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グローバリズムから「インターローカリズム」へ

グローバリズムから「インターローカリズム」へ

2020.07.04

Updated by Chikahiro Hanamura on July 4, 2020, 10:20 am JST

2020年1月より世界中に拡散したといわれる新型コロナウイルスと、それに端を発するパンデミック現象は、半年経った今でも世界中を席巻している。この新型コロナウイルスという存在そのものや、その危険性についてはまだよく分かっていない部分も多い。その中でWHO(世界保健機関)によって早々と出されたパンデミック宣言や、世界各地で都市封鎖が行われたことで様々な影響が現れている。

果たしてこの封鎖を行う必要があったのか、そしてそれによって感染拡大防止に効果があったのか。そのことには個人的に疑問を抱いているが、別の論考(「パンデミックをつくったのは誰か」 )で詳しく触れているのでここでは述べるつもりはない。ただ、いずれにせよ起こってしまった都市封鎖によって活動が停滞させられたことによって、文字通り経済の状況が一変していくのは確実である。 それに合わせた形の新しい価値観やシステムは、いかにして考えれば良いのだろうか。生活や産業をどう考えれば良いのだろうか。

「ネガティブの経済学」と掲げたこの一連の論考は、これまでの経済システムへの疑問と次なる方向性を探すことを念頭に、パンデミック以前から書き始めていた。だが、その矢先に今回のような事態が起こったことで、思ったよりも早く考察を進めねばならなくなった。私たちの経済や社会のあり方を修正する必要性は、これまで以上に大きくなってくる。特に世界規模の都市や国の封鎖という形で移動などの活動が制限されたことを受けて、これまでの社会や産業のあり方が急速に変わり始めているからだ。

壊滅的な観光産業

中でも、いち早く影響を受けて壊滅的な事態に陥っているのが観光産業である。羽田や関空のウェブサイトへ行き、発着便を確認すれば毎日何十もの発着便が欠航続きになっている状況が確認できるだろう。この20年ほどの間、世界経済を牽引する大きな力のひとつは観光産業であり、人が移動する現象を前提に社会のシステムや様々な産業が再編成されていく真っ最中だった。

半年前の世界で問題になっていたのは「オーバーツーリズム」である。観光客が訪れすぎて、それをどのように抑制するのか、観光客と住民との間の軋轢をどのように解消するかという難問に、観光業界や行政は心を砕いていた。しかし半年経った今は、全く逆の状況となっている。日本では、2020年には4000万人のインバウンド観光客を受け入れることを目指して施策を進めてきたが、4月の訪日外客数は前年同月比の99.9%減の2900人、5月も1700人と8カ月連続で前年同月を下回っている(日本政府観光局の発表資料)。

こうした観光産業の壊滅的な状況は、もちろん日本国内だけでなく全世界で広がっている。2020年1月から3月の世界の観光客数は前年同期比22%減少し、800億ドルの損失につながった。UNWTO(世界観光機関)は5月初めに、今年の12月まで世界各国で国境封鎖や渡航禁止が続いた場合、観光客数は前年比78%減少するとの予測を示した(日本経済新聞の記事)。そうなると、世界で最大1億2000万人が失業し、1兆2000億ドル(約130兆円)の損失が出る可能性があるという。

アメリカでも、新型コロナウイルス感染拡大の影響ですでに旅行関連の失業者が800万人に達したことを全米旅行産業協会が5月初頭に発表している(やまとごころ.jpのインバウンドコラム)。各航空会社にも、次々と事実上の破綻が始まっている。イギリスのフライビーのような欧州最大の格安航空会社(LCC)が破綻し、タイ国際航空やコロンビアのアビアンカ航空、独ルフトハンザ、KLMオランダ航空、エア・インディアのようなフラッグシップキャリアまでもが、政府が救済に入らねば成り立たないほど深刻な経営状態になっている。ICAO(国際民間航空機関)も、2020年1月から9月の世界の航空旅客数は前年同期比で最大12億人減少すると見積もっている(SankeiBizの記事)。今回の事態が収束したとしても、以前のように気軽に海外旅行ができるようになるまでには、さらに相当な時間がかかることは予想に難くない。

