戦争:壮大な騙し合いを企てる者たち(前編)味方もまた嘘をつく
2021.02.11
Updated by Chikahiro Hanamura on February 11, 2021, 10:03 am JST
2021.02.11
Updated by Chikahiro Hanamura on February 11, 2021, 10:03 am JST
「戦時」とはいつを指すのだろうか。戦争が起こっていない時期を平和とするならば、「平和とは二つの戦争の時期の間に介在する騙し合いの時期」と書かれた1911年の「悪魔の辞典」(注1)の定義は正しいのかもしれない。今やこの世界には、その騙し合いの期間しかなくなってしまっている。21世紀における戦争とは、銃撃戦やミサイルの撃ち合いといった軍事行動だけではない。戦争は、軍事兵器を使用する以前から始まっており、そこには戦時と平時の区別はもはやないといえるだろう。
実際の戦争(warfare)は、戦闘員の間で戦闘が発生する軍事衝突(military conflagration)や事変(military conflict)などを経て、宣戦布告(war declaration)を互いが行なうことで正式に開始される(注2)。だが、そうしたプロセスを経ていなくても、非軍事的手段によって戦争が行われている状態が今の平時である。
そこでは、政治や経済、宗教や文化、思想や情報など、あらゆる国家の活動が兵器化されている。外交での交渉に始まり、経済制裁という直接的なものから、貿易における関税や当該国の不動産の取得、音楽や映画などの文化的なプロパガンダ、食品や電子製品などの技術による相手国の支配まで、全てが戦争の道具となる。こうした21世紀の戦争は「ハイブリッド戦争」と呼ばれている。現在の戦争における軍事行動の割合は25%程度であって、残りの75%は非軍事行動によるハイブリッド戦であるともいわれる(注3)。
この概念自体は20世紀の終わり頃から存在するが、ハイブリッド戦争という呼称で注目され始めたのは2014年のロシアによるクリミア半島への介入時だ。全てのものを戦争に結び付けることは、古くからの常套手段であるが、現代は高度化した情報技術によって「情報戦」がより複雑化し、それが致命的な結果をもたらす状況が生まれている。
情報戦には大きく分けて二つの種類がある(注4)。一つは「サイバー攻撃」と呼ばれるものである。これは、敵国の機密情報を抜き取ることから、セキュリティ・システムやデータを破壊すること、情報システムや通信インフラをダウンさせたりアルゴリズムを書き換えたりすることまで、瞬発的に敵国を攻撃するサイバーテロである。
私たちの生活を支えるほとんどの技術は通信網と接続されており、パソコンから信号機、果ては原子力発電所に至るまで、国家のインフラは今やサイバー空間とつながっているものばかりである。それらに対して標的型攻撃やランサムウエア、フィッシングやゼロデイ攻撃などのソフトウエアで攻撃すれば、物理的にミサイルを撃ち込むよりももっと効果的に社会に混乱を起こすことが可能である。私たちが生きているのはそういう時代なのだ、ということへの自覚は今や必須条件であるだろう。
さらに深刻なのは、こういった目に見えるようなサイバー攻撃ではない。それは、平時の「情報操作」である。情報システムへのハッキングや書き換えだけではなく、人間を騙すことでシステムに侵入する「ソーシャルエンジニアリング」や、人間の認知を騙す「アナログハック」(注5)、味方のフリをして入り込み事態をより悪化させるような「偽旗作戦(false flag)」なども増えており、情報戦はより巧妙になりつつある。
これらは従来から「誘導工作」や「偽情報」、「プロパガンダ」など様々な呼ばれ方をされているが(注6)、いずれも情報の伝播によってイメージを誘導し、暗示を与え、特定の価値観を煽り、人々を混乱させることで、社会の分断を招くような操作を行う。つまり、私たちのまなざしを外からコントロールしようとするものである。
