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経験の正体

2022.10.06

Updated by Ryo Shimizu on October 6, 2022, 12:24 pm JST

「いろんな経験がしたい」

「いい経験だった」

「経験を積んだ」

日常的に、我々は「経験」という言葉を使う。
では、経験とはなんなのだろうか。なぜ我々は、経験に価値を見出すのか。
たとえば、金銭を考えてみよう。金銭を持っている状態は、持っていない状態より一般的には「良い」と考えられている。
しかし、金銭が増える経験よりも、金銭を失う経験の方が、「良い経験になった」ということにならないだろうか。

いわゆる「お金持ち」の人は、金銭を持っている状態や、金銭を増やす状態を維持するよりもむしろ、金銭を豪快に使う(浪費とも言われる)ことによって「いい経験」を味わう。

ファーストクラス、高級ホテル、高価な食事、高級ワイン、すべてが「金銭を失う」経験であるにも関わらず、むしろこの「経験」を得るために金銭を必要とする。

なぜ金銭的に「良い状態」から「悪い状態」になるために人は経験を買うのだろうか。

筆者はWebサービスやゲーム、アプリ、ソフトウェア開発キット、モバイル端末の開発者として、最近はバー経営者やUberEats配達員として、さまざまな人々に「経験」を売ってきた。

四半世紀にわたって顧客に「経験」を与えることで糊口を凌いできたわけだから、筆者が独自の「経験観」を語ってみてもバチはあたらないのではないか。

なぜこの「経験」という概念にことさら注目したのかというと、人工知能研究者として(は、あまり経験を他者に売ってはいない)、人工知能を育成する際にこの「経験」が非常に重要になるからだ。

人工知能が「学習する」とは、「経験を積む」ということと同義である。
単純なフィードフォワード型のニューラルネットワークの学習もそうだし、強化学習においては、まさにそのものズバリのExperience Replay(経験反復)という手法があるほどだ。

大人が子供に勝てることが唯一(そう、唯一だ)あるとすれば「経験を積んだこと」である。

だから高校の頃の僕は大人たちは自分達の「経験」を根拠として、僕に説教しているのだと想像していた。
ただ、実際に自分が社会に出てみると、「経験」には人によって大きな開きがあることを少しずつ学んでいくのだった。

あるとき、優れた物語の作者について、調べたことがある。
それは、「優れた知能」の定義が実は厳密には存在しない、というところから純粋な興味を持ったところから始まった。

Google傘下のDeepMindのデミス・ハサビスは世界最強の囲碁AIであるAlphaGoを作った(本人が作ったのかは知らないが)。
では、デミス・ハサビスは高い知能をもっていると言えるだろうか。たぶんイエスだろう。

しかし、半年もしないうちに全世界の暇人たちが、AlphaGoやその発展系であるAlphaZeroのクローンを作り、次々と発表した。
コンピュータの、というかソフトウェア理論の悩みどころは、再現性が高く劣化しないどころか、後からのっかってくる人のほうが性能的にも上回ってしまうことだ。

かといって、自分だけの秘密にしていたら、いつまで経ってもマネタイズできない。まあAlphaGoはマネタイズしてないが、デモンストレーションという意味では大きな意味があったことは疑う余地がない。

つまり、優れた知能ではあっても、優れたことを証明した途端、その成果はコピーされてしまうのである。
言い換えれば、彼らは理論を提供したが「経験」は提供していない。と言える。

世の中の「マネタイズ」されたもののほぼ全ては「経験」を販売することから始まって終わる。

食事だろうが衣服だろうがコンピュータだろうが旅行だろうが、全ては「経験」を目的として販売され、消費される。
消費者が消費するのは商品そのものではなく、「商品を通じて得られる経験」なのである。

では、経験に純粋に特化したもの、たとえば映画制作はどうだろうか。

映画制作を生業にする人や、漫画を生業とする人をしつこくつけまわして、彼らが普段なにを食べ、何をみて、どう感じ、どう表現してきたか、それが結果的にどのような作品に繋がっているかということを観察した。