拡がることを躊躇う世界

このような事態になることなど誰が予測できたであろうか。そんな声が上がるのも無理はない。ただ、このパンデミック以前の観光の状況が正常だったとは、全くいえない気分であるのも事実だ。世界中が狂ったように観光という渦の中に巻き込まれていたのだ。それがいつまでも続くとは考えにくい。

長尺で歴史を俯瞰していると、その流れがいつか反転することはある程度予想できたことだ。第一回目の論考(ネガティブの経済学01「ポジティブの罠」)でも述べたが、自然や文明の方向とはあるリズムを持って脈動しており、同じ状態が永遠に続くことなどあり得ないからだ。上に放り投げたボールがいつか止まってそれが落ちてくるように、また吸った空気をいつか吐き出すように、ある地点を境目に急速に方向が転換するのが自然の流れである。

観光現象にだけそれが当てはまらないという理由はないだろう。どのような形でその方向転換が現れるかについての予想は難しいかもしれないが、この十数年の加熱し過ぎた観光現象が持続不可能であることは明白だったのではないだろうか。

歴史の長い期間、人は自らの世界が外へ外へと拡がる方向を目指して進んできた。海を中心に世界の探索へ踏み出した大航海時代のように、その多くは交易や戦争、探索といった目的を持ってはいたが、それだけが人を旅に駆り立てたわけではない。外へと飛び出し未知の風景に触れてみたいという欲求は、人々の心の奥底に眠っているものだ。その欲求に歯止めをかけていたのは、物理的に距離を超えることの困難さだった。だがそれにも増して、安全な地域を離れて危険な荒野へ出ることへの精神的な恐れが大きく立ちはだかっていたのだろう。一度外に出ると生きて戻って来られる保証はなかったからだ。

それが1825年の鉄道の敷設以降、世界中で一気に解決が図られてきた。鉄道網、自動車交通網の整備、旅客機の就航などによって、安全に大量の人間を運搬する交通手段が追いついてきたのだ。そうした技術とシステムの進展によって、多くの人々が恐れることなく外の風景に触れる欲求を解放することができるようになった。

しかし今回のウイルス騒動で、その欲求は急激に反転した。この20世紀に整備された交通網に沿って急激に高まった人の流動は、物理的に疫病が拡散するのに最適な条件を作ったからだ。それ以上に、加速した情報の流動は、ウイルスの「恐怖」が拡散する最適な条件を整えた。観光という行動は、安全性が確保されていることが前提条件である。外は危険であるという恐怖が頭の中に巣食ってしまうと、外へ出て行こうという欲求には急速に歯止めがかかる。

実際の危険性以上に、ウイルス感染の恐怖に駆られた人々は、これまでのように大規模に観光するような状況を望むだろうか。再び元のような形で観光産業が盛んになることはありうるのだろうか。当面の間、そんなことは難しいと誰もが予想しているだろう。ではこれからしばらくの間、観光はどのような方向に進めば良いのだろうか。それを見定めるためには、文明の方向やこれからの世界秩序のあり方を含めた、広い視野から物事を俯瞰する必要がある。

多文化共生の限界

日本では実感が薄いかもしれないが、この100年間に世界は国境を開くことに心を砕いて来た。各国は異文化の人々を受け入れ、どのように共生させていくのかを模索してきた。多文化共生のモデルの一つは、様々な人種を内部に積極的に抱えることで成長したアメリカであり、文化の異なる各国を一つの枠組みでまとめたEU(欧州連合)だった。それは経済が前向きでうまくいっている状況では華々しい成果を挙げたように見えていた。

実際、新しい文化を生み出してきたのは、いつの時代も移民や旅人といった外の文化からやってきた人々であった。複数の文化に身を浸したことのある者はクリエイティビティに富み、新しい視点をもたらし、寛容さに優れているという側面があることも無視できない。

しかし一方で、こうした災禍が起こった時ほど、文化間の衝突や人種間の軋轢の問題が浮き彫りになる。21世紀の問題として並べられた水問題やゴミ問題などと同様に、異文化間の問題もこれまで表面化しなかっただけで、うまく回避できたとは言い難い現状がある。1990年代から移民の失業や貧困の問題、そして社会から疎外されている状況などが欧米を中心に現れ始めていた。そして直近では、英国のBREXITやアメリカのナショナリズム、難民・移民問題を背景としたEUの不和にも見られるように、この10年間に多文化主義政策の矛盾点は次々に浮き彫りになっていった。

