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新世代へのどこにも行きつかない啓示
A Young Person's Guide to Nowhere
2015.04.14
Updated by yomoyomo on April 14, 2015, 15:59 pm JST
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A Young Person's Guide to Nowhere
2015.04.14
Updated by yomoyomo on April 14, 2015, 15:59 pm JST
2ヶ月以上ぶりの WirelessWire News 原稿になります。3月まで他の分量のある原稿にかかっており(おそらく数ヵ月後にここでも取り上げることになると思います)、また半月ほど日本を離れる機会もあったため、随分と間が空いてしまいました。
この間に WirelessWire News はサイトリニューアルしていました。それについての感想はここでは控えるとして、久しぶりとなる今回は、特にテーマを定めることなく思いついた話をだらだらと書き連ねたいと思います。
さて、4月は新年度の始まりですが、Twitter でやたらと新社会人へのアドバイスやら、今年の新入社員がやらかした面白エピソードなどがタイムラインに流れてくるのは、毎年のことなのかもしれませんが、主観的に今年は特に多く感じました。
先日、結城浩さんの以下のツイートを見かけました。
この春、会社に入ってきた新人が、なんの驚きも社内に与えないとしたら、その人事は大失敗である。
— 結城浩 (@hyuki) April 10, 2015
これは本人に直接聞いたわけではありませんが、そうした「今年の新入社員の面白エピソード」の受容に対するいくばくかの反発というか違和感があったのではないかと推測します。
結城さんのツイートを見たとき、ワタシはまったく関係ない文章がふと頭に浮かび、ちょっと乗っかってしまいました。
「プログラミングに関する考え方に影響を与えないプログラミング言語は学ぶ価値がない(エリック・レイモンド)」に少し似ている RT @hyuki: この春、会社に入ってきた新人が、なんの驚きも社内に与えないとしたら、その人事は大失敗である。
— yomoyomo (@yomoyomo) April 10, 2015
直後に訂正させてもらいましたが、ワタシが引用した警句は、エリック・レイモンドによるものではなく、アメリカの計算機科学者であり、第1回のチューリング賞の受賞者であるアラン・パリスのものでした。
そもそもワタシがこの警句を知ったのは、ピーター・ノーヴィグの「プログラミングを独習するには10年かかる」を読んだときが最初で、自分が訳した文章のことを忘れていたことに我ながら呆れてしまいました。
ついでにアラン・パリスの警句集 Epigrams on Programming を久しぶりに読み直し、これなんていかにも自分が訳したくなるような文章なのに、どうして15年前の自分は手を出さなかったんだろうと不思議に思いました。
警句集を読み進めるうちに当時の記憶を少し思い出し、何しろプログラミングについての警句集なので、プログラミングにひっかけた言葉は適切に訳さないと台無しになります。もっと自分がプログラミングに熟知し、優れたプログラマになったら訳そうと思ったのでした。
もっとも、残念ながら、その日は来なかったわけですが。
ワタシ自身が「新社会人へのアドバイス」みたいなものを書きたいと思わないのは、単純に自分が大した社会人ではないからです。優れたエンジニア、優れたプログラマではないからです。もっと言えば、そういううだつの上がらない人間だから、ワタシはネットで文章を書きだしたのです。
これは、オフラインの友人や同僚とオンラインの友人が相当割合重なるのが自然な現在のインターネットユーザには理解されない感覚かもしれません。ワタシは現実生活と切り離す形でネットを利用していた、つまりはネットを通じて交流する相手の多くが実生活での知己とははっきり別であった時代の生き残りであり、そして現在までネット上のアイデンティティーと現実生活のそれをうまく接続することができなかった負け犬が、「新社会人へのアドバイス」などできるわけがないのです。
* * * * *
話が暗くなったので、話をプログラミングについての警句に戻すと、「プログラミングに関する考え方に影響を与えないプログラミング言語は学ぶ価値がない」をエリック・レイモンドの言葉だと思ったかというと、ワタシの中では伏線があったのです。
話はまったく別方向に飛びますが、少し前に「ハリウッドをハックした女(The Woman Who Hacked Hollywood)」という BackChannel に掲載された文章を読みました。今年のアカデミー賞において『Citizenfour』で長編ドキュメンタリー映画賞を受賞したローラ・ポイトラス(Laura Poitras)のインタビュー記事です。
彼女は、グレン・グリーンウォルドとともにエドワード・スノーデンの告発記事をものにしたドキュメンタリー映画監督です。
この記事は、グレン・グリーンウォルドの『暴露――スノーデンが私に託したファイル』にも書かれている、ローラ・ポイトラスが10年前から国家安全保障局(NSA)の監視リストに入っていたため、海外からアメリカに戻るたびに入国審査で嫌がらせのような目にあっていた話から始まります。
それは、イラク戦争の戦禍がもっともひどい時期にスンニ派が多数を占める地域に飛び込んだり、イエメンに飛んでオサマ・ビン・ラディンのボディーガードと運転手の二人の男性に密着取材したりした彼女のドキュメンタリー作家としての仕事が原因でした。
そうした仕事がすなわち人生という人なので、若い頃からドキュメンタリー映画を手がけていたのかと思いきや、10年間料理人としてのキャリアを積んでいたというのは意外でした。しかし、そのうちもっと重要なことを語りたいという欲求が彼女の中で抑えきれなくなったそうです。
