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その情報、ファクト or フェイク? 後編 「事実」と「主張」が含まれる情報への接し方

その情報はファクトかフェイクか? 後編 デモや暴動の情報から「事実」と「主張」を見分けるには

2021.01.12

Updated by Chikahiro Hanamura on January 12, 2021, 14:54 pm JST

あらゆる情報は演出されている

そもそも流れてくる情報には「事実」と「主張」が一緒に溶け込んでいる。マスメディアであってもウェブメディアであっても、メディアとはその性質上、「ある見方」の下で情報を発信するものだからだ。

誤解を恐れずにいうと、ある意味で全ての情報はフェイクニュースなのである。情報は伝えられた時点で、既に意図が入っている。そして伝え方によって、どのような演出も可能である。だから、伝える者への信頼が怪しくなっているこの時代では特に、提示された情報をそのまま事実として素直に受け入れることはリスクを伴う。

例えば、市民のデモと警官隊の衝突が起こったとする。その一連の出来事のどこを切り取るのか。その段階で既に演出は始まっている。ショッキングな部分を切り取る方がニュースになりやすいのはいうまでもないが、それ以外の時間に何が起こっていたかによって、そのシーンの意味は変わる。そして、取り上げなかったものが伝わることはない。

選んだそのシーンを肯定的に取り上げるのか、否定的に取り上げるのか。もちろん、それを誰の視点から取り上げるのかによっても、そこに主張が差し込まれる。市民側が暴力を振るっている場面か、警官側が暴力を振るっている場面かで、伝わり方は正反対になる。取り上げ方一つで、印象を誇張するものと弱めるものを操作し、情報を受け取る側をリード、あるいはミスリードすることが可能である。そして何より、取り上げられなかった出来事はなかったことになる。

さらに、事実として取り上げられた出来事が本当に起こったことなのかどうかを、どうやって証明するのだろうか。出来事は確かめられない限りは単なる情報である。その発信元が本当に信頼に足るものである、という保証はどうやって得れば良いのだろうか。その事実を誰が確認したのか。それはどのように確認されたのか。それがどのような方法で共有されたのか。もし、そんな出来事がなかったと後で発覚した時には、正しい情報とされていたものがフェイクニュースとなる。

「事実が情報として切り取られる」のではなく、「情報として切り取られたものが事実になる」ような社会では、なおさら情報を伝える者の客観性と倫理観、そしてその情報を受け取る私たちの賢さが大事になる。

一方で、一度疑い始めると、全てがフェイクニュースに見えるようにもなる。マスメディアから流される情報やインターネットの情報だけでなく、政府から発表される公式見解、学者のデータまで、その裏側に意図が潜んでいるのではないか、と勘繰ることになるだろう。

そんな全てにおいて情報の信頼性が揺らいでいる時代で、一体何を信じれば良いのだろうか。ファクトチェックをする団体は信じられるのだろうか。クロスチェックされた情報は信じられるのだろうか。そんな社会では正しいものは何もなく、「正しそうに見せること」に成功した情報だけが受け入れられる。私たちのまなざしを都合良くデザインしようとする者は、客観を装って私たちに訴えかけてくる。

だからこそ私たちは、どこまでが実際に起こった「事実」で、どこからが伝える者の「主張」なのかを注意深く分けて見なければならない。しかし、実際に自分が見た「事実」であっても、信じられるかどうか分からない、というのが今の社会である。目の前で起こっていることであっても、あたかも手品のように簡単に騙されてしまう私たちなのに、メディアに溢れるさまざまな言葉や画像の真贋をどうやって見分けられるのだろうか。この世界は、あらゆる情報がモニターの画像を通じてやってくる情報文明であり、そこには高度な情報技術が駆使されている。いくら注意したとしても、ファクトかフェイクかの見分けが付かない状況が、既に生まれている。

