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ドワンゴと角川の経営統合はなぜ実現したか

2014.05.16

Updated by Ryo Shimizu on May 16, 2014, 13:57 pm JST

 先日、ドワンゴと角川の経営統合のニュースが、かなり大きく取り扱われました。

 私自身はドワンゴにも角川にも縁があるため、もともといずれこうなるだろうとは思っていましたが、川上会長がグループの会長になり、佐藤辰男さんが社長という、逆転人事にも見える厚遇には少し驚きました。

 この動き自体は世間は大きく驚いたのかもしれませんが、私の立場からみると、歴史的にこの二つの会社はいわばもともと兄弟、または親戚のようなものでした。

 川上さんもプログラマー経験のある経営者ですから、連載の主旨とはやや離れますが、なぜこの二つの会社の経営統合が実現に至ったか、当事者を身近に知る人間の目で振り返ってみたいと思います。
 
 なお、以下、本来は敬称を付けて呼ぶべき間柄の方々もまじっておりますが、敬称は省略させていただきます。

 もともと、角川書店は、1945年に国文学者の角川源義(げんよし)により創業されました。
 その後、1970年代から角川文庫で一世を風靡し、1975年に源義が亡くなると、長男の角川春樹が跡を継ぎました。

 春樹は1965年に入社し、1976年、角川映画株式会社を創立。文庫本と映画を同時に仕掛け、メディアミックス戦略で一世を風靡します。

 ところが角川家にはもう一人、次男の歴彦(つぐひこ)が居ました。
 歴彦は「ザ・テレビジョン」や「東京ウォーカー」、「コンプティーク」を仕掛け、情報誌事業で売上に貢献する一方、兄の春樹との確執が最高潮に高まった後、春樹によって角川書店を追放されてしまいます。

 これに反発した歴彦直下の独立部隊、角川メディアオフィスの社員のほぼ全員が辞表を提出し、角川と無関係の新会社メディアワークスを立ち上げます。このメディアワークスの立ち上げを担当したのが、佐藤辰男です。

 佐藤辰男は角川歴彦の秘蔵っ子でした。彼が歴彦に売り込んだゲーム雑誌の企画書は「コンプティーク」として月刊誌になり、「マル勝ファミコン」といった攻略誌も担当しました。

 このマル勝ファミコンの編集部には、当時まだ学生だった浜村弘一(後のファミ通編集長、エンターブレイン社長)と塚田正晃(後のメディアワークス社長)が机を並べていました。
 

 佐藤辰男以下40名の怒れる社員たちは、メディアワークスで「電撃王」を創刊し、いきなり黒字化を達成します。
 さらに「電撃プレイステーション」へと快進撃は続き、「電撃文庫」の創刊でその地位を不動のものにします。

 浜村弘一は大学卒業後アスキーに入社し、小島文隆編集長のもとログイン編集部へ。ファミコンの攻略記事コーナー「ファミコン通信」を独立させたゲーム専門誌「ファミ通」の編集長になります。

 歴彦を追放した春樹はほどなくして覚せい剤の使用容疑で逮捕され、今度は逆に社長を解任されてしまいます。
 1993年、長男春樹の追放後、歴彦は角川に復帰し、社長として角川の舵取りを始めます。

 2002年、メディアワークスを角川書店が買収し、佐藤辰男は再び歴彦の懐刀として活躍することになります。

 一方、浜村は難しい立場に追い込まれていました。
 アスキーのなかでも天才編集者と呼ばれた小島文隆の率いる第二統括編集部の分裂騒ぎです。
 このときアスキーに残る決断をしたことが、結果的に雑誌を守ることに繋がりました。

 しかしアスキーの経営状況はさらに悪化し、度重なる売却と分裂を繰り返し、ついにはエンターブレインさえもが角川グループの傘下となり、少し遅れてアスキー本体も、メディアワークスに吸収合併されました。

 メディアワークス社長となった塚田正晃とエンターブレインの社長、浜村弘一。学生時代机を並べていた二人が、再び今度は同グループの社長として、佐藤辰男のもとに帰って来たのです。