こうした情報戦が平時でも活発化する背景には、インターネットやSNSの普及がある。中東を始めとして世界で起こった数々の民主化運動やデモ、暴動の組織化にはSNSによるコミュニケーションが大きな役割を果たし、情報だけでなく思想や感情を共有する強力なツールとなったことは記憶に新しい。裏を返せば、人々が団結する力を弱めたり混乱させるためには、ある特定のリーダーの思想や言葉をシャットアウトすれば良いということになる。
いずれにせよ、インターネット空間の外で起こる社会運動が純粋に正義感や理念に基づいており、情報操作とは全く無関係であることなど、ハイブリッド戦争が常態化している今の世界では、もはや成立しない。正義に見えることや正当性がありそうなこと、弱者に寄り添っているように見えることにこそ、私たちは簡単に拳を振り上げてしまう。しかしそこには、私たちのまなざしをデザインして有利な状況を生み出そうとする意図が知らず知らずのうちに紛れ込んでくる。戦争は偶然に起こることなどなく、誰かが起こすものである。それは戦争が始まるずっと前から、すでに私たちの頭の中に計画的に差し込まれている。そのことに無防備であることの方が今の時代では危険だ。
中国の孫子は「兵は詭道なり」という言葉を残しているが(注7)、そもそも戦争というのは騙し合いである。どのようにして敵を油断させ、目を眩ませ、判断を惑わせるか。それが戦争の本質であり、目に見える軍事的な勝利だけではなく、政治的な勝利も目的に含まれている。そこには、戦わずして勝つという思想が根底にある。表では、外交交渉の中で相手の要求を封じ込めながら、自分たちの側の利益へと導くことを基本としている。それに加えて裏では、情報操作や謀略活動によって相手を内から崩壊させるような工作を進める。
この表裏の戦略を使いながら、できるだけ戦闘せずに勝利を収めるのが、戦争での最も賢い方法である。軍事力を用いるのは最終手段であり、最も乱暴な方法だといっても良いかもしれない。日本では欺いた方が一方的に非難されるが、世界では欺かれた方にも非があるという考え方がスタンダードである。危機意識が低いと、自分のまなざしが誘導されていることに気付かず、戦わずして負けてしまうことになる。
そうした諜報活動や情報工作は、どこの国でも大なり小なり組織的に行なっており、各国の諜報機関は情報分析だけではなく、情報工作や諜報活動まで役割を担っている。その欺く相手は必ずしも敵国だけではなく、自国民にも当然向いている。政府が自らに都合の良いように情報をコントロールすることで、国民の世論を導こうとする動きは、世界各国で暗黙に行われてきた。
1950年代に米国の中央情報局(CIA)が秘密裏に進めていた、通称「モッキンバード作戦(注8)」と呼ばれる工作は特に有名である。当時のCIA長官だったアラン・ダレスらの主導により、ワシントン・ポスト紙や大手放送局CBSなど、25にも上るメディアがCIAの見解を世間に広めることに関与していたとされる。こうした情報工作の実態が明るみに出たのは、それから約20年後であり、1976年の上院議会の報告書(注9)や1977年のローリング・ストーン誌(注10)などでは、ピュリッツァー賞の受賞者を含む400人以上のジャーナリストがCIAのために働いていたことに触れられている。
このように、政府が国民には秘密にして、都合よく情報操作することはこれまでも行われてきたが、それらは「国家安全保障」という理屈で正当化されている。特に、戦時下において政府と報道は共に国家のためという理屈の下に共謀し、ジャーナリストからの情報収集と、媒体を通じた積極的な情報拡散で、世界の出来事への私たちのまなざしに影響を与えようとしてきた。
もちろん戦時下でなくても、国家権力が世論を誘導する情報操作を全く行っていないと言い切るのは難しい。共謀がないとしても、報道の検閲や税務調査、ジャーナリストの逮捕などの方法で報道機関に圧力をかけることは可能だ(注11)。実際にそうした「脅し」がなかったとしても、さまざまな不利益を恐れた報道側が忖度を働かせて「自主規制」してしまうこともある。
