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「自分を見失う」とはどういうことか? コンニャク情報を摂取し続ける自分を俯瞰する方法
2024.05.21
Updated by WirelessWire News編集部 on May 21, 2024, 13:34 pm JST
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2024.05.21
Updated by WirelessWire News編集部 on May 21, 2024, 13:34 pm JST
前回、島村氏は梅棹忠夫の言葉を引きながら、なぜ私たちが無限に情報を摂取し続けてしまうのかを考えていった。今回はそこから、無限に情報を得続けることは「自分を見失う」ことにつながるのかを見ていく。
実利がないかもしれないコンニャク情報が、人の生を豊かにする
前回見たように、実利を産む情報は、情報社会で私たちが出会う情報のごく一部でしかない。むしろ、大部分の情報はコンニャク的なのだ。しかし、(ただ感覚器官、脳神経系を通過するだけで、とくに行動上のメリットを伴わない)コンニャク情報との付き合いの良し悪しは、まさにそのコンニャク性が故に、私たちに実利をもたらすという中枢神経系の元々の目的に照らして判断することができない。実際に梅棹は、コンニャク情報の価値の捉えどころのなさを早くから強調している。
このように述べると、コンニャク情報などというものは価値があるのかないのか分からないようないい加減なものなのだから、それとの付き合い方など、真剣に考えるには値しないのではないか、と切り捨てたくなる人が出てくるかもしれない。しかし、これは乱暴な考えである。一口にコンニャク情報と言っても、そこには様々なものが含まれている。
例えば、誰かの闘病記を読んで感動し、自分の今後の生き方について色々と考えさせられたとしよう。だが、私が同じ病気に罹っているのでもない限り、これも私にとっては(ほぼ)コンニャク情報である。それを得たことで、栄養を取りやすくなるわけでも、より力持ちになれるわけでも、それらを手に入れるのに間接的に役立つお金を得られるわけでもないからだ(ただし、もし私が感化されてより自分の健康に気をつけるようになったなら、多少の実利も含まれていたとは言えるかもしれないが)。
一般に、コンニャク情報の中には、実利にどう直結するのかは明らかでないが、私たちの人生を豊かにしてくれると考えられているものがたくさん含まれている。コンニャク情報など無視すれば良いという大雑把な提案は、それらを十把一絡げに切り捨てることを意味する。そのような考え方は、私たちの生をあまりにも貧しいものにしてしまうだろう。
身の回りに溢れるコンニャク情報との付き合い方を考えることには、身の回りに溢れる食品との付き合い方を考えることとは違って、単純に生物としてのヒトという視点からは捉え切れない、人間特有の次元が関わっている。人間はそれぞれに自分というものを持っていて、コンニャク情報の持つ非実利的価値は、それぞれの自己との関係の中で決まる主観的なものであるために、一筋縄では捉えられないのである。
「自分を見失う」とは何なのか
それでは、こうした主観性を認めつつ、それでもコンニャク情報との付き合い方について一般に言えることはあるだろうか。筆者はあると考える。その一つの切り口が、「情報過多の社会において私たちは自分を見失っている」という前回冒頭で取り上げた警句である。ここで「自分を見失う」ということは、正確なところ、一体何を意味しているのだろうか。また、そうした状態に陥ることを避けるために、私たちは何に気をつけたらよいのだろうか。
前回、自己という概念は取り扱い注意であると述べた。その理由は、「自分」や「自己」という言葉が(何かを指すのだとしたら)一体何を指すのかという問いは、未だに哲学者の間で意見の一致が得られていない難問だからである。
そのため、もし「自分を見失う」という表現を文字通りに受け取って、何らかの「自分」というものがあると前提し、それを「見失う」ことについて考え始めると、私たちはたちまち哲学的泥沼にはまってしまう。そもそも「自分」とは何かさえよく分かっていないのに、それを「見失う」とはどういうことか、というわけだ。
代わりに筆者は、「自分を見失う」という表現を一まとまりで捉え、それを私たちが陥りがちなある状態を表す一種の比喩として受け取ることを提案したい。
※本稿は、モダンタイムズに掲載された記事の前半部分です。
(「自分を見失うとはどういうことか?」について続きを読む)
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