フェイクからディープフェイクへ

コンピュータグラフィックス(CG)による映像合成技術は、日進月歩している。今や、あらゆる空想を画面上で表現できる技術が整い、ハリウッド映画で再現できないような世界はもはやないだろう。実写の映像の中にCG技術が組み合わされ、実際に存在するようにしか見えないほどのリアリティある映像効果を生んでいる。それによって、私たちが目にする映像が本物なのか、それとも合成されたものなのか、という見分けが付かなくなっている。

1960年代から発展したCG技術(注1)は、1990年代頃からVFX(ヴィジュアル・エフェクツ)やSFX(スペシャル・エフェクツ)といわれる特殊技術と共に、映像合成の手法の中に取り入れられてきた(注2)。実写映像に対して現実離れした表現を付加する技術の精度は徐々に進歩を見せたが、違和感なく仕上げるには、高度な技術と非常に長い時間をかけて細かい調整をする労力が必要とされた。

ところが、近年の人工知能(AI)の進展により、映像合成技術が飛躍的に進展した。AIにディープラーニング(機械学習)させ、合成する画像の元を理解させた後に、アルゴリズムによってCGのデータを生成させる。これによって、実写映像に継ぎ目なくCGを合成することが可能となった。こうした技術は「ディープフェイク技術」と呼ばれている。

例えば、ある人物のディープフェイク映像を作りたい場合は、その人物の顔のデータを大量にAIに学習させる。さまざまな照明の下であらゆる角度から、その顔がどのように見えるのか、また表情や口の動きがどのような形になるかを理解させる。そこで得られたパターンに基づくアルゴリズムによって生成された人物の映像を、別の人物の顔や別の背景に合成するのである。実際、ワシントン大学の研究者が、AIによってバラク・オバマ前大統領のスピーチ映像の口の動きを別の言葉に置き換えるデモ映像を制作した、と2017年にBBCで報じられていた(注3)。

この技術が、より効果的に世間にプレゼンテーションされたのは、2019年に公開されたサッカー選手のデビッド・ベッカムが9つの言語を流暢に話す動画である(注4)。スタートアップ企業のSynthesiaが、マラリア撲滅運動のキャンペーンのために制作した映像であったが、そのクオリティは世界を驚かせた。また、MITの研究者たちが公開したリチャード・ニクソン元米大統領のフェイク演説でも、このディープフェイク技術の恐ろしさを知らしめた。それは、ニクソン大統領がアポロ11号が失敗した場合に準備していた代替演説を行う、という内容だった。

2020年8月に開かれたセキュリティ・カンファレンスのBlack Hat USA 2020では、映画俳優のトム・ハンクスのディープフェイク映像が公開された。数百枚のハンクスの画像をインターネットで収集し、オープンソースの顔生成ソフトウエアを使って制作されたものだ。そのためにかかった費用は、100ドル弱である(注5)。精度としては不十分な部分も多少見られたものの、特徴的なディテールはほぼ再現されていたという。つまり、技術にそれほど習熟していない者であっても、安価にかつ容易にディープフェイク映像を制作することが可能であることが示されたのだ。映像でそれほどの再現性が実現されているのであれば、静止画像ならほぼ見破ることが難しいクオリティに達しているだろう。

このディープフェイク技術では、映像だけでなく音声の再現も可能である。そうなると、実際に撮影・録音されたものなのか、それとも加工されたものなのかの区別はほとんど不可能である。ディープフェイク技術を使えば、その人が実際にはしていない行為や言動まで捏造することが可能となる。映像や音声というものは、もはや本人の言動や実際の状況を証明する証拠にはなり得なくなったことを意味している。

現在のところ、インターネット上で出回るディープフェイク映像の96%は、非同意のポルノ映像といわれている。しかしこの先、詐欺や顔認証セキュリティへの悪用、誹謗中傷のための映像など、それ以外のさまざまな悪用も考えられる。2019年にはFacebookやTwitterなどのソーシャル・メディア・プラットフォームが、ネットワーク上でのディープフェイクを禁止するなどの方針を出しているが、それでもやはり、この技術を用いた映像は出回っている。

