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AIによるゲーム開発の真の民主化

AIによるゲーム開発の真の民主化

June 23, 2026

清水 亮 ryo_shimizu

新潟県長岡市生まれ。1990年代よりプログラマーとしてゲーム業界、モバイル業界などで数社の立ち上げに関わる。現在も現役のプログラマーとして日夜AI開発に情熱を捧げている。

AAAタイトル向けゲームエンジンとして知られるUnrealEngine5(以下UE5)がMCPに対応し、Claude CodeやOpenAI Codexといった環境から操作可能になった。

これは率直に言って、ある種の革命的出来事である。

なぜかというと、そもそもUE5は、それ自体が既に強力なツールであり、きちんと使いこなすには膨大な労力を要求された。しかし、それがMCPに対応し、外部のエージェンティックAIから自由に制御できるようになったことで、創作の可能性は極端にパーソナルな体験へと変換されたことになる。

UE5はもともとUnityのアセットストアにあたるfab.comを備えていて、ゲームに使う素材(アセット)だけでなくゲームシステムそのものまで手軽に購入することができる。

典型的なゲームを作るのに、ほとんど労力が掛からなくなることは、そもそも「ゲームとは何か」という定義に踏み込んだ考え方が必要になる。

同じようなことは、Unityにも起きていたが、UE5の場合はそれがさらにAAAタイトル、つまり大企業が数年かけて開発し、数十億円、場合によっては数百億のプロモーションを行った上で展開するようなフランチャイズを前提としたエンジンであることから、用意されているアセットもUnityに比べると高額なものが多く、その分本格的なものばかりという印象を抱く。

言ってみれば、「アセットを買ってきて、組み合わせる」だけで「ゲームのような物」はすぐに作れてしまう。

しかし、そこに独自の色を出そうとすれば、アセットそのものを自作したり、ゲームルールの定義をC++やBlue Printといったプログラミング言語で行う必要がある。このプログラミング言語がC++であることが、AAAタイトルが前提というところを窺わせる。Unityではこの部分はC#かJavaScriptになる。この思想の違いは、UE5が特定のハードウェア(たとえばPS5やPC)の能力を100%引き出そうと考えて作られているのに対し、Unityは互換性を重視しているという違いがある。

一般に、機械語にコンパイルされるC++の方がバーチャルマシンで動作することが前提のC#やJavaScriptよりは高速になると言われている。「言われている」という書き方を選択せざるを得ないのは、最近のバーチャルマシンの進歩により、必ずしも「常に機械語よりバーチャルマシン言語の方が劣後する」とは断言しにくい状況だからだ。とはいえ、平均的なパフォーマンスは、リアルマシン言語、つまりC++のようなコンパイルを前提とした言語の方が高速に動作する。まあC++もLLVMというバーチャルマシンがあったりしてややこしいのだが。

簡単に言うと、UE5はC++の思想に近く、エンジン内部や低レベル制御まで踏み込んで性能を絞り出しやすい。一方UnityはC#の思想に近く、開発速度や扱いやすさを優先しつつ、必要な場所だけ最適化する設計。C++が常にC#より速いわけではないが、性能限界を詰める余地はC++のほうが大きい。

そうすると、「このゲームの独自性」を定義づけるのは、世界観だったり、キャラクターだったり、ルールだったりするようになる。その開発も、AIによって急速に簡単になってしまう。

EpicStoreやSteamでは、AIを使用した作品は事前に申告するルールになっている。これはAIによる生成物が著作権的に危ないものを含んでしまう可能性がある以上はしかたのないものだ。それ以上に、ゲームの愛好家の中には生成AIの使用そのものが気に入らないという人たちも一定数居て、その対応のために説明文に「AI生成物を含む」ことを明示しなければならないことがルール化されている場合もある。

ただ、これもどちらかというと既存のスタジオを守るための措置だ。これから先、若い世代が息をするようにAIでキャラクターをデザインし、モデリングし、リギングし、そのままUE5のようなゲームエンジンで動かした時、もはや対抗する手段を人類は持っていない。

