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ヒューマン・イン・ザ・ループによる人間拡張

2021.11.22

Updated by Ryo Shimizu on November 22, 2021, 07:32 am JST

以前、本欄で「魂の継承」とAIの蒸留は似ているという話をした。
それからまだ一ヶ月も経っていないが、筆者の認識が少し進歩したのでもう一度その話について深堀してみることにする。

まず、AIの蒸留とは何かおさらいすると、下図のようなものになる。

一般にAIの蒸留は、巨大で高精度なAIを師匠とし、コンパクトで未熟なAIである弟子を鍛えることによって、コンパクトでありながら高精度なAIを作り出す仕組みである。

蒸留を行うとAIのサイズが小さくなる。サイズが小さいということは計算量は減るわけで、高速に動かせるし、巨大なコンピュータが不要になる。いいことづくめなのだが、何でもかんでも蒸留できる訳ではなく、蒸留する弟子側にも「蒸留されるに足るある程度の器の大きさ」が求められる。

これを人間の世界の師匠と弟子の話に置き換えてみる。

どの世界でもそうだが、師匠は弟子に手取り足取り教えたりはしない。
ただ生活を共にし、同じものを見て笑い、怒り、楽しみ、悲しむだけだ。

「芸は盗め」と言われるが、実際に盗むのは師匠の反応そのものである。
学ぶことは真似をすることから始まると言われるが、まさに真似をしなければ師匠の本当のところはわからない。

そして弟子はある段階で師匠の行動が読めるようになる。

「こういう時、師匠ならどうするだろうか」

ということが手にとるようにわかる、その瞬間は衣食を共にしていれば必ず訪れる。

そうしたら、修行はそこでお終いなのだ。
そして悲しいかな、それは必ずしも師匠と同じスキルを身につけたことを意味しない。
師匠の持つ価値観を継承したにすぎない。

スキルというのは全く別のところで自分で磨かなければならない。

スキルを十分持っている人ならば、同じ師匠からでもより多くのことが学べる。つまり、弟子の器とは、一人で磨いたスキルの水準がどのくらい高いかということでもある。

スキルがないままに魂だけを継承してしまうと、多くの弟子はそこで潰れてしまう。

「師匠ならこういうだろう」と言うことがわかっても、スキルがないので結果をコントロールできなくなってしまう。すると「ダメなことだけはわかっているので結果何もしない」ということになってしまう。

しかし師匠は常に弟子の視野を広げてくれる。
視野が広がるだけでも、随分助かるはずだ。

スキルを身につけるのは結局自分でやらなければならないが、これは当たり前で、いくら師匠についていっても、自分で水の中で泳がなければ泳げるようにはなれないのだ。

システム工学の世界ではヒューマン・イン・ザ・ループと言う考え方がある。
システムの中に人間を組み込むということだが、僕はむしろマン・マシンシステムという言葉の方が好きだ。
つまりヒト(マン)と機械(マシン)によって構成されるシステムという意味である。

通常、ヒューマン・イン・ザ・ループは、その名が示すように機械が苦手な部分を人間が補うことでシステム全体を構成する。
たとえば、警備システムは典型的なマン・マシンシステムで、機械が警備用カメラを動かし、人間の警備員が不審者がいないかモニターで確認する。機械がなくても人間がいなくても成立しないシステムだ。

しかし、それはもう昔話になりつつある。AIの発達によって、「機械が苦手な部分」というのがどんどんなくなってきているからだ。
警備システムの例で言えば、不審者の発見はAIで済んでしまう。夜中に会社に出入りする時も、よほど大きな会社でなければ警備員さんが常駐していることは珍しく、遠隔警備、自動警備システムが使われる。

それでも不審者への対応や不審物の撤去などまだ人間が残っている部分はあるが、これもロボットへの置き換えが進み始めている。

マン・マシンシステムにおける人間(マン)の役割がどんどん小さくなっていってるのが不可逆的な時代の流れであり、これはもうどう頑張ってもひっくり返りそうにないのである。

