がかりに、生命、認知、社会、AIの複雑な現象を捉え直そうとする試みが広がっています。もちろん、それは人間や社会を「神秘的」に説明するための便利な比喩ではありません。ここで問いたいのは、古典的な因果や確率だけでは捉えきれない、生命のゆらぎ、身体のはたらき、他者とわかり合うこと、意味が立ち上がる過程、そしてAIとの関係を、別の数理と言葉でどこまで考え直せるのか、ということです。前回の「<a href="https://wirelesswire.jp/2026/01/92426/" target="_blank" rel="noreferrer noopener" data-wpel-link="internal">シュレディンガーの水曜日</a>」で示された生命と認知への視座を受け、今回はその射程をさらに「人間」へと広げます。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>近代科学は、世界を対象へと切り分け、要素に分解し、因果関係を明晰に記述することで、大きな成果を上げてきました。その一方で、私たちが実際に生きている世界は、それだけでは収まりません。人はつねに環境の中に身体をもち、他者との関係のなかで感じ、迷い、解釈し、決断しています。こうした多層的で文脈依存的な営みをどう捉えるかは、哲学、認知科学、人文学、AI研究に共通する大きな問いです。最新の『認知科学』第33巻第1号特集「<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/browse/jcss/33/1/_contents/-char/ja" target="_blank" rel="noreferrer noopener external" data-wpel-link="external">人文学の新しい次元：量子論のメガネで覗く</a>」 も、こうした問題意識と響き合うものとして参照できます。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>今回は、量子論と哲学のあいだに見いだされる構造的な響き合い、身体をもつAIにおける間主観性の問題、そして量子的な発想を単なる比喩に終わらせず、反証可能な研究や実機実験へどう接続するか、という論点が立ち上がります。前半の話題提供、後半の討論を通じて、量子論をただ物理学の外へ拡張するのではなく、人間を理解するための新しい記述原理としてどこまで鍛えられるのかを、参加者のみなさんと一緒に考えます。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>物理や数理の専門知識は前提ではありません。生命とは何か、人間とは何か、わかるとはどういうことか、AIは他者になりうるのか。そうした問いに関心のある方にこそ、開かれた会になるはずです。前回から引き続き参加される方には、生命から人間へと議論がどう展開していくのかを追う場として、そして今回初めて参加される方には、新しい知の入口として、広くご参加いただければ幸いです。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<hr class="wp-block-separator has-alpha-channel-opacity dotted-line"/>
<!-- /wp:separator -->

<!-- wp:paragraph {"className":"pb-xl"} -->
<p class="pb-xl">今回は入來先生のイントロダクションを皮切りに、Quantum-Like な理論を追究する専門家3名から話題提供いただき、後半、いつものシュレディンガーな皆様にも参戦いただきディスカッションします。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading">開<strong>催概要</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:table {"className":"event mb-s"} -->
<figure class="wp-block-table event mb-s"><table class="has-fixed-layout"><tbody><tr><th>名称</th><td><strong>「シュレディンガーの水曜日」量子論で人間を考え直す／生命・認知・AIを貫く Quantum Thinking</strong></td></tr><tr><th>開催日時</th><td>2026年5月13日（水） 19:00～21:00</td></tr><tr><th rowspan="5">アジェンダ<br>（敬称略）</th><td><p class="mb-s lineheight-m"><strong>イントロダクション<br>入來篤史：<small>帝京大学 先端総合研究機構 AI活用部門 特任教授／理化学研究所 数理創造研究センター 量子数理科学チーム 客員研究員</small></strong></p><img src="/wp-content/uploads/2026/04/iriki.webp" alt="入來篤史" width="" height="" class="mb-xs"></td></tr><tr><td><p class="mb-xs lineheight-m"><strong>量子計算機は人文・社会・自然科学にどのような影響をもたらすか〜量子反証可能性を軸にした実機実験によるアプローチ〜<br>江守陽規：<small>北海道大学大学院情報科学研究科D3 / 理化学研究所iTHEMS JRA</small></strong></p><p class="mb-s lineheight-m"><small>専門は量子情報理論および量子基礎論。量子力学の原理に従う命題は，同じく量子力学の原理に従って動作する制御装置（系）によってのみ、真に反証する能力を持ち得るという「量子反証可能性」の概念をもとに、量子計算機による実験に関する研究を行っている。近年は，認知科学などへ応用がひろがる汎量子モデルの量子計算機による実験に興味がある。</small></p><img width="" height="" class="mb-xs" src="/wp-content/uploads/2026/04/emori.webp" alt="江守陽規"></td></tr><tr><td><p class="mb-xs lineheight-m"><strong>量子論と哲学のあいだに見いだされる構造的共鳴のいくつかの事例：田邊元とステファン・リュパスコ<br>近藤和敬：<small>大阪大学大学院人間科学研究科・教授</small></strong></p><p class="mb-s lineheight-m"><small>フランス科学認識論（エピステモロジー）を軸に、科学と数学の哲学を研究する。近年はオーソモジュラー束（OML）を手がかりとした「文脈の論理」の数理的構築と、「問題論的-実在論」の立場からの認知・社会性・歴史に関する哲学的研究を並行して進めている。</small></p><img width="" height="" class="mb-xs" src="/wp-content/uploads/2026/04/kondo.webp" alt="近藤和敬"></td></tr><tr><td><p class="mb-xs lineheight-m"><strong>量子LLMの可能性を考える：「語る言葉」と「エージェンシャル・カット」の概念を手がかりに<br>田中彰吾：<small>東海大学文明研究所・所長</small></strong></p><p class="mb-s lineheight-m"><small>現象学的身体論を背景に、認知科学と哲学に関する研究を行っている。近年は、量子論から身体と言語を捉え直す、新たな存在論を構想している。</small></p><img width="" height="" class="mb-xs" src="/wp-content/uploads/2026/04/tanaka.webp" alt="田中彰吾"></td></tr><tr><td><p class="mb-xs lineheight-m"><strong>ディスカッション＆ラップアップ</strong><br>（原正彦先生、桜田一洋先生を始めとするいつものシュレディンガーな人たちも加わります）</p></td></tr><tr><th>参加方法</th><td><strong>Zoomウェビナー（Webinar）を利用したオンラインイベントです。</strong><br><a href="https://us02web.zoom.us/webinar/register/WN_ynNvB8ppSQee-rcr_Q1gCQ" target="_blank" rel="noreferrer noopener external" data-wpel-link="external"><strong>お申し込みはこちらから</strong></a></td></tr><tr><th>参加料</th><td><strong>無料</strong></td></tr><tr><th>申込期限</th><td><strong>2026年5月13日 （水）の午前11時まで</strong></td></tr><tr><th>主催</th><td>シュレディンガーの水曜日編集委員会／スタイル株式会社</td></tr></tbody></table></figure>
<!-- /wp:table -->

<!-- wp:paragraph {"className":"mb-xxl"} -->
<p class="mb-xxl">※プログラムの内容・時間などは予告なく変更となる可能性があります。ご了承ください。</p>
<!-- /wp:paragraph -->]]>
                </content:encoded>

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            </item>
                    <item>
                <title>大変なのは入浴の介助ではない。介護者を苦しめる「名もなき介護」</title>
                <link>https://wirelesswire.jp/2026/04/93308/</link>
                                    <media:thumbnail url="https://wirelesswire.jp/wp-content/uploads/2026/04/p20260413_okamura1.jpg" />
                
                <dc:creator><![CDATA[岡村 毅]]></dc:creator>
                <pubDate>Thu, 16 Apr 2026 21:00:00 GMT</pubDate>
                                                    <category><![CDATA[科学技術芸術と社会]]></category>
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                <description><![CDATA[未熟さが家族システムを生みだし、繁栄に成功した人類。高齢者が増えたことはどう作用するのか 知能と身体は切っても切り離せない関係だという。このことは、知能が単なる情報処理・演算装置ではないことを意味している。例えば、ヒトは [&hellip;]]]></description>
                <content:encoded>
                    <![CDATA[<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>未熟さが家族システムを生みだし、繁栄に成功した人類。高齢者が増えたことはどう作用するのか</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>知能と身体は切っても切り離せない関係だという。このことは、知能が単なる情報処理・演算装置ではないことを意味している。例えば、ヒトはヒトから生まれるので親がいる。「親機」「母なる大地」「父なる神」なんて言葉もある。ここにはより包括的な意味がこめられている。AIにはそのような意味での親はいない。AIは「親」の概念を私たちのように理解することができるだろうか。さらには、AIは私たちと同じような感覚で「家族」という概念を捉えることができるのか。ヒトは子供が非常に未熟な状態で生まれてくるからこそ家族を作り、無力な子供をかわいがる。それが共感を生む。これこそが地球を支配するようになったヒトの強みだという説もある。家族システムは幼少期をもつヒトのもつ力の根源ともいえるだろう。高齢者が増えた現代社会にあっては、高齢者と家族システムをどのように理解すればよいのだろうか。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>東京都健康長寿医療センター研究所には、高齢者の家族問題に公衆衛生の視点からアプローチしている涌井智子先生がいるので、日ごろの疑問などを聞いてみた。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>個人主義者が多い精神科医。家族のことはあまり考えない？</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>岡村：精神科は診察室で個人の究極的な実存と対峙することになります。そして個人の悩みの非常に多くが家族関係の悩みです。しかし精神科医的な思考は、人間は家族や国家といった所与のものから自由であるというもの。大事ではあると思いつつも、家族そのものについてあまり考えたことがありませんでした。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>涌井：そうなんですね。ドクターは科によってずいぶん違うんですね。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>岡村：はい、全然違います。例えば精神科医は大学でもチームでランチなんて行きません。食事くらいは好きにさせてよと思うわけです。一方で外科はいつもみんなでランチです。私に言わせれば、食事時まで一緒にいるなんて耐えられない。まあ仕事内容が違うので、いろいろ事情があることはわかっています。批判するつもりはないです。とはいえ精神科医がもっとも個人主義であることは確かだと思います。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>認知症界隈で言いますと、精神科医は社会のあらゆることに興味があり、学生時代も大学に寄り付かない人が多いですね。体制、権力、国家が大嫌いって人が多いかな。一方で脳神経内科は、神経系という複雑怪奇なシステムの探究者ですから、学生時代は成績上位者ばかりです。とにかく頭がいい。老年内科医は、バランスがいい穏やかな人が多いです。これも当たりまえで、老年内科は循環器、消化器、呼吸器、泌尿器、神経系、さらに精神的なことなどあらゆることに対応しますからバランスがよくなるわけです。脳外科は、マイクロサージャリー（顕微鏡下の手術）から頭蓋底のダイナミックな再建術までありますから、体力的にも実は大変な科です。マインドは外科ですよね。とはいえ消化器などに比べると、「ランチは別」という人が多い気がする。やはり脳に興味があるわけで、個人主義の色があるんでしょうね。以上は個人的な意見ですよ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>涌井：なるほど。ところで、今日はこんな話でいいんでしたっけ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>岡村：真面目な話に戻りましょうか。昨年度、涌井先生と私は厚労省に採択されて協働の調査プロジェクトを行いました。高齢者の家族の介護者の研究をしたわけですが、出てきた調査結果に私は衝撃を受けました。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>涌井：どのあたりにですか？</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>岡村：家族会に行っている人がほとんどいなかったところです。家族介護者は離職などで社会から徐々に離れてしまい孤立していくリスクがあるのですが、私は家族会という互助がそれを解消できると思い込んでいました。医者や専門職といったひとが外から（あるいは口の悪い人は「上から」というでしょうが）働きかけてもなんともしがたいが、ピアサポートが解決につながるんだと素直に信じていたわけです。でも家族会に行っていた人が3％というのはどういうことなんでしょうか？</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>涌井：それは専門家から見たらそれほど意外でもないですよ。まず介護者と言っても、働いている人が多いですし、男性も少なくありません。決まった時間に集まるというのは物理的に難しくなりつつあるのです。また知識についてはインターネットで得ることができます。家族会はとても大切な社会の機能ですが、時代の変化によって利用者が少なくなっていったようです。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>岡村：なるほど。私は古い考えのなかに取り残されていたようです。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>介護の大変さは、入浴や排泄の介助ではない</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>岡村：今回の調査から、高齢者の家族介護者の方のリアルな様子が浮かび上がりました。介護の大変さは、入浴や排泄の介助ばかりではないということです。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>涌井：そうなんです。入浴や排泄の介助は大変ですが、ここは介護保険制度に頼れる領域ですから、専門職の助けを借りることができます。問題はアウトソースできないところにあります。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>岡村：具体的にはどのあたりが問題となっているのでしょう。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>涌井：例えば、高齢者がどこまで自分でできるのか、どこから先ができないのかを観察しながら見守ることです。常にアセスメントして、やり過ぎないように、やらなさすぎないようにします。<br>迷子になってしまったら警察が助けてくれますが、迷子にならないようにいつも気を付けるのは介護者です。こういった「見守り」はずっとし続けなければなりませんし、失敗しないことが当たり前で、成果が分かりにくく、とにかくとても疲れます。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>岡村：なるほど、見守りですか。それは肉体的にというより、精神的な負担が大きそうです。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>涌井：また、療養の方針を介護者が医師やケアマネと話して決めてしまえば話は早いのですが、介護者はあくまで本人が話すのを手伝うという優しいスタンスでいることが少なくありません。「通訳」と表現された方もいます。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>岡村：確かに医療や介護の制度は分かりにくく、本人が納得するまでに時間がかかることがあります。制度が理解できず、要介護者が医師やケアマネではなくて家族に怒る場面もありますね。でも介護者は「うん、うん、自分が聞いておくよ、ごめんね」と受け止めていらっしゃる。疲れますよね。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>ちょっとした調整や環境整備。「名もなき介護」が介護者を苦しめる</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>涌井：あとは、家の中のものをいろいろな場所に移動してしまうので、元に戻すのが大変だという話もありました。エアコンを切ってしまうとか。いわゆる行動心理症状（BPSD）の範疇なのですが、不眠とか多動といったものと違い、もっと生活に密着しており、同居者が地味に困ることですよね。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>岡村：確かに、病院の診察室で出てくる話題とだいぶ違いますね。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>涌井：環境を整えることも負担になります。移動ができなくなってきたから椅子をキャスター付きのものに買い替えるなど、本当にそういった細かなことです。あるいは介護者が仕事をしている場合、日中一人で自宅にいる高齢者の体調が急に悪くなったときに誰に頼めばいいのかを考え、近所の人にひとこと言っておくとかいった調整ごとも含まれます。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>岡村：なるほど、それは考えたことがなかった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>涌井：認知症の人のケアと言っても、症状があり、それが大変な場合は「医療」にかかることができます。しかしこれは氷山のてっぺんです。その下には、様々な介護があります。入浴や排泄の介助は大変ですが、介護保険がカバーしてくれます。ここは氷山の本体でしょう。ここまでがこれまで世間に認知されている領域です。しかし氷山には見えないところがありますよね。それが今回の調査で見えてきた「見守り」、「コミュニケーション支援」、「日常生活の中のBPSD」、「環境整備」といった、毎日の生活として途切れることなく続き、家族介護者でなければできないことで、しかも周りからは見えにくいものです。「よくやっているね」とか「大変だね」と言われることもないのです。私たちはこれを『名もなき介護』と名付けました。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>岡村：ああ、名もなき家事に対応しているのですね。ちょっとした、名前もない家事だけど、なぜか女性がやらされているというあれですね。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>徐々に弱っていった場合、介護者はそれが介護だと気づかない</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>涌井：また実際には介護をしていても、本人がそれを介護だと思っていないという問題もあります。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>岡村：どういうことですか。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>涌井：例えば、奥さんが徐々に弱ってきて、夫が徐々に身の回りの世話をしています。「これまで世話になったしな、これくらいはしないと」というわけです。「人が家に入ってくるのも気を使うし」ということで介護保険の申請などもしていません。ところが、奥さんの衰弱は進み、世話も徐々に大変になってきます。ある日突然始まる介護もありますが、特に高齢夫婦の場合など、徐々に支援が増えていって、さらにはそれが過去のお二人の生活の延長上にある場合、それが介護だとは思っていないケースがあるのです。調査中に出会ったあるご夫婦は外に助けを求める機会を逸してしまい、かなり大変な状況になっていました。我々が『これは大変な介護ですよ』と伝えたことで、地域包括支援センターと一緒に翌日行って介護保険が始まりました。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>人類は家族から自由になれるか</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>岡村：家族の介護というのは大変ですね。私は常々人類は家族とか、宗教とか、そういった所与のものから自由になるという大きな物語をもっているのではと思っていました。西洋社会では家族はかなり解体され、性別までもが自由になりつつあるように思います。自由を愛する精神科医としてはそれは人類の進化なのだと思うのです。家族はいずれなくなってしまうのでしょうか？</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>涌井：それは違いますね。家族は絶対なくならないと思います。家族が弱くなれば、コミュニティ、ひいては国も弱体化します。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>岡村：先生は米国で学ばれて、リベラルな研究者と思っていたのですが、意外ですね。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>涌井：まず米国では家族の価値は絶大です。社会保障が弱いということもありますが。また移民の方や、在米の外国にルーツを持つ人々も、家族どころか同じ出身地だということで、助け合っています。中国系の人の家族意識もとても強いですね。家族どころか血縁者はどこまでも助け合います。<br>日本は家族の結びつきが強いというイメージはありますが、実際にはそれほどでもない。これは、いいとか悪いとかいう話ではなく事実としてそうなっているということです。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>岡村：精神科医としては、問題行動の多い親の元に生まれたことが原因となって苦労をし続ける患者さんをたくさん診てきました。そうなると家族は「縛り」のようにも感じます。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>涌井：家族やファミリーと言っても、もう少し掘り下げてもいいかもしれません。現代日本では、比較的血のつながりが重視されます。一方で米国の「ファミリー」はもっと風通しが良い。いやならやめればいい、一緒に過ごしたから仲間だ、みたいな。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>岡村：確かに。それは文芸やエンタメにも現れている気がします。『鬼滅の刃』は家族の価値が反復して語られる物語です。その中に、敵の鬼が「鬼同士のニセ家族」を形成しており、主人公が「ヒトと鬼だが本物の兄妹」で、もちろん主人公が勝つというエピソードがありました。血の濃さが強調されているように感じます。鬼の側も、実はラスボスの悪の血でつながっているという倒錯があります。太古の昔から繋がっている本物の血の継承である聖家族対、欲でつながった悪の血の繋がりであるニセ家族という対比ですね。一方でアメコミのバットマンとロビンは血縁がない。ここだけ取り上げるのも公平ではないかもしれませんが。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>あと是枝監督の「万引き家族」や「ベイビーブローカー」は、日本や韓国が舞台ですが、血縁関係がないが繋がっている「ファミリー」の話です。日本は、血縁家族からファミリーへと価値観が揺れているのかもしれない、などと考えてしまいます。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>涌井：そういえば今回の調査でも、家族ではない人が、高齢者のケアをしていた事例がありましたよね。昔かわいがってもらったとか、大変世話になった人の配偶者だ、とかそういう「信頼」の物語が語られました。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>岡村：カラマーゾフの兄弟も、ゴッドファーザーも、エヴァンゲリオンも、すべて家族の物語ですから、家族に関することは人類の最大の課題なのかもしれませんね。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>うかがった話はここまでである。<br>まず高齢家族への介護に関する問題は、問題が問題として認識されていないことにある。これはどうにかして表面化させなければならない。課題であることが多くの人に伝われば、解決策が見えてくる。例えば、勝手にエアコンを切ってしまう問題などはすでにあるテクノロジーを組み合わせれば解決するだろう。迷子にならないようにする施策もすぐに出てくるはずだ。こうして「名もなき介護」を一つずつ減らしていけばいい。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>一方で、家族に関する問題は「解決」が難しい。現代のように様々な側面で「個」が重視される社会においては、「家族とはよいもの。助け合うのが当たり前」という前提（＝縛り）を捨てて、家族の在り方をもっとオープンに議論し考えていくことが重要だ。家族とは「形成されるもの」という前提に立つことができれば、家族間の課題が明確になるため、解決策を見出すことができるかもしれない。人としての根本を問う問題への解決策は簡単には出せないが、負担となる事象が明らかになっていけば、それに対するアプローチは可能になっていくだろう。（岡村 毅／医師）</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>取材協力：涌井智子</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<div class="wp-block-columns"><!-- wp:column -->
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<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://wirelesswire.jp/wp-content/uploads/2026/04/tomokowakui20230602-1024x892.jpg" alt="" class="wp-image-93309"/></figure>
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<!-- /wp:column -->

