通常、文章を縦に書くことを「縦書き」と呼ぶが、デザインの世界では、レイアウトの意も含めて「縦組み」と呼ぶ。「横書き」も同様に「横組み」だ。
日本では、明治以来、縦組みと横組みを併用してきたが、インターネットと世界言語となった英語のおかげで、いまや横組みが主流となってしまった。教科書も国語以外すべて横組み。ただし、書籍の世界では、さすがに縦組みが今も主流である。
横組みで前衛的(内容も含めてだとは思うが)だといわれた芥川賞受賞作品もかつてあったが、それ以降、横組みの文芸作品が増えていないところをみると、文芸書での横組みはまだまだ例外なのだろう。
▼図1──芥川賞受賞作、黒田夏子さんの『abさんご』の本文、2013。ひらがなが多く、読点も少ないので、横組みという以前に読みにくい。
縦組みのほうが読みやすい、という感じを抱いている人は多い。この流れはそう簡単には変えられないと思うが、インターネットで発表される小説も論文もほぼ横組み。SNSのLINEのような会話だけの横組みの小説もネットではあらわれているくらいだから、いずれ横組みに縦組みが淘汰されるのではないかという懸念は常につきまとう。
縦組みに郷愁を抱く古い世代に代わって、横組みに慣れた若い世代が社会のインフラを築くようになれば、何十年ぶりかに縦組みの小説が芥川賞候補になりました、というニュースが流れるかもしれない。
書家の石川九楊(きゅうよう)さんは当然縦組み派。石川さんは、縦組みで書くのと横組みで書くのとでは、文章の内容自体が変わってくる、と語る(『縦に書け!』)。文章に向かう緊張感が違う、と。もちろんプロの書き手にとっては、縦でも横でも同じだろうが、ぼくも組み方に合わせて原稿を書いている。
一方、意外とも思えるが、マンガは完全に盤石な縦組みの世界を保っている。いや、縦組みというよりも縦組みの本の開き方である右開きである。もちろん吹きだしも縦組みだ。
海外での日本のマンガの翻訳版は、右開きのフォーマットをそのまま使っている。一度描かれた、右上から左下に向かう絵の流れを、左上から右下に変更するのは不可能とはいえ、海外版は、右開きのままで言語は横組みというスタイルが当たり前。ただし、翻訳した擬音を絵に組み込むのが大変そうだ。
▼図2──浦沢直樹×手塚治虫『Pluto 001』(2004)の日本版。(『Pluto 001』浦沢直樹×手塚治虫、長崎尚志(プロデュース)、手塚眞(監修)、小学館、2004)
▼図3──浦沢直樹×手塚治虫『Pluto 001』の英語版(2009)。英語版は、日本のコミックと同様右から左に話が進む。オノマトペ部分も英語表現に変えてある。(『Pluto: Urasawa×Tezuka Volume 1』Naoki Urasawa & Osamu Tezuka、Takashi Nagasaki/Tezuka Productions(監修)、VIZ Media, LLC、2009)
たしかに右開きは「日本マンガ」の書式である。右開きこそが世界の日本マンガ・マニアのマニア心をくすぐっているのだろう。
いまや世界で縦組みが残っているのは日本と台湾、モンゴルのみとなってしまった。
日本では、明治維新や太平洋戦争敗戦などの転換期に必ず「漢字問題」が発生した。漢字の難しさは日本の近代化を阻む、と。
そして、漢字をやめて「かな」だけにする、ローマ字、英語またはフランス語を公用語にする、などの案がでた。当時は、どの言語になってもおかしくない緊急事態だったが、とりあえず、漢字の略字体を正式な字体として、漢字を廃止するまでの間使うところに落ち着いた。漢字廃止のための一里塚としてである。
ところが、漢字廃止派にとって予想外のことだったが、略字化された漢字が当たり前となったせいか、もはや漢字をやめてかな文字やローマ字にする案は完全に歴史に埋もれた。ただし、英語を公用語にする案はこれから何度もでてくるだろう。
戦後の緊急事態のときでも、ローマ字や英語、フランス語は当然横組みだが、漢字を含む日本語の文章の「組み方」は問題とされなかった。
漢字をアジア圏に広めた中国も、一九四九年の中華人民共和国建国後、識字率を上げるためには漢字が邪魔だと、アルファベットにしようとした。もちろん、ことはそう簡単ではない。そこで1956年、漢字を略字にした簡体字に改め、縦組みを廃して横組みのみとした。共産革命の基本は、過去の一掃(あるいは断罪)にあるから、伝統的な縦組みは、打破の対象のひとつである。