日本では、2018年12月改正の出入国管理法の施行によって、労働者および生活者として外国人たちとの共存の方向へ舵を切ったが、早くもこのパンデミックで上陸を拒否せざるをえない状況となっている。日本は一足遅れた分、あまり問題視するには至っていないかもしれないが、移民が増えることで問題が発生することは予想できたことであった。

多文化共生とは、元来、難しいものである。文化とは、人種と同様にアイデンティティと一体であり、異なる文化的背景を持つ者同士はまるで異なる「まなざし」を持っている。私も半年前に、オーバーツーリズムを背景に、外国人観光客と日本人住民が同じ風景に全く違うまなざしを向けていることを描いた映像「Seeing differently」を制作したが、一時的に訪問する者には理解が難しいことはたくさんある。ましてや生活するとなると、うまくやっていくにはとても時間がかかる。だから結局、一つの地域や国の中に同文化の小さなクラスターをつくって閉じることが選択されがちである。もちろん同じ人種であっても、経済的な背景によって選択可能な文化の幅が制限されてしまうこともある。

特に、生活が厳しい状況下では、同文化よりも異文化の方を攻撃しやすくなりがちだ。調子の良い時には寛容に受け入れることができた人種の違いや慣習の違い、考え方の違いは、自分が苦しい立場になってくると煩わしいものになる。苦しみの原因は短絡的に人種や民族、文化の違いへと転嫁されて、極端なプロパガンダのもとデモや暴動へと育てられてしまう。

このパンデミック後の世界では、そうした多文化共生のあり方をもう一度見直さねばならなくなるだろう。今回のような事態が起こったことで、これまでのように世界はグローバルなレベルで人々が流動することがしばらくは難しくなる。そんな中では、自国の文化、地域の文化、言語や民族は、これまで以上にコミュニティを結ぶ上で重要になってくるだろう。

だがそれは、以前のナショナリズムや民族主義のような形とは異なるはずだ。これまでのナショナリズムや自国への愛国心というのは、安易に軍国主義や全体主義に結び付けられて来た。しかし観光という現象によって、自国のアイデンティティを大事にすることが、他国を排除することを意味しないと世界は理解し始めている。それぞれの国に、それぞれの良さがあり、それぞれの人々の暮らしがあり、人権があることを、今では誰もが無視できなくなっている。

そこを出発点にしたときに、自分の住んでいる地域を充実させるというあるべき方向へと再び向かって行く可能性が高い。それは、来る人は排除するということではなく、他国と競争をするということでもない。しっかりと足元を見ながら自らの国の生活を充実させていくことである。その上で、外からやってきた人を「歓待する」という態度が初めて意味を持つのではないだろうか。

足元に戻ってくる

2016年に第45代アメリカ合衆国の大統領に就任したドナルド・トランプ大統領は、「自国ファースト」を唱え様々な政策を行ってきた。このトランプ政権以降の米国は、パンデミック前から、国際的な枠組みから外れていく政策へ踏み切っていた。気候変動の枠組みから外れ、米中貿易戦争を起こし、WHOへの拠出金を停止するなど、グローバルの秩序から外れようとするトランプ大統領の動き。これは一見、常軌を逸した奇異な行動のように見える。

しかし実は、ある補助線を持って眺めると、今回のパンデミック後の世界を考える上で示唆に富んだものに思えてくる。一見単なるナショナリズムの高まりのように見えるが、実はグローバルという枠組みが極まって生じた大きな矛盾へのアンチテーゼではないか。それは、戦後の世界秩序を成してきた枠組みを一度リセットして、足元である国の内部を充実させて行く方向へと舵を切ることの先陣を切っているようにも見えるのである。その動きが、このパンデミックによって国境が閉ざされた世界と、今後奇妙に合致する可能性がある。