 一方、佐藤辰男はまだ小さなよちよち歩きの会社の監査役を引き受けていました。
 そのときは誰も名前さえも知らない小さな会社で、社員はわずか五名。しかし、そのたった五名の社員を率いて、世界の一流企業の向こうを張る青年に、どこか応援してあげたくなる気持ちを佐藤は抱きました。

 その青年の名は、川上量生。
 彼が率いるのは、まだ誰も知らない会社、株式会社ドワンゴ。
 アメリカのテキサス州ヒューストンに本社を置く、IVS(インダストリアルビジュアルシステムズ)社の開発した通信サーバー技術DWANGO(Dial up Wide Area Network Game Operaction)を販売するために川上が設立した会社でした。

 当時のドワンゴは、今思えば奇跡のような会社でした。
 Bio_100%のaltyと恋塚昭彦、steelmanといった綺羅星の如きスター技術者を擁し、米Microsoft Corpの強力な支援を受け、SEGAの次世代ゲーム事業の基盤を担う重要技術を一手に引き受けていたのです。この頃、わずか15名。

 
 しかしSEGAの次世代ゲーム機が失敗したことでゲーム技術のミドルウェア販売を諦め、片手間にやっていた携帯コンテンツ事業に主軸を移すことになります。

 最初に大ヒットとなったのは、着メロサービスの16メロミックス。
 数百万人の会員を擁し、ドワンゴは一気にメジャーになりました。2003年の7月に東証マザーズに上場、2004年に東証一部へ上場。

 しかし着メロのブームは必ず過ぎ去ることが約束されたものでもありました。
 当時の詳しい経緯は、佐々木俊尚著の「ニコニコ動画が未来をつくる」に詳しいのでここでは割愛します。

 紆余曲折の末、「ニコニコ動画」を立ち上げ。
 iモードの立役者、夏野剛を招くなど大胆な人事でついには黒字化を達成します。

 新時代のメディアを作るべく立ち上げた「ニコニコ動画」そして「ニコニコ生放送」でしたが、海外への進出には苦戦を強いられていました。

 しかし一方で、海外のイベントに参加すると、涼宮ハルヒやエヴァなど、角川作品のキャラクターが広く受け入れられていることに気付きます。

 また、アスキー・メディアワークスも、海外向けiPhoneアプリを開発してパリのジャパン・エキスポに積極的に出展するなど、海外への展開を行ってきました。

 ニコニコ動画の海外展開を考えた時、強力なパートナーが必要になります。
 日本の強みを活かすために日本でもっともコンテンツ発進力のある会社をドワンゴは必要としたのでしょう。

 また一方で、角川は新しい経営者をどうやって選ぶか、非常に苦心していました。
 さまざまな噂や憶測が飛び交いました。

 誰かいい人間は居ないか、歴彦の言葉を聞いた佐藤辰男の脳裏に一人の人物が浮かび上がったのでしょう。
 佐藤辰男が知る、もっとも優れた若い経営者は、46歳の川上量生であると。

 そのためにはまず角川グループをひとつに統合する必要がありました。
 東証一部上場企業であるドワンゴは角川の傘下に置くには巨大すぎます。

 
 経営統合という方法を執らなければ、角川は川上量生を手に入れることはできなかったでしょう。
 そして、ドワンゴは、今まで以上に多くのリソースをニコニコ動画という新しいメディアの発展のために使うことが出来ます。角川は、これから死に行く出版業という業態のなかで、生き残りを賭けた次の一手を大胆にも自らの身を捧げるという方法で実現しました。

 これは角川歴彦ほどの人物でなければ到底できない決断だったのではないかと思います。
 分裂と合併を繰り返し、おそらく会社名もいずれ全く違った名前に変わるでしょう。

 そしてこれは、角川にとってもドワンゴにとっても、とても倖せな結婚と言えるのではないかと思います。
 角川を飲み込んだ川上さんが、今後どういう展開を仕掛けるのか実に楽しみです。

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清水 亮(しみず・りょう)

新潟県長岡市生まれ。1990年代よりプログラマーとしてゲーム業界、モバイル業界などで数社の立ち上げに関わる。現在も現役のプログラマーとして日夜AI開発に情熱を捧げている。

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