photo by 佐藤秀明
使い手は設計者を爽快に裏切っていく。多種多様な切実さを逃さないために作るべきもの
2023.06.01
Updated by WirelessWire News編集部 on June 1, 2023, 11:09 am JST
photo by 佐藤秀明
2023.06.01
Updated by WirelessWire News編集部 on June 1, 2023, 11:09 am JST
「都市ににぎわいをとりもどしたいんです」という人は、器に盛り付けられている料理を食べたがっている
都市計画の仕事をしていると、「都市ににぎわいを取り戻したいんです、どうしたらよいでしょうか?」と頼まれることがある。
頼まれるたびに、いつもちょっと困った気持ちになる。筆者は都市計画の仕事の範囲を厳密に考えていて、都市空間を整えるのが都市計画の仕事、都市空間はあくまでも人々の暮らしと仕事を支える器なのであって、器を整えることが都市計画の仕事だと考えている。
でも「都市ににぎわいをとりもどしたいんです」という人は、器に盛り付けられている料理を食べたがっていることが多い。いわば、漆器の職人に、おいしいうどんを食べさせて欲しい、と頼んでいるようなもので、しかも食べたいものがうどんなのか、寿司なのか、天ぷらなのかもはっきりしないこともある。先に食べたいものをはっきりさせ、食材を集めてから、料理にあうような器を揃えていく、当たり前に考えればそういう順番であろう。
では、なぜそう頼む人が増えたのだろうか?
1970年代前半ごろまでの都市計画は、もっと切実な必要性、人々の健康や生命を守りたい、最低限の暮らしと仕事を何とかしたい、といった必要性に基づくものだった。1970年代の前半まで日本の住宅は不足していたし(全都道府県において住宅数が世帯数を上回ったのは1973年のことである)、そのころに急増した自動車はあちこちで悲惨な事故を起こしていた(日本で交通事故の死者数が一番多かったのは1970年の16,765人であり、2020年には2,839人にまで減っている)。「団地」という言葉に、大袈裟でなく「人生の希望」を見出した人は今よりもはるかに多く、小さな子どもを持つ親にとって「歩行者天国」は、今よりもはるかに切実に必要とされていたのである。
そして私たちは、立派な器をつくり続けてきた。つくられたときは、それは最初の必要性に基づいているので、器は狙い通りに使われる。しかし、10年や20年もすると、器を使う人たちの暮らしや仕事が変化してしまう。しかし器の形を簡単に変えることができないので、「使い方」が変化することになる。「器」と「使い方」が少しずつずれてしまい、そこに空き部屋や空き店舗のような使われない空間が出てきてしまう。
もし、まだ切実な必要性が社会にあるのだったら、空間は再び使われていくことだろう。しかし(これは良いことなのだが)その必要性はなくなり、器は余る一方である。そのときに「にぎわいを取り戻したいんです」という漠然とした言葉が出てくるのである。
※本稿は、モダンタイムズに掲載された記事の抜粋です(この記事の全文を読む)。
この筆者の記事をもっと読む
「データの民主化」を考えるウェブメディア『モダンタイムズ』
おすすめ記事と編集部のお知らせをお送りします。(毎週月曜日配信)
登録はこちら