しかし、発想を逆にしたら、これまでの発想と全く異なるシステムが構築できるのではないかと最近は考えている。

筆者は手書き指向端末enchantMOONを開発した後、ソニーCSLでその後継となるデルタプロジェクトを開始した。

デルタプロジェクトでは、コンテキストメニューは「バブル」と呼ばれる機能ブロックとなって呼び出される。
このバブルは、コンテキストに依存しているので、書かれたものが文字であればフォントを変更したり類義語が表示されたり、その文字に関係する画像が検索されたりするようになっていた。

ある時、デバッグがてら「Human Augmentation(人間拡張) 」という言葉を書いたところ、人間がサイボーグへと進化していく画像がバブルに現れた。
そのバブルを掴んで、ページにドラッグするとそのままその画像をノートに書き込むことができる。

僕の頭の中で漠然としていた「Human Augmentation」というイメージが、バブルによって拡張された瞬間である。

この時に思ったのだが、AIは人間の想像力を拡張する目的で使うことで、人間は単独でいるよりもずっと賢くなれる。
この当時のAIは、まだ言葉から画像を引っ張ってくるくらいの単純なことしかできなかったが、今日のAIは言葉から画像を作り出したり、音楽を作り出したりできるようになってきた。

今現在のAIは、ある面で見れば人間よりも遥かに賢い。
逆に、人間の知性の方がAIに勝るケースを探す方がむしろ難しくなってきた。

たとえば今のAIは面白い漫画を書くことはできない。だから人間の方が賢い、とかろうじて言えるのだがさて、僕は漫画が描けない。
大抵の人類には面白い漫画が書けないので、既にAIより賢いとは言い切れない。

そしてAIは、そのうち面白い漫画を描けるようになってしまいそうだが、僕が面白い漫画を描けるようになる日は死ぬまで来ないだろう。

囲碁もそうだ。世界トップランカーの囲碁の名人に勝つとか以前に、僕は全く一度も勝てる気がしない。最近のAIは、100ヶ国語とかを同時に理解できる。こんなことができる人類はいない。つまり、英語と日本語だけとか、英語とフランス語だけ、とかではなく、100ヶ国語を全く平等に、同時に理解できるのだ。もうとっくに人智を超えているし、シンギュラリティ(技術的特異点)は起き始めているのである。

多数の言語を操るということは、多数の文化を知っているということでもある。英語にしかない表現、日本語にしかない表現、スペイン語にしかない表現、ヒンズー語にしかない表現といった、民族の根幹に関わるところまで100ヵ国もの言葉を「とりあえず知っている」という状態に至った人間はおそらく歴史上一人もおるまい。

つまり、今や大半の人類よりも、AIの方が遥かに「賢い」のである。
最近のAIの厄介なところは、「賢さ」の基準を決めてしまうと、必ずその基準をクリアしてしまうことだ。
クリアするかどうかはほとんど時間の問題なのである。

では仮に、「AIの方がすでに人間よりも賢い」という仮説を立ててみよう。
するとどうなるか。

「AIを師匠にして人間が学ぶ」ようなマン・マシンシステムが考えられる。

このシステムは人間が自分の想像力を拡張し、新しい認識を得るために用いられる。
人間同士でもディスカッションなどでこういう一種の「認識の共鳴」のような状態を体験するが、AIの方がスピードが早くて高い効果を期待できるだろう。

最近びっくりしたことがある。
筆者が運営しているAI作画サービス「画狂」をメンテナンスしていると、「未来のスキャナー」というキーワードが次々と送られて来ていた。

「OCR」とか「スキャナー」とか次々とキーワードが来るのだがあいにくメンテ中なので画像が更新されない。
極めてだらしないサービスなので、「メンテ中」という言葉すら表示するのをサボっていたので、大変申し訳ない気持ちになってとりあえずメンテを早く終わらせたのだが、このキーワードを投げてきたのは、多分どこかのスキャナーメーカーだろう。

日中だったので、おそらくどこかのスキャナーメーカーが、ブレインストーミングのついでに画狂に絵を描かせようと考えたに違いない。
最近、そういう「明らかに仕事に使っていそう」なキーワードがよく出てくる。

