思想としてのインターネットとネット原住民のたそがれ
Twilight of the digital natives and thoughts on the future Internet
2015.07.14
Updated by yomoyomo on July 14, 2015, 13:41 pm JST
Twilight of the digital natives and thoughts on the future Internet
2015.07.14
Updated by yomoyomo on July 14, 2015, 13:41 pm JST
少し前に、人気ポッドキャストの Rebuild で、伊藤直也さんが川上量生氏の『鈴木さんにも分かるネットの未来』を紹介しているくだりが面白かったので、長くなりますが文字起こししてみます。
例えば電子書籍の話も、僕らはすぐそうやって、Kindle になってねーから、ふざけんなって思うじゃないですか。テクノロジーの進化を止めやがって、みたいな。だけど、この本に書かれているのは、そうやって電子書籍が広まっていくのはいいんだけど、そうなると書籍ビジネスって基本的に今の構造のままだとシュリンクしちゃうってことを書いてて、要は市場規模がちっちゃくなる、と。でも、テクノロジーとかインターネットを好きな人は、これが未来だ、とか言ってて。でも、それってあなたたちの共産主義的なエゴなんじゃないですか? ということを書いてるんですよ。でも、結構僕らってそういうとこに割と無頓着なところがあると僕も自分自身自覚してて、要はオープンなインターネットがいいとか、オープンソースがいいとか言ってるんだけど、それがいいって言ってるのって、あんまりロジックがなくて、それがカッコいいとかクールだとかそういうところの気持ちに支えられてる部分が少なからずあると思うんですよ。で、川上さんはそういうところを一刀両断してて、そんなのは共産主義的であり、宗教を信じている人たちと変わらないと書いてて……でも彼にとっては批判ではなくて、そういう人たちがそういうことをやってますという客観的事実として言ってるんですよね。一方で、そういうのをその通り真に受けると、ビジネスはちっちゃくなっていくという構造がある中で、あなたはどういうスタンスを選びますかということが書かれている本なんですけど。
ワタシは川上量生氏のブログや Twitter をまったくフォローしていないのですが、伊藤直也さんの紹介に興味を惹かれて『鈴木さんにも分かるネットの未来』を買って読んだところ、原稿仕事のために読んだ、同じく川上氏が監修者を務めた『角川インターネット講座 (4) ネットが生んだ文化誰もが表現者の時代』に彼が寄稿している文章とも共通する、ネット文化とビジネス全般に対する身も蓋もない書きぶりが印象的な本でした。
伊藤直也さんは上で引用した発言の後で、「カリフォルニア・イデオロギー」という表現を使っていますが、川上氏が『鈴木さんにも分かるネットの未来』の中で、ネットを通じて世界をよくしていこうという理想を支える層について「ネット原住民」という言葉を使っていて、個人的に面白いと思ったのは、まさにその「ネット原住民」の告白というべき文章を少し前に読んでいたことです。
それはデヴィッド・ワインバーガーが Atlantic に寄稿した The Internet That Was (and Still Could Be) という文章で、タイトルを日本語に訳すなら「かつての(でも今なおそうなる可能性がある)インターネット」といったところでしょうか。
デヴィッド・ワインバーガーは、『インターネットはいかに知の秩序を変えるか? - デジタルの無秩序がもつ力』など邦訳された著書もある著述家ですが、ネット思想家としてもっとも重要な仕事はクルートレイン宣言でしょう。
一般層へのインターネットの普及が始まったばかりの1995年に、「市場とは対話である」から始まる、来るべきネット時代におけるマーケティングの「95のテーゼ」をぶち上げたクルートレイン宣言を今読むと、デヴィッド・ワインバーガーらのネットという新大陸に対するまばゆいばかりの期待が伝わります。
デヴィッド・ワインバーガーは、この20年間彼の信念であった「アーキテクチャー的ネット論」を再び繰り返します。
まさにこれこそ川上量生氏が指摘する、ネットを通じて世界をよくしていこうというイデオロギーですが、ワインバーガーは、発展した技術は社会システムや人間に多大な影響を与え、必然的にそれらを変えていくとする技術決定論(Technodeterminism)という言葉を使っています。
中央的な管理や支配なしに情報の配信がなされ、通信はコンテンツや送受信者やアプリの種類で贔屓されることがなく、許可を求めることなくお互いとつながることができる、民主的な情報のオープンアクセス性を指し、デヴィッド・ワインバーガーは、今でもインターネットのアーキテクチャが稀有なものであり、自分のような欧米のリベラルが根本的なものと考える価値観を反映していると主張します。
しかし、インターネットのアーキテクチャー自体は健在だとしても、その上に構築された多くのレイヤーにより、そうした価値観ってもはや通用しないのかもしれないとワインバーガーは恐れを表明します。ジョニ・ミッチェルが「ビッグ・イエロー・タクシー」で歌ったように(このあたりのチョイスが年代を感じさせます)、インターネットはもはやすっかり「舗装」されてしまったのではないか、と。