MCP(Model Context Protocol)は、既存のアプリケーションをエージェンティックAIから使えるようにするためのプロトコルで、UE5が公式にこれに対応したということは、AIによるゲーム開発への門戸を開いたと言うことになる。

ただ、筆者の所感ではMCPだけではゲーム開発には不十分であり、本来のゲーム開発にはもっと視覚的な情報が重要になる。そのためにはもう少しAIが進歩する必要があるのだが、それでも、元々のUE5がプロのゲーム開発者向けに高度な訓練や事前知識を必要としていた前提を考えると、そこをすっ飛ばしてAIで直接ゲームが開発できるというのは、新しい地平が開いたという感覚がある。

一方で、AIの世界では、ゲーム体験そのものを直接生成するような動きもある。GoogleのGenieやTencentのHunyuan World、HappyOysterなどはその方向性を形づける。これはAIがゲームエンジンそのものになり、体験そのものをリアルタイムに生成していく。

AIそのものをゲームエンジンにする利点は、それがある意味で「もはやなんでもあり」という自由度の高さだろう。
反対に弱点は、「自由度が高すぎて作り手がゲーム体験をコントロールできない」というジレンマにある。

たとえばHappyOysterには、自分や家族の写真をアップロードするだけで、それを「ゲーム化」できる。
自由度は高いが、それが「面白いゲーム」になるとは誰にも保証できない。いまのところ大抵の場合は、それほど面白くはない。エンターテインメントになっていないのだ。

しかし、この方向性には大きな可能性が秘められていることはもはや誰にも否定できない。
想像しうることはなんでも実現しうる世界で、人々に求められているのは、むしろ想像力の拡張であろう。

あらゆるエンターテインメントは、想像力を拡張することを目的にしている。それを自覚していなくても、実際にエンターテイメントで求められているのは想像力の拡張だ。つまり、日常にはない体験、日常では体験できない心理、それがその人の想像力を拡張する。

「想像力を拡張する」という言い方をすると、まるで無意味なことのように思えるかもしれないが、実は想像力の豊かさというのは、頭の良さに直結する。「頭がいい」ということは、「想像力が高い」ことと同義なのである。

ひどく退屈なたとえをすると、たとえば数学の微分積分が理解できるということをこの問題に言い換えると「微分と積分を想像できる」ということになる。実は日本人は高校を卒業しても「微分積分を想像できる」人はほとんどいない。

誰でも毎日顔を洗い、歯を磨く。その際にコップに水を注ぐ。

コップに水を汲むことは誰でもできる。しかし、コップに水を汲むことが、本質的に積分であることを想像する人はあまりいない。同時に蛇口をひねることが、微分的な発想であることを想像する人はごく限られた「頭のいい人」だけである。これが「想像力が高い」ことの例である。

同じように、「想像力の高い」人は、ある事象を見た時に過去の歴史上の事例や、そのほかの企業の実例、場合によってはフィクションの中にさえ類例を見つけて解決の糸口を探ることができる。これも「知識が想像力を拡張する」例と言える。

つまり、「想像力が拡張される」ことは、「賢くなる」ことと同義だ。

従って、実は「(想像力を拡張するような)エンターテインメントを欲する欲求」は、実は「賢くなりたい欲求」と限りなく近い。

「想像すること」は「人間として生きる」ことそのものに直結する。
そのために人は教養を求め、本を読み、旅に出て、人生を謳歌しようとする。
ゲームはその中でも最も想像力を拡張する能力の高い装置だ。なぜならゲームが提供するのは、映画や本のような通り一遍の押し付けられた体験(メディア論では”ホット”と呼ぶ)ではなく、自発的でリアクティブで、次に何が起きるかわからない体験(メディア論では”クール”と呼ぶ)だからだ。

ゲームはプレイヤーが自発的に関与しなければ何も起こらない。

故に没入感が生まれ、人間は映画や本や教科書や数式を見るよりずっと簡単に想像力を拡張することができる。
AIが人間の知能を補助する存在である以上、想像力の拡張装置としてのゲームの重要性は人類にとってより大きな意味を持つようになるだろう。