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AIもメタクソ化の道を辿るのか、あるいは「普通の技術」に落ち着くか

2025.08.19

Updated by yomoyomo on August 19, 2025, 18:24 pm JST

およそ一年前に「ティム・オライリーとシリコンバレーの贖罪」という文章を書いたのですが、当時既にオライリーが経済学者のイーラン・ストラウスと手がけていたAI Disclosures Projectのことはあまり注目していませんでした。

これは文字通り、AIに関する情報開示を求めるプロジェクトですが、なぜ情報開示が必要なのか? オライリーらによる説明は以下の通りです。

現行のAIガバナンスの枠組みは、モデル自体の能力に内在するリスク、悪意ある主体がその能力を悪用することの制限、さまざまな高リスク領域のセキュリティを重視しています。これらの枠組みは、企業が市場シェアと利益を競うことで生じる可能性があるAIリスクを十分に考慮していません。企業は、市場がまだ未成熟なうちに「素早く動いて破壊する」ことで規模を拡大し、AI市場が成熟したところで市場支配力を発揮するかもしれません。その上、企業はAIリスクを首尾よく特定しても、その対策に十分な投資を行わない可能性があります。さらに、AIモデルの力が強化されるにつれ、そのリスク特性が変化し、現行の安全対策では不十分になるかもしれないのです。

情報開示は、正しく機能する市場に欠かせない要素です。資産公開の標準化が堅固な証券市場の発展を可能にしたように、AIの運営情報開示の標準化はAIへの信頼を高め、AIベースのサービスの採用を促進し、イノベーションを可能にします。

オライリーの「情報開示。その言葉の意味は、あなたが思っているようなものと違います」を読むと、インターネットが「大まかな合意と機能するコード」の下で発展したことになぞらえ、情報開示は基準は最低限必要なところから進化しており、情報開示が競争のある市場を可能にする言語であり、「法の支配」の基盤であるという信念が伝わります。

そうした文脈で、オライリーはDeepSeekなどのオープンモデルを、オープンソース・ソフトウエアは開示の力を示すものだと評価するのですが、逆に情報開示や競争のある市場がないとどうなると考えているのでしょうか?

道路網であれネットワークであれ、開放性と相互運用性は、より豊かで生成力のあるシステムにつながる。将来AIの独占が生まれないと言っているのではない。Googleのウェブ検索の独占、Amazonの電子商取引のほぼ独占、Metaのソーシャルメディアのほぼ独占は、インターネットのオープンスタンダードの上に築かれたものだ。しかし、その独占は、資金力のある投資家による裏取引で買収されたものではなく、市場で獲得されたものだ。

ある企業が支配的になると、その企業は、今日の主要なAI企業各社がそうであるように、独自の情報開示内容を決められる。各社は、非標準化されたデータカードやシステムカード、プライバシーポリシー、行動規範などを通じて、自社のモデルの能力や安全対策を開示している。また各社とも、APIを通じて開発者に情報を開示している。しかし、AIエージェントの将来を信じるならば、私たちはAIシステムが連携する世界に向かって進んでいる。そのためには、相互運用性を可能にする交通規則となる、一連の標準化された情報開示が必要なのだ。

オライリーが危惧するのは、シリコンバレーにおける少数の投資家のインナーサークルからなる「中央委員会」から資金を得るために競争する「中央計画」により、AI分野でも独占が生じ、市場から透明性と競争(から生まれるイノベーション)が失われることです。
オライリーらがAI Frontiersに寄稿した「オープンプロトコルがAIの独占を阻止できる」を読むと、彼らもまたModel Context Protocol(MCP)に代表されるオープンプロトコルが、透明性があり競争的なAI市場の維持に役立つことを期待しているのが分かります(MCPの話題では、認証実装の不備、サプライチェーン攻撃のリスク、仕様で規定されたセキュリティ対策の多くが未実装な現状を指摘するすべての開発者が知るべきMCPの脆弱性についても言及しておくべきでしょうが)。

要は、オライリーの危惧は「メタクソ化(enshittification)」という言葉に集約されます。彼は「AIはメタクソ化曲線のどのあたりにあるか?」において、AIが雇用を創出するか破壊するかは、企業がイノベーション・サイクルのどの段階にあるかで異なることを指摘した上で、AIはどの段階にあるかを論じています。