さらに複雑なのは、報道を掌握し圧力をかける「権力」が、必ずしも国家権力や現政権だけとは限らないことである。敵対する政党やグローバル企業、宗教組織や外国の勢力の可能性もある。そんな勢力が報道機関へ圧力をかける場合は、賄賂や経済的優遇、脅迫や盗聴、ハニートラップ、果ては暗殺に至るまで、合法から違法まで幅広い選択肢がある。
報道機関は、権力の監視の役割を持つとされるが、必ずしも中立の立場から情報を報じているとは限らない。別の権力や利権を結び付いている可能性もある。報道機関は大きな権力の一角を成しており、どんな勢力が報道機関を支配するかによって、誰を批判するのかが変わることもある。極端な話として、もしすべての報道機関が特定の勢力の影響下にあるとすれば、情報が過度に歪曲されたり、偏向報道となっていても気付くことは難しいだろう。
今の時代では、その情報戦の主戦場がマスメディアだけでなくWebサイトやSNSを巻き込み複雑化している。何気なく流れてくるように見える情報だが、それらがニュートラルな立場から提示されている訳ではなく、流された時点で既にそれには何らかのフィルターがかかっている。大きな影響力を持つ情報媒体ほど、大きな権力と結び付いていると考えるべきであり、そこに戦争の匂いを嗅ぎ取れる能力が必要になってくるのだ。
いずれにせよ、敵を欺くにはまず味方からであり、私たちのまなざしの盲点を突いて自然に情報が差し込まれ、知らない間におかしなことが常識となっていく。武力以前に、戦争は私たちのものの見方を誘導することから始まっている。
SNSやインターネットによって、情報戦はより複雑になっている。マスメディアの情報や政府が伝える公式見解しか拠り所がなかった頃と比べて、世界に向けられている無数の見方を私たちは知ることもできる。だから、関心さえ持てば複数の媒体から情報を得ることで、簡単に一つの考えに流されることなく冷静に向き合えるはずである。しかし、事態はそう単純ではない。
情報が増えたせいで私たちは以前にも増して、真実が何かが分からなくなっている。氾濫する情報に飲み込まれて何が起きているのかが見えず不安になると、自分が見たいものや信じたいものに縋りたい気持ちが強くなる。それは情報を冷静に見ることを妨げ、世界を単純化して捉える態度を育ててしまう。
世界は、私たちが考えている以上に複雑な力学で成り立っている。それを把握するには、世界を単純化するのではなく、自分のまなざしを広範囲にズームアウトして、全体をつなぐ大きな補助線を引き直して情報を眺めなければならないことがある。そもそも、個々の情報はそれが発された時点で誰かの意図の下に引かれた補助線に沿っているのだが、その中で特に注意しなければならないのは、「敵と味方」という対立構造が下敷きになっているときである。
戦争とは、全てを敵と味方によって分けるところから始まる。異なる二つの立場に対して、あちら側が「敵」でこちら側を「味方」とすること自体に既に価値判断が入っている。この「あちら側」と「こちら側」は、自分をどちらかの立場に置かなければ生まれないのだが、その多くは自分で選択したものではない上に、本来は価値判断とは無関係な「単なる違い」でしかない。生まれた国や人種のように、私たちの選択以前に決定されていることも多く、選択しようがない状況もある。
だが、その前提となっている違いを利用して、敵と味方という分かりやすい価値判断が差し込まれるのが戦争である。そうやって巧みに対立の図式が設定されることに気付かないまま、敵対する相手にまなざしを向けることで、私たちは物事を正しく判断できなくなる。場合によっては、本当の敵は自分がまなざしを向けている相手ではなく、敵と味方としている図式の中には存在しないのかもしれない。それを理解しなければ応援する相手を誤ることにつながるだろう。
