▼インスタレーション「地球の告白」の目盛盤全体像
当たり前のように僕たちを乗せて動くこの地球は今、大きな曲がり角に来ているらしい。この星は全容を把握するには大きすぎるし、客観的に観察するには近すぎる。だから普段の生活の中で、ここが“一つの星”であることを意識する時間はそう多くはない。僕たちが生まれた頃、いやそれどころかこの何千年かの間、地球は今とほとんど変わらない姿をしていたのかもしれない。しかし、僕たちがこの世に別れを告げる時に、今と同じ姿をしているかどうかは怪しくなってきている。その変化の原因に僕たちが関係していないと強く言い切る自信もない。
“人間はこの地球上に生きるあらゆる生命の中では特別な存在である__”。僕たちはそう信じたい。しかし、これまでのこの星の歩みの中で人間が特別であったわけではないし、この先にも特別であり続ける保証はどこにもない。人間がこの地球上に居た時間など、長い地球の歩みの中ではほんの一瞬の出来事だ。地球の歴史を365日のカレンダーに換算する (*1)と、人間が地球に現れてからの時間など数分程度のことなのだ。
もし人間が他の生命と違って特殊なことがあるとすれば、それは自分自身を俯瞰して振り返ることのできる能力を持っていることだ。俯瞰する能力は視覚と関係している。鳥のように視覚的に空間を俯瞰すると情報量が多くなり、全体像が把握できる。それは時間的にも先を見通しやすくなることを意味する。地上にいる人間には視覚的に見下ろすことは難しいが、想像力を使って目線の高度を上げることが可能だ。想像の中でまなざしを高く上げていき、一歩引いた場所から自分を俯瞰して眺める知性があることで、僕たちは人間でいることができるのだ。しかし、地べたで見える風景から目を上げ、この星の概要を冷静に俯瞰する時間を持つことがなければ、僕らは人間である理由を失ってしまうのかもしれない。だから節目のタイミングで自分たちがどこからやって来たのかを確認することが大切なのだ。
地球について考えるこの論考では、話題の端緒として初回から数回に分けて拙作インスタレーション「地球の告白」を紹介している。この作品はアポロ8号による地球の姿が写真撮影されてから50年経った2018年に、地球のことをもう一度見つめ直すきっかけとして制作した。自転を可視化する12mの長さのフーコーの振り子を中心としたインスタレーションで、振り子の下には直径3.6mの円形の目盛盤が設置されたものだ。そこに地球にまつわる様々な情報が刻み、僕たちがどこから来てどこに行くのかを見つめる羅針盤を設けたかった。目盛盤は9つの同心円で区切られ、5つめの円までは北極から見た世界地図が描かれている。その外側の同心円は13の倍数で区切られた区画に、これまでの地球の歩みの情報を載せた。例えば6つめの同心円には、地球が誕生した約45億年前から人間が金属を使い始めた約8,800年前までに起こった出来事の中から130個の情報を選んで掲載している。その外側にはこの5000年の文明の歩みを260の時代に分けて記したが、地球の誕生から今に至るまでの壮大な地球の歩みを一望できる見取り図とすることで、地球を俯瞰したかった。
▼インスタレーション「地球の告白」の目盛盤アップ
今の地球は温暖化で大騒ぎだが、地球は呼吸するように寒冷化と温暖化を繰り返している。かつて大気中の二酸化炭素の濃度は今の20倍程度になったこともあり、地球の長い歩みの中では温暖期よりも氷河期に生物が大量に絶滅することの方が多い。
地球がこれまでに歩んできた道のりは、僕らが生きている時間軸では到底理解できないぐらい壮大な出来事の連続だ。地球は長い長い時間をかけて試行錯誤しながら今の姿になったが、約46−45億年前に誕生した頃にはまるで違う風景をしていた。この地球の表面に大陸プレートと海が出現した後に、ようやく光合成する生物が現れたのは約35億年前のこと。その後、約21億年前に誕生した真核生物から、より複雑な多細胞生物へとようやく進化を遂げたのは、約7.6億年前の頃になってからだった。
魚類と脊椎動物は海に広がり、また陸地には海から上陸した植物が急速に広がったが、約3.6億年前にまた突如大量絶滅する。しかしその絶滅から約6,000万年後の約3億年前には昆虫が地上を謳歌し爬虫類が登場していた。その生物たちも約2.5億年前にまたもや絶滅してしまうが、生命はしぶとく生き続ける。約1億年前には大型の恐竜が地球上を闊歩する生命の全盛期がまた訪れていた。だが今度は直径10kmの巨大な小惑星が、現在のメキシコあたりに衝突したことで、約6,600万年前に鳥類とワニ類を除いて多くの恐竜は絶滅した。