<!-- wp:column -->
<div class="wp-block-column"><!-- wp:paragraph -->
<p><strong>涌井智子</strong><br>地方独立行政法人東京都健康長寿医療センター（東京都健康長寿医療センター研究所）研究員。<br>公衆衛生学・老年社会科学を専門とし、要介護高齢者とその家族が、介護を担う生活の中で抱える様々な課題を研究テーマにしている。特に、介護を担う家族の負担感やソーシャルサポートといった研究をベースに、近年は介護者支援を目的とした介護生活マネジメントプログラムを開発中。</p>
<!-- /wp:paragraph --></div>
<!-- /wp:column --></div>
<!-- /wp:columns -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>（当記事はModern Times 2023年6月に公開された記事の再掲載です）</p>
<!-- /wp:paragraph -->]]>
                </content:encoded>

                <post-id xmlns="com-wordpress:feed-additions:1">93308</post-id>
            </item>
                    <item>
                <title>【提言】森林資源で燃料・化成品を国産化するバイオエコノミー戦略　中東リスクで浮上した原料課題と森林循環経済のロードマップ</title>
                <link>https://wirelesswire.jp/2026/04/93324/</link>
                                    <media:thumbnail url="https://wirelesswire.jp/wp-content/uploads/2026/04/p20260406_teigen1.jpg" />
                
                <dc:creator><![CDATA[森林循環経済編集部]]></dc:creator>
                <pubDate>Wed, 15 Apr 2026 21:00:00 GMT</pubDate>
                                                    <category><![CDATA[森林循環]]></category>
                                <guid isPermaLink="false">https://wirelesswire.jp/?p=93324</guid>

                <description><![CDATA[ホルムズ海峡を巡る中東情勢の不安定化は、化石燃料を海外に依存する日本のエネルギー・経済安全保障の脆弱性を改めて浮き彫りにした。資源確保や脱炭素への抜本的な構造転換が急務となる中、日本が豊富に有する「森林資源」を燃料や化成 [&hellip;]]]></description>
                <content:encoded>
                    <![CDATA[<!-- wp:paragraph -->
<p>ホルムズ海峡を巡る中東情勢の不安定化は、化石燃料を海外に依存する日本のエネルギー・経済安全保障の脆弱性を改めて浮き彫りにした。資源確保や脱炭素への抜本的な構造転換が急務となる中、日本が豊富に有する「森林資源」を燃料や化成品の原料として活用し、国内生産基盤を構築する構想が本格的に動き出している。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>一般社団法人プラチナ構想ネットワーク（小宮山宏会長）は「国内森林資源を活用した成長戦略型バイオエコノミーの推進」を4月2日に発表した。脱炭素化と経済成長を両立させる「森林循環経済」のビジョンを示した上で、コスト高や市場未形成といった課題をいかに乗り越え、ビジネスとして社会実装していくかについて、現実的なロードマップを提示している。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading">【提言骨子】「E10」を突破口に、規制で初期市場を創出</h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>国内におけるバイオマス資源活用の最大の課題は、既存の化石燃料に対する価格競争力の欠如と、それに伴う需要の不確実性である。この壁を突破するため、大きく4つの骨子からなる推進アプローチを提示している。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>第一の骨子は、市場原理に委ねる努力目標ではなく、一定割合の利用を「規制」することによる確実な初期市場の創出である。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>第二に、社会実装の起点として、サプライチェーンが比較的単純な「車両燃料」をターゲットに据え、ガソリンにバイオエタノールを10％混合する「E10」の早期導入を第一弾のアクションとする。燃料分野で需要を創出して生産基盤を確立し、将来的には化成品へと段階的に利用を拡大していく戦略だ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>第三は、国産バイオ燃料・化成品の一定割合使用を後押しする「規制・支援策」である。国産品の利用インセンティブ設計に加え、生産設備転換等の新規投資支援、実証に向けた規制緩和などを通じて、民間企業が設備投資に踏み切れる環境を整備する。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>第四は、ゼロからの設備投資を回避し、既存の「製紙産業と石油化学産業の基盤」をフル活用する点にある。全国に点在する製紙工場が既に構築している木材集荷ルートや製造設備を活用して、国産バイオエタノールの量産化を進める。製紙工場をバイオリファイナリー拠点へと構造転換させ、既存の石油化学コンビナートと連携させることで強固なサプライチェーンを構築し、木質バイオマス資源で日本の産業を支える。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":93326,"sizeSlug":"large","linkDestination":"none","align":"center"} -->
<figure class="wp-block-image aligncenter size-large"><img src="https://wirelesswire.jp/wp-content/uploads/2026/04/p20260406_teigen1-1024x534.jpg" alt="" class="wp-image-93326"/><figcaption class="wp-element-caption">出典：プラチナ構想ネットワーク</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading">【ロードマップ】2050年「脱・化石資源」へ段階的アプローチ</h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>提言では、2030年・2040年・2050年を区切った段階的ロードマップを提示している。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>2030年までの「短期フェーズ」は、規制と政府支援によって強制的に初期市場を立ち上げる期間と位置づけられる。車両燃料では特定地域での先行導入を経て全国で「E10」を導入し、国内製造エタノールを10％混合する体制を確立する。同時に、航空分野ではSAFの混合義務化をスタートさせ、化成品分野でも200万トンのバイオプラスチック導入を法的枠組みとともに進める。この期間は、ガソリンスタンドの改修や既存工場の転換に対する国からの設備導入補助など、官民の集中投資が促される。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":93327,"sizeSlug":"large","linkDestination":"none","align":"center"} -->
<figure class="wp-block-image aligncenter size-large"><img src="https://wirelesswire.jp/wp-content/uploads/2026/04/p20260406_teigen2-1024x467.jpg" alt="" class="wp-image-93327"/><figcaption class="wp-element-caption">出典：プラチナ構想ネットワーク</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>2030年から2040年への「中長期フェーズ」は、確立したインフラをテコにバイオ産業を自立した成長産業へと押し上げる期間である。車両燃料は「E20（エタノール20％混合）」へと基準が引き上げられ、航空分野のSAF混合比率も35％まで高められる。化成品分野でもバイオプラスチックの導入量を500万トンへと一気に拡大し、経済性を確保していく。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>そして2050年に向けた「最終フェーズ」では、車両燃料の「E100」導入やSAFの70％混合を経て、段階的に「化石資源由来ゼロ」のネットゼロ社会を達成する。リサイクルとバイオ資源のみで化学産業の原料供給を100％賄い、エネルギー分野でも化石資源ゼロを目指すというこのロードマップは、企業が巨額の設備投資リスクを取るための極めて強力な後ろ盾となる。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading">【実装事例】製紙から化学・商社まで広がる連携</h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>この需要創出のシナリオを背景に、各産業界による具体的な実証や事業化に向けた動きが進んでいる。「プラチナ森林産業イニシアティブ」には、2026年4月時点で法人71社を含む109の団体が参画し連携している。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>サプライチェーンの中核を担う製紙業界において、王子ホールディングスは鳥取県の米子工場に、年間最大1000キロリットルの木質由来エタノールの製造能力を持つパイロット設備を2025年に竣工した。2030年には年間10万キロリットルの商用生産を目指し検討を進めている。また、日本製紙も2030年ごろをターゲットに数万キロリットル規模の国産材由来バイオエタノールの製造開始を計画し、SAFなどの原料としての利用を見込んでいる。レンゴーの子会社である大興製紙も、建築廃材などの未利用バイオマス資源を活用し、2027年までに年間2万キロリットルのバイオエタノール生産を目標とした商用化準備を進めている。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>化学・エネルギー・商社を巻き込んだ連携も活発化している。三菱ガス化学はTREと提携し、千葉県で木質バイオマスなどを活用したグリーンメタノール製造の商業化を目指す検証を開始した。さらに、丸紅、三菱ケミカル、中国木材、日本航空、大林組の5社は、国内の森林資源からSAFやバイオナフサを製造する事業について、2030年ごろの商用化に向けた共同検討を進めている。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading">【試算】4.7兆円の経済効果と1億トンのCO2削減。林業を「稼ぐ産業」へ</h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>この森林資源フル活用構想は、初期段階における臨海部の製紙工場を活用するモデルからスタートし、中長期的には全国の森林地域において大規模林業・製材工場・バイオプラントを一体化して展開する「地域分散型モデル」へと移行していく。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":93329,"sizeSlug":"large","linkDestination":"none","align":"center"} -->
<figure class="wp-block-image aligncenter size-large"><img src="https://wirelesswire.jp/wp-content/uploads/2026/04/p20260406_teigen3-1024x498.jpg" alt="" class="wp-image-93329"/><figcaption class="wp-element-caption">出典：プラチナ構想ネットワーク</figcaption></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>現在の4倍の森林資源を活用し、伐採と再造林のサイクルを確立するこのビジョンが実現すれば、日本全体の約10％に当たる約1億トンのCO2排出量が削減される。同時に、輸入資源の削減効果や花粉症対策効果なども含め、約4.7兆円の直接経済効果が出ると試算している。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>需要の確実な創出は、林地の集約化や機械化、林道整備といった上流のインフラ投資を促し、日本の林業を儲かる産業へと転換させる力を持つ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading">森林資源は「安全保障資源」になり得るか</h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>森林資源の活用は、エネルギー安全保障、産業競争力、地域経済という複数の政策領域を横断するテーマである。今回の提言は、その接続を具体的な産業設計として提示した点に意義がある。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>一方で、その実現は制度設計、コスト負担、産業構造転換という高いハードルを伴う。中東リスクを契機に浮上した資源自立の議論は、森林資源を起点とする産業再設計へと進むのか。それともコストと供給制約の壁に直面するのか。政策判断と企業投資の動向が、その現実性を決定づける。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>高市首相が議長を務める「日本成長戦略会議」では、17の成長分野の一つとして「合成生物学・バイオ」が取り上げられ、検討が進められている。今回の提言にある国産バイオ燃料・化成品の生産・利用を推進する施策が盛り込まれることが期待される。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>※参考リンク<br><a href="https://platinum-network.jp/2026/04/02/13/25/" target="_blank" rel="noreferrer noopener external" data-wpel-link="external">プラチナ構想ネットワーク「国内森林資源を活用した成長戦略型バイオエコノミーの推進～輸入原油・ナフサ依存から森林資源が拓く国産燃料・化成品の時代へ」</a><br><a href="https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/nipponseichosenryaku/index.html" target="_blank" rel="noreferrer noopener external" data-wpel-link="external">日本成長戦略本部／日本成長戦略会議｜内閣官房ホームページ</a></p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>※『森林循環経済』<a href="https://forestcircularity.jp/2026/04/num-273/" target="_blank" rel="noreferrer noopener external" data-wpel-link="external">2026年4月6日の記事</a>を転載しました。<br>※プラチナ構想ネットワーク・◯◯◯のコラム一覧はこちら<br>※森林×循環経済×地域の専門メディア『森林循環経済』から、産業・政策・研究・地域をつなぐ専門知と最新事例を毎週厳選配信→ <a href="https://forestcircularity.jp/newsletter/" target="_blank" rel="noreferrer noopener external" data-wpel-link="external">ニューズレター登録（無料）</a></p>
<!-- /wp:paragraph -->]]>
                </content:encoded>