プロレスのように敵と味方という関係を装っていても、双方が結託して対立の雰囲気を盛り上げているのはよくあることだ。悪い敵がいて、その敵から私たちを救ってくれるようなヒーローが颯爽と現れるという図式。これは、時に巧妙に演出されている可能性がある。不安や恐怖を煽って救いの手を差し伸べるという、相反する二つのアプローチを織り交ぜるのは、警察の誘導尋問から詐欺の手口まで古くから見られる方法である。また、政治的な左右、宗教的な違い、思想的な派閥、軍事的な正義と悪といった対立したように見えるものが、偽装されていないとは限らない。冷静に見た時には違和感が感じられるものであっても、不安や恐怖、期待や願望のような感情が煽られた中で巧妙に仕掛けられている対立構造を見抜くのは難しい。
そういった場合にポイントになるのは、そこで「何が問題にされているのか」ということよりも、「何が問題にされていないのか」に目を向けることである。重要なことにも関わらず、なぜか両者ともに共通して問題にしていない事柄があれば、その話題から私たちのまなざしを逸らそうとしている可能性がある。あるいは、両者ともに「共通して賛同・推薦するものは何か」に目を向けてみる。わざと小さな違いや対立に焦点を当てることで、より大きな問題を共に隠蔽するというやり方も歴史の常套手段だからだ。前提とされる「対立構造そのもの」を疑う見方を鍛えなければならない。
私たちは、一度「敵と味方」を分けてしまうと、敵の考え方が100%間違っていて、味方の考えが100%正しいという立場を採りがちである。だが、敵が嘘をついていると思うなら、味方もまた嘘をついている可能性についても考えてみるべきだ。異なる二つの主張がある時、必ずしも片方だけが嘘で、もう一方が真実であるなどという単純な構図ではないことの方が多い。「どちらも嘘をついている」あるいは「どちらも真実だと思っている」ということもあり得る。そして部分的な真実、部分的な嘘などが入り込むと、どこまでが真実なのかを見分けるのは格段に難しくなる。
敵としているものが本当に一枚岩なのか、あるいは味方の中にも私たちのまなざしを誘導しようとする者が潜んでいないか、などさまざまな落とし穴がある。悪の権化に見えるような者であっても、そう見えるように演出されている可能性がある。勧善懲悪というような単純な見方は分かりやすく痛快だが、一方でとても稚拙な見方でもある。
正義の使者のように見える者が実は最も悪い奴だった、というサプライズは映画や小説だけではない。本当に何か悪いことを企んでいる者は簡単には表に出てこないし、対立構造で敵に回るような身の振る舞い方をしない。むしろ、困った状況で縋りたくなるような役割としてやってくるだろう。
信じるという感情は、人間の持つ美しい側面の一つであり、人を強くする。一方で、疑うという感情は人を不安にさせ弱くしてしまう。だが、今は平時が戦時のような時代であり、何でも信じ込んでしまうことは危ない。無闇に信じることも、無闇に疑うことも、両方ともまなざしを曇らせてしまう。
ほとんどの人々は、そもそも戦争などしたいとは思っていない。私たちの心の中には、欲や怒りが実感として確かに存在しているが、それが戦争を起こしたいと思うほど大きなものへと育つことは稀である。「あれが欲しい」「良い暮らしがしたい」という小さな欲はあったとしても、「他国を侵略して搾取したい」ということへは単純には結び付かない。また「腹が立つ相手を困らせてやりたい」「あいつは許せない」という怒りがあったとしても、「相手を皆殺しにしたい」というようなレベルの怒りにまでは簡単には発展しない。欲や怒りが育つには、相当なエネルギーが必要なのである。
では、なぜ戦争は起こってしまうのだろうか。それは私たちの感情を刺激するエネルギーが外部から注がれるからである。戦争においては、特に怒りが育てられる。小さな怒りに刺激が加わり、それに大義が与えられ、他の人々の怒りと共に集められることで、いつの間にか大きな怒りのエネルギーへと育つ。
フランスの歴史家アンヌ・モレリは、「私たちは、戦争が終わるたびに自分が騙されていたことに気付き、『もう二度と騙されないぞ』と心に誓うが、再び戦争が始まると、性懲りもなくまた罠に嵌ってしまう」と指摘している(注12)。第一次世界大戦の際の英国政府の戦争プロパガンダを分析して得た要素(注13)が、『戦時の嘘』というアーサー・ポンソンビーの著書の中で紹介されており、モレリはそれを『戦争プロパガンダ10の法則』という著書にしているが、私たちのまなざしを戦争へと誘導する方法は常に同じ道筋を辿る。
