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ティム・オライリーとシリコンバレーの贖罪

2024.07.10

Updated by yomoyomo on July 10, 2024, 11:00 am JST

きっかけは、『ブログ 世界を変える個人メディア』や『あなたがメディア! ソーシャル新時代の情報術』の著書で知られるジャーナリストのダン・ギルモアが、16年務めた教職を辞すという「引退」について書いているのを4月に読んだことでした。

調べてみると、彼は1951年生まれの73歳らしいのですが、ふと、自分が20年以上前からその言説を参考にしてきたベテランたちの何人かも70歳前後なのに気付きました。それは例えば、ブログやポッドキャストの発展に大きく関わったデイヴ・ワイナーや、やはりベテランブロガーにして『グーグル的思考』、『パブリック 開かれたネットの価値を最大化せよ』、『デジタル・ジャーナリズムは稼げるか』の著書で知られるジェフ・ジャーヴィスですが、今回の主役であるオライリーメディア社の創業者のティム・オライリーも、先月70歳を迎えています。

誰しも歳を取ると書いてしまえばそれまでですが、昨年50歳になったワタシは、20年前の彼らと同じくらいの歳ということになります。果たして自分が、当時の彼らのような頼れる思索家たりえているかと考えると甚だ心もとないのですが、思えば、ティム・オライリーが最初のWeb 2.0 Conferenceを開催したのは2004年10月なので、今年は「Web 2.0」という言葉がポピュラーになって20年とも言えるわけです。

ワタシも「Web 2.0」という言葉について二年ほど前に振り返ったことがありますが、オライリーは「Web 2.0」以降もトレンドセッターにして、シリコンバレー経済の代表的な唱道者だったと言えます。彼の前著『WTF経済 ―絶望または驚異の未来と我々の選択』の訳者あとがきから引用します。

ある意味で、本書はテクノ楽観主義の書だ。グーグルやフェイスブックなど(通称GAFA)が巨大プラットフォームとして台頭してきたことを、類書の多くは警戒する。そうした私企業が、社会全体を左右するような大きな力を持ち、民主主義的なチェックなしで何でもできる点を危惧することが多い。本書はそのような見方はせず、こうした技術プラットフォーム系企業の成功と台頭を、自分の見てきた技術発展の自然な流れと捉え、生じている各種問題もアルゴリズムによる技術的な問題だとする。これ自体には異論のある人もいるだろうが、一方で著者ならではの技術的視点として刺激的なものだ。

そして、その視点から出てくるウーバーに触発された新しい社会へのビジョンも、ティム・オライリーならではの説得力を持つ。オンデマンドで労働者が自発的に働く、通称「ギグエコノミー」については、批判的な見方もあるし、また限られたものだからあまり過大な期待をすべきではないという声も強い。でも、パソコンもインターネットも、オープンソース・ソフトウエアも、キワモノ扱いされているうちに、いつのまにか天下を取った。そうした動きを先取りした著者の指摘は、一概に無視できるものではない。

しかし、2021年あたりから彼の語り口が変わったように思います。もっともインパクトがあったのは、正面切って「シリコンバレーの終焉」について論じたことです。その中でオライリーは、シリコンバレー(のビッグテック)について極めて辛辣に語っています。

その破壊された情報景観は、予見されたものではなかった――インターネットの先駆者たちは、自由と群衆の叡智を期待したが、我々は皆、偽情報市場から利益を得る巨大企業に支配されるなんて思いもしなかった。我々が発明したものは、我々が望んだものではなかったのだ。インターネットは、我々の夢ではなく悪夢的存在となった。我々はまだ立ち直れるが、少なくとも現在のところ、シリコンバレーは解決策の一部というよりも、問題の一部であるように見える。

要は、シリコンバレーが問題を解決するなんて片腹痛い。お前らはむしろ「問題」の側だろ、とまで言っているわけです。そして、同じく2021年、オライリーはユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)のイノベーション・公共目的研究所(IIPP)の客員教授に就任し(UCLのIIPPの創設所長は、『企業家としての国家』、『ミッション・エコノミー』、『国家の逆襲』の著書で知られる経済学者のマリアナ・マッツカート)、インターネット規模のプラットフォーム時代において、なぜ独占禁止法を再考する必要があるのかをテーマとする新著の執筆に取り組んでいます。