簡体字の簡略の仕方は、日常で使ってきたくずし字(中国語の草体字)にする、漢字の複雑な部分を略する、日本のカタカナのように漢字の一部を取りだす(省画)、発音を形にする、などの方法でつくられた。
省画法による「計」の簡体字は、もっと省略すれば、ひらがなの「け」になりそうだ。同じ漢字から発想しているので当然似てきてもおかしくない。
▼図4──簡体字「計」。
ハングルは、15世紀、漢字を使いこなせない、あるいは、使ってはいけないとされた朝鮮の下々の民衆のために、朝鮮王朝の国王世宗がつくらせた文字。当時は、ひらがなが発明される以前の日本と同じく、漢字が主の時代。ハングルは、当初、諺文と呼ばれていた。朝鮮語自体が中国語と比べて、もともと劣った言語とみなされていたので、それを書きあらわす文字は、女、子どもの文字と卑下されたのだった。
すでに触れたように、日本の「かな」も、当初は女性が使う文字として下に見られていたが、男性も使うようになって存在感を増し、漢字に肉薄するようになった。しかし、ハングルは長いこと漢字と同格にはならなかった。
20世紀はじめ、日本による朝鮮併合によって、朝鮮人のナショナリズムが高まり、諺文に彼らのアイデンティティを求めるようになった。ここから「ハングル(偉大な文字)」という呼称が生まれた。
そして、日本の敗戦によって日本の植民地支配から解放されると、ハングルをメインとする文字政策がはじまった。漢字は、侵略者の文字として全廃をめざすこととなり、1968年に漢字が廃止され、1970年には学校教育から漢字が消えた。ちょうど日本に置き換えて考えれば、漢字を廃して「かな」が表記の中心になったようなものである。民族教育的な面も強かったので、学校教育からは漢字が消えたとはいえ、新聞などは漢字交じりハングル文で、縦組みだった。
そして、1987年に民主化し、1992年に軍事政権が完全に終わるとともに、漢字なしハングルのみの横組みにシフトした。朝鮮語は、日本語と同じく同音異義語が多い。同じ音で意味がまったく異なる場合もある。漢字があれば一文字ですむところも少し説明的にならざるをえなくなる。
数年前、小学校教育に漢字復活を、という気運がでてきた。ただし、大統領が代わるごとに政策ががらっと変わるお国柄、2018年に政権が代わり、新政権はこの政策を破棄した。
韓国で漢字が復活すれば、縦組みも普通に使われるようになるかもしれない。ハングルは、日本の「かな」と同様、もともと漢字の、天と地の間に人がいる、という「天人地」の思想を受け継いでいるので、縦並びのある文字を持つ。横組みよりもむしろ縦組みと相性がよいはず。
もうひとつ縦組みと横組みを併用している国がモンゴル。といっても、モンゴル文字が縦横両方に使われているのではなく、モンゴル文字は縦組み(読み方は左から右)のみ。
▼図5──戦時中、日本軍がつくったプロパガンダ・マガジン『FRONT』モンゴル版の一見開き、1942。(『FRONT』復刻版、平凡社、1989)
モンゴルは1924年に社会主義国に加わり、ソ連の圧力のもと、1941年にモンゴル語表記のために、キリル文字のアルファベットを借りて使い、13世紀以来使ってきたモンゴル文字を全廃した。したがってそれまでの縦組みからすべて横組みとなった。
▼図6──キリル文字を使ってつくられたモンゴル語のアルファベット。表の17・23は、モンゴル語表記のために追加された字母。(『世界の文字の図典』へ会の文字研究会(編)、吉川弘文館、1993)
しかし、ソ連崩壊とともに社会主義を放棄し、1994年に、モンゴル文字を復活させ、キリル文字のアルファベット表記と混在するようになった。
といっても、横組みとしてはまったく表記できないモンゴル文字は今の時代、限りなく不利。これから言語表記の主役になるのは到底無理で、文語的表現に限られるといわれている。ただし、中国の内モンゴル自治区では、モンゴル人のアイデンティティのために、モンゴル文字が主役だそうだ。
モンゴル文字は、もともとアラビア系のソグド文字を祖とする。ソグド文字は、現在のアラビア文字と同じように、右から左へと進む横組みと、それを九〇度左に回転した縦組み(読み方は左から右)を併用していた。そして、ソグド文字がウイグル文字を経てモンゴル文字となった。
▼図7──ソグド文字例(右書き)。アラビア文字の浸透で消滅する。(『世界の文字の図典』へ会の文字研究会(編)、吉川弘文館、1993)