インターネットも、特定の意図を想定して発明されたのだろうが、年月が経つにつれ、インターネットはその発明者たちの意図から離れたのではないかとワインバーガーは指摘します。
我々に見えるネットの趨勢の変化により、ネット利用の「プロトタイプ」も変わります。つまり、かつてはネットと言えば電子メールと Usenet だった時代があり、その後ウェブが流行し、ソーシャルネットワークが広まれば Facebook がその代表となり、モバイルファーストの時代には「アプリ」がプロトタイプとなり、これからの IoT 時代は Nest のサーモスタットですか? といった具合です。そして、そうした「プロトタイプ」が変わるにつれ、我々のインターネット観も変わるというわけです。
ワインバーガーは、ウェブ時代のブログブームを、あれはウェブにおける個人のプレゼンスを確かにするもので、なおかつ「ソーシャル」な存在だったと振り返ります。しかし、ブログはスケールしなかったとワインバーガーは書きます。で、その「ブログの夢」の穴を埋めたのが Facebook だった、と。
ワインバーガーが Facebook についてどう思っているかは「もしマーク・ザッカーバーグがウェブを発明していたら」といった彼の文章を読んでも分かりますが、ワインバーガーはブログが「自分たちのもの」だったのに対して、Facebook は「奴らのもの」であることを強調し、もはや現在では Facebook のほうが昔風のブログよりも「インターネットのプロトタイプ」であることを認めながらも、その事実に反発してしまう自分が惨めな年寄りに見えるだろうが、笑えば笑え! と自虐的に開き直ります。
現在のインターネットに関して、彼の20年来の信念はもはや通用しないのでしょうか。ネット利用者がネットのアーキテクチャに無縁なら、そのアーキテクチャがユーザに影響を及ぼすこともありません。Facebook の価値観は、ワインバーガーが信じるネットのアーキテクチャの価値観とは異なります。しかも動画配信などを CDN(コンテンツ・デリバリー・ネットワーク)に頼る時代では、ネット中立性もおぼつかないし、そういう情報環境では巨大企業に新興勢力が挑戦もできなくなるのではないかとワインバーガーは危惧します。
それでもワインバーガーは、「アーキテクチャー的ネット論」は今なお我々に希望を与えるものだと強弁します。理由は以下の3点です。
つまりまだ希望はあるし、インターネットのアーキテクチャを守るために我々にできることはたくさんあるし、我々はそれをやらなきゃならない、とワインバーガーはアジって文章を締めくくります。
こうした議論は今始まったものではなく、例えば2012年末にアニール・ダッシュは「我々が失ったウェブ」という文章を書いていますが、論旨は一部ワインバーガーとの文章とも重なります。
しかし、それにしてもワインバーガーは楽観的だなと思ってしまうのも確かです。案の定、こういう利益誘導的理想主義に厳しいニコラス・カーが、「勝利主義者は負けるときもドヤ顔だ(When triumphalists fail, they fail triumphantly)」と痛烈に批判しています。
ワインバーガーは、他の勝利主義者と同様に、長年ネットに多くの知的、感情的資本を投資してきた。そして今彼は、危機を迎えている。そうした投資がすべてご破算になり、破産を宣告しなければならないというとても恐ろしい瞬間を。
ワインバーガーがジョニ・ミッチェルを引き合いに出したのに対抗してか、彼より9歳年下のカーはバズコックスの "Nostalgia" の歌詞を引用していて笑ってしまいましたが(両者とも、彼らが20歳前後の時分にリリースされた曲を引き合いに出しているわけです)、カーのツッコミは言うなれば、本文の最初に引用した川上量生氏と同じく「ネットはこうあるべきとか言ってるけど、それって手前の価値観に沿ってほしいというエゴだよね?」というものです。
ワタシ自身は、かつて自分がウェブサイトを始めて10年が経ったとき、「ただインターネットという、結婚もセックスもできない対象と、でもダンスはできるじゃないかと踊り続けたのがワタシのこの10年ではないか」と書いた人間であり、心情的にはワインバーグ寄りなのですが、今回はカーの批判に分があるように感じてしまうのも確かです。
ワインバーグの「アーキテクチャー的ネット論」は、言うまでもなくローレンス・レッシグの『CODE』を前提とするものですが、日本における情報環境を踏まえるならば、川上量生氏の『鈴木さんにも分かるネットの未来』、そして文庫化されたばかりの濱野智史『アーキテクチャの生態系: 情報環境はいかに設計されてきたか』を読まれることをお勧めします。
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登録はこちら雑文書き/翻訳者。1973年生まれ。著書に『情報共有の未来』(達人出版会)、訳書に『デジタル音楽の行方』(翔泳社)、『Wiki Way』(ソフトバンク クリエイティブ)、『ウェブログ・ハンドブック』(毎日コミュニケーションズ)がある。ネットを中心にコラムから翻訳まで横断的に執筆活動を続ける。