プログラミングが苦手な分野があります。
それは人の感情を揺さぶるということです。
ところがプログラマーは映画やアニメ、小説といった物語が好きです。
映画嫌いのプログラマーというのは、あまり出会ったことがありません。
隙あらば、好きな映画の話で盛り上がります。
私もご多分に漏れず、それなりの映画好きです。
物語には論理性を超越した、心の奥底を熱くさせるような力が秘められているのではないかと思います。
映画自身が持っている心を動かす力というのは、論理性、つまり話の辻褄があっているとか、話が見えているとかは実はあまり関係がないようです。
この夏、私は三本の映画を見ました。
ひとつは「風立ちぬ」、それから「パシフィック・リム」そして「キス我慢選手権 THE MOVIE」です。
どれも全く関係がない映画です。
「風立ちぬ」は、堀越二郎という零戦の設計を担当した実在の人物と、堀辰雄という作家の人生をミックスして綴られるフィクション作品で、零戦開発というリアルな物語と、ラブロマンスが同軸が語られているので「零戦開発のウラにはこんなロマンスがあったんだ」と感動してあとから調べてみるとまるで違う二人の人間の人生が合成された物語だったことに驚かされます。
ところがこの映画、そういう背景を知っていても、なお泣いてしまうのです。
論理的には不可思議な部分が多い映画です。細かい説明はほとんどなされず、なにか勢いだけでとにかく泣いてしまう。もはやそういう作風としか形容できない不思議な作品でした。
「パシフィック・リム」は怪獣達が襲って来る地球を巨大ロボットで迎え撃つという日本のアニメにはありがちではあるけれども、ハリウッドで実写映画化するとしたらとてつもなく壮大な設定の映画で、日本の怪獣映画やロボットアニメへの徹底したオマージュが興味を引きます。
映像としてはとても面白いのですが、個人的には映画としてあまり感動がない作品だな、という印象を受けてしまいました。
それが物語にあるのか、演出にあるのか、この場では掴みきれませんでした。
そこで本題、「キス我慢選手権 THE MOVIE」です。
これは非常に不思議な映画です。
映画と呼んでいいのかどうかもちょっとよくわからない作品です。
「選手権」とありますが、何かを競っているわけではありません。
もともとは、テレビ東京の深夜番組「ゴッドタン」の中でうまれた企画で、お笑い芸人がセクシー女優の誘惑を一時間我慢するというものでした。そのときはまだ「選手権」っぽい要素はあったのですが、そのなかで抜群のキレを見せていたのが劇団ひとりでした。
劇団ひとりは、ただキスを我慢するのではなく、キスを我慢すべき理由をアドリブで考え、その場でどんどん話が作られて行きます。
このアドリブが好評で、「キス我慢選手権」は単なるお笑い企画ではなく、どんどん複雑なストーリー展開を見せるようになります。
その究極の形が、この「キス我慢選手権 THE MOVIE」というわけです。
通常は1時間キスを我慢するところを、この映画では24時間キスを我慢することになります。
全てアドリブで作られ、映画の台本も主役の劇団ひとりだけが台本を渡されず、劇団ひとりがどのようなアドリブを行っても対応できるように、リハーサルはそれぞれのシーンにつき10パターンの台本をもとに行われたそうです。
これはもはや映画作品というよりは事件であり、観客は事件の目撃者として映画に「参加する」ような錯覚を得ることが出来ます。
また、驚くべきことにこの映画で初めて「キス我慢選手権」を見た人も、「なぜか、泣いちゃった」という感想を持っています。
この「キス我慢選手権 THE MOVIE」という映画の作られかたはとてもプログラミング的だと感じます。ゲームプログラミングに近い設計になっています。
主人公はプレイヤーであり、プレイヤーの行動を先読みして台本を用意しておいたり、ある場面でプレイヤーがどれだけメインストーリーから逸脱した行動をしても、強引に事件を起こして次の場面へ繋いで行くというストーリーテリングの手法そのものがとてもゲーム的なのです。
そしてアドリブがアドリブを呼び、この映画の監督ですら予想の出来ないエンディングになるというダイナミズムが本作にはありました。
しかしこの映画は同時にとても重要な問いかけを遺しているような気がします。
つまり「感動とは、何か」というものです。
普通の物語、例えば「風立ちぬ」でも「パシフィック・リム」でも、基本的には絵空事とはいえ物語の中は矛盾なく作られています。
そこには葛藤があり、愛憎があり、作中の人物は真剣に悩み、闘い、自分たちなりの美学を貫こうとします。
つまり、物語全体はフィクションだったとしても、そこに流れている人の感情の起伏にはこれでもかというリアリティが込められているのです。
風立ちぬ、では主人公、堀越二郎を演じる映画監督の庵野秀明さんが、朴訥とした語り口で主人公そのものに乗り移ったかのような演技をします。
その中に、なにかいい知れぬリアリティ、物語全体はフィクションだとしても、断片的な感情の起伏といったリアリティをむしろ強く感じ、共鳴して思わず涙がこぼれてしまうのです。なにかしら同じような経験をしたことがあれば、この映画は涙なくしてみることが出来ないはずです。
「キス我慢選手権」で劇団ひとり演じる川島省吾こと地上最強の殺し屋「砂漠の死神」は、その設定さえもがアドリブでリアルタイムに作られていきます。
設定が生まれた時点では完全なる嘘で、しかも嘘としては不完全です。ところがそれを語る劇団ひとりの真に迫る言い様は、虚構にとことん心身を沈め、本気で演じようという気迫が伝わってきます。
その気迫が他の共演者と共鳴し、複雑な化学反応を起こしたとき、彼らの感情の起伏だけはいい知れぬリアリティを持つのです。
物語を語るゲームの駄作と良作の境目はまさにここにあります。
物語そのものは、物語の構造を持っていれば物語のように見せることは簡単です。
ところがそこに感情移入して、プレイヤーが泣けるかどうか、という点に関しては、感情の起伏が正しく伝えられているか、ゲームの主人公とプレイヤーがきちんと一体感を得ているか、ということに尽きます。
記憶喪失という設定でアドリブ芝居に放り込まれる劇団ひとりと観客は、誰よりも強い一体感を感じるはずです。なにしろ目の前に出現する状況を目にしたときの感想は、劇団ひとりと完全に一致しているからです。
この一体感は、ゲームとプレイヤーのそれに近いものがあります。
「キス我慢」というゲームをプレイしている劇団ひとりという友達の肩越しにゲームを覗いているような楽しさが、この映画にはあったと思います。
ゲームのプレイ画面をリアルタイム配信するピアキャスと似た感覚です。
プログラミングは人間の感情を扱うのが非常に苦手です。
だからプログラマーは感情の起伏を操る、ゲームやアニメ、映画といったものにより心を強く惹かれるのかもしれません。
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登録はこちら新潟県長岡市生まれ。1990年代よりプログラマーとしてゲーム業界、モバイル業界などで数社の立ち上げに関わる。現在も現役のプログラマーとして日夜AI開発に情熱を捧げている。