▼図8──ソグド文字に影響されたウイグル文字例(右書き)。18世紀はじめまで一部で使われた。(『世界の文字の図典』へ会の文字研究会(編)、吉川弘文館、1993)
ウイグル文字ももともと縦横併用の文字だったが、漢字で書かれた仏典の影響で縦組みだけとなり、それがそのままモンゴル文字に受け継がれた。仏典の縦組みは、宗教的な神聖感をもたらしたのだ。
ここで試しに、漢字の「縦」「横」の成り立ちを、白川静(しらかわしずか)漢字学に基づき分析してみよう。
▼図9──紀元100年ごろつくられた最古の部首別漢字字典『説文解字』に書かれている「縦」「横」。「縦」は「糸」と「従」で構成され、もともとはどちらもツインの漢字だった。
「縦」は、「糸」と「従」に分けられる。「従」は、2人の人物が前後に並んでいるさま、「糸」は、糸たば。そこから縦糸をゆるやかに張る意味につながる。意訳すれば、糸束も人も縦組みの行のように並んでいる。
一方「横」は、「黄」が黄色とともに、中心の意もあるところから(中国の皇帝の名、黄帝などに中心説が窺える)、木を中心に渡す、つまり、門などに閂を掛けることを意味する。
「縦」は天から地へと向かう重力の流れ、つまり秩序にしたがい、「横」はその重力、秩序に抗い、さまたげるところから、ネガティブな意味がついた。「横断」「横溢」などはニュートラルだが、勝手気ままなさまである「横行」、非業の死である「横死」、身勝手な乱暴である「横暴」、ずぼらな「横着」、横暴な態度の「専横」、物品を正規なルートを経ないで売る「横流し」など散々だ。
一方「縦」の、「放縦」はルールを無視することで、「縦」自体に悪い意味はない。「操縦」もルールを操るで、ニュートラルな意味、「横」も使われている「縦横」となったら自由なさまが浮かぶ。この「縦」と「横」の意味の違いは、「縦」のほうに、天と地を貫くイメージがあるからなのかもしれない。
そんなネガティブなイメージのある「横」だが、日本では逆に「横」文化が発達していることは「奥」で触れた。それを再度簡単に記してみる。
まず横は、奥に延びずに横に広がる仏教寺院、横に置く箸、木目が横になるように並べるお膳、横にスライドする戸、横笛、客が座る上座、など。
一方「縦」は、死者に添える飯(まくら飯)に縦に突き立てる箸などにあるように、異常事態である。たとえば、日本建築のなかで、床の間は最上位の上座とするのが伝統的な作法だが、竿縁(さおぶち。天井を支える、あるいは装飾のために平行に張り渡す細い棒)や畳が床の間を突き刺す(「床挿し」といい、床の間と直角、つまり縦に配置する)ことは、日本建築の禁忌のひとつ。この床挿しは武家屋敷には必ずあって、切腹の間、ともいわれていたらしい。まさに縦はアブノーマルだ。
▼図10──日本建築のルールのひとつ、竿縁と畳は床の間と平行にする。図は、エドワード・モースによる床の間のある座敷のスケッチ。(「床の間」Wikipedia)
いや、アブノーマルというよりも、神聖すぎて畏れ多い「縦」ということになる。神に直結する「縦」は、一瞬のうちに神にも怨霊にもなる、極めて危険な形だったから。
「奥」で触れた、ポルトガル船の船員や、アジアとの交易でもたらされた縦ストライプの流行も、そんな畏れ多い「縦」を易々と乗り越えてやってきた舶来品だったからだろう。何度もいうように日本人は昔から「舶来」に弱かったのだ。
日本人の舶来偏愛の歴史はかなり古い。前漢を滅ぼした新が流通させた銅銭(後漢に滅ぼされる23年まで流通)が長崎県で出土しているところなどから、日本人が漢字を知ったのは紀元1世紀のはじめごろ(弥生時代中期から後期)といわれている。
当時の感覚からいったら中国は圧倒的な超大国。周辺国を中国化しようとする冊封体制を布いていた。
日本は、当時の中国から見て「日出る処」というずいぶん辺境の地にあった。かなり田舎のイメージだ。そんな田舎に中国から今まで見たこともないような物品とともに漢字もやってきた。中国という国の脅威もあって、この意味不明の記号に日本人は衝撃を受けた。
しかも福岡県で出土した純金製の「漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)」が光り輝いていたことで、謎の記号の神聖感は増した。こうして日本での漢字は呪術的記号としてはじまった。その背景には、勝負にならない、という圧倒的な脅威もあったからだ。
▼図11──純金製の漢委奴国王印。(「漢委奴国王印」Wikipedia)