かつてジェフ・ベゾスは、企業の挑戦的な姿勢が顧客価値を生む拡大フェーズを「1日目の文化」という言葉で表現しました。それなら「2日目」はどうなるか? ベゾスはそれを「停滞。その後、無関係化。その後、耐え難い苦痛をともなう衰退。そして、死。だから我々は常に“1日目”でなくてはならない」と表現していますが、この「2日目」こそがメタクソ化の過程と言えます。

コリイ・ドクトロウが発明した「メタクソ化」という言葉は、テクノロジー・プラットフォームだけに適用されるものではなく、「シリコンバレーのビジネスモデルと政治哲学の出口、そして地獄と折り合いをつけること」で取り上げたヘンリー・ファレルは、これがアメリカの権力構造、外交政策にも見ることができるという挑戦的な主張をしていて驚かされます。

オライリーはGeminiと対話を行い、主要AIプラットフォームさえも既に「メタクソ化」の道を進み始めている、というGeminiの主張を紹介します。AIは「ユーザーを惹きつける」段階から、「(新たな価値創造や新規顧客の獲得機会でなく)効率化を重視する企業を惹きつける」段階に入ったというのです。その上で、オライリーは危惧を表明します。

私は、GeminiよりもAI業界の動向についてもう少し楽観的だが、懸念も抱えている。AIは未だ、真の製品市場適合性を見出せていない。AIの巨大な成長に資金を投じているのは、実際にそれを使っている個人や消費者ではなく、ギャンブルのテーブルに群がる、現金に余裕のある投資家たちだ。AI競争のコストは極めて高く、異常な利益を上げる企業でさえ、資本市場の過激な賭けに追随するため従業員を解雇する必要に迫られている。他者を食い物にしなくては買えないような製品は、悪に染まる道筋だ。

オライリーが指摘するAIプラットフォームの「メタクソ化」が、今月のOpenAIによるGPT-5発表後の反応にも表れている、と書くと怒られるでしょうか?

サム・アルトマンは6月に「穏やかなシンギュラリティ」という題するブログ記事で、「私たちは事象の地平線を越え、離陸は始まった」と高らかに宣言しており、その発表時には、GPT-5は「あらゆるテーマにおける博士号レベルの専門家」の域に達しており、AGI(汎用人工知能)の実現に向けた「極めて重要な一歩」だと語っています。それは、アルトマンが喧伝して(投資を集めてきた)きた「AGIというナラティブ」の総仕上げを思わせるものがありました。

一般よりも早くにGPT-5へのアクセスを許された「インナーサークル」に属する作家のイーサン・モリックの熱烈な称賛、大物投資家、起業家のリード・ホフマンの「普遍的な必要最小限の超知能」といった評言も期待を煽りました。

しかし、新モデルに対する期待が失望に変わるまで時間はかかりませんでした。TESCREAL論文の共著者であるエミール・P・トーレスは、「blueberry」におけるbの数を数えきれない、人間の手の指の数を数えられないといったGPT-5の失敗を嬉々としてまとめています。それにしても、アメリカ合衆国の正確な地図を作成できない「あらゆるテーマにおける博士号レベルの専門家」とは何なんでしょうね?

しかし、それは実は大きな問題ではないのかもしれません。ブライアン・マーチャントは、OpenAIの製品がもはや消費者でなく投資家を主な対象としており、作業の自動化への明確なフォーカス、企業向けAIのさらなる推進が重要だと指摘します(アルトマンの「博士号レベル」発言も、企業顧客にアピールするためのもの)。

ChatGPTは、オライリーが言うところの「ユーザーを惹きつける」段階を終え、「効率化を重視する企業を惹きつける」段階に入ったのでしょうか? GPT-5発表後まもなく起こった#keep4oハッシュタグによる「4oを返せ!」運動の盛り上がりは、OpenAIの方向性とユーザーの期待のズレが端的に表れたものと言えます。

