私たちはとにかく“ポジティブ”を好む傾向にある。ポジティブな思考とは物事を前向きに考えることであり、明るく楽しく素晴らしいことである。一方でネガティブな思考というのは後ろ向きに物事を考えることで、暗く陰気で鬱に満ち、退廃的で後退するような考え方を意味している。人はポジティブに考えるべきであるし、それが物事を前に進める。昨日よりも今日は一歩前進しているべきだし、明日は今日よりもっとより良い未来となるように私たちは努力すべきである。
物事を前向きに考え、私たちの暮らしをより良き方向へ前進させるためにテクノロジーやシステム、サービスのイノベーションを起こす必要がある。そしてそれによる経済の発展を促すことは私たちの幸せを約束してくれる。だから私たちはポジティブに物事を考え、現状に改良を重ね、これからさらに発展を続けていくべきである。世界中の多くの人に共有されるのはこうした考え方ではないだろうか。そして実際にこうした考えのもとに今の社会は次へと向かっている。
もちろん誰もが幸せに暮らすために、できる努力を重ねることは私たちにとって必要なことだ。そのために私たちは明るく物事を考える必要があるし、悲観的に物事を捉えることは何も状況を解決しないということに真実の一端があるのかもしれない。
その反面、疑問がよぎる。こうした前進的な思考だけで、私たちは幸せになれるのだろうかと。もちろん幸せとは定義のされかたによって、その意味するところは大きく変わる。ポジティブ方向への思考が正しいことは、多くの人が認めるからこそ正当性を持っているように見えるし、私たちはそう簡単にポジティブに反対を唱えることは難しい。しかし一方で、ポジティブという意味を取り違えると、いくら努力を重ねても我々は幸せになれない可能性がある。
しかし実はこの「ポジティブへのまなざし」こそが、今の社会の様々な問題を生んでいる可能性がないとは言い切れない。ここで考えてみたいのは、ポジティブとネガティブという言葉に対して、私たちが無意識に結びつけている価値判断だ。ポジティブは良いことで、ネガティブは悪いこと。普通はそう考えるかもしれない。確かに私たちの意識の中には、ポジティブは喜ばしいことで、ネガティブはダメなことであるという価値判断が刷り込まれている。「ポジティブ=善」「ネガティブ=悪」という図式はなぜ私たちの無意識の下敷きになっているのだろうか。ポジティブとネガティブとは単なる二つの性質の違いに過ぎないのに、それらを単純に善悪に結びつけてしまうことが、そもそも間違いなのではないだろうか。そんなことを考えてみたいと思っている。
まず言葉が指し示す意味と性質を確認してみたい。ポジティブというのは陽性を意味し、プラスの方向を向いている。内から外に向かって拡がっていく。少ないものから多いものへ増えていく。小さなものが大きくなっていく。閉じていたものが開いていく。そういう方向を持った性質である。反対にネガティブは陰性を意味し、マイナスの方向を向いている。外から内に向かって収縮する。多かったものが少なくなっていく。大きなものが小さくなっていく。開いていたものが閉じていく。
このポジティブとネガティブは文字通り写真のネガポジのごとくお互いに補い合っている。自然界ではどちらか一方だけが起こり続けるということはない。拡大していくものがあれば、一方で縮小していくものもある。同じものであっても拡大していく時期があれば、縮小していく時期もある。動物はある時期まで体重が増えて成長を続けるが、またある時期からは体重が減り衰え始める。細胞は新たに生まれてくるが、同時に死んで行かねばならない。腕を曲げると外側の筋肉が伸長し、内側の筋肉は収縮するし、吸った息はいつか吐かねばならない。昇ったら降りねばならないし、押し寄せる満ち潮は、いつか引き潮になる。自然は陰陽のリズムで脈動していて、どちらか片一方だけを続けるわけにはいかない。
しかし私たちはポジティブ側だけを良しとする。つまり、プラスし、拡張し、増殖し、拡大し、開放することを求め、マイナスし、収縮し、減少し、縮小し、閉塞していくものを避けようとする。知らない間にそんなマインドを持っていないだろうか。それはいつの時代も正しいと言い切れるのだろうか。