その後、多くの渡来人から、漢字を学ぶことで呪術の域を脱したが、同時に漢字は知の象徴としてその権威も増した。
漢字の権威の拠り所の大きな点は、仏教典が漢字で記されていたからで、その仏教典はひとつの宗教の教典というよりも、最先端の「知」という認識だった。
その最高の知の修得に邁進したのが、7世紀の日本(当時は倭(わ)とよばれていた)。日本は、大化の改新(645)で中央集権国家への足がかりをつけはじめたころ。周辺国を支配下に置こうとする中国(唐)は、三国が鼎立(ていりつ)していた朝鮮半島に侵略の矛先を向けた。
三国のひとつ百済(くだら)と親しかった倭は、援軍要請に応じた。そのときの唐・新羅(しらぎ)連合軍対百済・倭連合軍が白村江(はくそんこう、あるいは、はくすきのえ)で戦った。
この戦いで百済・倭連合軍は敗れ、百済は滅亡。倭は島国だったので、かろうじて領土を獲られずにすんだ。しかし、もはや自立しなければ生き馬の目を抜く侵略者に立ち向かえない、と政治的、そして文化的独立をめざした。
その政治的・文化的独立のための第一歩が東アジアの仏教典の写経だった(石川、前掲書)。「倭」ではなく「日本」と名乗るようになったのもこのころ。
「時の写経は、東アジア全域にまたがる普遍的な大陸の文献を写すことによって、漢語・漢文に精通した官僚知識人を大量に生み出し、かつ全国化をはかっていくところの国家を挙げての識字運動であった。(中略)この飛鳥・奈良時代の写経は、言うまでもなく、現在われわれが考えるような個人の仏教信仰レベルのものではなく、(中略)仏教の力を頼っての国家鎮護祈願に終わるものでもなかった。写された経文は、高級な漢語がぎっしりと詰まった文字の集積物、文書化された東洋の哲学、知識、学問そのものであった。当時の仏教典を宗教の教典と考えるのでは不十分で、当時にあっては世界最高レベルの先端の知識であり学問であった。」(石川九楊『漢字の文明 仮名の文化』)
そして、その知の殿堂を支えていたのが縦組みである。
余談だが、白村江の戦いからほぼ1世紀半後のヨーロッパでは、フランク王国のシャルルマーニュ(カール大帝)が、キリスト教を中心とした国づくりを進めるために、過去のキリスト教文献の写本などをはじめさせた(カロリング・ルネサンスとのちに呼ばれた)。シャルルマーニュは、国の発展には大量の聖職者や官僚の育成が急務と考えていたからだ。白村江の戦い後の日本と似ている。
カロリング・ルネサンスでは、それまで大文字しかなかったアルファベットに小文字を加えるなど細かい書式の改良・開発などがあったが、ひとつ重要な革命があった。
現在の本の一般的な形である冊子(コデックス)は、4世紀ごろから広まりはじめたが、やはり主流は巻物だった。ところが、カロリング・ルネサンスで、写本を冊子形態にしたことで広まり、巻物を駆逐したのだった。
中国大陸などにいた遊牧民族は、北に位置する北極星を道しるべとしていた。彼らは、家畜の世話などで夜を徹することも多く、星の観察に長けていた。そして星々は北極星を中心に回っているように見えることに気づいた。そこで、世界の中心は北極星なのだ、と感じた。そこに主君とのアナロジーを見た。ここから北極星を崇拝の対象とする北辰信仰がはじまった。
「北」に輝く北極星は、イメージのなかでどんどん空高くに飛翔しているように見える。「北」にたいする「南」は、対抗上、より低くなければならない。これが「縦」思考。縦に直角をなすのは「横」である。
「中国では縦を主とし、「縦横」によって全空間をとらえる思考が発展する。縦横無尽とか、縦横無礙(むげ)などがそれである。」(小野瀬順一『日本のかたち縁起』)
ここから、北極星を中心に星々が回転しているように見え、天は「円」と考えるようになり、輝く星以外の暗闇の部分を「方(四角)」とし、「天円地方」につなげた。もちろん、昼間も同じ。天を見上げれば湾曲して見え、いわば「円」だが、地は周囲にさえぎるものなく、無限に広がっている。そこには人為的な区切りが必要になってくる。それが「方」となった。この「天円地方」を貫く軸の間に人がいる。
軸の左右には広漠たる草原がまったく同じ風景として存在していた。ここにシンメトリー(左右対称)という形にも気づく。
漢字の成り立ちに神への呼びかけがあったとすれば、それは縦組みでなければならなかった。
甲骨文字は、亀の腹甲などに刻まれたところからその名がある。そこには神への質問が刻まれたのでもちろん縦組みだ。