これは実際に人工知能研究者らしからぬ活動に見えるが、「価値のある知能」が「経験を生み出す知能」だとすれば、「価値のある知能」を見分けるために、「価値のある知能」となる知性体(人物またはAI)が、何を入力として、何を出力しているのかを観察し、その過程を想像または自分の脳に蒸留することは理にかなっている。

人工知能研究者は世界中にいるが、僕のように「価値のある知能」とは何かを考えて実際に「価値のある知能」をつけまわしている研究者はあまり聞いたことがない。言ってみればこれは行動知能学から派生した「行動人工知能学」と呼べるだろう。

さて、生きている人、死んでいる人、さまざまな物語創作者、そのなかでもとりわけ高付加価値な物語の製作者を調べていくと、非常に興味深い共通点が現れてくる。
それは、どの人物も「極めて稀有な経験を積んでいる」ことである。

存命中の人物について言及するのは問題があるので、故人について一つだけ例を挙げると、筆者は以前、日本のアニメーターについて研究していた。
アニメーターと呼ばれる人々はおそらく我が国で最も高度で、高付加価値な表現者の一群であると考えられる。もちろん一人で数千万部を受け出す漫画家も高付加価値な知能だが、仔細に観察するには忙しすぎる。アニメーターくらいがちょうど良かったのである。

大塚康生さんという有名なアニメーターの方がいらして、筆者はさる人物の紹介で大塚さんの自宅に何度か足を運び、彼の作ったもの、作られた過程、そこまでに至る思い出、みたいなことをご本人と、彼を知る周囲の人々から聞いた。

大塚さんの幼少期は、敗戦直後の日本。
進駐軍のジープやトラック、蒸気機関車といったものが身の回りに溢れていて、そこに憧れ、夢中で絵を描いたところから大塚少年の物語が始まる。
あるとき、家をふらっと出て、そのまま汽車に飛び乗り、瀬戸内海のあたりをぐるりとまわって家に帰った。

普通なら、家出少年として捜索願いを出されても不思議はないと思うが、大塚少年が自宅に帰ると、「おかえり」と言われたという。

「面白い物語」は「面白い経験」や「悲惨な経験」といった、「稀有な経験」からしか生まれない。
多くの漫画家がアシスタントから始まるのは、漫画家の先生の無茶振りや連日の徹夜仕事といった「無茶」を通して、「ひどい目に遭う経験」を積むことが真の目的なのではないかと最近は本気で考え始めている。

そして「経験」とは、なんのために必要なのかと言えば、それは「想像力を拡張」するために必要なのである。

本欄の読者には、AIで例えた方がわかりやすいかもしれない。

たとえば、文字だけを学習したAIは、どんな入力を与えても、文字か、文字に似た何かしか生成できない。
顔しか学習してないAIは、顔しか生成できない。

最近話題の「いろんな絵を描くAI」のように、いろいろなものを描かせたければ、いろいろなものを見せなくてはならない。
いろいろなものを見せると、昔のAIはすぐ破綻したが、それは昔のAIが十分なパラメータ数を持っていなかったからだ。

つまり、「頭の良さ(AIの性能、AIの想像力の及ぶ範囲)」とは、二つの要素で決まる。一つは処理可能なパラメータ数、もう一つは、経験(学習データ)の多様性である。

よく、「学校の先生は一生学校にいるから頭が硬い」と言われることがある。これはまさしくそのことのひとつの傍証になるかもしれない。
もちろんこれは偏見だと切り捨てることはできるが、アインシュタインは、「常識とは個人の偏見のコレクションである」と指摘している。