こうした技術が、果たして政治的な目的や事件を捏造するために使われていないと言い切れるだろうか。私たちは、毎日のようにテレビやYouTubeの中で映像を見ている。そんな日々目にする映像が、現実に起こっている事件の確たる証拠として、もはや説得力を持たなくなっている。紛争地域で起こっている爆撃、大規模な抗議デモが映し出された映像。誰かが悪事をはたらいている場面や、誰かの問題発言などのスクープ映像。かつては、それが証拠になり得たかもしれない。だが、それが加工されたものではない、ということをどうやって見分けられるというのだろうか。

実際にその場所に立ち会わない限り、フェイク映像もリアルな映像も、同じ画面の中で映し出されている映像に過ぎないのである。これまでにも、そうやって捏造されてきた事件が少なからずあったが、これからはますます、証拠として見せられたものであっても、簡単には信用できなくなる社会が本格化するのである。

情報は単なる情報と捉える

大量に継続的に流れて来る情報、目まぐるしく変化する情報、これらの情報を私たちが受け止めて消化するための時間は、あまりにも短い。情報の流れの速さ、出来事の多さに翻弄されて、ほとんど思考停止に陥っているといっても良いだろう。そうやって何が信じられるのかが分からなくなった人々は、狭い範囲で自分の利害に関係する情報や分かりやすい情報だけにフォーカスしがちだ。

あるいは、次第に考えることをやめて、見たいものにだけ目を向けるようになる。そんな人々が多数を占めるようになれば、その社会は崩壊するのは目に見えている。実際に私たちは、メディアから流れてくる情報に対して、いくつか異なる見方を示し始めている。

最も一般的だと思われる見方は、従来から続く大手の報道機関からの情報を受け入れることである。それが真実であろうとなかろうと、多くの人が共有していそうな知識や認識、価値観を受け入れるのが常識的だ、と判断する人はまだまだ多い。だがそもそも「なぜその情報が発信されるのか」という前提は見落とされがちだ。その情報が発信されること自体が、世論を誘導しようとしている可能性を大いに意識せねばならない。

メディアとは、元々の成立の経緯からしても中立的な立場ではなく、何かの意図を持って情報を伝える性質を持っている。それに注意せずに情報を鵜呑みにすることは、「常識的」かもしれないが、皆で一斉に間違える可能性がある。

反対に、大手の報道や公式見解を片っ端から疑う見方もあるだろう。メディアは操作されており、政府は嘘をついている、という態度で情報に接するのだ。そして、公式に報道されたことや多くの人が信じていることは受け入れずに、インターネットで述べられていることの中に真実を探そうとする。そういった懐疑的な態度の人は、以前と比べて相当増えているだろう。

だが、インターネットの中に真実があるとは限らない。むしろ、嘘に満ちている可能性の方が大きい。嘘が真実の振りをしても責任を問われることはないし、嘘のように見える真実は見落とされがちだ。編集もされず、優先順位も付けられていない情報が流れるインターネット空間では、自分で情報を集めて自分で編集しなければならない。

しかし、見たい情報だけを追いかけていると、簡単に何かの方向へ自ら誘導されてしまう。それは、自らが批判するマスメディアによって誘導されている人々と大差ないことになる。

そんな状況下で最も「強靭な態度」とは、そもそもたくさんの情報にまなざしを向けずに、何も知ろうとせず何も考えようとしないことである。社会で何が起こっているか、誰がどのような解釈をしているのか、といった全体像には関心を抱かない。ただひたすら、自らが好きな事にフォーカスし、快楽に耽けるという態度。社会の矛盾に悩むこともなく、深く考えることもなく、自らの欲望に忠実に突き進む態度は愚かだとされるが、こんな時代では最も強靭なのかもしれない。

だがそれは同時に、最も「脆弱な態度」でもある。自らの欲望こそが誰かによって作られている可能性が高い上、多くの人が自分の見たいものだけにフォーカスしていると、社会には死角がどんどん広がっていく。関心がある事に目を奪われている間に、気が付けばあっという間に自分たちに不都合な状況が整えられている、ということも起こりうる。民主主義社会では、主権を握る私たち民衆が自らの事しか考えない愚かな主権者であることはとても危険なことである。