「神に問う」という質問の前文が、中心軸の左右に完全に左右対称の字形で刻まれ、「雨は降るのかどうか?」「穀物は実るかどうか?」「出産は?」「異族の侵入の危険は?」などの質問項目が続いた。この甲羅を焼いてできたひび割れが右に広がったのか、左か、などから吉兆を王が判断した。占いのなかでもかなり主観的なものだが、当時は効力を発揮していた。
▼図12──亀の腹甲に甲骨文字で刻まれた神への質問文。「○○が神に問う」(○○は質問者)という決まり文句は中心からの左右各2行で、シンメトリに刻まれている。(『書のスタイル 文のスタイル』石川九楊、筑摩選書、2013)
こうしたことから、シンメトリーの要素の多い漢字が縦組みで綴られるようになり、「縦組み」が神と同義になっていった。石川九楊さんは「縦書き(縦組み)」が宗教のかわりとなっている、と語る。
「東アジアでは古代宗教を失うことと引き換えに誕生した漢字(篆書(てんしょ)体)により、書字中心の言葉が成立し、それ以来、文字を「縦に」書くことが宗教を代替(だいたい)することになりました。すなわち、天から地に向かって書く縦書きが、「天地神明に誓う」という表現を生み、それが「嘘(うそ)はつかない」「省(かえり)みて恥ずかしくないことをする」「約束を守る」という内実を形成しているのです。西欧においては宗教=神が担っている機能を東アジアでは縦書きが代行しているのです。」(石川九楊『縦に書け!』)
もうひとつ、縦組みの宗教的なイメージを補完するものがあった。「行」である。横に文字を書き連ねるとき、原理的には、粘土板、パピルスなどを足していけば、どこまでも書いていくことができる。巻物のイメージである(といっても横組みも実際は適当なところで改行して段落とし、それを貼り合わせて巻物にした)。
一方縦組みは、どんなに長く書いても早晩限界が訪れ、改行せざるをえなくなる。これが「行」の発生である。
原理的にはどこまでも連ねられる横組みは、いわば秩序を度外視している。一方縦組みは、「行」によって秩序を保っている。これが神につながる。神は秩序を好むからだ。
また、縦組みの書字方向は、甲骨文字の時代(殷)、左から右、右から左の両方が混在し、一定していなかった。だから、どちらが主流になってもおかしくなかった。殷の時代には改行が必要なほどの長文はなかったが、その殷を滅ぼした周には、長文が青銅の鼎(かなえ。3本の脚がついた壺で、のちに祭器として使われた)の内側(外側は文様)に刻まれるようになり、長文の書字方向は右から左となった。なぜこの書字方向に収斂したのかはわからないが仮説は立てられる。
▼図13──周の大孟鼎(だいうてい)とその内側に刻まれた漢字。(『図説 漢字の歴史 普及版』阿辻哲次、大修館書店、1989)
古代中国では早くから北極星や北斗七星を崇める北辰信仰があった。したがって、王が北に鎮座し、こちらから見て右側が東、左側が西になる。太陽は東から昇り、西に沈む。やはり太陽が昇る側が優位になり、文章は右から左に進んだ、という説。もうひとつは、周は左優位だったという。すると、北に鎮座する王からみたら左側が東になる、という説などが考えられる。いずれにせよ古代での方位は、今日から想像できないほど重要だったと思われる。
ちなみに、獣骨や青銅器のような固いところに文字を刻むとき、まず縦棒をすべて先に刻み、次に90度傾けて横棒を縦に刻んだらしい。文字を刻む書記官は、動物の毛を使った初期の筆もあったが、下書きなしでじかに彫ったという。
中国から日本に伝来した北辰信仰は、陰陽道などに形を変え、黒い呪術として残った。星形マークで知られる安倍晴明(あべのせいめい)などの陰陽師だ。
▼図14──安倍晴明の晴明紋。
▼図15──名古屋にある晴明神社。いたるところに星形マークがある。(「安倍晴明}Wikipedia)
とはいえ、日本は基本的に太陽信仰である。夜を徹することもある遊牧民族と違い、農耕民族の日本人は、昼間働き、夜眠る。しかも、広漠たる草原と違い、日本の風景は山あり、谷ありと変化が激しく、「シンメトリー」という発想が成り立ちにくい地形である。これが、「周」で述べた周辺重視だったり、アシメトリー(左右非対称)の構図につながった。
ともかく、そんな文化(風景)を持つ日本に、権威をまとった漢字が伝来した。前述したように為政者たちは、国家としての体裁を整えるために、この権威を吸収、わがものとすることに汲々とした。