ちなみに「子供の方が大人と違って柔軟な発想ができるではないか」という反論もあると思うので補足しておくと、学習が足りないAIは、文字を教えても文字すら出せず独自のちがった記号のようなものを生成することがよくある。文字でなく、顔でも建物でも動物でも同じである。これは発想が柔軟というよりは「理解不足」から来る誤謬であり、ここに知的優位性を認めることは難しい。「子供のほうがいい発想を与えてくれる」のは、それを聞いた大人の頭の中で具体的な案として発火するからであって、相手は子供でなく動物でも、なんなら川の流れでもいい。りんごが落ちるのをみて「万物には引力がある」と考えたとしても、りんごが思考したわけではないのは自明だ。

筆者は中学生以下の子供を対象としたプログラミング教室の設立に関わり、今も子供たちと交流があるが、「子供たちのほうが発想が自由だ」と思うことはあっても、「それが優れた知能だ」と思うことはない。むしろ子供と接すれば接するほど、子供の頑固さ、経験の欠如に由来する想像力の足りなさには辟易することの方が多い。

そう考えると、昨今の絵を描くAIが我々人類にもたらす影響は、実は計り知れない。
これまでよりも遥かに短い時間で、遥かに多様な経験を与えてくれるからだ。

誤解を恐れずに言えば、おそらく「絵を描くAI」を使う人類と使わない人類にわけることができるようになり、使う人類は使わない人類よりも遥かに短時間で遥かに多様な経験を積むことができる。要は、「絵を描くAI」を使えば使うほど、使う人間は賢くなると予想できる。

しかもこれは、どんな人間にも起きる。
相手が小学生だろうが幼稚園児だろうが、絵を描くAIを使うことはできる。

そして例外なく、全員が想像力を拡張される。すなわち、全員の知能が高くなる。

筆者がここ数年熱心に考えている仮説の一つが、「頭の良さ、賢さとは想像力の多様性とスピードである」というものだ。これは先ほどのAIの例からもほとんど自明に思えるが、筆者は哲学が専門ではないので詳しい論考は他の人が考えるだろう。

AIがほとんど直接、人類の思考能力を拡張させ飛躍させる。
その時代は遂に来たのだ。

こうした考えを「我田引水だ」とか「誇大妄想だ」とかいう人も必ず出てくるだろう。「そんなものはまやかしか勘違いにすぎない」という人もいるだろう。
しかしそんな人は、昔から居た。

筆者が高校生の頃は、「プログラマーになったら30歳で引退しなければならない。だからプログラミングの勉強をするのは意味がない。趣味にしておきなさい」と全ての大人が真面目に語っていたのだ。30歳定年説というのをみんな真面目に信じていて、それを子供にも吹聴していた。子供は想像力が乏しいから、大人の言うことを真に受けていたのである。僕はコンピュータがなんであるか、30歳定年説がなぜ唱えられているか自分で調べ、それはもう都市伝説に過ぎないと知っていたので、大人たちの間違った認識は単に無視できた。あの頃、僕と一緒に、僕と同じくらいか僕以上にうまくコンピュータを扱っていた同級生たちが、大人の言うことを真に受けてプログラミングを次々とやめていったのは今考えるととても残念である。きっと彼らは僕よりいいずっとプログラマーになっていたはずなのだ(当時からそうだったんだから)。

あまりこういう言葉を使いたくはないが、今振り返れば、「昔の大人はすごい馬鹿だった」と言える。
そして僕も、いつか新しい世代からそのように言われる日が来るだろう。

人類が進歩すると言うのは、人類全体が経験したことを書物や動画で新しい世代に共有することができるからである。
だから、新しい世代のほうが常に有利で、常に世の中の動向に詳しい。この点だけは、歳を重ねてしまうと何事もおっくうになり、若者に劣ってしまうのはいかんともしがたいところだ。それでもAIが想像力を拡張してくれることで、あと何十年かは僕も肉体的に欠けていく想像力を補って行くことができるのではないかと期待している。

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清水 亮(しみず・りょう)

新潟県長岡市生まれ。1990年代よりプログラマーとしてゲーム業界、モバイル業界などで数社の立ち上げに関わる。現在も現役のプログラマーとして日夜AI開発に情熱を捧げている。

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