これは潜在的に「AIに想像力を補ってもらいたい」というニーズがあることを示しているのではないかと思う。

使うだけで自分が賢くなれるようなAIがあれば、それはぜひ使いたい、ということになるのではないだろうか。

少年サンデーで連載されていた漫画「電波教師」では、主人公の高校教師が、定期テストの問題を過去問から類推して90%以上的中させるアプリ「ルーチンバスター」を開発し、全校生徒に配る。

定期テストが事実上無意味になるということで学校は大混乱に陥るのだが、これを使ったおかげで好きな大学に入って誰でも好きなことに集中できる環境が生まれる。

藤子・F・不二雄の漫画「ドラえもん」は、主人公の少年のび太の問題を解決するための未来の道具を提供する。
多分、日本で一番馴染みが深いAIといえばドラえもんだと思うが、ドラえもんの機能が実際にはなんであるか考えてみると、実は3Dプリンターと推薦システムに過ぎない。

のび太の悩みを聞いてどんな道具が必要かその場で推薦し、四次元ポケットという3Dプリンターで具現化するシステムがドラえもんであると定義できる。
そのほかの一緒に遊んだりするシーンは、そもそもドラえもんにはほとんど出てこない。

のび太はドラえもんと遊ばず、スネ夫やジャイアント遊ぼうとして、毎回いじめられてドラえもんに泣きつくのだ。

ドラえもんがのび太に提供する道具は、人間拡張ツールである。
物体を大きくしたり小さくしたり、時間を超えたり、距離を超えたり、空を飛んだりする機能を提供する。

ドラえもんのメイン機能は「どこでもドア」「スモールライト(orガリバートンネル)」「タケコプター」「タイムマシン」だと考えると、これらが提供しているのは、全て「認識の拡張」である。

過去の改変を目的にタイムマシンは使えない(タイムパトロールがやってくる)し、ただ移動するだけが目的ならタケコプターは必要ない。タケコプターは俯瞰する視点を提供し、どこでもドアは「ここではない別の場所」へ通じることで認識が拡張される。のび太はどこでもドアでスネ夫の家には行かない。ビッグライトよりもスモールライトの登場回数が多いのも、「虫の視点」という認識の拡張がメイン機能だからだ。巨視的な視点はタケコプターでカバーできるので、極小的な視点への転換という機能を持つスモールライトやガリバートンネルがより重宝されるのである。

「認識を拡張する」ことがドラえもんのひみつ道具の主目的だと認識を改めると、これは今のAIで十分提供可能なものになる。

1994年頃にはWebサイトを検索するということができなかった。
今では信じられない話である。

検索するという発想がないのでURLを覚えやすいものにすることに価値があった。
インターネット以前の世界で電話番号を覚えやすい語呂合わせのものにするのが価値があったのと同じだ。

検索は何を提供してくれたか。
それは明らかに、認識の拡張だ。

昔、僕たちはガラケー用のフルブラウザを作ったことがある。
信じられないことだが、つい15年ほど前まで、人類は携帯電話からWebを検索することができなかった。Twitterもなかった。

ガラケー用のフルブラウザの試作品ができた時、プログラマーは「これであやふやな記憶でその場凌ぎの適当な嘘をつく人がいなくなる」と言った。
なるほど確かにその通りだ。たかが検索であっても、人間を少しだけ賢くすることに成功したのである。

検索が人間よりも賢いのは、一人の人間よりもはるかにたくさんのことを知っているからだ。これを集合知と呼んだ。

しかしAIはもっと人間の可能性を広げることができるはずだ。
集合知を超えた、人間とAIの相互作用によって互いの想像力を高めるようなこと、いわば融合知とでも言うべきものが遠からず出現するはずである。

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清水 亮(しみず・りょう)

新潟県長岡市生まれ。1990年代よりプログラマーとしてゲーム業界、モバイル業界などで数社の立ち上げに関わる。現在も現役のプログラマーとして日夜AI開発に情熱を捧げている。

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