そして、完全に漢字に基づいた官僚社会(男性社会でもある)が成立するとともに、ジワジワと日本的解釈の余地もあらわれた。「かな」の登場である。ほかでも触れているので簡単に述べるが、主に女性たちのなかから生まれたひらがなは、左側から回転しながら左下に流れる字形を基本としている。
一方カタカナは、仏教の学僧たちが、講義ノートの漢文の横に、日本語の文章になるように、レ点(返り点)やテニヲハ、カッコなどのさまざまな記号を朱・白筆でつけるところからはじまった。
▼図16──白点とよばれた漢文を日本語の文として読み下すための白い点やカタカナ様の文字。(『図説 日本の漢字』小林芳規、大修館書店、1998)
講義なので、速く書かないと追いつかない。まさに速記、スピード命。そこでスピードアップのために漢字をフルに書かず、その一部を使った。省画法だ。これがカタカナに発展した。
カタカナは、右上から左下にむかう「ノ」、左上から右下へと向かう「ト・ミ・ヤ」、左下から右上へと向かう「シ・レ・ン」など対角線上で構成された文字が多い。石川九楊さんは、これを漢字にくさびを打ちこんでいるように見える、と述べていた(石川九楊『日本語とはどういう言語か』)。
こうしたことから、シンメトリーをベースとした、縦に書かれる漢字にたいして、その垂直軸の動きのパワーを回転するひらがなで逸らす、あるいは、カタカナがなす対角線で押しとどめるイメージが浮かぶ。
かくして漢字かな交じり文は、日本を代表する文化となった。しかも、ひらがなもカタカナも漢字をベースとしているので、縦組みに合う字形となっている。相手(漢字)の一方的なパワーを減じつつ、相手に沿うスタイルである。いささか大げさにいえば、相手の力を逸らして和合をめざす、合気道の精神と一脈通じているともいえる。
前出の長谷川櫂(かい)さんは、漢書におけるゆるぎない垂直軸、水平軸は、前述のシンメトリーと同じ、広大な中国大陸の平原において成り立つ考え方であり、起伏に富んだ日本の山野には合わない。そこでとりあえず「かな」で水平軸をあいまいにしたと語る。
「揺るぎない水平と垂直の線に沿って兵馬俑のように整然と漢字の並ぶ中国の書を、日本人ははじめのうちこそ真剣に学んでいたが、やがて中国の書をまねて書くこと、それを眺めることが「堪へ難き事」に思われはじめた。整然とした中国の書は寒くて乾燥した中国にはふさわしくても、蒸し暑い日本では息苦しいものに感じられるからだ。そこで日本の書家は中国の書の水平軸と垂直軸のうち、まず水平軸をとりはずした。水平軸は中国大陸の地平線の象徴だったのだが、この島国の人々は誰もそのような大陸の地平線を見たことがなかったからだ。一方、垂直軸は太陽と人間とを結ぶ垂直線の象徴だが、この島国でも太陽は昇るので日本人も垂直軸にはなじみがあった。」(『和の思想』)
そんな縦組み中心の日本に、幕末から明治にかけて、左から右に書く横組みが海外から大量にやってきた。
それまで、右から左に書く横組みはあったとしても、逆の横組みは日本にはなかった。いや、空海の書の一部に、左から右に書く、横組みがあった(屋名池誠『横書き登場』)。これは、左からの横組みを採用しているインド系の書き方を真似ただけで、後世に引き継がれることはなかった。
▼図17──空海による、師恵果の祖像の上部に左から右へと「恵果阿闍梨(あじゃり)耶」と書かれている。(『横書き登場──日本語表記の近代』屋名池誠、岩波新書、2003)
その後、日本ではほとんど縦組みですべてが表現された。一部、たとえば、欄間の横長の扁額(へんがく)などには右から左へ横に書かれた。これはいわゆる横組みではなく、一行一字の縦組み(屋名池、前掲書)。あるいは、右から左への書字方向にしたがっただけなのかもしれない。
数学などの理系でも、通常横組みが必要なところは縦組みの横倒しか、1行1字の縦組みを使って、あくまで「縦組み」にこだわった。もちろん、2行以上の横組みはない。その場合は、1行2字の縦組みとなる。
▼図18──山本賀前(やまもとがぜん)の数学書『大全塵劫(じんこう)記』(1832)のなかの図形問題のページ。右から左へ書かれた「大小」や、縦の横倒しの「大半、小半、玄、子」の文字が見える。(『基礎数学選書18 数字と数学記号の歴史』大矢真一、裳華房、1978)
ちなみに中国でも日本と事情はさほど変わらない。1607年刊の、マテオ・リッチが翻訳したユークリッド『幾何原本』も縦組みだ。
