photo by 佐藤秀明
私たちは原初的な欲求を満たすために情報を摂取している
2023.07.27
Updated by WirelessWire News編集部 on July 27, 2023, 06:57 am JST
photo by 佐藤秀明
2023.07.27
Updated by WirelessWire News編集部 on July 27, 2023, 06:57 am JST
使い古された陳腐な定型表現にギクリとさせられる
私たちは情報社会に生きているといわれる。実際、パソコンとインターネットが普及したおかげで、私たちは様々な情報に、それまでとは比較にならないほど容易にアクセスできるようになった。そして、スマートフォンやタブレットの普及は、この流れを一層加速させたように思える。
これらの情報機器の急速な発達は、私たちが潜在的に情報を求めていたことの結果だろう。逆に、情報機器の発達によって、そうした潜在的需要の大きさが可視化されたのだともいえそうだ。しかし、多様な情報の大量消費への需要が満たされ、ありありと可視化されるにつれて、「これって本当に良いことなんだろうか」という素朴な疑問もまた頭をもたげてくるのではないだろうか。
個人的に筆者にとってこの疑問は、時間があるとついついYouTubeを開いて、画面をスクロールし、次々におすすめされる動画から面白そうなものを探してしまう自分に気づいた時に頭をよぎる。もっと悪いのはスマートフォンで、仕事をしている最中も、Twitterやらメールやらの通知が度々届いて、その都度にそちらに注意を奪われてしまう。だったら、通知を切っておけば良いのだが、それはそれで何だか寂しいような気がするのだ。
程度の違いはあれど、こうした経験に思い当たる節がある人は多いのではないだろうか。そうであるからこそ、「我々は情報過多の社会に生きることで自分を見失っている」といった警句に出会った時、私たちはどこかギクリとするのではないか。
実際、このような警句は一種の定型表現のようになりつつあって、陳腐だと感じる人もいるかもしれない。しかし、諺がそうであるように、言い古された事柄が些末であるとは限らない。むしろ、大切な何かを突いているからこそ、繰り返し言われ続けるのではないか。上の警句は、現代の情報社会で生活する私たちにとってのその一例であるように筆者には思える。
この記事では、上の警句が惹起する懸念と正面から向き合ってみたい。この警句の一番の問題は、一度立ち止まって考え始めると、それが正確なところ何に警鐘を鳴らしているのかが、なんだかよく分からなくなってくる点にある。
※本稿は、モダンタイムズに掲載された記事の抜粋です(この記事の全文を読む)。
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