画像はイメージです original image: © Rafael Ben-Ari - Fotolia.com
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日本で最初のオリンピックが開催された年、1964年(昭和39年)に、初めてキブツへ行き、その生活を体験した日本人がいた。パイオニアは、当時神戸女学院の学生だった石浜みかる氏ら数名と言われる。
同年14名の若者グループがキブツを訪れ1年間滞在生活をした。ご縁があり、その14名の参加者のお一人、フジドリームエアラインズ元相談役の内山拓郎氏に、当時のお話しを伺うことができた。
令和の今、キブツのことを知る日本人は決して多くはないと思う。キブツとは、シオニズム運動の一環として、建国前から現在のイスラエルの地に多く作られた集団農場である。参加者のお話しを通して、現代に活かせるかもしれないその意義を考える。
シオニズムとは、西暦70年以降に世界中に離散したユダヤ人のためのホームランドをパレスチナの地に作ることを目的に、オーストリア出身ジャーナリストであるヘルツルの呼びかけで1890年に始まった運動である。
当時の多くのユダヤ人は、離散した各国の中で、その国民となるように(キリスト教社会へ同化するように)暮らしていたが、ヨーロッパで広まる反ユダヤ主義による迫害や差別から逃れるためには自分たちの国を持たねばならない、という思想・運動が広まっていった。
この地域一帯は、1918年にはイギリス・フランスなどの連合国に占領されるが、それまでは、巨大なオスマン帝国の一部であった。つまり、トルコ人の領土だったのである。
シオニズム運動の指導者達は、ユダヤ人の富豪であるロスチャイルドらの支援を得て基金を作り、そのお金で主に不在地主のトルコ人から土地を購入した。そして、東欧やロシア在住のユダヤ人に呼びかけ、彼らにその地に入植してもらい、農地として開拓し、ユダヤ人の村・居住地域を少しずつ作っていったのである。
その土地は、当初は入植者に貸し付けられたが、最終的には所有することができる仕組みだったこともあり、差別や迫害に苦しんでいた東欧やロシアから多くの若者を呼び込むことができた。これがキブツの始まりである。
キブツは、農業生産拠点であると同時に、ユダヤ民族の戦略的入植拠点としての意味もあった。この活動は、1948年のイスラエル建国の基盤を固めるプロセスであったと同時に、結果としてアラブ系住民との軋轢を拡大していくプロセスでもあった。
ただし、運動が始まった当初は、ユダヤ人自身の多くがヘルツルの運動に反対していたことも理解する必要がある。それぞれが住んでいた国にもよるが、差別されていたとはいえ、ユダヤ人が暮らしていたロシアやヨーロッパの多くの国は発展しており、いわば、近代文明の中で生活していた彼らにとっては、パレスチナのような未開の地に行くことは想像することも難しいことだったからである。
現在、パレスチナ問題が語られる時、「パレスチナ人」はこの地域に元々住んでいた原住民という表現がされる。具体的な人口の数字を示すことはできないが、上記のような反応が起こるほど、この地域は「未開の地」であり、多くの土地所有者であるトルコ人も実際には住んでおらず、ベドウィンと呼ばれる遊牧民が主に住んでいた程度、であったのが現実なのだ。その未開の地を、農業が出来るように開拓し、人が住めるようにした仕組みがキブツであった。
キブツという仕組みそのものも、世界から注目を集めた。それは、自分の意志で集まった人々が労働と生活を共同で行なう、共同体社会であるという点だ。その規模は様々だが、数十人から数百人ほどの人口の村と考えればよい。果樹園や畑に囲まれて人々が生活する地区が一カ所に集まっている。
その中心には、共同の食堂、洗濯場、診療所、子供の家、学校などがあり、その周りに住宅がある。これらはすべて集団による所有で、個人の私的財産所有は認められない。そして、畑仕事、食堂での調理、洗濯など、誰がどの労働に従事するかを決める調整係がメンバーの能力に応じて割り振りを行うのである。基本的に社会福祉が平等に保証され、貧富の差もなく、男女も平等に労働に携わる。子供の養育、教育も共同体全体の責任で行う。