それはまず、自分たちの正当化から始まる。平和を愛する私たちに対して、向こう側が戦争を望んでいるので戦争を避けるのは難しい、という見方が整えられる。そして、相手は悪魔のように演出され、その敵を倒すことに大義と使命感が与えられる。私たちの攻撃も相手を傷つけてしまうが、相手はより恐ろしく残虐な方法で私たちを攻撃するので、それを防ぐためにはある程度は仕方がないという言い訳が用意される。さらに、知識人がこの戦いの正当性を理屈付け、著名人がそれを広めることで世論が高まり、それを疑う者は裏切り者であるという空気が生まれる。
こうやって徐々に小さなプロセスが積み重ねられ、私たちのモノの見方は誘導されていく。小さな怒りの炎がだんだん育てられ、そして気が付けば私たちは、いつのまにか望みもしない戦争や暴動へと至っている。心の中にある怒りの火種は、油を注がれるとすぐにその炎を大きくしてしまう。それは、何も暴力で相手を支配したいというような欲求だけではない。むしろ正義感や正当性、民主主義や弱きものを助けるという真っ当な理由が掲げられた時の方が激しく燃え上がるのだ。
テロリストと指差す人々に戦う理由を尋ねたとしたら、「正しいと信じている世界と大切な人を守るためだ」と答えるだろう。私たちが怒りの炎を燃やす理由と一体何が異なるのだろうか。善と悪とがきれいに分かれて戦いが生まれるのではなく、どちらの戦う理由にも怒りや悲しみがある。
そんな中で、本当に救いようがないのは、戦いが生まれる原因をわざと生み出す連中である。対立を煽り、怒りにエネルギーを与え、どうしようもない状況に追い込み、そこで武器を売る者たち。そんな連中は、分かりやすく人から非難される悪という形で表に見えてくる訳ではない。むしろ、多くの人から感謝や尊敬を得る形で堂々と振る舞いながら、歴史の陰に隠れて悪事を企むはずである。私たちが正しいと信じて向けているまなざしこそが、誰かに巧みにデザインされている可能性は大いにあるのだ。
注2)副島隆彦は戦争を以下の3段階で説明している(副島隆彦 「今の巨大中国は日本が作った」 2018 p250 ビジネス社)。
・ミリタリー・コンフラグレイション:国家間の軍事衝突のことを指す。これは双方で数人から数十人単位で死者が出る衝突である。ただし、この場合の戦闘員は、スパイや民間人に偽装した人ではなく兵士すなわち軍事公務員でなければならない。
・ミリタリー・コンフリクト:100人から1000人単位で双方の兵士が死ぬような規模の軍事衝突を指し、日本では「事変」と呼ばれる。
・ウォーフェア:宣戦布告を交わして行う戦争。
注3)ロシアの参謀総長であるワレリー・ゲラシモフは2013年の「Military-Industrial Courier」に発表した「The Value of Science Is in the Foresight」という記事で、アラブの春などに言及し、敵国住民の「抗議ポテンシャル」を活性化することが戦争の手段になることについて触れている(ハイブリッド戦争)。この記事はゲラシモフ・ドクトリンと呼ばれることもある。
注4)英王立国際問題研究所(チャタム・ハウス)上級研究員のロシア専門家であるキア・ジャイルズによると、ロシアの権威ある指導書の中に、情報戦を標的の動きにより次の2タイプに分ける説明があるという(飯塚恵子 「ドキュメント 誘導工作 情報操作の巧妙な罠」 2019 p302 中央公論新社)。
1「情報・心理戦」軍人や一般市民が対象。平時から常時行う。
2「情報・技術戦」情報を収集、送受信、処理する技術システムが対象。戦時や紛争中に行う。