ちょうど100年前にスペイン風邪が猛威を振るった時は、世界は反対方向を向いていた。第一次世界大戦の終了とともに、国民国家を単位にインターナショナルな連合へ向かう転換点をこの世界は迎えていた。それからの100年間、人々の活動領域はさらに外へ外へとオープンに拡大していく方向を志向した。空の旅が人の移動を解放しただけではない。電子通信技術は情報の移動を解放し、国際的な金融システムが資本の移動も解放した。

第二次世界大戦後は冷戦構造の中、資本主義の自由経済と共産主義の計画経済の選択肢があったが、1989年のソビエト連邦の崩壊以降、世界の金融システムは一つとなった。オープンで自由であることが至上となり、いつしか国家の縛りを解いて国境という境界線を融かし流動性を高める方向が目指された。それがグローバリゼーションであるが、それはしっかりと国境を持った国家同士が相互関係を持つインターナショナリズムとは概念が異なる。グローバリズムとは、国境そのものを取り払って金や物や人の移動を加速させることで、より強いものが世界規模で莫大な利益を得る動きである。そこには国家という共同体のことなどは微塵も念頭にはない。

金融やグローバル企業は、国家の枠組みを超えて世界中を暴れまわり、世界全体をマーケットにビジネスが展開された。そこでの最良のビジネスモデルは、一番安い労働力を確保できる国で製造し、一番高く買ってくれる国で販売することになる。その理念の下に世界中にサプライチェーンを張り巡らせて企業は大きくなった。それはアメリカの大企業が先陣を切って進めてきた戦略だった。

その結果、安価な労働力を背景にこの30年ほど世界経済を牽引してきた中国で大量の雇用者が生まれ、一方でアメリカでは大量の失業者が生まれる状況となった。グローバリズムの帰着として、国家間の格差にも増して国内の格差の方が深刻な状況になるのは当然の結果である。金や人の流動化を加速させることは、金も人も地域や国家の外へ自由に出て行くことを許すのだから。そして、そんなグローバリズムに政治が積極的に加担してきたのだ。

しかし、今回のパンデミックであらゆる物事の方向性が反転し始めた。観光どころか、あらゆる産業が外への拡大から内への収縮の方向へと向かうだろう。これまでのグローバルなビジネスモデルが制限される方向に向かうことで、サプライチェーンは国内に呼び戻され、なるべく近くで循環するようになるだろう。食糧生産も自国で展開され、消費も自国向けになっていくと考えられる。

それは世界レベルで見ると国家という内側へと向かい、国家レベルで見ると地域という内側へ向かって行くことでもある。つまり日本で消費する食料を中国から輸入するのではなく、日本で生産するのと同じように、関西で消費する農作物を北海道から輸送するのではなく、極力近郊でつくるということになる。そうすると流通が止まった際のリスクも低く、フードマイレージも少なくて済む。人の移動もモノの移動も、エネルギーの消費を伴うため、できるだけ短い移動距離で、可能であれば地域の中で完結するような方向が模索されるはずである。

つまり時代が進む方向として、外へ出稼ぎに行くのではなく、国や地域の中で資源や資本を分配し、雇用を生み出し、経済を循環させることで、内側を充実させることへ向かう可能性が高い。

地域ごとに答えは違う

その中で国家や地域が生き残っていくには、どういう戦略が必要になるのだろうか。これまでのような世界規模でマーケットの取り合いになる状況は、どこかが勝てば、どこかが負けるという巨大なゼロサムゲームの構図があった。今でも世界中を席巻する情報インフラでは、GAFAのようなプラットフォームが一人勝ちのような様相を示している。インフラのように同じレギュレーションを世界中で展開することに意味がある場合には、こうした一人勝ちのビジネスが出てくるかもしれない。

しかし今回のパンデミック以降、全ての物事が大きく反対方向へと動き始めているとすれば、これまでの必勝の方程式はあてにならない。これまで有利だと思われていた場所が不利になり、不利だと思っていたところが有利になる。豊かだと思っていたところが貧しく、貧しいと思っていたところが豊かになっていく。大きいところほど不利になり、小さいところほど有利になるかもしれない。強いと思われていたところは実は脆弱で、脆弱だと思われていたところが、それほど影響を受けないという状況が生まれてくるかもしれない。