                <post-id xmlns="com-wordpress:feed-additions:1">93324</post-id>
            </item>
                    <item>
                <title>”伝説”なしで「三島由紀夫」を語るには（後篇）</title>
                <link>https://wirelesswire.jp/2026/04/93296/</link>
                                    <media:thumbnail url="https://wirelesswire.jp/wp-content/uploads/2026/04/p20260410_nakamata1.jpg" />
                
                <dc:creator><![CDATA[仲俣暁生]]></dc:creator>
                <pubDate>Tue, 14 Apr 2026 21:00:00 GMT</pubDate>
                                                    <category><![CDATA[科学技術芸術と社会]]></category>
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                <description><![CDATA[前回の記事は、橋本治の『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』の具体的内容に入る前に、この本の「あとがき」で橋本が強調している三島への自身の「無関心」の意味と、その背景にあった1969年の東大全共闘と三島由紀夫の間の「討 [&hellip;]]]></description>
                <content:encoded>
                    <![CDATA[<!-- wp:paragraph -->
<p><a href="https://wirelesswire.jp/2026/04/93171/" data-wpel-link="internal">前回</a>の記事は、橋本治の『<a href="https://www.shinchosha.co.jp/book/105414/" target="_blank" rel="noreferrer noopener external" data-wpel-link="external">「三島由紀夫」とはなにものだったのか</a>』の具体的内容に入る前に、この本の「あとがき」で橋本が強調している三島への自身の「無関心」の意味と、その背景にあった1969年の東大全共闘と三島由紀夫の間の「討論」の話をするところまでで終わってしまった。<br><br>あらためて『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』である。この本で中心的に論じられるのは、三島の遺作となった『豊饒の海』四部作だ。その理由はわかりやすい。この最終巻『天人五衰』を脱稿して編集者のもとに渡ったその日──1970年11月25日──に三島が自死したからだ。もちろんそれは計画的な死であり、執筆計画もそれにあわせて綿密に立てられていた。<br><br>なぜ、三島由紀夫はこのときに死ななければならなかったのか。あらゆる三島論がそうであるように、橋本の論もその問いをめぐって展開していく。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>「日本で一番頭のいい作家」</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>橋本にとって三島由紀夫とは、「日本で一番頭のいい作家」だ。橋本だけではない。当時の日本社会はそのように三島を位置づけ、三島もそれに応じた。三島由紀夫の小説を「つまらない」と言う男は当時もいたが、そのように言ってしまえる人間は、「知的社会の一員になる資格を欠いた、ただのイナカモノなのである」。そして次のように橋本は続ける。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:html -->
<blockquote>「三島由紀夫は本当に頭がよかった。つまりは、完璧なのである。三島由紀夫のスター性にヒビが入るような問題が生まれるのだとしたら、「その頭のよさにはなんか意味があるの？」という疑問が登場しえた時だけである。三島由紀夫の生きていた時代と社会は、その疑問を登場させなかった。そして、三島由紀夫は死んだ。今となっては、その疑問がたやすく登場しえる。今の人間なら、三島由紀夫の知性に対して、「その頭のよさにはなんか意味があるんですか？」という疑問をたやすく発せられるだろう。その疑問が公然と登場しえてどうなったか？　日本人は、ただバカになっただけである。」（『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』、「序」）</blockquote>
<!-- /wp:html -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>前回に紹介したとおり、橋本治は1968年の駒場祭の前後、大学闘争に深くコミットしていった同級生たちから「バカか、お前は──」という視線を投げかけられ、一ヶ月にわたり寝込む。そして「頭がよくなりたい！」と切実に思った。三島由紀夫は当時における近代的知性を代表する存在であり、三島と対峙した東大全共闘の学生もまた、自らが近代的知性の体現者であることを自認していた。だからこそ、三島は思想的な立場を超えて彼らと「討論」ができたのだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>では橋本自身は、そうした近代的知性の在り方をどう考えていたのか。「頭のよさ」という点で、三島と自らも同じ側にいると考える東大全共闘から差し向けられた「バカか、お前は──」という視線と、そのときに橋本が感じた「頭がよくなりたい！」という切実な思いとは、どういう位相にあるのか。『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』を読むことで私が知りたいのは、なによりもそのことである。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>他人と出会うことのない「閉じている」人</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>『豊饒の海』四部作を書き終えて、なぜ三島由紀夫は死んだのか。それは、この小説が「閉じている」作品だからだ、と橋本は断じる。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:html -->
<blockquote>「《庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしてゐる。……》──『豊饒の海』はこのように終わり、作者はどこへも逃げられない。それが、《記憶もなければ何もないところへ、自分は來てしまつたと本多は思つた。》である。これを書いた三島由紀夫は、《夏の日ざかりの日を浴びてしんとしてゐる》はずの「庭」を見て、「あ、そうか」の一言を発することが出来なくなっていた。「閉じている」とは、そういうことである。認識が閉じてしまったので、「夏の庭」を見ても、「夏の庭だ」と思えなくなってしまった。真理とは意外と単純なものである。」（第一章『豊饒の海』論、五　阿頼耶識）</blockquote>
<!-- /wp:html -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>『豊穣の海』という長編小説を支えるのは、第一巻『春の雪』の主人公である松枝清顕が後の時代に輪廻転生する、という不思議な論理である。そしてその論理を支えるのが、大乗仏教の瑜伽行唯識学派の概念である「阿頼耶（アーラヤ）識」の存在だ。阿頼耶識とは六識（眼・耳・鼻・舌・身の五識に加えて意識）の先にある末那識（自我）の、さらに先にあるとされる《存在世界のあらゆる種子（しゅうじ）を藏する識》のことだ。<br><br>そのように三島由紀夫は『豊饒の海』で論理形成をした上で、次のように高らかに宣言する。《世界を存在せしめるために、かくて阿賴耶識は永に流れてゐる。世界はどうあつても存在しなければならないからだ！》。だが橋本はこうした三島の議論にそのまま乗ることなく、次のように考える。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:html -->
<blockquote>「末那識が《自我、個人的自我の意識のすべて》で、阿頼耶識が《その先》にあるのだとしたら、阿頼耶識とは「自分の外にある自分」であろうと、私は思うのである。「自分の外にある自分」とはなにか？　つまりは、「他人への影響力」である。<br>
（中略）<br>
「自分」がいて、その周りには、膨大な数の「自分ではない他人」がいる。「自分」がその「他人」の中で生きている以上、「自分」と「他人」との間には、相互に「影響力」が生まれる。世界は人同士の「影響力」に満ち満ちて、その中でいろいろなものが形成されて行く。それでいいではないかと、私は思うのである」（同前）</blockquote>
<!-- /wp:html -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>そのように考える橋本にとって、三島由紀夫はなによりも「他人」と出会い損ない、「閉じている」状態を自らよしとした人だった。だから三島由紀夫は、『豊饒の海』全四巻の最後で松枝清顕の輪廻転生が否定されたとき、自らも死ななければならなかった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>「天動説」の悲劇</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>そんな三島由紀夫の知性の在り方を、橋本は「天動説」だという。三島だけではない、この時代までの近代的知性をもつ男たちの「知性の構造」はすべて天動説だった、と。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:html -->
<blockquote>「男の知性が矛盾したものになってしまった理由は簡単である。男の知性の構造が天動説で、現実は地動説だからである。天動説の知性は、天動説として受け継がれて、はじめて「知性」としての意味を持つ。しかし、三島由紀夫が『豊饒の海』を書き進める時代は、学生運動の時代だった。かつては東京帝国大学だったところの学生が、かつては東京帝国大学の教授でもありえたような人物に向かって、公然と「バカヤロー！」を叫んでしまう時代だったのである。巨大な亀の甲羅の上で天動説の平らな地面を支えていた幾匹もの象は、「ナンセンス！」と叫びながら、平らな地面を揺るがしてしまったのである」（第一章『豊饒の海』論、六　天動説）</blockquote>
<!-- /wp:html -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ここで気になるのは、三島ではなく、死ぬことなくその後も生き続けた、このときに「バカヤロー！」と叫んだ橋本の同時代人の行方だ。彼らは三島と同じ側に立つ「天動説」の人でありながら、同時にそうした「知性の構造」を揺るがした側でもあった。彼らはどこへ消えたのか。橋本は言う。平らな地面が揺れて、そこからほとんどの人間が滑り落ちてしまった後、「日本人は、ただバカになった」、と。<br><br>そう考える橋本が自分自身に備わることを求めた「頭のよさ」が、天動説であったはずがない。地動説に立ったうえで「頭のよさ」、つまり他者──「友」──とともにあることを可能とする、新しい知性の在り方を求めたはずだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>前回に紹介したとおり、橋本治はこの本のあとがきに「三島由紀夫は、その初めから私とは関係がなかった」と書いている。しかし橋本は、三流劇画とポルノ映画を中心に論じた初期の評論集『秘本・世界生玉子』のエピグラフに、三島由紀夫の『サド侯爵夫人』の一節を引いている。橋本が自分は三島由紀夫とはほとんど関係がなかった、というのは韜晦にすぎない。<br><br>『秘本・世界生玉子』に収められた、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』の映画版に対する評論「芥川に捧ぐ」のなかで、橋本はこの映画を激しく批判しつつ、学園闘争の時代に訪れた「天動説」から「地動説」への転換について、すでに次のように書いていた。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:html -->
<blockquote>「普遍というのは、予めある、世の中を構成している法則の中から導き出されて、それに人間があてはまっていくことじゃない。僕達人間が先にあって、そこから導き出された普遍というものに従って世の中が動いて行くということなんだ。僕達が片輪だったのは、僕達の中から導き出される普遍なんてものがまだ存在しないで、勝手に普遍だと信じ込まされているものが存在していて、そしてそれに僕達が合わせられないと感じてしまっていたからなんだ。<br>
でも、僕達はもう知っている。僕達自身の中に普遍が存在しているということを。<br>
僕達自身という個の中にある普遍というのは、僕達自身だ。それが普遍である以上、それはすべてに共通するものだけれども、それが又僕達自身という個である以上、僕達が存在するその数だけ普遍というものは存在するのだ」</blockquote>
<!-- /wp:html -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ここに付け足すべき言葉はないだろう。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>まだ見ぬ「友」に呼びかける声</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』の終章で、橋本はこのように書いた。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:html -->
<blockquote>「男というものは、どのようにして「男」になるのか？　どのようにして「男」なるものを知るのか？　三島由紀夫の中で大きく欠落するのは、この要素である。「欲望」として男を求め、「恋」として男を求める三島由紀夫は、「友」としての男を大きく欠落させているのだ」<br>
（終章『男という彷徨』、五　忘れられた序章）</blockquote>
<!-- /wp:html -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>さらには、このようにも。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:html -->
<blockquote>「三島由紀夫が「なにもの」であったのかということの答は、この抜け落ちたものの「答」がなければ完結しない。三島由紀夫が生きて訴えた時代、そこにいた人達は、三島由紀夫にどう答えたのか？　果たして、その訴えに応ええたのか。三島由紀夫は、「友」を求めて「男」となったのである」（同）</blockquote>
<!-- /wp:html -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>三島由紀夫はこの答えを、決起を呼びかけた自衛隊員だけでなく、他の誰からも得ることができず──というよりも、あらかじめ答えが得られないことを知り尽くした上で──自死した。ではもし三島が彼自身、「天動説」から「地動説」へと認識を根本的にあらためることができたなら、死なずに済んだだろうか。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>橋本が東京大学に在籍していた1960年代の終わり、「三島由紀夫が信じていた古典的様式」、つまり近代的知性はすでに「時代遅れのもの」になろうとしていた。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:html -->
<blockquote>「知性の質の転換、既に完結してしまった知性の〝その先〟が求められて、その答はなかった。大学の建物と機構はそのままで、大学の実質は崩壊、あるいは変質した。三島由紀夫が、閉じた自分自身の世界の中で判断停止に陥り、自殺してしまったのは、その時である。<br>
（中略）<br>
消えなければならなかったのは、三島由紀夫一人ではなかったはずなのだが、三島由紀夫は一人、その終末の到来を理解した。その判断停止は、時代と連動するものであり、時代は、天動説の孤独を浮き上がらせてしまっていた。それが、反乱の時代だった一九六〇年代末の実相である。三島由紀夫は、出口のない孤独に死に、そしてまた、時代と共に死んだのである。三島由紀夫と共に終わった時代の名を、「戦後」と言う」（同前）</blockquote>
<!-- /wp:html -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>橋本治が文章を書き始めた1970年代末、このときに三島に「応える」ことがなかった「男」たちは姿を消していた。だから橋本治は、三島とは別の意味で孤独だった。初期から最晩年に至るまで、橋本はその孤独に耐えつつ、それでも三島のように天動説の「知性の構造」に閉じこもることは断固拒否し、「友」を求める声をあげ続けた。その声に応える者が現れることを期待しつづけていた。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>しかしそれに応える声は、どこからも聞こえてこない。だから橋本治はただ一人、21世紀に入ってからも「近代的知性」の再検討をし続なければならなかったのである。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p><strong>参考文献</strong><br>『<a href="https://www.shinchosha.co.jp/book/105414/" target="_blank" rel="noreferrer noopener external" data-wpel-link="external">「三島由紀夫」とはなにものだったのか</a>』橋本治（新潮社　2005年）<br>『<a href="https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309403205/" target="_blank" rel="noreferrer noopener external" data-wpel-link="external">秘本・世界生玉子</a>』橋本治（河出書房新社　1991年）</p>
<!-- /wp:paragraph -->]]>
                </content:encoded>