今年の春、UCLのIIPPの客員教授としての研究成果と思しきオライリーの論文などがいくつか公開されましたので、内容を紹介したいと思います。

まず一つ目は、3月にThe Informationに掲載された「AIにはUberの問題がある」です。

オライリーがこの文章の冒頭で、シリコンバレーのベンチャーキャピタリストや起業家の多くはリバタリアン的価値観を信奉しているように見えて、少数の投資家のインナーサークルからなる「中央委員会」から資金を得るために競争する「中央計画」を実は支持していると看破します。

シリコンバレーを代表する投資家のリード・ホフマンは、著書『ブリッツスケール:劇的な成長を遂げる唯一の方法』で、その仕組みをスタートアップが「巨大な価値ある企業を築き上げる光速の道」と自賛しますが、オライリーはそれを実は市場の意思を無視し、健全な競争を妨げる一種の「ダークパターン」だと批判します。

オライリーは、消費者の選択よりも資本への過剰な依存がもたらす歪みの典型例として、(『WTF経済』では肯定的に論じた)Uberに代表される配車サービス事業を挙げます。UberとLyftは、シリコンバレーの「中央委員会」の巨額なベンチャーキャピタルをバックに競争相手をすべて市場から追い出した後に、大幅な値上げで黒字化を達成したとオライリーは指摘します。

そしてオライリーは、資本の集中がイノベーションや市場の健全な発展を阻害しながら、市場で独占的な地位を確立しつつある分野としてAIを挙げます。

確かにこの分野では、大規模モデルのトレーニングにコストがかかるので、大規模な設備投資が必要になります。問題は、何十億ドルもつぎ込む大規模な投資をする側は、それに見合ったデカいリターンを要求することです。資本に煽られながら最大のモデルを構築しようとする競争が、既に著作権で保護されたコンテンツの学習を巡る訴訟をもたらしたOpenAIの悪行につながっているとオライリーは警鐘を鳴らします。

さらにオライリーは、オープン・マーケット研究所のマックス・フォン・トゥーンの文章を引き合いにしながら、AI分野への投資の多くが、既存の業界大手であるマイクロソフト、Amazon、Googleと(クラウドサービスの利用権と将来の収益を引き換えにした)戦略的パートナーシップを結ぶ形で行われていること、そしてそうしたパートナーシップが、FacebookによるWhatsAppの買収や、GoogleによるYouTubeの買収といった過去の「潜在的な競合相手の買収」と同じ目的、つまり競争の排除と独占の強化につながっていると指摘します。

AIはバブルなのか?」は今や定番な話題ですが、AI分野への過剰な投資の背景に健全な市場競争の排除があるというのは卓見ですし、何よりオライリーがシリコンバレーにおける投資の力学を「中央委員会による中央計画」、「ダークパターン」と表現しているのに驚かされました。

さて次は、オライリーに加え、マリアナ・マッツカートらUCLのIIPPのメンバーが共著者に名前を連ねるThe Conversationへの寄稿「AIがもたらすリスクを理解したければ、お金の流れを追え」を取り上げます。「AIにはUberの問題がある」はAI分野への過剰投資の問題を明らかにするものでしたが、こちらはAIのリスクを理解するのも、技術的な側面だけでなく、経済的なインセンティブ構造の分析が重要だと説いています。

イノベーションの根底にある経済的インセンティブの仕組みや、テクノロジーが現実にどのように収益化されているかを注意深く調査すれば、市場構造によって促進される経済的・技術的リスクをより良く理解できる。市場構造とは、単に企業の数だけではなく、制度、隣接する政府の規制、利用できる資金調達から得られる市場のコスト構造や経済的インセンティブを指す。

続いて引き合いに出されるのは、Amazon、Google、Facebookのプラットフォームを支えたアルゴリズム技術は、当初はユーザーの利益のために導入されたはずが、最終的にはプラットフォームの利益を増やすために再プログラミングされたという話です。その目的は、プラットフォームがその独占力をバックに、経済的レント(超過利潤:企業が競争的な市場で得られる利潤を上回る利潤)を引き出すことですが、往々にしてそのユーザーからすると、プラットフォーム自体の質低下に見えるのが問題なわけです。

その具体的な例として挙げられるのが、ユーザー価値の提供ではなく、広告収入を増やすために品質の低い製品を上位に表示するようになったAmazonの広告事業の悪行です。

Amazonは、企業が元々の「高潔な」使命(「地球上でもっとも顧客中心な企業になる」)から逸脱し、搾取的なビジネスモデルへと軸足を移したもっとも顕著な例である。しかし、それはAmazonだけの話ではない。