そのような状況では、戦国時代や江戸時代にように、各地域でそれぞれ自らの旗を立てて、どのような戦略で行くのかを工夫しながらリーダーシップを取っていく必要があるだろう。この10年ほどの観光化現象を経た世界は、地域の重要さや個性の重要さを理解し始めている。そうした地域の資源や強みをこれまで以上に生かしていかねばならない状況になるはずである。その処方箋は地域によってまるで異なってくる。

それはマクドナルドやスターバックスのように、どこに行っても一定のクオリティが担保されているサービスが世界を制するという考え方とは真逆になるはずである。グローバルで通用するようなフォーマットを当てはめるこれまでの戦略ではなく、ローカルごとの個別の解法が必要になる。あるいは普遍的なフォーマットを地域に合わせてカスタマイズしていくことが重要になってくるだろう。だから国の中では中央がやることは最低限にして、地域の裁量が増えて行くはずだ。

なぜならば地域ごとに問題も異なるし、資源も異なるからである。そうなると当然、その解決方法も異なってくる。海辺と山間部では魅力が異なり、より海らしさや、山らしさに応じた戦略を立てねばならないだろう。全ての地域が同じような様相を示し、海に行っても、山に行っても大差がないならば、どちらかを選択する勝ち負けになるかもしれない。しかし、それぞれ比べようがない良さを生み出せれば違いは補完し合う関係になる。海に行く人は、山にも行く可能性が高く、どちらかを選択するというゼロサムのビジネスではないからである。違う魅力があるからこそ価値が生まれるような産業領域では、競うことが意味をなさなくなる。

だからこそ多様性が大事で、同時にその場所での必然性が大事になってくる。その地域の必然性に応じてそれぞれの強みや弱みを理解した上で、頭をひねって知恵を生み出すことが必要になる。そこでは何も後ろ盾がないところから本当の意味での価値を創造していくことができる人材が求められるだろう。そして、その地域が創造的なまなざしを持った人々をどれほど育てることができるか、そして受け入れることができるのかが命運を分けるかもしれない。

「ない」ことが強みになる

新しい価値観とは、文字通りこれまでの価値観の延長からは生まれない。これまで常識とされてきた、便利と不便、快適と不快、強みと弱みに対して、正反対の角度からまなざしを向けることが価値観を改めることである。

例えば、大都会は便利な場所であることが強みだ。あらゆる物が集まり、あらゆるサービスがあり、何でも手に入って、そこに行けばあらゆる欲望が叶う場所であることが魅力だった。しかし、それがとても偏っていて脆弱な構造を持っていることが今回のパンデミックで浮き彫りになった。密集して住んでいることによる感染のリスクだけではない。都市機能が一度停止してしまうと、何も手に入らなくなる。自らの手で作っているものは何もなく、生活に必要なものはほぼ全て、誰かに依存して生きていたことに気づいただろう。

一方で、地方はサービスが都会ほど充実していないため、ある程度のところまでは生活に必要なものは自分で賄っている部分もある。それが強みであったことに気づけた地域は、生き残っていけるかもしれない。都会と同じような発想で、都会と同じような場所を目指しているのならば、都会の価値観の崩壊とともに同じように崩れていくだろう。

健康の概念も変化して行く。病気という概念も、医療という仕組みもおそらくこれから変わっていくだろう。病気になった時に病院が必要であるという発想から、そもそもできるだけ病気にならないようにする、あるいは病気になってもある程度は自力で治せるようにする、というような発想が必要になるはずだ。

今回の新型コロナ騒動は、人間の免疫力をいかに高めるかが問われた。人間の健康は環境に依存しており、人間を元気にする環境かどうかは大事な価値である。そういう環境を持っているところが有利である。それは何かをプラスするだけではなく、むしろ何かが「ない」という状況がメリットになることもある。ストレスの要因やストレスのかかる環境がない、有害な電波が飛んでいない、食料に添加物がないといったことは、実は大きな価値に変わるだろう。これからは便利であることは必ずしも価値にはつながらず、逆に不便であることが可能性になるかもしれない。そうした想像力を持てると、不利な状況は有利な条件へと変わり、これまでの価値観が反転する。