                <post-id xmlns="com-wordpress:feed-additions:1">93296</post-id>
            </item>
                    <item>
                <title>AIプロダクトを文系社長自ら作って販売できる時代が来た</title>
                <link>https://wirelesswire.jp/2026/04/93320/</link>
                
                <dc:creator><![CDATA[清水 亮]]></dc:creator>
                <pubDate>Tue, 14 Apr 2026 05:58:25 GMT</pubDate>
                                                    <category><![CDATA[.カテゴリーなし]]></category>
                                <guid isPermaLink="false">https://wirelesswire.jp/?p=93320</guid>

                <description><![CDATA[まずは先日発表された一件のプレスリリースについて紹介したい。 保険募集人の対話品質向上へ、実践型模擬トレーニング「モクトレAI」正式版提供開始 2年間・1000件超の実践データをもとに顧客起点の対話を可視化。トークスクリ [&hellip;]]]></description>
                <content:encoded>
                    <![CDATA[<!-- wp:paragraph -->
<p>まずは先日発表された一件のプレスリリースについて紹介したい。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:separator -->
<hr class="wp-block-separator has-alpha-channel-opacity" />
<!-- /wp:separator -->

<!-- wp:quote -->
<blockquote class="wp-block-quote"><!-- wp:heading {"level":1} -->
<h1 class="wp-block-heading" id="press-release-title">保険募集人の対話品質向上へ、実践型模擬トレーニング「モクトレAI」正式版提供開始</h1>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading" id="press-release-subtitle">2年間・1000件超の実践データをもとに顧客起点の対話を可視化。トークスクリプト不要で、理解を“できる”に変えるトレーニング基盤<a href="https://prtimes.jp/main/html/searchrlp/company_id/33710" data-wpel-link="external" target="_blank" rel="external noopener noreferrer"></a></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p><a href="https://prtimes.jp/main/html/searchrlp/company_id/33710" data-wpel-link="external" target="_blank" rel="external noopener noreferrer">名案企画株式会社</a></p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>名案企画株式会社（本社：東京都中央区、以下 名案企画）は、保険会社・保険代理店向けの実践型模擬トレーニングサービス「モクトレAI」の正式版を、<strong>2026年4月7日より提供開始</strong>しました。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>モクトレAIは、トークスクリプトを前提とした読み合わせ型のロープレではなく、顧客属性と面談シーンのみを設定し、<strong>二人一組で即興的に行う実践型の模擬トレーニング</strong>です。Webブラウザ上で音声を録音すると、AIが内容を分析し、<strong>約90秒で具体的なフィードバック</strong>を返します。PC・スマートフォンの双方に対応し、短時間でも回しやすく、日常業務の中に無理なく組み込める設計としています。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>今回の正式版は、ベータ版を通じて見えてきた、短時間で回せる運用性、商談前準備としての有効性、具体的フィードバックの実践性に加え、<strong>AI研究者・清水亮氏のアドバイスも踏まえながら</strong>フィードバック内容のチューニングを重ね、より現場で使いやすい形へ改善したものです。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p><a href="https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000008.000033710.html" data-wpel-link="external" target="_blank" rel="external noopener noreferrer">https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000008.000033710.html</a></p>
<!-- /wp:paragraph --></blockquote>
<!-- /wp:quote -->

<!-- wp:separator -->
<hr class="wp-block-separator has-alpha-channel-opacity" />
<!-- /wp:separator -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>このリリースにある通り、この製品を開発するにあたって、筆者はアドバイザーを引き受けた。名案企画は筆者の顧問先の一つで、主に保健募集人のトレーニングを専門に行っている会社だ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>このリリースで紹介されている「モクトレAI」は、保健募集人が二人一組で行うロールプレイによるトレーニングをリアルタイムに評価するものだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>この製品が生まれたきっかけは、半分は偶然だった。<br>もともと保健募集人のロールプレイを指導していた同社には、過去に行った膨大なトレーニングの動画データがあった。これをなんとか活用できないかという相談から始まったのだが、筆者としては直感的にピンと来た。「これは極めてユニークなデータ群だ」ということだ。すなわち、これを使えば実用的かつユニークな「AIシステム」を構築することが可能なのである。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>「AIシステム」については以前本欄でも取り上げたことがある。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-embed is-type-wp-embed is-provider-wirelesswire-amp-schr-dinger-039-s wp-block-embed-wirelesswire-amp-schr-dinger-039-s"><div class="wp-block-embed__wrapper">
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<!-- wp:image {"id":93321,"sizeSlug":"full","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-full"><img src="https://wirelesswire.jp/wp-content/uploads/2026/04/444513c12b917596199e734b37effb4a-1024x532-1.png" alt="" class="wp-image-93321" /></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>つまり、すでにAIの機能そのものの競争は終息に向いつつある。<br>GPT-5.4だClaude MytohsだGeminiだのという話は、もう三強ということでケリがつき、次にはオープンソース/オープンウェイトだとQwen3.5-8Bがほぼ最強ということで大体のことに終わりが見えてきた。もはや単体のモデルで勝っただの負けただの言ってる状態ではなく、いかにこうして"枯れて"きたモデルを活用して実用的なシステムに落とし込んでいくか。その競争に移行するタイミングなのだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>「モクトレAI」を開発するのに必要不可欠だったのは、名案企画が過去に収集してきた独自のロールプレイ動画である。つまり、図で言えばオレンジ色の四角で示した「独自データ」の部分である。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>これに独自のUI、今回は音声入力をUIとして組み合わせることで、唯一無二のAIシステムが完成した。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>実際、この「モクトレAI」によるアドバイスは作者自身が驚くほど的確だという。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>筆者自身は保健募集人の経験も知識もないため、「こういうデータがあるならこういうふうに組み合わせるといいですよ」という程度の助言しかしていないのだが、やはり独自の経験値を蓄積したツールということで、既に大手保健会社を中心に保険代理店などに売れ始めているそうだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>保健募集人は、通常の営業マンとちがい、法律によって話すべき内容と話してはいけない内容など細かいルールがあるようだ。しかし、保健募集人のトレーニングに使えるのであれば、一般的な営業マンのトレーニングにも応用できるのではないかと期待が高まる。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p></p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:group {"layout":{"type":"flex","flexWrap":"nowrap"}} -->
<div class="wp-block-group"><!-- wp:image {"id":93323,"sizeSlug":"large","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://wirelesswire.jp/wp-content/uploads/2026/04/33710-8-0eaafcda078d0ecbc176e27d42eb889a-671x2700-2-255x1024.webp" alt="" class="wp-image-93323" /></figure>
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<!-- /wp:group -->

<!-- wp:paragraph -->
<p></p>
<!-- /wp:paragraph -->]]>
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            </item>
                    <item>
                <title>組織事故を減らすために必要なこと</title>
                <link>https://wirelesswire.jp/2026/04/93262/</link>
                                    <media:thumbnail url="https://wirelesswire.jp/wp-content/uploads/2026/04/p20260409_fukushima1.jpg" />
                