そして、それがGoogle、Metaなど主要なオンラインプラットフォームはすべて、ユーザーやコンテンツや製品の供給者やアプリケーション開発者からなるエコシステムよりも、自らの経済的利益を優先するようになったと指摘した上で引き合いに出されるのが、この連載でも何度か取り上げているコリイ・ドクトロウ言うところの「enshittification」(メタクソ化)です。

つまりは、オライリーが言うところの「経済的レント」の問題は、プラットフォームやサービスが、時間が経つにつれて自身の利益を最大化することが目的化し、その結果ユーザー体験が劣化する過程を表現した「enshittification」の言い換えとも言えるわけです。

ただ、すべてのレントが悪ではないとオライリーは断りを入れます。経済学者のヨーゼフ・シュンペーターが言うところの、企業がイノベーションを起こすことで発生するレントは、社会全体にとって有益です。AmazonやGoogleやMetaといったビッグテックのプラットフォームは、当初は革新的な優れたアルゴリズムのブレークスルーでのし上がりました。それはまさに「シュンペーター的レント」の実例です。

オライリーらは、この「シュンペーター的レント」から「経済的レント」にいたるメタクソ化の闇落ちの構図が、我々の思考や表現のあり方に影響を与えるであろう次世代のAIシステムでも再現され、技術的進歩と社会的利益のバランスを損ねることを危惧します。

それを防ぐための方策として、過去のインターネット・プロトコルやオープンソース・ソフトウエアの成功を踏まえた相互運用性の重要性を説きながら、AIの開発が少数の営利企業によって利益独占されるのではなく、オープンで価値を公平に分散する方向に向かわせる情報開示、オープンな技術標準、そして規制の必要性をオライリーらは強調しています。

そして最後に、3月にUCLのサイトに公開されたオライリーの論文「上げ潮のレントと泥棒男爵のレント:いかにしてイノベーターは鋭さと理想を失うか」を取り上げます。

この論文の論旨は「AIがもたらすリスクを理解したければ、お金の流れを追え」と基本同じですが、ここでは「経済的レント」に、19世紀のアメリカ合衆国で寡占もしくは不公正な商慣習を利用して産業を支配し、莫大な私財を蓄えた実業家や銀行家を軽蔑、揶揄して指す言葉(ウィキペディアより)である「泥棒男爵(強盗男爵)」を当てはめ、「泥棒男爵のレント」というより直接的な言葉を使っています。

オライリーはこの論文で、1945年から2005年までの60年におよぶコンピュータ業界の歴史、その後のインターネット時代におけるGoogleやAmazonといったビッグテックにとっての「アテンションエコノミー」において、「シュンペーター的レント」が「泥棒男爵のレント」にとって代わるサイクルを検証したうえで、その歴史がAIでも繰り返されるかを論じています。

AIの分野でも、OpenAIやAnthropicが革新的なAIサービスを通じて、検索エンジンやソーシャルメディア・プラットフォームの既存のビジネスモデルを覆すなどして「シュンペーター的レント」を獲得する可能性はありますが、彼らが市場を支配し、その市場が成熟するにつれて「泥棒男爵のレント」の誘惑に直面するだろうとオライリーは見ています。

そして、その轍を踏ませないためにオライリーは、AIの安全性とガバナンスを確保するためにも包括的な規制、第三者による監査を通じた透明性の向上、そして長期的な社会的価値創造を重視する経済的インセンティブの再設計の必要性を説いており、その方向に起業家、規制当局、政策立案者を導きたいという意思が伝わります。

「泥棒男爵のレント」を引き出す能力を制限する方向でビッグテックのプラットフォームを規制しようとするオライリーのアプローチがどれくらい有効かはともかくとして、自分たちの好きにやらせろとがなり立てるシリコンバレーのテクノ楽観主義者とは明らかに一線を画しているのは確かです。一方で透明性や相互運用性、オープンな技術標準を前提とする健全な競争への支持は一貫しており(彼が「Web 2.0」という言葉に託したのはそれだったはずです)、ヘンな表現になりますが、年齢相応の奥行きを感じさせます。

いくつも論文や寄稿記事が公開されたということは、オライリーの研究の集大成になる新著も来年あたりには形になるのではと勝手に予想しますが、今からそれが楽しみです。

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yomoyomo

雑文書き/翻訳者。1973年生まれ。著書に『情報共有の未来』(達人出版会)、訳書に『デジタル音楽の行方』(翔泳社)、『Wiki Way』(ソフトバンク クリエイティブ)、『ウェブログ・ハンドブック』(毎日コミュニケーションズ)がある。ネットを中心にコラムから翻訳まで横断的に執筆活動を続ける。

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