▼図19──マテオ・リッチが訳したユークリッド『幾何原本』1607。(『基礎数学選書18 数字と数学記号の歴史』大矢真一、裳華房、1978)
そして江戸末期から、横組みの西洋の書物を目にする機会が格段に増えた。横組みは少しモダンにみえた。だが、それでもまだ縦組みにこだわっていた。横組みの英語の辞書でも、日本語の部分は縦組みの横倒し。
▼図20──日本で印刷されたはじめての本格的な辞書、柴田昌直/子安峻(編)『附音挿圖 英和字彙』1873。和文が横倒しになっている。(『日本の近代活字 本木昌造とその周辺』『日本の近代活字 本木昌造とその周辺』編纂委員会(編)、NPO法人 近代印刷活字文化保存会、2003
欧文の入った広告でも、和文の横組みは右から左へと記される。1行2字の縦組みの例も見られるところから、これはやはり縦組みなのだろう。
▼図21──左書きの欧文の下に右から左への横組みの和文が入っている広告、1876。(『日本の広告美術──明治・大正・昭和 2 新聞広告・雑誌広告』東京アートディレクターズクラブ(編)、美術出版社、1967)
▼図22──明治31年(1898)の広告。下のほうに1行2字の縦組みの文章がある。(『日本の広告美術──明治・大正・昭和 2 新聞広告・雑誌広告』東京アートディレクターズクラブ(編)、美術出版社、1967)
そして、右からの横組みは定着する。縦組み社会のなかで、右横組みは書字方向が同じで親和性が高かったからだ(屋名池、前掲書)。ただしこれはもはや1行1字の縦組みではない。右から書く横組みとして自立していく。その証拠に、右横組み時代の最後のほうには、数行の右横組みも登場する。左横組みに慣れた身にとって読みにくさは半端じゃない。
▼図23──リード文が右から左への横組みになっている広告、1938。(『日本の広告美術──明治・大正・昭和 2 新聞広告・雑誌広告』東京アートディレクターズクラブ(編)、美術出版社、1967)
一方、右から書く横組みが主流とはいえ、欧文と同じ、左から書く横組みは徐々に増え、右横組みと混在するようになる。新聞の同一紙面でも両方の組み方が並んだときもあった。
▼図24──朝日新聞昭和21年5月20日付に掲載された、書字方向の異なる広告が並ぶ。(『朝日新聞重要紙面の七十五年』朝日新聞社(編)、朝日新聞社、1954)
1920年には国鉄の切符が、それまでの右横組みから左横組みに統一された。駅名表示・列車時刻表・電話番号簿もあとに続いた。世界で横組みを採用している国は、アラビア語などを除いてすべて左から右。書字方向の混在を解消するには左から右に統一するほうがベターだ、という風潮が生まれてきたのだった。
▼図25──表現法のルールを記した鉄道省の通達にある切符の表現の様式例、1920。(『横書き登場──日本語表記の近代』屋名池誠、岩波新書、2003)
こうした風潮に異議を唱えた大臣もいた。右横組みは日本古来の伝統なのだ、と主張した。実際の右横組みは江戸末期から明治にかけて多く使われるようになったので一般的になってからまだ60年くらいしか経っていない。伝統とは無縁である。左横書きは欧米の模倣であり、モダンすぎる、という保守派側からの対比論法による反発である(屋名池、前掲書)。
とはいえ、戦争となると、日本の伝統などとはいってられなくなる。東南アジアに侵攻した日本占領軍は、現地語を使うわけではないが、現地の人びとが慣れている書字方向(左から右への横組み)で日本語を表記せよ、という通達をだしている。
しかし、この命令も一年弱で右翼・保守派の反発により、もとの縦組み+右横組みに戻された(屋名池、前掲書)。こうした上から目線が信頼を得ることはないし、あまりにも神がかり的で柔軟さに欠けている。こんな軍隊が近代戦を戦い、多くの人を死なせた罪は重い。
こんなフラフラした政策は長続きしない。戦時中、小学校の教科書を横組みにするときは左からとする、など、左横組み派が優勢となっていく。
戦後、アメリカに占領され、英語の文物が溢れていく世情で、右からの横組みはリアリティを失う。まず新聞の欄外の柱の部分が、読売報知新聞では1946年初頭から左横組みに変え、毎日新聞も同じ年に、そして朝日新聞も1947年元日から追随し、もはや右横組みを主張する場はなくなっていった(ただし本文は縦組みが中心)。