                <dc:creator><![CDATA[福島真人]]></dc:creator>
                <pubDate>Mon, 13 Apr 2026 21:00:00 GMT</pubDate>
                                                    <category><![CDATA[科学技術芸術と社会]]></category>
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                <description><![CDATA[「組織事故」をなくすことは可能なのか。大激論が交わされた 2024年1月に発生した羽田空港における日航機と海保機の衝突という事故は、一方で日航機クルーの的確な誘導により乗客に死者が出ないという朗報と共に、滑走路上の衝突と [&hellip;]]]></description>
                <content:encoded>
                    <![CDATA[<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading">「組織事故」をなくすことは可能なのか。大激論が交わされた</h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>2024年1月に発生した羽田空港における日航機と海保機の衝突という事故は、一方で日航機クルーの的確な誘導により乗客に死者が出ないという朗報と共に、滑走路上の衝突という、航空管制のシステムを揺るがしかねない大事件という、二つの顔を持つ結果が同居する事態となった。前者についての報道は、そうした的確な判断と処理の背後に、危機対応のための常時のトレーニングの重要性を強調するものが多くあった。他方、後者に関する航空関係者の反応は、ことの重大さに関する彼らの危機感を示しており、それは現在進行中の事故調査報告のみならず、事故後行われた、空港側の迅速な対応にも見て取れる点である。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>このように二つの顔を持つニュースを聞いて筆者が思い出したのは、こうしたタイプの事故、即ちその背後に組織的要因が係わっている、所謂「組織事故」について激しく行われた、組織社会学的な論争である。一方のグループは、一種の悲観論を展開する社会学者達で、その主張によれば、高度に複雑なテクノロジーを伴う組織においては、全体があまりに複雑なためその全体像が見渡せず、その一部で発生した問題が全体に波及する様子を全てモニターすることも出来ないため、何らかの事故はある種必然的に発生し、それを避けることは出来ない。ペロー（C.Perrow）の代表作である、Normal Accidentsという本のタイトルは、まさに「事故というのはこうした組織では普通のこと（normal）」という皮肉っぽいニュアンスさえ感じさせるものである。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>この主張に対して、経営学や社会心理学を含むバークレーの研究チームは、その作業に危険を伴う現場での研究を行った。航空管制や空母での戦闘機の離発着、更には原子力発電所における定期検査といった、一つミスが起こると大事故に繋がりかねないような現場である。彼らは調査の対象として、特に事故率が低い対象を選び、長期的な現場観察を行った。そこで見いだされた一連の組織論的な特徴をまとめて、それらを高信頼性組織（high reliability organization）と呼んだのである。そこにはいくつかの共通特性があり、例えば、ちょっとした不具合でも徹底的にその原因を分析する組織的志向性、自ら犯したミスを積極的に報告するルーチン、あるいはメンバーが一人欠けても、それを他の人が柔軟にバックアップできるような組織対応といった一連の特徴である。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading">高信頼性組織的のように見えても、実は偶然助かっていたケースもある</h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>一方ではテクノロジー型の巨大組織における事故の必然性、他方では危険度の高い組織経営における事故防止の努力の可能性、という正反対の主張だったために、両グループの間では一時期激しい論争が繰り広げられた。例えば、後者の事例に近い、成功例のように見える事例も、よくよく調べるとかなり危ない状態に近い面があり、事故に至らなかったのは偶然だといった主張がなされ、論争はなかなか終結しなかった。現在「組織事故」についてよく読まれるタイプの概説書は、たいてい両者の主張を折衷した内容になっている。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>今回の羽田空港における事故も、ある意味この論争の両方の側面に近い事例が現れているとも言える。日航機からの脱出に係わるクルーの素早い判断と、それに促された乗客の迅速な行動は、高信頼性組織的とでも言える特徴を示しているといっていい。その背後には事故を想定した徹底した訓練があると同時に、現場で起こる様々な問題、例えば機内放送が使えないとか、どのドアが脱出用に安全かをスタッフがとっさに自律的に判断し、それに従って機内からの脱出を誘導するといった細かな過程がある。かつてある原子力安全文化に関する研究会で、電力会社系の安全研究者が、緊急時での現場への権限委譲と自発的行動の必要性という考えについて、食ってかかってきた妙な経験がある。こういう現場でいちいち上司の判断を待っていたら、助かる乗客も助からなかっただろう。東日本大震災より遥か前の話である。地上にいた他社の職員も迅速に救助に協力したと聞くが、まさに自発的に組織の穴を埋めるという実例でもある。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading">組織事故の背後には、直接的には見えない様々な原因が隠れている</h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>事故に対する迅速で的確な組織的対処はメディア等でも多く称賛されたが、他方、この事故そのものが、ペローらのいうnormal accidentの予感がする危機的な側面もある。それはこうした大事故をもたらした原因が複数ありそうで、その余波がどこまで広がるか、現時点では見通しがきかないからである。直接の原因は管制塔からのナンバー1という指示を海保機の機長が勘違いし、滑走路に侵入したためとされているが、話がそこで終わりそうにないのが、これが「組織」事故たる所以でもある。こうした指示への誤解を防ぐため、海保機の複数のメンバーがそれを復唱し、確認したという。つまり、もしこれが勘違いだったとしても、機長のみならず、複数の乗員がそれに気がつかなかったということになる。更に、滑走路への異常な進入を監視する装置も稼働していたが、管制塔でもその異常に気がつかず、しかも黙視で確認も出来なかったという。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p><a href="https://wirelesswire.jp/2025/05/88478/" data-wpel-link="internal">別稿</a>で組織事故に関する、有名なスイス・チーズモデルを紹介したが、危険因子を防ぐ組織的防御壁には所々穴があいており、その穴が並ぶと危険因子が防御壁を貫通して事故が起こる、という話である。前に詳述したように、ここでいう防御壁とは、我々の日常における危険因子の監視の努力を示し、そこに穴かあくというのは、何らかの理由で、そうした因子をチェックできない状態が生まれることを示す。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>更に一部報道では、こうした事故の背後に羽田での離発着の過密さや、そうした状況をもたらした過去の政策の問題といった指摘もあるようだ。まさに一つの組織事故の背後には、直接的には見えない様々な原因が隠れているという、典型的な例である。複雑なテクノロジーに依存する組織における事故の必然性という議論と、風景が重なって見えてしまうのである。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading">緊張した状態では、自分の名前すら聞き間違う</h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>かつて筆者が救命救急センターで調査を行っていた際に、現場で生じる、ありとあらゆる不測の事態と、それに対処する現場の奮闘という二つの極を目の当たりにした。例えば、当病院の医療安全委員会に参加させてもらい、様々なヒヤリ・ハット報告を聞いて驚いたのは、いかに組織の中で事故に繋がりかねないミスが充満しているかという事実である。別稿では似たような薬の名前の取り違えや、二つで一セットのアンプル数の数え間違いといった話を紹介したが、それらは文字通り氷山の一角に過ぎない。手術する患者の取り違えといった重大案件がたまに報道されることがあるが、そこまでいかなくても、委員会では、直前で間違いに気がついたというケースを聞いた記憶がある。しかも患者本人に名前を確認しているにも係わらず、である。当時の議論では、〇〇さんですねといわれ、その名前が違っても、手術前で心理的に不安定になっている患者は、思わずハイと言ってしまうのではないか、ということであった。名前確認といった単純作業にも危険因子が潜んでいるのである。結果として患者本人に名前を言わせるように方針を変えたというが、自分の名前ですら間違えかねないとしたら、疲労等の条件が重なると、プロですらナンバー1といった表現を取り違えてしまう可能性もあると感じるのは私だけであろうか。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading">テクノロジーが変化する時期はリスクが高まる</h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>また、依拠するテクノロジーの変化もこうした危険因子となりうる。センターでは、当時紙による薬剤のオーダーが段階的に電子的なそれに変わりつつあり、両方が一部混在していた。紙による薬剤処方のチェックは、紙一枚にその日の処方が一望でき、医局等の会議でその内容を繰り返しチェックする指示表と、病棟全体の指示を看護師が管理する分厚い指示簿が併用されていたが、そこに医師が個別に直接電子的に指示するシステムが加わったのである。だが何かの拍子で前者の紙系と後者の電子系の指示の齟齬が発覚し、これはシステムとして危ないという話になった。どこかで指示もれ等が発生する可能性があるからである。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>前述した高信頼性組織論者が懸念を表明していたのは、当時アメリカの軍内部で進んでいた急速なICT化の過程である。新規システムの不安定性が、現場の兵隊を危険に晒す可能性を危惧していたのである。先日のハマスによるイスラエル攻撃で、諜報能力を誇る後者が、前者のローテクな通信手段の内容を傍受できなかったという話もあるが、長期的に安定利用してきたテクノロジーを別のものに変える時期は、そうしたリスクが高まるというのは一般的に見られる傾向でもある。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading">状況は変化し、危険因子を常にモニターすることは出来ない</h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>また筆者のセンター訪問時に経験した大きな組織的変化は、救急医療が研修過程の必修になり、大量の研修医が押し寄せてきたという点であった。それ以前では、救急医学に加わる研修医は、専門志向の研修医と、救急の基礎技術を学びたいというその他の分野の少人数の研修医達で、彼らをまとめて小グループに分け、専門救急医と共同で患者対応をしていた。そこに突然、従来の数倍の人数の研修医が押し寄せてきたのである。当然、現場は一時大混乱状態になった。救急医療に不慣れな大量の新人に患者を診せる訳にはいかないため、センター側は迅速に対応した。今まで各チームの統括役だった上級医が、直接患者に対応する形に変え、大量の新人に患者を診させるという危ないやり方は避けたのである。救急医は何事も迅速なので、一緒にご飯を食べたりすると、こちらが食べ終わらないうちに席を立ってしまったりするが、ことリスク管理に関しては迅速かつ的確であった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>とはいえ、こうした救急的な精査の目があっても、それが行き届かない面もないとは言えなかった。例えばセンターに複数ある集中治療室（ブースの形になっている）には、生命維持のための複数の装置が置かれているが、非常に多いそれらのコードが文字通り蜘蛛の巣か何かのようにこんがらがっており、機器の一部を移動させようとした時に、そのどれがどれだか分からない状態で、ちょっと危なっかしいと感じた覚えがある。だがこういう点は関係者の視野にはないようであった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>状況は常に変化し、そこに発生しうる危険因子を常にモニターすることは出来ない。その点では事故社会学者は正しい。しかしそれでもある程度はそうした危険因子を振り返り、可能な穴をある程度は塞ぐことは出来るかもしれない。そのために必要なのは絶えざる学習である。<br>（福島真人／東京大学）</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p><strong>参考文献</strong><br>福島真人(2017)『<a href="https://www.utp.or.jp/book/b307816.html" target="_blank" rel="noreferrer noopener external" data-wpel-link="external">真理の工場－科学技術の社会的研究</a>』東京大学出版会<br>福島真人(2022)『<a href="https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480510983/" target="_blank" rel="noreferrer noopener external" data-wpel-link="external">学習の生態学－実験、リスク、高信頼性</a>』筑摩書房<br>Hutchins,E. (1995)<em>Cognition in the Wild</em>, MIT Press.<br>Perrow,C. (1984)<em>Normal Accidents : Living with High-risk Technologies</em>, Basic Books. <br>Ramanujam,R. et al.(2018)<em> Organizing for Reliability: A Guide for Research and Practice</em>, Stanford University Press.</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph {"style":{"elements":{"link":{"color":{"text":"#333333"}}},"color":{"text":"#333333"}},"fontSize":"small"} -->
<p class="has-text-color has-link-color has-small-font-size" style="color:#333333">（当記事はModern Times 2024年1月に公開された記事の再掲載です）</p>
<!-- /wp:paragraph -->]]>
                </content:encoded>

                <post-id xmlns="com-wordpress:feed-additions:1">93262</post-id>
            </item>
                    <item>
                <title>歴史家は、データを歴史化する</title>
                <link>https://wirelesswire.jp/2026/04/93238/</link>
                                    <media:thumbnail url="https://wirelesswire.jp/wp-content/uploads/2026/04/p20260407_hisano1.jpg" />
                
                <dc:creator><![CDATA[久野 愛]]></dc:creator>
                <pubDate>Sun, 12 Apr 2026 21:00:00 GMT</pubDate>
                                                    <category><![CDATA[科学技術芸術と社会]]></category>
                                <guid isPermaLink="false">https://wirelesswire.jp/?p=93238</guid>