では、どのような見方が正解なのだろうか。報道機関やウェブメディア、SNSなどの様々な情報をフラットに眺めて、どの情報が信頼に足るものでどの情報が怪しいのか、そして何が正しくて何が間違っているのか、ということを自ら確かめようとする努力が、これまで以上に必要になる。それは根気と忍耐力、そして能力を高めねばならないが、今の情報時代における真実の求め方についての回答の一つであるだろう。

それと同時に、ニュートラルに情報を見つめることは本当に難しい、ということを知っておかねばならない。嘘か真実かに囚われ過ぎると、この情報の激流の中では、知れば知る程、何が真実か分からなくなっていく。そうなると、途中で考えることを諦めてしまうか、適当なところで立場を固めて好みの解釈だけを選ぶようになる。そうでもしないと、何を信じるべきか分からずに、心を病んでしまうことになるからだ。私たちが、簡単に何かの主義や立場に囚われ、何かの解釈に囚われ、何かの感情に囚われるのは、何かを信じたいと思っているからだ。

そんな中で、私たちに最も必要なことは「情報は単なる情報でしかない」と捉える態度である。現代は、あらゆる情報が新聞やテレビ、ウェブサイトやSNSなど、さまざまなメディアを通じてやってくる時代である。同時に、誰もがある特定の見方で情報を切り取り発信できる時代だ。そんな世界では、これまで以上に絶対的な真実などはない。

情報に固執することも、情報を遮断することも、情報に過剰な価値判断をすることも、見方を曇らせてしまうことにつながる。情報は情報に過ぎない。これが正しい理解であり、情報に溢れる社会の中で生きる最も賢い態度だろう。情報とは、私たちがその場で必要な行動を判断するための単なる材料なのだ。そして、私たちが世界を把握するための材料を得るのは、言葉や画像といった情報だけが唯一の方法ではない。

(文中敬称略)

注1)
世界で最初のCGシステムは、1962年当時MITの大院生であったイワン・サザーランドが開発したスケッチパッド・システムだといわれている。これはまだワイヤーフレームのみだったが、その後、そのフレームが多面体(ポリゴン)にテクスチャを貼り付ける形式へとなり、より立体的な表現が可能になっていく。1970年代後半以降は、映画やテレビ制作の中でも度々CGが用いられたが、まだリアリティを追求できるほど精細なものではなかった。

注2)
VFXとは、撮影された映像を後に加工して合成する技術である。例えば、グリーンバックと呼ばれる緑色のスクリーンを前にして撮影した映像に、後から背景を加えて行くというクロマキー合成といわれる技術などである。それに対してSFXは、撮影の段階から特殊効果を用いて合成する技術である。特殊メイクや爆発などの特殊効果がこの技術に入る。

注3)
https://www.youtube.com/watch?v=AmUC4m6w1wo

注4)
https://www.synthesia.io/post/david-beckham

注5)
https://www.axion.zone/repurposing-neural-networks-to-generate-synthetic-media-for-information-operations/

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ハナムラチカヒロ

1976年生まれ。博士(緑地環境計画)。大阪府立大学経済学研究科准教授。ランドスケープデザインをベースに、風景へのまなざしを変える「トランスケープ / TranScape」という独自の理論や領域横断的な研究に基づいた表現活動を行う。大規模病院の入院患者に向けた霧とシャボン玉のインスタレーション、バングラデシュの貧困コミュニティのための彫刻堤防などの制作、モエレ沼公園での花火のプロデュースなど、領域横断的な表現を行うだけでなく、時々自身も俳優として映画や舞台に立つ。「霧はれて光きたる春」で第1回日本空間デザイン大賞・日本経済新聞社賞受賞。著書『まなざしのデザイン:〈世界の見方〉を変える方法』(2017年、NTT出版)で平成30年度日本造園学会賞受賞。