一年以上前になりますが、技術評論社の雑誌 Software Design 2012年8月号の「いま読んでおくべき本はどれだ? エンジニアのパワーアップ読書」という特集でなぜか洋書の選定を依頼され、IT の枠に留まらずにいろいろ選ばせてもらったのですが、その中で絶対入れたかったのがジョージ・ワシントン大学ロースクール教授のダニエル・J・ソローヴの著書でした。
彼の名前を意識したのは、人間的な好き嫌いは別として(という言い回しは、往々にして「人間的には好きではない」の言い換えなのですが、ここではあてはまりません。ワタシにとって氏は仰ぎ見る存在です。もちろん人間的な好き嫌いは別にしての話ですが)その仕事には敬意を払っている八田真行さん経由なのですが、プライバシー問題を語る上でソローヴの名前は絶対外せません。
彼のその時点での(本文執筆時点においてもですが)最新作は『Nothing to Hide: The False Tradeoff between Privacy and Security』なのですが、当時ワタシは Facebook や Google+ といった実名志向の SNS がもたらすプライバシー問題のほうに完全に注意が向いており、「(国家の)セキュリティ対(個人の)プライバシー」問題を全面的に扱った本はちょっと違うかな、とその前作でより一般的な内容の『Understanding Privacy』を選ばせてもらいました。
今になって思えば、「(国家の)セキュリティ対(個人の)プライバシー」問題にピンとこなかった当時のワタシがアホで、米国政府によるネット上の情報収集と監視について分かっていれば、これが大きなトピックになるとソローヴ教授には読めていたのでしょう。
ソローヴのプライバシー論のユニークなところは、プライバシーを個人固有の絶対的権利とする伝統的なプライバシー論をあっさり否定しているところで、さらに彼は米国において主流である「合理的期待」論(一般人が合理的な範囲でプライバシーを期待できる程度に保護される)の欠陥も指摘しているところです。そのように従来のプライバシー論をばっさりやった上で、ソローヴはプライバシーを実際的、功利主義的に擁護します。
『Nothing to Hide: The False Tradeoff between Privacy and Security』は、書名からも分かる通り、ブルース・シュナイアーの「プライバシーの不変の価値」において最初に挙げられる「何も悪いことをしていないなら、どうして隠さなければならないの?」という問いかけを「(国家の)セキュリティ対(個人の)プライバシー」の問題に適用するところから始まります。
ソローヴは「(国家の)セキュリティ対(個人の)プライバシー」が対立的に扱われ、しかも9.11以降のアメリカで(国家の)セキュリティの名の元に(個人の)プライバシーがないがしろにされ続ける現状に強い異を唱えます。そのときに最もよく使われる、「何も隠すことがないなら、政府に監視されても問題じゃないだろ」という言い回しは、プライバシーを主張すること自体が何かやましいことがあるという前提を暗黙のうちに認めさせるという意味で非常に悪質であると訴えています。
本書の白眉は、「(国家の)セキュリティ対(個人の)プライバシー」においてセキュリティが優先されてしまうのは、プライバシーが個人の権利と見られるのに対し、セキュリティは社会全体に有益だと見られるからという点を指摘したうえで、プライバシーは単なる個人の権利ではなく、プライバシーは社会的価値を持つものとして理解されるべきだと論じる第5章です。
本書は当然ながらアメリカの合衆国憲法と法例を土台としており、そのまま日本にあてはまるわけではありませんが、サミュエル・ウォーレンとルイス・ブランダイスによる有名なプライバシー権の定式化「放っておいてもらう権利」などに代表されるように、社会からの切断のイメージが底流にあるプライバシーを社会的価値とみなすソローヴの功利的な議論は注目すべきです。
さて、そのソローヴは、今回の PRISM 騒動を受け、ワシントンポスト(先日、ジェフ・ベゾスに2億5千万ドルで買収されたのが大きなニュースになりました)に「プライバシーにまつわる五つの神話」という記事を寄稿しています。内容はいずれも『Nothing to Hide』の内容にそのまま重なるものです。
以上がなぜ神話、つまり実際には正しくないかは原文や『Nothing to Hide』をあたっていただくとして、実はここまであえて伏せてきたのですが、最近になってようやくソローヴの著書の邦訳が出ました。残念なことに『Nothing to Hide』ではなく、その前の『Understanding Privacy』の邦訳です。
『プライバシーの新理論―― 概念と法の再考』(みすず書房)がそれですが、これも Software Design の読書特集で推したようにプライバシーという混乱しがちな概念を包括的に扱った良書ですので、値段はかなり張りますしそれなりに硬い本ですが、夏休みの読書向けに自信をもってお勧めします。
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登録はこちら雑文書き/翻訳者。1973年生まれ。著書に『情報共有の未来』(達人出版会)、訳書に『デジタル音楽の行方』(翔泳社)、『Wiki Way』(ソフトバンク クリエイティブ)、『ウェブログ・ハンドブック』(毎日コミュニケーションズ)がある。ネットを中心にコラムから翻訳まで横断的に執筆活動を続ける。