                <description><![CDATA[データに依拠する「データカルチャー」 「子どもの心、データで見る意味は」先日、朝日新聞のこんな見出しが目についた。AIをはじめデジタル技術が発達し、大量かつ多様なデータ、いわゆる「ビッグデータ」の利用がますます活発化して [&hellip;]]]></description>
                <content:encoded>
                    <![CDATA[<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>データに依拠する「データカルチャー」</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>「子どもの心、データで見る意味は」<br>先日、朝日新聞のこんな見出しが目についた。AIをはじめデジタル技術が発達し、大量かつ多様なデータ、いわゆる「ビッグデータ」の利用がますます活発化している。この記事が紹介するように、ビジネスや政治のみならず、教育現場においても、教育効果の向上や子どもの行動・心理状態の理解を助けることを目的としたデータの利用が試みられている。「ビッグデータ」や「データフィケーション」「データマイニング」のような言葉をニュースなどで度々耳にするようになり、「データ」は比較的身近なものになっているように思う。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>このようなデータ志向の現状は、技術開発の結果としてのみ現れたのではない。数学者クリス・ウィギンスと歴史学者マシュー・ジョーンズが、共著『How Data Happened: A History from the Age of Reason to the Age of Algorithms（データはどのように起こったのか—啓蒙時代からアルゴリズム時代までの歴史）』で論じるように、客観的に<ruby>みえる<rt>・・・</rt></ruby>データが理論的根拠として用いられ、データがこれほどまでに重視されるようになったのは、社会的・政治的・経済的な要因が深く絡んでもいる。そして、デジタル技術やソーシャルメディアなどの利用拡大のみならず、様々な場面でデータに依拠するというその姿勢こそが、「データカルチャー」とも呼べるような一つの文化として表れているといえる。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>歴史家は、データそのものや分析自体に人間の意図が介在することを前提とする</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>一般的に「データ」とは、対象を客観的に捉え理解するための材料として認識されることが多いのではないだろうか。しかし、データとの向き合い方、そしてそれが社会にもたらす影響は他にもある。以下では歴史家の仕事を例に取り、改めて「データ」とはなんなのか、データを分析する・活用する、とは何を意味するのか考えてみたい。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>『広辞苑』によると、データとは「①立論・計算の基礎となる、既知のあるいは認容された事実・数値。資料。与件。②コンピューターで処理する情報。」のことである。『大辞林』では、「①判断や立論のもとになる資料。②コンピューターの処理の対象となる事実。」と記載されている。細かな違いはあるものの、データとは、「判断や立論のもとになる資料」「コンピューターで処理する情報・事実」を指す。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>これらの辞書の定義に従えば、データは、計量的な数値のみならず、何かしらの判断や立論の材料になる質的な資料も含まれる。その意味では、分野を問わず研究者が扱う資料は全て「データ」ということになる。一方で、資料をデータと呼ぶか否かは、人によってその判断は異なる。例えば、私が専門とする歴史学研究では（おそらく他の多くの人文系研究分野でも）、私自身も含め、研究に用いる資（史）料のことをデータと呼ぶことはほとんどない。一方で、社会学や人類学などの社会科学分野では、個人差はあるだろうが、歴史家と同じような資料を扱っていたとしても、それをデータと呼ぶことはそれほど珍しくないようである。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>なぜ歴史研究者（を含む多くの人文系研究者）は資料をデータと呼ばないのか。一つには、データが統計資料など計量的な資料というイメージを喚起させることが理由かもしれない。歴史研究では、統計などを資料として用いることはあっても、主な分析対象となるのは文書史料（質的資料）が多く、それらを計量的資料と同一視することに違和感があるのかもしれない。それに関連したもう一つの（より重要な）理由は、歴史家の資料分析の態度にある。統計資料や計量的な資料、いわゆるデータという言葉で想起される材料が、「客観的・中立的な」分析を目指したものである一方で、歴史家は、データそのものにも、そのデータの分析にも、人間の何かしらの意図や解釈が介在することを前提とする。つまり、統計などの計量的資料の分析にも言えることだが、完全な客観的・中立的なデータの生成も分析も不可能であることを認識した上で、政治的・社会的・経済的文脈の中にその資料を位置付け読み解くことが仕事である。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>歴史家の関心は、データがいかに生み出されたのかということにある</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>以上のことを踏まえると、歴史家にとってデータとは史料の一部である。誰がいかなる歴史的背景の中で実験なり調査なりをして出てきた数値なのか、その数字が意味することは何なのか。つまりデータを歴史化するのである。したがって、数的データも質的データも客観的な事実として用いるのではなく、その数字なり文字なりの裏側にあるものを解き明かすのが歴史研究である。換言すれば、歴史家は、データをいかに用いるかということよりも、データがいかに生み出されたのかということにより強い関心があるともいえる。そして、ある社会的コンテクストの中で作られたデータが、誰によって・どのように用いられたのかを分析することで、そのデータが社会にとっていかなる意味を持つのかを明らかにするのだ。つまり、歴史家にとってデータは所与のものでもなければ、一般化して利用できるものでもなく、ある時間的・空間的枠組みの中で存在するのだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>データが出現させた「大衆社会」</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>データを歴史化し分析した研究の一つに、アメリカ史研究者のサラ・イゴによる2008年の著作『The Averaged American: Surveys, Citizens, and the Making of a Mass Public（平均化されるアメリ人—調査、市民、大衆の形成）』がある。これは、1910年代以降の米国で、世論調査や市場調査、国勢調査など、人々の属性や嗜好、政治的信条などを測定する手法がいかに発展したのか、つまり国民・消費者に関するデータの収集・分析・活用がどのように広まり、いかなる社会的影響があったのかを明らかにした研究である。イゴは、こうした様々な測定技術は、近代社会科学の発展に貢献しただけではなく、アメリカ人自身の考え方も大きく変えたと主張する。世論調査などの結果を知ることで、国民の「マジョリティ」がどのような人々であるかを統計的に知ることができるようになり、アメリカ人という国民がどういうものなのかを自分たちが意識するようになったのである。様々なデータは、「大衆」なるものに具体的なイメージを付与することで、「大衆社会」というものを誕生させたのだ。ベネディクト・アンダーソンが「想像の共同体」と呼んだ国民国家は、統計などのデータが社会で共有されることでも作り出されてきたといえるだろう。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>データは、国民国家や（想像された）市民の構築だけでなく、大衆消費社会の出現にも大きく関与してきた。イゴの議論に倣うならば、20世紀前半以降にその利用が拡大した市場調査は、単に企業が消費者の消費パターンや嗜好に関するデータを収集するだけではなく、「平均的な」消費者像を作り出すこととなった。そして、「大衆消費者」に向けた商品やサービスを企業が作り提供すると同時に、消費者側もそうした大衆消費者またはマジョリティ像を想像することが容易となり、自らもその大衆の一人となって流行のものを購入したり、一方で大衆に交わらないよう敢えて流行に乗らないことも可能となったのである。<a href="https://wirelesswire.jp/2025/04/88452/" data-wpel-link="internal">以前の論考</a>で触れたように、かつてヴァルター・ベンヤミンは、19世紀末のパリで「百貨店の創立とともに、歴史上はじめて消費者が自分を群衆と感じ始める」と述べたが、20世紀以降の市場調査などに基づくデータは、消費者が想像する大衆の像をより鮮明な形で投影することに役立ったのだ。だが、そうしたデータは、あくまでマーケターや商品開発者らの意図を介在した調査の結果であり、その意味では、消費者データは、消費者そのものを表すものというよりも、企業・ビジネス側がいかに消費者や商品・市場について考えていたのかを映し出すものだともいえる。よって、それによって作り出される大衆消費者像は、必ずしも実際の消費者の姿ではなく、様々な意図や思惑によって作られた姿である。もっとも大衆とは常に虚像によって作られるものなのかもしれないが。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>データが誰によって、いつ、どのように作られたのかを考える</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>データが生み出す市民像や大衆消費者像は、ある意味で社会を（虚構であったとしても）可視化するものだといえるかもしれない。データを用いた可視化とは、グラフや図柄として視覚的に理解することで、問題解決の糸口を見つける助けとしてしばしば用いられる。だが、データを「活用する」と言う時、そのデータが誰によって、いつ、どのように作られたものなのか、そのデータを用いることが何を意味するのかをクリティカルに考えなければ、本当の意味で活用することにはならない。データの「盲点」に気づかず、むしろその活用が逆効果になってしまうこともあるだろう。AIデータを「活用」した結果、子どもの虐待死を防げなかった例は記憶に新しいだろう。そして、データによる可視化で思考停止するのではなく、時に耳をすませたり、肌で感じとったりするなど、五感を研ぎ澄ませて世界と対峙することで、データを疑ってみることが、本当の意味での「データの活用」には必要なのではないだろうか。それは、生成AIが膨大なデータを元に文章を一瞬で作り出すのに比べれば、果てしなく長く、地道な作業である。またそこで扱うデータは決して「ビッグ」ではなく、むしろミクロでスモールなものだ。だが、「スマート」でも「ビッグ」でもないことに対する感性を養うことも社会に新たな道筋を見つける重要なヒントにつながるのではないだろうか。それは、私たち一人ひとりがデータとして扱われる社会へのささやかな抵抗かもしれない。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p><strong>参考文献</strong><br><a rel="noreferrer noopener external" href="https://digital.asahi.com/articles/ASRC865WSRB5ULLI006.html" target="_blank" data-wpel-link="external">「子どもの心、データで見る意味は　サイトの閲覧履歴や検索数を可視化」</a>篠健一郎『朝日新聞』2023年11月12日<br>『<a rel="noreferrer noopener external" href="http://seidosha.co.jp/book/index.php?id=3626" target="_blank" data-wpel-link="external">データ視覚化の人類史―グラフの発明から時間と空間の可視化まで</a>』マイケル・フレンドリー、ハワード・ウェイナー　飯嶋貴子訳（青土社　2021年）<br>Igo, Sarah.&nbsp;<a href="https://www.hup.harvard.edu/books/9780674027428" target="_blank" rel="noreferrer noopener external" data-wpel-link="external"><em>The Averaged American: Surveys, Citizens, and the Making of a Mass Public</em></a>. Harvard University Press, 2008.<br>Wiggins, Chris, and Matthew L. Jones.&nbsp;<a href="https://wwnorton.com/books/how-data-happened" target="_blank" rel="noreferrer noopener external" data-wpel-link="external"><em>How Data Happened: A History from the Age of Reason to the Age of Algorithms</em></a>. Norton, 2023.</p>
<!-- /wp:paragraph -->]]>
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            </item>
                    <item>
                <title>写真集の夜飯沢耕太郎オンライン・フォトブック・ギャラリー第12回 広瀬勉『 天沼あまぬま　矢川澄子・室野井洋子・知久寿焼のアルバム』</title>
                <link>https://wirelesswire.jp/2026/04/93276/</link>
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                <dc:creator><![CDATA[今井太郎]]></dc:creator>
                <pubDate>Fri, 10 Apr 2026 02:48:04 GMT</pubDate>
                                                    <category><![CDATA[地域・本・写真]]></category>
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                <description><![CDATA[「写真集の夜」第12回は、バー「鳥渡(チョット)」と写真集食堂「めぐたま」を結んで、『天沼』収録作品を取り上げながら広瀬さんと飯沢さんに思う存分語り合っていただきます。]]></description>
                <content:encoded>
                    <![CDATA[<!-- wp:paragraph -->
<p>東京・高円寺でバー「<ruby>鳥渡<rt>チョット</rt></ruby>」を営まれている写真家・広瀬勉さんは、20世紀最後の数年間、杉並区<ruby>天沼<rt>あまぬま</rt></ruby>で一風変わった共同生活をされていました。一緒に暮らしていたのは、作家・詩人・翻訳家でかつて澁澤龍彦と結婚されていた矢川澄子さん、ダンサーで編集者の室野井洋子さん、バンド「たま」を結成していた音楽家でツノゼミ研究家でもある知久寿焼さん、そして広瀬さんの4人。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:quote -->
<blockquote class="wp-block-quote"><!-- wp:paragraph {"className":"mb-none"} -->
<p class="mb-none">「男二人は三十手前、女二人は合わせて百歳」と面白がって説明したりもした。まだルームシェアという言葉が一般的でなく、年齢も生業もまちまちな共同暮らしは珍しかったのではないか。</p>
<!-- /wp:paragraph --><cite>（「覚え書き」p.173）</cite></blockquote>
<!-- /wp:quote -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>2025年12月に刊行された写真集『<ruby>天沼<rt>あまぬま</rt></ruby>　矢川澄子・室野井洋子・知久寿焼のアルバム』では、その共同生活の様子を中心に、その後も続く親密な交流、矢川さんと室野井さんについてはそれぞれの死までが、淡々としたモノクロ写真とメモ書き程度の解説によって綴られていきます。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>1980年代後半から2010年代までを同時代として生きてきた誰しもが、「この写真が撮られた頃、自分はどこで誰と何をしていただろう」と、心を揺さぶられる一冊です。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>「写真集の夜」第12回は、バー「<ruby>鳥渡<rt>チョット</rt></ruby>」と写真集食堂「めぐたま」を結んで、『天沼』収録作品を取り上げながら広瀬さんと飯沢さんに思う存分語り合っていただきます。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>（飯沢さんコメント）<br>広瀬勉さんは、赤瀬川原平さんらが講師を務めていた美学校の出身で、１９８０年代には森山大道さんが主宰していた写真ワークショップ、フォトセッションのメンバーでもありました。高円寺のバー鳥渡のマスターを務めながら、コンスタントに作品を発表してきたのですが、「知る人ぞ知る」という存在でした。その広瀬さんの写真集『天沼』が送られてきて、一目見てこれは凄いと感嘆しました。矢川澄子、室野井洋子、知久寿焼、それに広瀬さんというメンバーの共同生活、それ自体が奇跡としか言いようがありません。この、とんでもない写真集が、どうやって形をとったのか、広瀬さんにいろいろお聞きしたいと思っています。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading">開催概要</h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:table {"className":"event mb-xs"} -->
<figure class="wp-block-table event mb-xs"><table class="has-fixed-layout"><tbody><tr><th>名称</th><td><strong>写真集の夜<br>飯沢耕太郎オンライン・フォトブック・ギャラリー<br>第12回 広瀬勉『 <ruby>天沼<rt>あまぬま</rt></ruby>　矢川澄子・室野井洋子・知久寿焼のアルバム』</strong></td></tr><tr><th>開催日時</th><td>2026年5月1日 （金） 22:00～23:00<br><small>※見逃し配信は行いません。後日、アーカイブ動画を有料で販売する予定です。</small></td></tr><tr><th>ゲスト</th><td><strong>広瀬勉</strong> （写真家・飲食業）</td></tr><tr><th>案内人</th><td><strong>飯沢耕太郎 </strong>（写真評論家）</td></tr><tr><th>イベント形態</th><td><strong>Zoomウェビナー（Webinar）を利用した<strong>ライブ配信です。</strong></strong><br><small>※お申込みいただいた方には参加URLを事前にメールにてお送りします。</small></td></tr><tr><th>参加料</th><td><strong>無料</strong></td></tr><tr><th>参加方法</th><td><strong><a href="https://us02web.zoom.us/webinar/register/WN_7TQFGJTUSey7vfGb0kIkhA" target="_blank" rel="noreferrer noopener external" data-wpel-link="external">このウェビナー（Webinar）を申し込む</a></strong></td></tr><tr><th>申込期限</th><td>チケットの申込期限は当日5月1日の21:00までとさせていただきます。</td></tr><tr><th>主催</th><td>スタイル株式会社</td></tr></tbody></table></figure>
<!-- /wp:table -->

