物書きを仕事にするようになってから、四半世紀以上になる。16歳のときが最初だから、まる30年やってることになる。
その頃に比べると原稿料がどんどん安くなって来たが、それは僕がライター専業ではなく色々な仕事を掛け持ちしているから安くてもいいんだろうと思われているのかと思ったが、実は普通に「その原稿料、高いですよ」と聞いて驚いた。
世の中はそこまで文章の価値を相対的に低く見積もるようになったらしい。
時代の変化というのはもちろんある。
僕がライターをやるよりもっと前は、文筆業というのはかなり特殊な仕事だった。
そもそも「どうやってその仕事に就くの?」というところからまず調べなくてはならない。今みたいにクラウドソーシングで「一文字○円から」みたいな仕事依頼があるわけではない。
ただ、いわゆる「読者コーナー」や、「投稿雑誌」というのがあって、まあ小説なら小説の投稿やコンテストがあって、そこからプロになっていく人もいた。
コンピュータ雑誌の場合、投稿コーナーを持つ雑誌がなくなり始めた頃に、僕は滑り込みで原稿を送ったら運良く乗せてもらうことができた。ただ拙すぎる文章は大幅にカットされ、固有名詞以外は原型をとどめていなかった。よく考えると、よくあれで原稿料をくれたものである。
当時はフロッピーが雑誌の付録に付き始めた頃で、文章はともかくソフトの方は気に入ってもらえたのだろう。
ソフト代も入ってるから、原稿料は相対的に高かった。最初に載った原稿は10ページあった。今考えるとそんなにページ数を書かせてもらったのはそれが最初で最後くらいかもしれない。
その時もらった原稿料は、親父の給料より高かった。
今は単行本の初版印税くらいじゃないとそんな原稿料をもらえない。
そりゃ村上春樹みたいに何百万部も売れるような本を書ければ別だが、こっちの業界は1万部売れたらヒットである。
最近、とある出版社から新刊の企画を持ち込まれて、「いいけど、保証部数は何部ですか?」と聞いたら、「オンデマンドなので出来高制なんですよ」と言われた。そしたらnoteで書く方がずっとマシだ。
保証部数というのは、本を出版する前に、作家に対して出版社が保証する最低部数のことだ。どんなに売れなくても保証部数分の印税は出しますよ、というものである。これがないとそもそも本を書くモチベーションが起きない。「最低でも○月までに○○○万円入るな」という気持ちになればこそ、本を一丁仕上げてやろうという気持ちが湧いてくるのだ。それがないとなると、出版社は単なる窓口に過ぎない。窓口に過ぎないものに電子書籍で言って半分くらいのマージンを持っていかれるのはあまりにも馬鹿馬鹿しいではないか。
どんな職業にも金銭以外の目的がある。
その上で文筆業の目的を定義すれば、それは二つあると思う。一つは、当然ながら「広く自分の考えを知ってほしい」ということ。もう一つは、「自分の考えを少数の誰かに覚えておいてほしい」ということだ。
今時は、自分の考えを広く知らしめること「だけ」が目的なのであれば、本を書くよりもバズる記事やYouTubeをやった方がいい。
書店はどんどん小さくなっているし、置かれている本も少なくなっている。「本屋に行く」という行動が奇抜なものに回帰しつつある。いや、実際もはや「書店」は情報流通の最前線ではとっくになくなっている。
「自分の考えを少数の誰かに覚えておいてほしい」は、「広く知ってほしい」の逆なのだが、ある意味で同人誌やミニコミ誌は要するにこういうものである。
バズることが目的ではなく、読者と作家との間のささやかな共犯関係の構築を目的としているのである。
マニアックな本というのは基本的にそういうもので、読む人が少なければ少ないほど価値がある。
ソクラテスは本を書かなかったが、ソクラテスの弟子たちはソクラテスの言葉を本にした。
ソクラテスは本を書かなかったことで、弟子たちに考える機会を与え、弟子たちがソクラテスの考えを本にしたためた。そのほうが自分が直接本を書くよりも何倍も効果的であったように思える。
ナザレのイエスには12人しか弟子がいなかった。
知る人が少なければ少ないほど、その情報は高い価値を持つ。情報とは流通した時ではなく、黙秘したときに最も高い価値を生み出す。
意図的に流通させる情報(この記事も含む)は、黙秘される情報の価値を高めるために専ら使われる。
Twitter社のキュレーションチームが、ある程度の意思をもって流通するニュースを選んでいたり、特定の人物のツイートがリツイートされにくくするようにコントロールしていたことがどうやら明らかになって来た。
エコーチャンバーを意図的に作り出していたわけで、これはしかし善悪の問題ではなく、サービスの品質維持という点から考えるとかなり微妙な問題だなと思った。
全くやらなければ無法地帯になってしまう。
最近、Google検索もAmazonも信用できない。Facebookにも明らかな嘘とわかるような広告が蔓延り始めた。
孫正義やソニーが新しい仮想通貨を発行するだのといった与太話が流れてくるたびにドキッとするし、いくら通報してもモグラ叩きのようにまた新しい詐欺広告が出てくる。
「詐欺のような広告」というよりも、「広告そのものが詐欺」という末期状態で、これを管理するのに10万人くらいいるらしいMeta社の社員は一体全体なんの仕事をしてるのかと考え込んでしまう。
まっとうなIT業界の人間なら、SEOという言葉を使う人を警戒する。そもそも過度なSEOは、検索エンジンハックであり、最悪BANされるリスクさえあるからだ。SEOを専門にする人、というのとは距離を置くと言うのが昔ながらのIT業界の御作法なのだが、最近はSEOが激し過ぎてもはやGoogleを検索エンジンとして使うことすら難しくなって来た。