▼図26──朝日新聞の横組みの組み方の変更は、昭和22年(1947)1月1日より施行された。上は、左からの横組みになる前年の朝日新聞題字附近。欄外の日付の漢数字表記と、題字下に右横組みが見られる。朝日新聞昭和21年5月20日付。下は、算用数字を使った欄外の右横組みと、まだ漢数字が残る題字下のクレジット。朝日新聞昭和22年2月1日付。(『朝日新聞重要紙面の七十五年』朝日新聞社(編)、朝日新聞社、1954)
横組みは、紙なりなんなり、文字を書く素材を継ぎ足していけば、横にいくらでも延ばしていくことができる。その点縦組みは、自ずと限界が生じ、行を改めざるを得なくなる。それが秩序を生む、と述べてきた。これにかんする余談を最後にひとつ触れて本稿を閉じたいと思う。
2001年に、詩人の福永信さんの『アクロバット前夜』が刊行された。
▼図27──福永信『アクロバット前夜』書影。
本文は横組みだが、単なる横組みではない。最初(左ページ)の1行目を読んだら2行目にいくのではなく、次のページ(右ページ)の1行目に続く。そしてその先は、そのまた次のページの1行目、という具合に121ページまでずっと1行目だけ読み、最初のページの2行目に移る。
▼図28──『アクロバット前夜』の本文例。途中のゴシックのところは次の短編のはじまりを示している。
このように27行まで6本の作品が改行なしで連なっている(改行のところにはスラッシュが入っている)。読みづらいことこの上ない。右から読む横組みに似たイライラ感に満ちている。前代未聞の組みだが、詩の実験としてはありだろう。ただし、読むというよりは、1行単位でつながらない文章を楽しむ、という作品だ(デザインは菊地信義さん)。これは、ジョン・ケージの無音作品〈4分33秒〉(1952)に似たイライラ感に似ているかもしれない。なにしろ、〈4分33秒〉も聴衆のざわめきなどのノイズも含めた作品だったから。
オビ文の「小説の夢見た〈自由〉がここにある」は、小説よりも奇矯なレイアウトへの言及のように感じる。
ところが2009年、今度は同じ内容(実際には、前作で、ページをあわせるために尻切れトンボで終わっていた6作品目に4ページ半ほど加筆、あるいはもともとあった文章を追加し、完結している)の縦組み版が刊行された。
この書名が『アクロバット前夜90°』。前作の横組みを九〇度回転して縦組みにしたという意味。著者の福永さんは現代アートとして詩を見ている人らしく、最初の横組みのときからこの縦組みに変えるまでのアイデアは福永さんの指示ではないかと思う。
▼図29──福永信『アクロバット前夜』の新装版『アクロバット前夜90°』書影。
とはいえ、横組みのときは、その読みづらさと相まって、文字面を追ってはいるが、内容が頭に入ってこなかった。その読者の反応も含めての詩作品なのかもしれないが、縦組みになって、はじめて作者の世界観が堪能できたことはたしかである。
▼図30──『アクロバット前夜90°』の縦組みの本文。短編タイトルはトビラページに入り、トビラウラは白、左ページから本文がはじまっている。
ここに図らずも、縦書きは宗教のかわりだった、と述べた九楊さんのことばのアナロジーを見たような気分になった。
参考文献
『日本のかたち縁起──そのデザインに隠された意味』小野瀬順一、彰国社、1998
『日本人と漢字』笠原宏之、集英社インターナショナル、2015
『図説 中国文化百華001 漢字の文明 仮名の文化──文字からみた東アジア』石川九楊、農文協、2008
『縦に書け!──横書きが日本人を壊(こわ)している』石川九楊、祥伝社、2005
『和的──日本のかたちを読む』松田行正、NTT出版、2013
『日本語とはどういう言語か』石川九楊、中央公論新社、2006
『和の思想──異質のものを共存させる力』長谷川櫂、中公新書、2009
『横書き登場──日本語表記の近代』屋名池誠、岩波新書、2003
『アクロバット前夜』福永信、リトル・モア、2001
『アクロバット前夜90°』福永信、リトル・モア、2009
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登録はこちら書籍を中心としたグラフィック・デザイナー。「オブジェとしての本」を掲げるミニ出版社、牛若丸主宰。「デザインの歴史探偵」としての著述にも励む。著作は、「和」のデザインとして、『和力』『和的』(どちらもNTT出版)。近年の著作として、『デザインってなんだろ?』(紀伊國屋書店)、『デザインの作法』(平凡社)。歴史的デザイン論として『RED』『HATE!』(どちらも左右社)など。