私たちがそんなポジティブな性質を、なぜ正しいと思っているのか。それはこれまでの文明の発展がポジティブを善とすることを前提にしてきたからではないか。「産めよ、増やせよ」という聖書の言葉のように、私たちの領域を拡大していく指向性を持ってきたからである。この約5,000年間ぐらい続く私たちの文明が寄って立つ価値観はそうしたポジティブへの指向性だったかもしれない。しかしここで立ち止まって考えねばならないのは、この先も同じようなポジティブ方向でやっていけるのかということである。
私自身が思うのは21世紀に入り最初の10年ほど過ぎたあたりで、このポジティブとネガティブの潮目が変わったのではないかということだ。文明のリズムとして収縮し、内側へと充足させる方向が必要なのに、ポジティブな方向性、つまり拡大し増大し成長するプラス側の価値観に囚われ続けていることが、そもそも今の問題の根源にあるのではないか。そんなことを思うのである。
21世紀に入ってから20年足らず経つ今、人類が生産するものは明らかに過剰である。そして言うまでもなく消費も過剰であるが、それにも増して生産力が大きいので、廃棄も過剰である。海に浮かぶ膨大なプラスチックゴミの例を出すまでもないが、私たちの文明は廃棄仕切れないほど過剰に生産している。それはプラスチックを生分解性のものに変えれば済むという単純な話ではない。私たちの根底に大きく横たわっているポジティブの罠を見抜かない限り、問題の本質を捉え損なうだろう。
今の経済はポジティブを良しとすることを前提にしたものである。いかに生産するか、いかに消費するか、いかに開発するか、いかに流通するか。それを前提にマーケティングやサービス、プロデュースやデザイン、イノベーションやテクノロジーが組み立てられている。もし潮目が変わり始めているとすれば、ポジティブ方向を前提に何かを積み上げようと、いくらその方向で努力を重ねてもますます問題は大きくなっていくだろう。本来はネガティブとポジティブのバランスを見極めて経済を考えねばならないのだが、私たちの経済学の教科書には片一方しか記されていないのである。
だから今必要なのはネガティブの経済学ではないか。どのようにして減らしていくのか。どのように小さくしていくのか。どのようにスローにしていくのか。どのように廃棄し自然に戻していくのか。またどのように終わらせていくのか。そんなことを本気で問わねばならない状況になってきたように思えて仕方ならない。しかしそのための方法論も理論も、私たちにはまるで蓄積されていない。そもそもそのネガティブの感覚を持つこと自体に反発するか、罪悪感を覚えるかのどちらかであるのが“正常”の感覚である。
もちろんここで述べているネガティブとは悲観的になることとイコールでは決してない。そのことは頭では理解しているつもりかもしれない。しかし、そう言われてもネガティブという言葉の響きに対してまだ違和感が残っていないだろうか。その強い違和感こそが、逆に私たちがいかにポジティブの罠にはまっているかを物語っている。そのマインドの裏側に一体何があるのか。そしてどうすればそれに気づくことができるのか。ネガティブの経済学、そしてマイナスをデザインする方法。そんなことを考え始めねばならない時期が来ていると思っている。
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登録はこちら1976年生まれ。博士(緑地環境計画)。大阪府立大学経済学研究科准教授。ランドスケープデザインをベースに、風景へのまなざしを変える「トランスケープ / TranScape」という独自の理論や領域横断的な研究に基づいた表現活動を行う。大規模病院の入院患者に向けた霧とシャボン玉のインスタレーション、バングラデシュの貧困コミュニティのための彫刻堤防などの制作、モエレ沼公園での花火のプロデュースなど、領域横断的な表現を行うだけでなく、時々自身も俳優として映画や舞台に立つ。「霧はれて光きたる春」で第1回日本空間デザイン大賞・日本経済新聞社賞受賞。著書『まなざしのデザイン:〈世界の見方〉を変える方法』(2017年、NTT出版)で平成30年度日本造園学会賞受賞。