我が街、我が地域には何もないと思っている場所ほど、発想の転換によって大きな可能性を持つだろう。豊かになるために大きなことをする必要があるという常識を一度捨てて、本当に必要なものと不要なものを見つめてみたり、豊かさとは一体どういうものなのだろうかと考え直す必要が出てくるだろう。

そうすると、街を作るために「整備」することよりも、街を清掃したり、余計なものを省いて「整理」することの方が、意味を持つかもしれない。モノが少ないところの方が整理もやりやすくメンテナンスもしやすい。クリエイティブに減らして行くことは、方向性が反転してしまったこれからの世界で重要な課題になっていくだろう。

むやみに大きく拡げて、たくさんの抱えきれないものを持つよりも、少ないものにも関わらず満足して暮らして行ける価値観が重要になる。それは、これまでは貧しいと思われていたようなことかもしれないが、見方を反転させれば、実は最も効率が良く理にかなっていることになる可能性は高い。

仕事と生活の変容

都市よりも地域の方がに有利になりはじめている兆しはすでに現れ始めている。今回のパンデミックでも浮き彫りになったが、人の密集する都会の慌てぶりに対して、人の少ない地域の方が落ち着いた対応が目に付いた。外からの物の移動が制限され始めると、食料をはじめとして生活に必要なものが近くにある方が有利になっていく。

おそらくこれからは、これまで都心や都会、メガシティーやメトロポリタンと呼ばれていた場所の機能がどんどん衰えていく状況になる。20世紀は地方から都市へ人が向かうことで、都市は発展していったが、21世紀のこのパンデミック以降は都市から地方に向かって人が移動していく状況が進んでいくことが予想できる。その中で、人が定着する地域と逃げ出す地域との格差がこれまで以上に顕著になってくる。外から人を呼び込むことに抵抗がある状況がしばらく続く中では、観光よりも居住あるいは「疎開」とでもいえる形でそれが現れるかもしれない。

今回のロックダウンでテレワークが普及したことは、働くことのあり方を見つめ直す大きなきっかけになった。東京の中にいても会社に出勤しなくて済むような状況になると、東京にいる理由さえなくなる可能性がある。地方にいても東京の企業にオンラインで出社できれば、働き方や住み方の選択肢は格段に広がるだろう。情報技術やテクノロジーが世界を覆ってしまうであろう21世紀後半では、機能的な意味での条件は場所によらずに揃ってくる。どこにいても同じ情報を共有し、同じように働けるのであれば、むしろ「どこに居るのか」がその人の人生にとって重要になる。仕事以外の時間を魅力的に過ごせるような地域が選択されるようになるはずだ。その土地の風土、人のあり方、暮らしの個性が判断の基準になる。

自然環境が豊かであるということを基本にしながらも、人々の気風が自由に満ちて活力がある、その土地に適切なディレクションの下、リーダーシップがうまく機能している、といった地域には人が集まって来るだろう。そうではなく、右に倣えと他の地域のフォーマットをそのまま借りてきたり、これまでのような拡大方向を目指していく地域は、本来自らが理想とすべき姿からどんどん遠ざかっていくに違いない。

都会には、誰のためになっているのかよく分からないような仕事が溢れている。実質的に価値を生み出していない仕事や、右から左へと物や金を動かす指示だけの仕事、不必要な管理のためだけの仕事、といった仕事をする余裕がこれからはなくなっていく。人工知能やテクノロジーの進化が、そうした不要な仕事を奪っていく一方で、創造的な仕事はますます必要になっていく。その創造性はおそらく、可能性のある地域でこそ発揮されるのではないだろうか。

そういう地域では仕事のあり方も変わってくるだろう。お金を稼ぐということよりも、顔の見える仲間と豊かに暮らすために必要なことが仕事になっていく。コップをつくる仕事より、コップを洗う仕事のほうが必要であるし、株の売買よりも、ゴミの清掃の方が直接的な価値につながる。それにも増して、自らの情熱を傾けられるようなこと、創造的に頭を使って楽しい暮らしを生み出すこと、積極的に自らの身体を使って価値を生み出していくことが重要になるだろう。