次の新生代で爆発的に放散進化した多種多様な哺乳類は地上でもっとも繁栄した種となった。その延長線上に僕らの祖先と言われる霊長類も登場し、それがサバンナに降り立ち二足歩行するようになったのがようやく約700万年前のことらしい。地球の風景の中に人類が現れるまでの膨大な時間の中で、数々の生命が現れては消えている。何度も何度も生命は誕生し、絶滅を繰り返しては、試行錯誤しながら新しい生命を生み出し進化を辿ってきた。だから僕らだけが特別であり、未来永劫ずっと存続し続けるなどという考えは、自分中心の視線に過ぎないと思えてはこないだろうか。
▼インスタレーション「地球の告白」の目盛盤に記載された地球の歩み
“人類”というと、僕たちは当たり前に自分たち人間つまり“ホモ・サピエンス”のことだと思うかもしれない。しかし、この地上にはホモ・サピエンス以外にも“様々な人類”が住んでいた。実際に約3万年にネアンデルタール人が絶滅するまでは、様々な人類と共生していたことが分かっている。人類も他の生命と同様に、この地上で試行錯誤を繰り返し、様々な種が生まれては消えていった。
個人的には人は水中で進化したと唱えるエレイン・モーガンの説(*2)が魅力的に思えるが、もし仮にホモ・サピエンスがサルから進化したという説が正しいとすれば、チンパンジーとの遺伝子の違いがわずかだと言われる僕たちが、なぜ今のような複雑な思考を持ち文明を築くような存在になったのだろうか。その仮説として“まなざしの高さ”が関係しているというのはどうだろうか。アフリカで樹上生活をしていたサルの一部が、1,000万年前の地殻変動で失われたジャングルを追われ、サバンナへと降り立ったのが僕たちの祖先の始まりだと言われている。
おそらくその初期の頃のサルはまだ四つ足に近い状態だったことだろう。だが草が生い茂るサバンナでは目の高さが地上に近い四つ足の状態では、遠くの風景を見ることができない。周囲の風景が見えないことは生存にとっては不利な状態である。だから我々の祖先はだんだんと体重を後ろ足で支えることで目の高さを持ち上げたのではないか。直立二足歩行することでサルは重たい脳を支えられるようになったとも言われるが、目の高さつまり身長を脳容量との関係は人類の進化の過程でどのように移り変わってきたのだろうか。
▼人類の進化とまなざしの高さ・脳容量の関係(「世界史詳覧」浜島書店2006改訂版の図を元に筆者作成)
その骨格から直立二足歩行の姿勢を取っていたことが分かっている初期の人類「アウストラロピテクス」(*3)は、約400万年前には既にアフリカに存在していたとされる。脳容積は現生人類の約35%程度の500cc程度であるが、身長は約120㎝から140㎝と言われており、既にサバンナのステップから頭を出して遠くを見渡せていたのではないだろうか。
さらに時代が下ると、直立二足歩行していたヒト亜属のうち、さらに脳が発達したヒト属が現れる。いわゆるホモ(HOMO)属と言われる種で、最初の種である「ホモ・ハビリス」(*4)はアウストラロピテクスから分岐し、約240万年前から140万年前ごろに生きていた種であると言われている。脳容量は現生人類の半分の700ccほどだが、身長は大きいものであっても135㎝で同じぐらいだと考えられている。
次に現れた「ホモ・エレクトス」(*5)は約180万年前から約7万年前ごろまで生きていた種で、脳容量も現生人類の75%程度の950cc〜1,100ccまでと大きくなっており、身長も成人男性で140㎝から160㎝と、まなざしの高さがさらに持ち上がり、遠くの風景が見渡せたに違いない。
その間に、進化上の謎の一つとされている「ネアンデルタール人」(*6)が約35万年前に地球上に出現している。2万数千年前ごろまで生きていたと言われるネアンデルタール人は、ホモ・サピエンスの直接の祖先ではないとされているが、近年の学説ではその遺伝子が数%、今の人々にも混入しているという研究結果(*7)も発表されている。