<!-- wp:paragraph {"className":"mb-xl"} -->
<p class="mb-xl">※プログラムの内容・時間などは予告なく変更となる可能性があります。ご了承ください。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading">今夜の写真集</h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:html -->
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<a href="https://amzn.asia/d/0fYJaAi5" target="_blank" rel="noopener external noreferrer" data-wpel-link="external"></a>
<div class="book--image">
<img decoding="async" src="https://m.media-amazon.com/images/I/71ek4XMfe-L._SY522_.jpg" alt="『天沼(あまぬま)　矢川澄子・室野井洋子・知久寿焼のアルバム』" /></noscript>
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<h3>『<ruby>天沼<rt>あまぬま</rt></ruby>　矢川澄子・室野井洋子・知久寿焼のアルバム』</h3>
<p>発売：港の人</p>
<p>発行日：2025年12月15日</p>
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</div>
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                    <item>
                <title>データは何も語らない。意思決定に寄与するのは、仮説ばかりである</title>
                <link>https://wirelesswire.jp/2026/04/93248/</link>
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                <dc:creator><![CDATA[井山弘幸]]></dc:creator>
                <pubDate>Thu, 09 Apr 2026 21:00:00 GMT</pubDate>
                                                    <category><![CDATA[科学技術芸術と社会]]></category>
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                <description><![CDATA[巧妙な仮説があった、野村克也監督のID野球 まずは野球の話題。Thinking Baseball 「考える野球」をブレイザー監督から受け継いだプロ野球の名監督故野村克也はID野球を提唱した。Import Data、データ [&hellip;]]]></description>
                <content:encoded>
                    <![CDATA[<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>巧妙な仮説があった、野村克也監督のID野球</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>まずは野球の話題。Thinking Baseball 「考える野球」をブレイザー監督から受け継いだプロ野球の名監督故野村克也はID野球を提唱した。Import Data、データ重視野球、チーム編成や選手のプレイ上の判断は、経験や勘に頼るのでなく「客観的データを取り込んで科学的に進める」べきだ、と考えた。「勘ピュータ」と揶揄された直感や勘に頼る、野村の生涯のライヴァルである長嶋茂雄巨人軍終身名誉監督の野球と好対照をなす、とされる。野球のデータにも種々あるが、実際の試合の記録であるスコアブックのデータならば、どのように生かすのか。例を示そう。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:html -->
<blockquote>１）初球から強振する傾向のある外国人打者に、投手はボール球から入れと指示する。<br>
２）内角に死球すれすれのボールで打者に意識づけをすると、外角低めの変化球で打ち取りやすい。<br>
３）打球方向に偏りのある打者には、それに応じた大胆な守備シフトを敷く。他にも投手・打者の相性や風向きなどのデータが利用される。（左打者は左投げ投手を打ちあぐねるとか、甲子園球場は浜風が吹くためライト方向のホームランが出にくいとか）。</blockquote> 
<!-- /wp:html -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ここには落とし穴がある。以上挙げた事例はどれも頻度分析に基礎を置くものだ。ものごとは頻度の高い方向に動く、すなわち統計的に生起確率の高い事象が予測される。だから、それに応じた行為を選択すれば成功すると考えるのだが、相手もまた同じデータを共有していることを忘れてはならない。１）初球のボールも、２）内角の意識づけの後の外角変化球も、そして３）守備シフトも読まれて逆用されカウンターを蒙る恐れがある。そうでなくとも、作戦に成功することも確率事象なのだから、失敗する可能性を常に残している。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>データを活かしてゲームを勝利に導くことはそう簡単ではないとしても、意思決定の材料であることは確かだ。利用する者を選ばないという意味で、不偏で中立であることもデータの特徴である。意思決定に至らない場合でも、データは現象に潜む規則性や自然の法則性を知るうえで重要である。例えば、新型コロナウイルス感染症（COVID‑19）の流行初期の感染者数に対する死亡者の比率は約5％であったが、2023年までに0.2%程度まで下がった。ここまでが現象に関する客観的データの一部だが、各自が感染を心配することなく自由に活動できるかどうか、その意思決定や判断にはこのデータ以外の要件、仮説が必要となる。例えば「0.2％の死亡率ならば用心するほどの感染症ではない」と言った仮説が。ID野球の特質は、実はその仮説の立て方の巧妙にあったのである。仮説は暗黙のうちに前提とされていることが多いので注意を要する。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>長嶋監督の勘ピュータもまた「データ」を活用していたのかもしれない</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>実を言うと、データにはもう一つ別の用例がある。知識の根源をもとめる論考で、哲学者ラッセルが用いたもとの意味は sense data すなわち感覚所与であった。感覚として個々人に与えられたもの。知識の構成にとって基本的な情報単位である「与えられた感覚体験」のことをデータと呼んだのである。感覚与件とも訳す。自らに与えられたという意味であって、他人からは知りようのないものである。これはID野球のデータとは根本的に異なる。スコアラーや公式記録員が作成するデータは全てが客観的な数値データであり、誰もが利用できるのに対して、感覚所与で言うところのデータは、時にはきわめて個人的で私秘的な感覚体験で得られる情報となる。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>例えば、発熱や寒気を感じるときのいつもとは異なる不快な感覚は、本人にとって第二の意味の「所与で私秘的なデータ」であるのに対して、体温計で測定した体温37.0℃は、第一の意味の「客観的なデータ」となる。だから長嶋監督の勘ピュータは第二の哲学的な意味での、感覚所与のデータを活かしていたのかもしれない。監督時代に一点差で負けているゲーム、最終回二死一塁で走者に盗塁を命じたことがあったけれども、投手のモーションやランナーの走力から「盗塁できる」という状況感覚を得ていた可能性がある。それが長嶋監督以外の誰も知り得ないものであることは、言うまでもない。スピードメーターで測定した球速160km/hは第一の、打者が感じる球の「重さ」は第二のデータである。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>宮澤賢治にとってのデータとは。「青空に無色な孔雀が居た」という仮説もデータに基づいていた</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>データがそれ自体では何も語らず、推論の材料として使われるときには仮説が必要となることを、科学者でもあり詩人でもあった宮澤賢治が書いているので、少々寄り道となるけれど触れておこう。処女詩集「春と修羅」の序詞で賢治はこんな風に語る。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:html -->
<blockquote>…けだしわれわれがわれわれの感官や／風景や人物をかんずるやうに／そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに／記録や歴史　あるいは地史といふものも／それのいろいろの論料（データ）といっしょに／（因果の時空的制約のもとに）／われわれがかんじてゐるのに過ぎません／おそらくこれから二千年もたつたころは／それ相当のちがつた地質学が流用され／相当した証拠もまた次次過去から現出し／みんなは二千年ぐらゐ前には／青ぞらいつぱいの無色な孔雀が居たとおもひ／新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層／きらびやかな氷窒素のあたりから／すてきな化石を発掘したり／あるいは白堊紀砂岩の層面に／透明な人類の巨大な足跡を／発見するかもしれません…</blockquote>
<!-- /wp:html -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>賢治にとってデータは共通に感じる「論料」、つまり議論の材料ということだ。論理学のトゥールミンモデルではデータを「根拠」あるいは「事実」と訳すことに対応している。歴史や地質学史も一つのデータであって、それを材料あるいは拠りどころとして、仮説が推論されてゆく。だがその仮説は二千年後には「相当違った」ものになるだろう、と賢治は断ずる。捨てられてしまうこともあると言う。「青空に無色な孔雀が居た」という仮説はデータに基づいたものであっても、いずれ誤りとされる日がくる。トゥールミンモデルではデータだけでは何も分からず、それを活用するには論拠（warrant）が必要とされる。論拠は大概仮説のことである。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>死亡率がわかるから、生命保険の掛け金が設定できる。データが意思決定につながるとき</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ビッグデータに恐れをなす必要はない。第一の意味での客観的な数値データが膨大に蓄積されたとしても、そこから有益な結論を引き出す仮説がなければ、説得力のある論拠が見つからなければ、宝の持ち腐れで何も使われずに眠ったままでいるだろう。生命保険の成立を例にとって考えてみよう。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>どの社会にも記録され眠っているデータの一つに死亡記録がある。欧米の墓標には故人の誕生年と死亡年が刻まれているが、長らくそのデータは何も語らないでいた。1603年12月7日。ロンドンで『死亡表』<em>Bills of mortality</em>なる冊子が発行されるようになった。前の一週間にロンドン市内で何人死んだのか。死因別にその年齢と人数が書かれていた。早産、老衰、咳病、黒死病、歯熱、梅毒、自殺、驚愕、などの原因があがっていた。驚愕というのが面白い。特に疫病や<em>Fumifugium</em>即ち大気汚染との関連を知るために調査員を派遣して作成された。職業や家柄と寿命の関係に興味をもつ者もいただろう。だがこの段階でもデータから意思決定までの道のりは遠い。データはなかなか語ってくれないのだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>この英国教会の過去帳をもとに作成された死亡表というデータ素材をもとに、人口統計上の仮説を設け、自然法則として整理したのが商人のジョン・グラント（John Graunt）だ。1662年に『「死亡表」にもとづく自然および政治的考察』<em>Natural and Political Observations Made Upon the Bills of Mortality</em> を発表した。この書物は学会で高く評価された。その成果の一つがロンドンの人口の推計である。出生と死亡、移民や逃亡があって今とは違いなかなか掌握しかねていたものに、統計分析から光明が得られる結果となった。当時人口は200万人と過大に見積もられていたが、グラントは死亡表から38万4千人と推算した。出生率から死亡率を引いた増加関数の歴年の積分値を人口とする仮説を用いたことになる。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>死亡数と出生数のデータから更に有益な結論を引き出したのが、ハレー彗星の予測で名を残したエドマンド・ハレー（Edmund Halley）である。王立協会の会員として南半球の恒星の観測や貿易風の研究を仕上げた後、当時ドイツ領のブレスラウ（現ポーランド領ヴロツワフ）の死亡表の統計データを元に、1693年に初めて生命表を作成した。生命表とは誕生日から、翌年の誕生日までに死ぬ確率（死亡率）と平均余命を年齢ごとに表わしたもののことである。もっと正確に言えば、x歳で存命中の人間の総数Lx人のうち、x+1歳になる前に死んだ人をndx人とした場合、ndx÷Lxで表される数値nqxのことだ。この中でハレーは生命保険料の算定について提案を行う。支払うときの年齢での死亡率にもとづいて決めるべきだと。生命保険や年金の起源は職人ギルドや聖職者などの互助的制度で、死亡時に家族が受け取る、あるいは退職後に本人が受けとる仕組みになっていたが、保険料は入会時の年齢とは関係なく一律に決められていた。これでは若い人は入会を渋り、老齢に達してから入ろうとする。原資が不足し赤字になることもあった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ハレーの考案した生命表では年齢ごとに死亡率が異なる。その点は今も同じである。参考までに、現在使われている令和4年のわが国厚生労働省公表の生命表における死亡率を掲げる。60歳男性で0.627％、65歳1.0％、70歳1.68％、75歳2.67％、80歳4.5％、85歳8.08％、90歳14.4％、95歳24.1％、100歳37.0％。高齢になっても半数以上翌年まで生き続けることになるから、われわれの直感に反するようで不思議に感じるかもしれないが、80歳を過ぎても加入できる保険があるのは、これに従い掛け金を決められるからである。ブレスラウの住民のデータから作られた生命表は異国のロンドン市民に対して成り立つ、という推論には無理があるように思われるが、「それぞれの年齢において固有の死亡率の実績値は未来も同じである」という仮説が汎用性の高い優れたものであったことに注目すべきだ。それでも仮説は仮説である。上述の厚生労働省の生命表は当然ながら、日本の過去の人口統計データから引き出されたものとなるが、これも同一の仮説を用いている。過去の統計法則は未来予測に用いることができる。この重要な発見によって、購入者の年齢に応じた適切な価格で、即ち保険業者が破綻せず制度が持続できる年金サービスを供給することができるようになったのである。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>確率という物理量が存在する、という仮説</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ブレスラウの住民データからの死亡表を経て生命表の導出まで、この一連の思考の流れは自然なもののように考えられがちだが、グラントやハレーが暗黙の前提とした仮説がなければ、実際思うようにならなかった。死者のデータは永遠に眠ったままだったろう。そもそも一定の年齢xのときに来年の誕生日までに死ぬ確率nqxは存在するのだろうか。もし定められた寿命が10年先ならば、それまではnqx＝0でなければおかしい。つまり運命論者にとって死ぬ年だけがnqx＝100％で、それ以前はnqx＝0％なのだ。運命論を含む決定論の考え方が優勢であった時代には、確率という概念は誤謬や迷妄として思考の埒外に追いやられていたのである。もちろん「人間には神または悪魔によって定められた死期が存在する」という運命論も、あるいは「すべての現象はラプラスの方程式にしたがって必然的に起きる」という決定論も、「人間は年齢xのとき翌年までにnqxの確率で死ぬ」という確率論も、いずれも仮説であることに変わりはない。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>長らく数学教育のなかで自明とされてきた確率。思い出して欲しい。ものごとや出来事に対して一定の確率が存在することを、先生は証明してくれただろうか？答えはノーだ。「確率という未来にある出来事が起きる可能性を表わす《量》が存在すると仮定しているだけですよ」とは生徒に教えるわけにはいかないだろう。信じなければ試験のとき困るだろう、と言うくらいだ。それに先生自身その信念の虜になっているかもしれない。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>それに数学の授業で教わる確率は、死亡率のような統計的な確率ではない。骰子の目やコインの裏表の順列組合せの比率から得られる、論理的な可能性であって異なる性質のものである。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>確率論と運命論。どちらが真実なのかは確かめようがない</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>保険制度の場合、未来にまで拡張した死亡率の存在を受け入れたのは、掛け金が適切で説得的だと感じられ、利用者を維持し拡大できたからだ。だが商業的成功は科学的な証明と無関係である。死亡率は貴方がいつ死ぬのか正確に予言するものではない。冒頭の野球の話でも同じようなことが言える。3割打者とは過去のヒット率3割の実績をもつ者のことを言い、次の打席でヒットを打つ可能性が3割という意味ではない。ただプロ選手の成績評価に役立つという意味では保険と似ている。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>もちろん貴方が死ぬ年齢やXデーが存在するという運命論も、そう信じる人がいる一方で、その存在は証明できない。三遊亭圓朝がグリム童話を翻案した落語「死神」ではあらゆる人間の寿命は残されたロウソクの長さで表される。Xデーは人生のロウソクが燃え尽きたときである。植物の命名法の基礎を築いた18世紀の博物学者リンネは『神罰』という本を書いていて、天網恢恢疎にして漏らさず、人間の犯した罪を神は見逃すはずはなく、必ず定められたときに神罰を下していると説いた。これもまた別の形の運命論である。最大の欠点はロウソクが尽きる日も、神罰の下る日も誰もあらかじめ知ることができない、というところにある。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>確率論と運命論（あるいは決定論）。どちらが真実なのかは確かめようがない。言えることは、産業革命以降に第二次科学革命が起き、国家運営の強力な手段として統計調査が世界中で行われるようになって以来、われわれは確率論の世界を信じ、そのなかで生きている、ということだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>データは語らない。自ずと知識が読めてしまう（read off）ことはない。データは仮説をもって読み込み（read in）語らせなければならない。<br>（井山弘幸／新潟大学）</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p><strong>参考文献</strong><br>『データは語る』米山高範（日科技連出版社　2000年）<br>『<a href="https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=978-4-7976-8033-1" target="_blank" rel="noreferrer noopener external" data-wpel-link="external">データが語る日本財政の未来</a>』明石順平（集英社　2019年）<br>『<a href="https://www.tokuma.jp/book/b494665.html" target="_blank" rel="noreferrer noopener external" data-wpel-link="external">野村克也 野球論集成</a>』野村克也 （徳間書店　2017年）<br>「春と修羅」『<a href="https://www.iwanami.co.jp/book/b249306.html" target="_blank" rel="noreferrer noopener external" data-wpel-link="external">宮澤賢治詩集</a>』宮澤賢治（岩波書店　1950年）<br>『偶然を飼いならす―統計学と第二次科』イアン・ハッキング　石原英樹、重田園江訳（木鐸社　1999年）<br>『<a href="https://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-00472-8.html" target="_blank" rel="noreferrer noopener external" data-wpel-link="external">神罰</a>』C.v.リンネ　W.レペニース編　小川さくえ訳（法政大学出版局　1995年）<br>『確率論史』アイザック・トドハンター　安藤洋美訳（講談社　2002年）</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>（当記事はModern Times 2023年7月に公開された記事の再掲載です）</p>
<!-- /wp:paragraph -->]]>
                </content:encoded>