しかも、これら全てが強制ではなく、自由意志に基づいており、例えば新たなメンバーの受け入れも、脱退も、本人の意志が示されてから、意思決定機関により検討される。まさに直接民主主義を実践するような仕組みであった。
当時のユダヤ人入植者自身にとってみれば、「貧しい環境の中で、少ない人数で効率的に仕事を行ない、協力しながら生きてゆくための合理的な仕組み」であったと考えられるが、世界の、特に知識人の間では、直接民主主義と平等を実現するある種の理想社会の体現と捉えられ、関心が高まって研究する人々が現れたのである。
昭和30年代の日本は、ソ連のようなプロレタリア独裁とは異なる「日本型の社会主義」を追求する政治勢力が大きく勢力を伸ばした時期でもあり、資本家階級が労働者階級を搾取するという対立構造を批判し、キブツが体現している「平等」や「生産手段の公有化」を理想的なものと捉える人々が多く現れたのではないだろうか。
現在、筑波大学名誉教授であり聖書学者の石田友雄氏は、当時ヘブライ大学に留学しており、世界から注目を集めていたキブツを日本の若者にも経験させる機会を作ろうと考えた。イスラエルの外務省と相談し、1年間キブツに滞在し、その生活を共にする研修プログラムを作ったのである。イスラエルまでの旅費は参加者負担であったが、1年間の滞在費はイスラエル側が負担した。
1964年といえば、東京オリンピックが開催された年であり、日本全体が高度経済成長に沸いていた。同時に全国の大学の学生自治会で結成された全学連が、マルクス主義・共産主義の強い影響を受けて、安保闘争などを活発化させていた時期でもある。
石田教授は、海外でボランティア活動をするワークキャンプ運動に参加されていたようで、日本人研修生の募集はワークキャンプ活動メンバー中心で行われたという。とはいえ、参加者は必ずしもワークキャンプ活動に関連した学生だけではなく、広く社会人も含む男8名、女6名の計14名であった。それぞれが様々な思いで集まったようだが、理想社会とも考えられたキブツの仕組みに興味を持った、意識の高い人達であったことは間違いない。
今回、取材させていただいた内山氏は、当時、京都大学法学部の学生で、特にワークキャンプ運動に関わっていたわけではないが、運動をしていた友人に誘われ、イスラエルという新しい国を作るプロセスに興味を持って参加したそうだ。この体験をするために1年くらい大学を休学することは大した事ではない、と考えたという。
参加した社会人の中には、勤めていた会社を辞めて参加した人もいたというから、とても熱量の大きなグループであったと想像するに難くない。このグループは「第一次日本青年キブツセミナー」と呼ばれた。セミナーという名前は、まさにこれが「研修」と位置付けられたからであろうと想像する。
余談だが、筑波大の石田教授は、1972年の日本赤軍によるテルアビブ空港銃乱射事件の時、たまたま同空港にいて、英語も話せなかった岡本公三の通訳を務めたという。
(第二回に続く)
※お詫びと訂正
石田教授の参加した運動に理解の誤りがありましたので訂正いたしました。関係する方々にお詫び申し上げます。[2019/7/12 20:53]
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登録はこちらNTT武蔵野電気通信研究所にて液晶デバイス関連の研究開発業務に従事後、外資系メーカー、新規参入通信事業者のマネジメントを歴任し、2007年ネクシム・コミュニケーションズ株式会社代表取締役に就任。2014年にネクシムの株式譲渡後、海外(主にイスラエル)企業の日本市場進出を支援するコンサル業務を開始。MITスローンスクール卒業。日本イスラエル親善協会ビジネス交流委員。E-mail: hitoshi.arai@alum.mit.edu