興味深い事実はネアンデルタール人の身長が165㎝ほどであったのにもかかわらず、脳容量が現生人類の約110%にあたる1,600ccもあったということだ。絶滅に関しても謎の多いネアンデルタール人は人類の進化を考える上でとてもユニークな位置にいると思う。
そして現生人類であるホモ・サピエンスは約4万年前ごろに出現した「クロマニヨン人」(*8)あたりに端を発しているとされている。現在のヨーロッパ人の祖先であるともされているが、身長は180㎝前後、脳容量も1,500cc程度に達していたという。
▼ロンドンの自然史博物館の人類の骨格模型
こうして並べてみると気づくのは、概してまなざしの高さと比例して脳容量が大きくなっていることだ。では今の我々はどうだろうか。人類学では現在の人類全体の成人男性の平均身長は165㎝(*9)、脳容量は約1,350cc(*10)とされている。もちろん個体差はあるにせよ、現生人類はクロマニヨン人の頃よりも概して脳容量も小さく、まなざしの高さも低くなっていることが分かる。肉体的に大きくなることを止めた人間は進化ではなく退化したのだろうか。
もちろん、まなざしの高度と知能との間に相関性があるかどうかは明らかにはなっていない。しかしこれまでの人類の進化の経緯の中で、脊椎が直立することで脳重量を支えられるようになったという説明に加えて、視線が遠くまで通るようになったことで先を見通す知性を獲得したと考えるのが魅力的に思える。ではなぜ人は、そこからキリンのように首を伸ばしてさらに高い位置へと目を持ち上げなかったのか。それは想像力を使って頭よりももっと高くまなざしを上げることを身につけたからではないか。視覚的に見えないものを見る空想のチカラで、自分自身をも俯瞰する知性を獲得していったのではないか。
歴史的に王や支配者たちは物理的に高い場所に居を構えて見下ろすことで多くのことを把握し人々を統治した。さらに20世紀に入り飛行機が発明されることで視覚的な高さは上がり、ついに1968年に月から地球へとまなざし向けるまでになったのだ。それから五十年経った今、僕たちはさらに知性的になっているのだろうか。自分たちを俯瞰しながらこれから進む先をしっかりと見据えているだろうか。むしろ様々なものが視覚的に氾濫して、日々の想像力が逆に退化していないだろうか。こうして地球を俯瞰する時間を持つことは、人間としての知性を取り戻すことと関係しているように思える。
*1:http://www.ne.jp/asahi/21st/web/earthcalender.htm
*2:https://ja.wikipedia.org/wiki/水生類人猿説
*3:https://ja.wikipedia.org/wiki/アウストラロピテクス
*4:https://ja.wikipedia.org/wiki/ホモ・ハビリス
*5:https://ja.wikipedia.org/wiki/ホモ・エレクトス
*6:https://ja.wikipedia.org/wiki/ネアンデルタール人
*7:https://www.natureasia.com/ja-jp/natecolevol/pr-highlights/12791
*8:https://ja.wikipedia.org/wiki/クロマニョン人
*9:https://ja.wikipedia.org/wiki/身長
*10:https://ja.wikipedia.org/wiki/人類の進化
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登録はこちら1976年生まれ。博士(緑地環境計画)。大阪府立大学経済学研究科准教授。ランドスケープデザインをベースに、風景へのまなざしを変える「トランスケープ / TranScape」という独自の理論や領域横断的な研究に基づいた表現活動を行う。大規模病院の入院患者に向けた霧とシャボン玉のインスタレーション、バングラデシュの貧困コミュニティのための彫刻堤防などの制作、モエレ沼公園での花火のプロデュースなど、領域横断的な表現を行うだけでなく、時々自身も俳優として映画や舞台に立つ。「霧はれて光きたる春」で第1回日本空間デザイン大賞・日本経済新聞社賞受賞。著書『まなざしのデザイン:〈世界の見方〉を変える方法』(2017年、NTT出版)で平成30年度日本造園学会賞受賞。