今度銀座に出す店の場所を検索すると全く違うビルが指し示されるし、液晶テレビを捨てる方法を探すと葬儀屋の広告とSEOされた葬儀屋のページが何ページもズラズラ出てくる。これが何兆円も稼いでる会社のサービスなのか。一体全体、何万人もいるはずの社員たちはなんの仕事をしてシリコンバレーの家賃を上げ続けているんだ。
今の30代より若い人たちはお店の検索に検索エンジンを使わずにInstagramを使うらしい。
そっちの方が効率的という話なのだが、確かに、営業時間さえ間違ってるようなGoogleMapを見るくらいならインスタの方がマシだ。今のところインスタにはFacebookのような広告が流れてこないからまだ使い物になる。その意味では、Twitterもしばらくみないうちに広告だらけになって辟易する。
非常に面白い世界だ。
ディストピアという意味で。
まるで昔のSF映画みたいに、悪意のあるコンピュータユーザが海賊的行為で偽の情報を撒き散らし、公共性の高い検索エンジンを汚染している。検索エンジンを運営維持するはずのビッグテックは、いたちごっこを繰り返しているが、そもそも今時、文章でネットに何かを発表する行為そのものがちょっと時代遅れになっている気がする。
無料の文章は有料の文章の価値を高めるためだけに使われ、目的とする情報に辿り着くことは、以前よりはるかに難しくなっている。
この媒体に載るこの文章もおそらく例外ではあるまい。
もはや一著者が想像もできないような方法でこの文章は何らかの商品に結び付けられる誘引剤としての役割を与えられている。
昔に比べると、ネット上で無料で文章を発表する人は減って来たと思う。
やまもといちろうも、活躍の場をYouTubeに移してしまったし、ちょっとファンがついてる人たちは軒並み「サロン」みたいなところに引っ込んだ。いや、それはもう全く正しくて真っ当な道筋だと、僕は思う。
まさに文章を書く第二の目的「自分の考えを少数の誰かに覚えておいてほしい」という機能がサロンのようなものにはあるわけだ。
僕の場合、さらに踏み込んで、サロンに入会できないようにしてしまった。
「それに何の意味があるんだ」と思われるかもしれないが、入会できないサロンは退会したくならなくなるのである。
なぜなら退会してしまえば再入会する機会は二度と訪れないかもしれない。
だから頑張って入会状態を維持するという圧力が働く。
また、ごく少数の人たちならば、自分から敢えて「大きな声では言えないけど」といった内容を聞いてもらうことができる。これも読者と作家の双方にとって大きなメリットだ。
どうしてもサロンに入りたいという人がいても、基本的には受け付けていない。既存会員の紹介でのみ受け付けている。
これも、「考えが無制限に広がってしまうことを抑制するため」である。
そうしてnoteのサークル機能(現・メンバーシップ機能)を使っていたら、いつの間にかどの媒体の原稿料よりも高い金額になってしまった。
もはや文章を書くのは少なくとも僕にとっては、生活の糧を得るというよりも生きる目的そのものなので、わかる人にだけ読んでもらえばいいし、断片だけ読むのではなく、僕の考えの未熟さを踏まえた上で、僕が中年になってもまだ成長しようとするその足掻いていく様子、ナラティブを見てもらいたい。
そうすると、本質的な話はどんどんネットの検索エンジンからは不可視化されていって、一昔前みたいに、誰でも彼でも自分の考えを無料で無制限に垂れ流す時代じゃないから、一昔前にあわせて調整された検索エンジンのクローリングアルゴリズムではSEOのいい餌食にされてしまう。
もはやページの価値は被リンク数とは無関係であり、それは当然Googleもわかっているだろう。
検索は便利だったが、もう時代に取り残されつつある。
それでも検索は残るだろうが、ポータルがそうだったように、主役の座を次のものに譲ることになるだろう。
人が欲しいのは検索エンジンではなく検索結果でもなく、「自分の知りたいことを知りたい部分だけ教えてくれる」ものだ。
「ラーメン食べたい」と言ったら近所のラーメン屋の開店時間を教えてくれるのでは不十分で、そのラーメンをユーザーが食べたいか、昨日も同じものを食べてないか、実はユーザーはラーメンではなくて麺類を食べたいと思っているのではないか。これまでの傾向から本当はパスタでもいいのではないか。そこで「パスタはどうですか」と聞いてくるようなものがなぜないのか。
革命はいつもチープなところからやってくる。
ビッグテックが大収縮を始めている今、むしろ世界から置いてけぼりにされた我が国の起業家にとって、四半世紀ぶりに訪れた好機が、まさに今なのではないか。
Googleだって、チープだった。学生寮に引いたネット回線に、ベコベコのチープなベニア板の上に設置したマザーボードで動いていた。Googleだって最初の何年も「いらない」と当時のビッグテックから言われ続けた。
「いらないんじゃないの?」と言われるようなチープなサービスが世界を変えるチャンスが来た。
そして革命はいつだってチープなところから始まる。
偉大な会社がどれもガレージや学生寮から始まるのは、単なるおとぎ話ではない。それが真に必要な条件なのだ。
立派なオフィスを構える前に、革命的なビジョンと、それを実現する製品を作るべきだ。
しかもひとりで。せめてふたりで。
今時綺麗なオフィスなど必要ない。
検索はもう黄昏時を迎えている。
これから始まる時代は、これを読んでるあなたが作るかもしれない。
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登録はこちら新潟県長岡市生まれ。1990年代よりプログラマーとしてゲーム業界、モバイル業界などで数社の立ち上げに関わる。現在も現役のプログラマーとして日夜AI開発に情熱を捧げている。