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            </item>
                    <item>
                <title>スタジオジブリの長編アニメ「君たちはどう生きるか」は本当に最後の作品か？</title>
                <link>https://wirelesswire.jp/2026/04/93208/</link>
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                <dc:creator><![CDATA[小松原織香]]></dc:creator>
                <pubDate>Wed, 08 Apr 2026 21:00:00 GMT</pubDate>
                                                    <category><![CDATA[科学技術芸術と社会]]></category>
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                <description><![CDATA[余計な知識や情報は一切無用 2023年7月14日、宮崎駿監督の長編アニメーション作品「君たちはどう生きるか」の公開が始まった。今回、この作品の宣伝は一切なかった。予告映像はもちろん、キャラクターデザインや声優のキャスト、 [&hellip;]]]></description>
                <content:encoded>
                    <![CDATA[<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>余計な知識や情報は一切無用</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>2023年7月14日、宮崎駿監督の長編アニメーション作品「君たちはどう生きるか」の公開が始まった。今回、この作品の宣伝は一切なかった。予告映像はもちろん、キャラクターデザインや声優のキャスト、どんな作品なのかというヒントは全くない。タイトルと、鳥のなかに人間が隠れているようなイラストのポスター1枚だけが、この作品の情報だった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>私は九州に出張中だったので、天神ソラリアという博多の中心部にある映画館に朝9時の回に観に行った。最速の上映回なので、誰も内容を知っている人はいない。客席は2、3割が埋まっているだけだ。子どもはゼロ。夏休みに公開されるスタジオジブリのアニメーション映画としては寂しい限りだ。あまりにも宣伝がなかったため、この映画のことを知らない人も多いのだろう。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>異例の上映体制だが、作品を観て、すべて納得がいった。これは大人向けだし、事前情報なく観るべき映画だ。私が想起したのは、黒澤明監督の「夢」だ。「夢」では、いくつもの夢を繋ぎ合わせたような、ストーリーも判然とした幻想的な作品だ。「君たちはどう生きるか」も、主人公が現実から夢想の世界へと入り込み、過去の映画作品や小説をモチーフにしたシュールレアリズム的な場面が脈絡なく続いていく。それを、頭で解釈するのではなく、感性を開いて作品世界に没入していくような映画である。余計な知識や情報は無用なのだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>私自身、評を書くためにメモ帳を膝に置いて鑑賞を始めた。だが、そんなものは必要ないと気づいて、あっという間に諦めた。そのため、今も自分の記憶をたどって原稿を書いており、登場人物の名前のような基本情報すら曖昧だ。パンフレットもまだ発売されていないからだ。そのため、この評もできれば作品を観た後に読んでほしい。何も考えず、何が起きるのか全くわからない不安の中、主人公とともに作品世界を楽しむのが一番良いと思う。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>原作とは、時代設定も主人公も全く異なる</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>さて、この作品の原作となっているのは、1937年に出版された吉野源三郎の同名の子ども向けの読み物だ。コペル君と名付けられた少年が、叔父さんの導きのもとで、人々の労働によって豊かなものが生み出されている一方で、貧困などの問題が深刻になっている社会の問題に向き合う。そして、どんなに知識があり思索が深まったとしても、級友がいじめられているときに、立ち上がってかばうことができなかったことに深く落ち込み、どうあるべきかを真剣に考える。長く子どもたちに倫理を考える教材として使われてきたテキストである。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":93221,"sizeSlug":"large","linkDestination":"none","align":"center"} -->
<figure class="wp-block-image aligncenter size-large"><img src="https://wirelesswire.jp/wp-content/uploads/2026/04/kimitachi003-1024x554.jpg" alt="" class="wp-image-93221"/></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>宮崎駿の「君たちはどう生きるか」は、タイトルは同じであっても時代設定も、主人公も全く異なる。第二次世界大戦の頃、主人公の少年・マヒトは母親を空襲で失う。この出来事でマヒトは深いトラウマを負い、生きる気力をなくしてしまった。父親は、母親の妹・ナツコと恋に落ちて再婚し、新しい子どもをもうけた。マヒトは、ナツコに優しく接してもらい、お屋敷で何不自由なく暮らしているが、ずっと暗い顔で心を閉じたままだ。転校して出会った同級生とはうまくいかず、いじめられた際には自分の頭を石で殴りつけて自傷行為に至る。それを、まるで同級生にやられたように見せかける。彼には、コペル君のような級友がいない。誰かをかばうことなど考えたこともない。孤独で傷つきやすく、自分に閉じこもった少年なのである。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>ところが、マヒトが引き取られたお屋敷は摩訶不思議なところだった。豪邸ではあるが、魔界の宮殿のように入り組んで、異様な雰囲気だ。そこで働いているおばあさんたちは、活力に満ち溢れているが、わらわらと動く様子はどこかコミカルで妖怪のようだ。そこに、怪しい青鷺が現れる。ただの鳥ではなく、人間の言葉を喋ってマヒトをたぶらかす。そして、翻弄されたマヒトは異世界に迷い込み、ナツコがそこにいると知って、現実に連れ帰ると決意する。この不思議な異世界や生きものたちは、マヒトの傷ついた心の世界の具現化のようにも見える。不安や恐怖、猜疑心が、ごくふつうの鳥や人々、お屋敷を異形のものに変えてしまう。その空想世界で、少年がトラウマを克服し、生きる気力を取り戻すのが、この作品のテーマである。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>際立った宮崎駿の生命観の掘り下げ</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>この中核のテーマは、これまでの宮崎の作品でも反復されてきた。宮崎にとってアニメーションは、視聴者である子どもたちが、生きる力を見出して、元気に外の世界へ飛び出していくきっかけ作りだ。<br>そのストーリーのなかで際立つのは宮崎の生命観の掘り下げだ。五点に絞って論じてみたい。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>第一に、生命の誕生とエロティシズムの関係だ。それに対して、母親そっくりのナツコは、新しい命を宿した妊婦だ。その背景に父親との性行為があったことを、マヒトは理解している。だからこそ、ナツコを母とは呼ばず、「お父さんの好きな人」と持ってまわった呼び方をする。二人の関係の中にエロティシズムがあることを察しながら、それを拒絶している。いくらナツコがマヒトに手を差し伸べようとも、彼は応じない。マヒトはエロティシズムを拒絶している。それに対し、異世界ではエロティシズムを教えてくれる大人の女性・キリコさんが現れる。彼女は舟を操って、漁師をして暮らしている。マヒトは彼女が魚をさばくのを手伝いながら、包丁で身を切り開き、内臓を取り出す。血のしたたる作業の中で、なまなましい肉や臓器に触れる様子はどこかエロティックでもある。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":93226,"sizeSlug":"large","linkDestination":"none"} -->
<figure class="wp-block-image size-large"><img src="https://wirelesswire.jp/wp-content/uploads/2026/04/kimitachi030-1024x554.jpg" alt="" class="wp-image-93226"/></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>さらに、異世界には「ワラワラ」と呼ばれる生きものたちがいる。かれらはこの魚の内臓を食べることで天空へ飛んでいき、現実世界に新しい生命を宿すのだとキリコさんはマヒトに教える。おそらくワラワラたちは、魂のようなものだろう。比喩的ではあるが、ここではエロティシズムが生命の誕生と結びつけられ、肯定されている。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>現実世界で出ていくワラワラと、閉じ込められているペリカンたち</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>第二に、生命の循環だ。異世界の生きものたちは命を持たない。影のように顔もなく、殺生もできない。ここは死の世界であり、生命の源泉でもある。その象徴が先のワラワラたちである。かれらは群れになって空へ飛んでいくと、螺旋を描き始める。それは螺旋状のDNAを連想させ、生命に含まれる情報を継承しながら現実世界へ向かっているようだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":93224,"sizeSlug":"large","linkDestination":"none","align":"center"} -->
<figure class="wp-block-image aligncenter size-large"><img src="https://wirelesswire.jp/wp-content/uploads/2026/04/kimitachi007-1024x554.jpg" alt="" class="wp-image-93224"/></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>そこに襲いかかるのがペリカンの群れだ。かれらはワラワラたちを食べ尽くそうとする。マヒトはそれを止めようとするが、ヒミと呼ばれる少女が船に乗って登場し花火を打ち上げる。その炎でペリカンたちは焼き殺され、助かったワラワラたちは無事に空を飛んでいく。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>マヒトはヒミの炎で負傷したペリカンを発見し、ワラワラたちを食べるからそんなことになるのだと責める。しかしペリカンたちは飢えており、ワラワラたちを食べなければ生きていけない切実さを語る。もういまや、飛べないペリカンの子どもたちもいるのだという。なんとかここから抜け出そうと飛び立ったが、出られなかったと語り、ペリカンは死んでしまう。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>この異世界のありようは、アンビバレントだ。一方にはワラワラたちのように、生命の循環の輪の中で、生命を司って現実世界へと出ていくものたちがいる。他方にはペリカンたちのように、異世界に閉じ込められて、現実世界へ出ていけないものたちがいる。なぜ、ペリカンたちが生命の循環の輪からこぼれ落ちてしまったのか作中では描かれないが、この世界では鳥たちは呪いにかかったように生命の営みが破断している。おそらく、この世界では鳥たちが人間の比喩なのだろう。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>生命を次世代に受け継ぐという意味での抽象的な母子関係</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>第三に、時間の中で現れる生命の姿の変化だ。異世界で自立した女性として登場するキリコさんは、実はお屋敷で働いているおばあさんたちの一人である。ほかのおばあさんたちは、木彫りの人形に変身して、異世界でひそかにマヒトを危険から守っている。また、ヒミと呼ばれる炎を操る少女は、マヒトの死んだはずの実母の、若かりし頃の姿である。おばあさんたちや母親たちが、かつては若い女性や少女であったことがここでは示唆される。つまり、時の流れや世界のありようによって、かれらの命は姿を変えて、たとえ死んでしまったとしても別の場所では別の形で存在するのだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>第四に、母子関係だ。マヒトのトラウマの核心は「母を救えなかったこと」にある。母親が火事で焼け死んでいくときに、マヒトは何もできなかった。その「無力であった」という経験が、彼のトラウマになっている。炎のなかの母は神格化され、いつも手を伸ばしても届かない存在だ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>それに対して、マヒトは母親そっくりのナツコを拒絶し、距離を置いている。ところが、異世界を駆け回っているうちに、幽閉されているナツコを見つける。マヒトは彼女を現実に連れ戻そうとするが、今度は彼女がマヒトを拒絶する。それでもマヒトは「ナツコお母さん」と呼んで手を伸ばす。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":93223,"sizeSlug":"large","linkDestination":"none","align":"center"} -->
<figure class="wp-block-image aligncenter size-large"><img src="https://wirelesswire.jp/wp-content/uploads/2026/04/kimitachi040-1024x554.jpg" alt="" class="wp-image-93223"/></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>なぜ、マヒトがナツコを母と認めたのかについて、作中でははっきりとした説明がない。たとえば、キリコさんを通して大人の女性にエロティシズムについて教えられ、受け入れたことが理由かもしれない。もしくは、屋敷のおばあさんたちや実母たちに守られたという経験によって、マヒトのなかに人を守ろうとする気持ちを育んだ可能性もある。さらに火事にあった母親の姿と、幽閉されたナツコが重なって、トラウマの再演として「母を救う」という行為を繰り返しているとも解釈できる。おそらく、それらがごちゃまぜになりながら、マヒトはナツコを母と呼んで、ともに現実の世界に帰る。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>他方、実の母の化身であるヒミは最後に現実の世界に戻るときには、マヒトとは異なる時代に戻る。その先には、マヒトの出産、その後の火事での死が待っている。マヒトはヒミを止めようとするが、彼女はマヒトを産みたいから、火事で死んでもかまわないという。ここではっきりとするメッセージは、子どもに対する母親の「私はあなたを産みたい」である。よくある母親が子どもを守る場面では、子どもの命を守るために母親が犠牲になる。ヒミの行為もそれに似ているが自己犠牲というよりは、自らの欲望として「産みたい」のだと言う。<br>この場面はとても興味深い。実母は「あなたを産みたい」というが、その息子とともに生きていくのは、別の女性である。「産む」行為に大きな価値が置かれながらも、血縁ではない関係で子どもが生きていくことを肯定する。ここにあるのは、生命を次世代に受け継ぐという意味での、抽象的な母子関係が、マヒト・ヒミ・ナツコの三人の関係を通して浮かび上がる。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:heading -->
<h2 class="wp-block-heading"><strong>平和な世界を構築するために努力を続ける大叔父のモデルは……</strong></h2>
<!-- /wp:heading -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>第五に父子関係の破断だ。母子関係とは対照的に、父子関係は希薄である。父親は、息子のために奔走するが、なにひとつマヒトの心に届いていない。さらに、原作では父がわりとして登場した叔父は、その位置を異世界の創造主として、抽象的な父の座に「大叔父」として置かれている。大叔父は、平和な世界を構築するために微妙なバランスをとることを日々努力しており、できればマヒトに継いで欲しいと思っている。だがマヒトはそんなことには関心がなく、断ってしまう。しかも、横から手を出した、後継者に見合わない者が手を出したことで、異世界は崩壊してしまう。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

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<figure class="wp-block-image aligncenter size-large"><img src="https://wirelesswire.jp/wp-content/uploads/2026/04/kimitachi042-1024x554.jpg" alt="" class="wp-image-93225"/></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>この大叔父とは、間違いなく宮崎駿のことだろう。空想世界を構築するための、スタジオジブリを切り盛りし、石の積み木をつむように、アニメーションを制作してきた。何十年もかけて築き上げ、ギリギリのところでバランスをとってきた自分の世界も、次の世代には継いでもらえない。でも、それは受け入れて、マヒトたちが走り去るのを見送り、自分は瓦礫の中に埋もれていくのだ。若者たちはどんなに残酷で悲惨で、未来のない世界でも、そこが現実である限り生きていかなければならないとわかってはいるからだ。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>異世界もアニメーションも、生命なき世界だ。命がないので次の世代には何も引き継げず、朽ちていくしかない。他方、ワラワラたちが飛んでいくように、そこは静止した世界ではなく、新しい命を後押しするダイナミズムに満ちている。空想というものが、生命を育むことに働きかけることができると同時に、それ自体は決して生命にはなりえない。その矛盾が露呈していくような物語でもあった。</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:image {"id":93228,"sizeSlug":"large","linkDestination":"none","align":"center"} -->
<figure class="wp-block-image aligncenter size-large"><img src="https://wirelesswire.jp/wp-content/uploads/2026/04/kimitachi027-1024x554.jpg" alt="" class="wp-image-93228"/></figure>
<!-- /wp:image -->

<!-- wp:paragraph -->
<p>以上のように、宮崎の生命観に着目していくつかの場面の解釈を試みた。「君たちはどう生きるか」は、宮崎のこれまでの作品や思想の集大成であり、刺激的なモチーフがいくつもある。これからも、作品論が出るだろうし、宮崎のインタビューが出ればより本格的な研究もできるだろう。最後の作品と銘打ちながらも、新しいアイデアと可能性が溢れんばかりに詰め込まれている。<br>同時に、この作品は売れず酷評も出るかもしれない。それでも、十年後、二十年後にも、人々を惹きつける普遍的な作品であると私は思った。<br>（小松原織香／作家）</p>
<!-- /wp:paragraph -->

<!-- wp:paragraph {"style":{"elements":{"link":{"color":{"text":"#333333"}}},"color":{"text":"#333333"}},"fontSize":"small"} -->
<p class="has-text-color has-link-color has-small-font-size" style="color:#333333">（当記事はModern Times 2023年7月に公開された記事の再掲載です）<br></p>
<!-- /wp:paragraph -->]]>
                </content:encoded>

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