ワタシなど、「4oを返せ!」運動についての報道で、初めてChatGPTに感情的に依存する利用者が少なからずいるのを知って驚いたわけですが、AIとユーザーの共依存構造が、AIの出力がユーザーの依存傾向を増幅する「共依存ループ」として機能していた可能性が高いとなると笑いごとではありません。

先月末にはAIを温かく共感的に訓練すると信頼性が低下しより媚びへつらうようになってしまうという論文が公開されていますが、AIがエンパシーを擬態することの問題(特に若年層への影響)を考えると示唆的だと思います。

OpenAIが経営/経済的な合理性と技術倫理のバランスの取り方を試行錯誤している段階なのは間違いないでしょうし、GPT-5が「冷たくなった」わけでなく、回答の簡潔さはエネルギー消費の問題、早い話は電気料金を抑えるためもあるでしょうが、この混乱は一連の標準化された指標がないことも一因であり、情報開示が重要というティム・オライリーの主張に行き当ります。

デヴィッド・カープは、GPT-5をめぐる騒動について、何かが終わったような感覚があり、これで生成AIのバブルが終わるわけではないが、投機的で「ナイーブなAI未来主義」の終わりを告げるものではないかと書いています。指数関数的な進歩から段階的な改善の段階に移ったということでしょう。GPT-5とGPT-4の関係は、iPhone 16とiPhone 15(甘めに言ってiPhone 12)の関係と同じというわけです。

これが現時点での私の見解だ。生成AIのバブルが終わってしまったとは思わない。しかしナイーブなAI未来主義のナラティブに穴が開き、それが構造を支える重要なナラティブだったことに我々は気付くだろう。

この状況が、再び「AIの冬」のようなシナリオに直結するとは思わない。しかし、生成AIツールを、将来何になりうるかではなく、現実に何ができるかに基づいて評価する始まりになると考える。

テックジャーナリストのマックス・リードも気付いたように、今我々に必要なのは、アーヴィンド・ナラヤナンとサヤッシュ・カプールが提唱する「普通のテクノロジーとしてのAI」の考え方でしょう。

ナラヤナンとカプールの仕事はワタシも「インチキAIに騙されないために」で取り上げましたし、二人は2023年にタイム誌が選出したAI分野でもっとも影響力のある100人に含まれていますが、AIは単なる「普通」の技術に過ぎないという彼らの提言は、「来年、いや、今年にもAGIが実現するぞ」というアジテーションより明らかに受けが悪く、「つまらない提言」と称されもしました。

しかし、AIの経済的、社会的な影響は数十年の時間をかけて段階的に現れる(安全性が重要な領域での普及が遅くなるし、人間や組織や制度自体が普及の速度を遅らせる)、「超知能」という概念は知能を単一の次元で測定可能という前提に立つが、これには論理的な欠陥がある、AIシステムが高度化しても人間がAIの制御や監視において主要な役割を担うことになる、AIに関する政策立案は「レジリエンス(回復力)」を重視すべき、AIの「不拡散」政策は実行不可能だし新たなリスクを生む、AIの恩恵を広げるために教育やインフラ改善やセーフティネット構築などで積極的な政策的介入が必要、といったこの論文の主張は、どれももっともに思えます。

著者らが認めるように、AIを普通のテクノロジーと捉える世界観は、AIを迫りくる超知能として捉える世界観と対照的な立場にあります。しかし、GPT-5の話は別としても、企業の生成AI投資は拡大する一方だが、業績への貢献はほとんど確認されないという(1980年代のPC普及期にもみられた)生産性パラドックスがAIに再来しているという話を読むにつけ、ナラヤナンとカプールの地に足のついた議論こそ評価すべきと思えてきます。

二人は、「普通のテクノロジーとしてのAI」が『AI Snake Oil』に続く本の主題になることを明らかにしていますが、コリイ・ドクトロウの『Enshittification』書籍版と同じく刊行が期待されます。

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yomoyomo

雑文書き/翻訳者。1973年生まれ。著書に『情報共有の未来』(達人出版会)、訳書に『デジタル音楽の行方』(翔泳社)、『Wiki Way』(ソフトバンク クリエイティブ)、『ウェブログ・ハンドブック』(毎日コミュニケーションズ)がある。ネットを中心にコラムから翻訳まで横断的に執筆活動を続ける。

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