そこで有名なサンフランシスコ・アート・インスティテュートで映画のクラスを取り、その後もニューヨークで映画について学び続けることができるところがアメリカのすごいところですが、そのニューヨークで彼女は2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件に遭遇します。
それから彼女のドキュメンタリー映画監督としてのキャリアが始まり、前述の仕事を果敢にものにするわけですが、この記事を読んで面白いと思ったのは、彼女はエドワード・スノーデンからの接触を受ける前に、Tor Project のコアメンバーであるジェイコブ・アッペルボーム(Jacob Appelbaum)、ウィリアム・ビニー(William Binney)など NSA 元職員を取材し、NSA の監視に関するドキュメンタリーを作っていることです。
その後、彼女はロンドンで Wikileaks 創始者のジュリアン・アサンジにもインタビューを行っていますが、後に彼女の元へと「Citizenfour」を名乗る人物から電子メールが届くようになります。
言うまでもなく、その人物こそエドワード・スノーデンだったわけで、その後のことは『Citizenfour』の公開が未定である日本では(下手なサスペンス映画よりもずっと面白い作品で、とにかくスノーデンの超然としたたたずまいが印象的だそうです)この記事の後半を読むなり、グリーンウォルドの『暴露――スノーデンが私に託したファイル』を読んで待つしかなさそうです。
前述の通り、ポイトラスの新作はスノーデンから接触を受ける前から制作が始まっており、実際『Citizenfour』でもアッペルボームやアサンジの取材映像が使われていますが、この作品の主人公がスノーデンではなく、彼の存在がなかったならば、この映画がアカデミー賞をとることはなかったでしょう。
しかしスノーデンは、ポイトラスからなぜ(ドキュメンタリーを撮影させる相手として)自分を選んだのかと問われ、こう答えたそうです。
「私があなたを選んだのではない。あなた自身がそれを選びとったのです」
これははっとさせられる言葉です。確かにドキュメンタリーを撮る映画監督などいくらでもいます。しかし、スノーデンの告発内容に親和性があり、その重要性を理解し、重荷に耐えることができる胆力があるドキュメンタリー作家となるとそうでもないわけです。
* * * * *
ただ、ワタシがエドワード・スノーデンの言葉を読んではっとしたのは、その言葉自体の鮮烈さもありますが、同じような言葉を以前に読んだことがあるなと思ったからです。
しばらく記憶を辿り、それがエリック・レイモンドの「伽藍とバザール」の一節だったことを思い出しました。
まともな行動をとってれば、おもしろい問題のほうからこっちを見つけだしてくれる。
これは、しかるべき問題意識を持ち、努力を積んでいれば機会は巡ってくる(かもしれない)ということですが、逆に言うと士気を失うことなく風上を目指す情熱と好奇心の持続がない人間には機会は巡ってこないとも言い換えることができそうです。
これなら、ワタシも「新社会人へのアドバイス」として言うことができるかもしれません(言いませんが)。
前置きが長くなりましたが(ここまで前置きだったのか!)、ワタシが「プログラミングに関する考え方に影響を与えないプログラミング言語は学ぶ価値がない」という警句をエリック・レイモンドのものだと思い込んだのは、久しぶりに「伽藍とバザール」を読みなおし、今読んでも面白いと再認識して良い気分になってたことが影響したようなのです。
アメリカ同時多発テロ事件以降にドキュメンタリー作家としてのキャリアを開花させたローラ・ポイトラスと対照的に、あの事件以降ネオコン的政治姿勢を強硬に主張して株を下げた印象のあるエリック・レイモンドですが、「伽藍とバザール」の価値が失われたわけではないのは当然のことです。
ただ今読むと、ハッカー資源を無限とはいかないまでも、無邪気に確保できると思っているところが透けてみえるところが気になりますが、この文章が元々1997年に同じプログラマを読者対象として書かれたものというのが大きいでしょう。
「伽藍とバザール」では要所ごとにまとめとなる警句めいたものが19個抜き出されており(上で引用した「まともな行動をとってれば〜」もその一つです)、それだけ読んでみるだけでもエンジニアであれば楽しめるのではないでしょうか。
例えば、以下のフレッド・ブルックス『人月の神話』第11章からの引用。
「捨てることをあらかじめ予定しておけ。どうせいやでも捨てることになるんだから」
これなどマーティン・ファウラーが昨年言い出した「犠牲的アーキテクチャ」の話につながるものではないか、と書くとこじつけと言われるでしょうか。
実はワタシ自身これに真っ向から反しているように読める文章を書いたことがあるのですが、それはともかくマーティン・ファウラーがそれを言うかとちょっと驚いたものです。ただ彼の文章を読むと、それが適したものも確かにあるわな、ケースバイケースっすね、とマヌケな感想になるわけですが。
最近になって、前述のファウラーの文章を訳した森田創さんが「確率的に犠牲的」という文章を書いており、「ソフトウェアは確率的に sacrificial である」というのはそういうことなのかなとも思うわけですが、本文はそれ以上この題材を深めることなく唐突に終わりを告げます。
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登録はこちら雑文書き/翻訳者。1973年生まれ。著書に『情報共有の未来』(達人出版会)、訳書に『デジタル音楽の行方』(翔泳社)、『Wiki Way』(ソフトバンク クリエイティブ)、『ウェブログ・ハンドブック』(毎日コミュニケーションズ)がある。ネットを中心にコラムから翻訳まで横断的に執筆活動を続ける。