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偉大なるアーティスト、河口洋一郎に学ぶアートとAI

偉大なるアーティスト、河口洋一郎に学ぶアートとAI

2019.01.12

Updated by Ryo Shimizu on January 12, 2019, 17:58 pm JST

東京大学名誉教授の河口洋一郎先生は、毎年「全国小中学生プログラミング大会」の審査委員長を引き受けてくださっている。
アーティストらしい、独創的な視点で作品を評価する姿勢は、相手が小中学生でも変わらない。それでいて、「アーティスト」という言葉から連想される気難しさやとっつきにくさが全くないというのが河口先生の魅力である。

たとえばこの「エギーちゃん」は一体300万円。

「なんでこれが?」

と思うかもしれないが、アートとはそういうものらしい。

僕はアートというのは、究極的に言えば「真実の情念」だと考えている。
真実の情念を言い換えれば「狂気」だ。

僕が河口洋一郎先生と初めて知り合った頃、正直、先生のアートの価値を全く理解できなかった。その後、何年にもわたって交流を続けるうちに、ようやく彼のアートの本質が見えてきた。アートというのはそのような性質があるため、理解するためには長い時間をかけて繰り返しみて、考える必要がある。

河口先生のアトリエにお邪魔したのが今回が三度目だが、一番驚いたのは、コンピュータグラフィックスによるアートの世界的先駆者でありながら、出発点は色鉛筆によるスケッチにあることだ。先日もちょうどスケッチしてる途中だった。

これ全て手書き・手塗りである。

河口先生は前衛的なアートを作る前に、まず徹底的に紙に色鉛筆でスケッチをする。そのスケッチを何度も繰り返す。

常人からすると、この段階では何を表現したいのか全くわけのわからないものを何度も繰り返す、ということをやって平気なのが、アートにおける「狂気」である。

我々のような凡人は、天才、河口洋一郎の頭の中にある理想世界をかいま見るために想像するしかないのだ。

では僕はどのようにして河口先生を理解しようとしたか。

ふつうアーティストの個展は、生まれてから晩年の作品へ向かって時系列に沿って展示されるのが基本だ。時系列で見ることで、アーティストがどのようなことを考え、試行錯誤を繰り返してきたか理解できるのである。アートを結果だけ見て良いとか悪いとか語ることにはあまり意味がない。

さて、河口先生の作品に関しても、時系列を追うことでその目標とするところを理解できる
河口洋一郎がコンピュータグラフィックスを始めたのは1975年だ。

どんな偉大なアーティストも、誰しも若かりし頃は習作を繰り返す必要がある。そこから少しずつ自分の見極めたい真実のアートに近づいていくのだ。ピカソの初期の作品が、面白みのない普通の具象画だったのと同じように、河口洋一郎の作品も初期はフラクタル理論の三次元への応用から始まる。


分岐し、成長する、というフラクタル理論を生物の成長過程になぞらえてイメージし、それを具象物へと昇華させていく手法を河口は選択する。
無機物であるコンピュータと一見無機質な数学を組み合わせて、有機的なイメージを作り出す河口の挑戦はこんなイメージスケッチへとたどり着く。

河口は「コンピュータが作り出す芸術」を追求した最初の人間である。
当然、コンピュータを使うからには、コンピュータでなければできないことに意味がある。
フラクタルや物理シミュレーションなどの複雑な計算を使ったり、インタラクティブに反応したり、コンピュータを使った芸術には様々な可能性があると河口は考えた。


河口洋一郎は様々な形態の「コンピュータによるアート」を模索する。触れるアートであるインタラクティブアートも、河口が切り開いた分野のひとつだ。
現在、世界にはインタラクティブアートが溢れている。たとえばチームラボやライゾマティクスが多用するプロジェクションマッピングは、河口が切り開いた世界を大衆化したものと言える。

プロジェクションマッピングは、もはや日本のお家芸と言える。これも日本が生んだ新しい芸術表現だ。

おそらく河口の根底にあるのは、「本来、無機物であるコンピュータで、生物を表現することで、生物とはなにか?という本質に近づけないか」という意識だ。これは我々、人工知能の研究者と一致する意識である。

さらに河口はこうした造形物を動かしたり、巨大化させたりすることに情熱を燃やす。

実際にメカを搭載し、動く作品も多数作っている。

しかしここで河口は壁にぶち当たる。

アートの主な買い手は、美術館や博物館だ。彼らは優れた作品のパトロンである一方、一度数千万から数億で仕入れた作品を、最低100年は展示しなければならない。

そして当然、アートというのは、希少性がなければ売ることができない。博物館にしろ美術館にしろ、この二つには等しくmuseumという単語が割り当てられているが、museumというのは、珍しいものしか展示してはいけないのである。

したがって河口が開拓したコンピュータグラフィックスというアート分野は、デジタルコピーという破壊的テクノロジーによってアートとして世界的評価を受けながらも「アート商品」にはなり得ないというジレンマを抱えることになった。

この手のジレンマは、ニューテクノロジーが勃興した頃のアーティストにはよくある話で、たとえばサルバドール・ダリも実はウォルト・ディズニーと組んで映画作品を作ったことがある。作ったことがあるのだが、難解すぎるのと体験するのが大変なので、これ自体をアート商品とすることが難しいもののひとつである。

https://www.youtube.com/watch?v=y_TlaxmOKqs&t=86s

そこで河口が選択した道は、「物体」を作ることであった。しかも可動部があると「100年以内に壊れる」ため、可動部がない、FRPや漆塗りといった「一点モノ」の「物体」をアート商品化するという手法に行き着いた。

無機物の素材で生物を表現したい、という欲求は、実はアートの歴史を振り返れば、それはもっとも中心にあるものであり、だから彫像や絵画のモチーフにはほとんど必ずといっていいほど、人間が選ばれる。人間がもっとも興味を持っているのは人間自身であり、人間をかたち作る生命、その根幹の秘密を再現する過程を通して生物や人間を理解するのがアートの根源的な部分にあるのではないか。

その最先端の世界が河口洋一郎の世界なのだと僕は理解している。

だとすれば、今まで全く気づいていなかったのだが、僕たち人工知能を生業にしている人たちがやろうとしていることとアートが目指すことは同じものである。
つまり「無機物による生命活動の再現」をストレートに目指す、というのはアートとAIの距離は、思ったよりも近いところにあるのではないか。

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清水 亮(しみず・りょう)

新潟県長岡市生まれ。1990年代よりプログラマーとしてゲーム業界、モバイル業界などで数社の立ち上げに関わる。現在も現役のプログラマーとして日夜AI開発に情熱を捧げている。

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