真の「観光」が始まる

これからしばらくは、外から人に来てもらうためにサービスを用意するという観光業の前提が機能しない状況が続くだろう。だから外の人をもてなす以前に、その地域での暮らしが充実したものであることが最も重要になる。そこでの暮らしが楽しく、近しい人々と仲良く、気分良く暮らしていくことの方が大切だという価値観が共有されることが前提で、そこに観光を乗せていくのが本来のあり方だ。

パンデミック以前から、観光客用として用意されたものに価値を見出せない人々は一定の割合で増えてきていた。多くのツーリストが観光のために演出されたものにリアリティを見い出せず、その地域の人の生活と寄り添っているものを求める声は高まっている。地元の人が日常的に利用し、生活に必要なものを買い、生のコミュニケーションをする例えば市場のような場所を訪れたいと思っているのだ。しかしそうした場所は、この観光現象に乗じて観光客向けに整備されてしまい、地元の人が行かないような飲食店ばかりになる状況が世界中で増えてきたのではないか。

このパンデミックによって、そうした観光のあり方、商売のあり方、生活のあり方を本当の意味で見直さねばならない状況が強制的に訪れたといえるだろう。これからは地域の人たちが喜んで食べようとしないものを、外の人向けに商品開発するということは成り立たなくなっていく。それよりも、その地域の人たちが普通に家で作っていて、日常で食していて、それが地域の文化になっているようなもののほうが、結果として訪れる者にも価値を持つ。

観光業は、農業、工業、サービス業の全部が整った社会でようやく成立する。つまり、全ての根本になっている農業が崩壊すると、本来は観光も成立しないはずなのだ。だから、農業や漁業のような第一次産業がちゃんと息づく地域の方が、生活を立て直す上でチャンスがある。その時に、生産だけでなく流通や消費の方法も、地域ごとに工夫して考えねばならなくなるだろう。大きなシステムを前提にしなければ成り立たないような方法は続かず、小さなローカルの単位のつながりが重要になる。そうやって培われた信頼できるネットワークの中で観光が成立する可能性は大いにある。

もともと「易経」に記されていた観光には、それぞれの地域で放っている光を観に行くという意味がある。その地域での食や自然、ライフスタイルやコミュニケーションが魅力的で充実し、個性的な光を放つほど、本当の意味での観光が始まるだろう。光を観てもらうためには、光を放っていないといけない。そして光を放つためには本当の意味で優秀な人材が必要になってくる。既存のシステムに乗ることが優秀であった時代から、0から1を生み出す、あるいはないものから資源を見い出す人材の方が優秀である時代になる。そういう人材が集まってくる地域はますます光を放つだろう。

国境を取り払って、世界中を同じシステムや同じプレイヤーが覆い尽くすというグローバリズムの価値観は、時代の方向が反転したこれからは成立しなくなっていく。むしろ一定の境界線を設けて、それぞれ異なる価値観や風土、システムを持った国同士が交流するインターナショナリズムがもう一度台頭してくるだろう。あるいは国という単位をより細かくして、様々な物事がある一定の領域の中で完結した地域が交流するような、「インターローカリズム」と呼ぶべきものが台頭してくるだろう。世界の拡大、世界の征服を目指す価値観から、内側への収縮や内面の充実を目指す価値観へと方向性が切り替わることで、多様性や個性を学び合う本当の観光が始まるに違いない。

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ハナムラチカヒロ

1976年生まれ。博士(緑地環境計画)。大阪府立大学経済学研究科准教授。ランドスケープデザインをベースに、風景へのまなざしを変える「トランスケープ / TranScape」という独自の理論や領域横断的な研究に基づいた表現活動を行う。大規模病院の入院患者に向けた霧とシャボン玉のインスタレーション、バングラデシュの貧困コミュニティのための彫刻堤防などの制作、モエレ沼公園での花火のプロデュースなど、領域横断的な表現を行うだけでなく、時々自身も俳優として映画や舞台に立つ。「霧はれて光きたる春」で第1回日本空間デザイン大賞・日本経済新聞社賞受賞。著書『まなざしのデザイン:〈世界の見方〉を変える方法』(2017年、NTT出版)で平成30年度日本造園学会賞受賞。