注6)情報操作には確立した定義がなく、米軍では「誘導工作(influence operation)」、スウェーデン市民緊急事態庁(MSB)では「情報インフルエンス活動(information influence activities)」、NATOでは「戦略的コミュニケーション(strategic communication)」、フランス国防相のフランス軍事学校戦略研究所では「情報操作(information manipulation)」、EUでは「偽情報(disinformation)」などと呼ぶ。他にも「プロパガンダ(propaganda)」、あるいはロシアや中国でよく使われる「情報戦(information warfare)」などがある(飯塚恵子 「ドキュメント 誘導工作 情報操作の巧妙な罠」 2019 p302 中央公論新社)。
注7)「例えば、できるのにできないふりをし、必要なのに不必要と見せかける。遠ざかると見せかけて近づき、近づくと見せかけて遠ざかる。有利と思わせて誘い出し、混乱させて突き崩す。充実している敵には備えを固め、強力な敵に対しては戦いを避ける。わざと挑発して消耗させ、低姿勢に出て油断を誘う。休養十分な敵は奔命に疲れさせ、団結している敵は離間をはかる」(守屋洋 「孫子の兵法がわかる本」 2017 p247三笠書房)。
注8)CIA、米主要メディアと強固な協力関係。偽ニュース流布で軍事介入、職員が記者活動も
注9)1976年4月に提出された議会上院の情報活動調査特別委員会(チャーチ委員会)の報告書
注10)1977年10月20日に出版されたローリング・ストーン誌に掲載された「CIAとメディア」という記事で、元ワシントン・ポスト紙の記者でウォーターゲート事件を報道したカール・バーンスタインが述べている。CBSのウィリアム・ペイリー、タイム誌のヘンリー・ルース、ニューヨークタイムズ紙のアーサー・サルツバーガー、ルイヴルクーリエジャーナルのバリー・ビンガム、コプリーニュースサービスのジェームズ・コプリーが関与したという。その他、CIAと協力した組織には、ABC(American Broadcasting Company)、NBC(National Broadcasting Company)、AP通信、United Press International、ロイター通信、Hearst Newspapers、Scripps‑Howard、ニューズウィーク誌、MBS(Mutual Broadcasting System)、マイアミ・ヘラルド、サタデーイブニングポスト、ニューヨークヘラルドトリビューンなどがある。
注11)フリージャーナリストの烏賀陽弘道は、権力が報道にかける圧力の実例を以下の7つに分類している(烏賀陽弘道 「フェイクニュースの見分け方」2017 p256 新潮新書)。
A)記者の暗殺・誘拐・脅迫・拷問
B)検閲
C)警察や検察による記者や情報源の逮捕・投獄
D)電話やメールの盗聴、記者の尾行・監視
E)経済的介入
F)税務調査
G)民事訴訟=スラップ(SLAPP=公的参加を妨害するための訴訟戦略)
注12)アンヌ・モレリの著書『戦争プロパガンダ10の法則』序文
注13)アーサー・ポンソンビーは、「戦時の嘘」の中で英国政府による第一次世界大戦の際のプロパガンダを分析して、以下の10の要素を導き出している(アンヌ・モレリ 「戦争プロパガンダ 10の法則」 2002年 p212 草思社)
1. 我々は戦争をしたくはない。
2. しかし、敵側が一方的に戦争を望んだ。
3. 敵の指導者は悪魔のような人間だ。
4. 我々は領土や覇権のためではなく、偉大な使命(大義)のために戦う(正戦論)。
5. 我々も誤って犠牲を出すことがある。だが、敵はわざと残虐行為に及んでいる。
6. 敵は卑劣な兵器や戦略を用いている。
7. 我々の受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大。
8. 芸術家や知識人も、正義の戦いを支持している。
9. 我々の大義は、神聖(崇高)なものである(聖戦論)。
10. この正義に疑問を投げかける者は、裏切り者(売国奴、非国民)である。
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登録はこちら1976年生まれ。博士(緑地環境計画)。大阪府立大学経済学研究科准教授。ランドスケープデザインをベースに、風景へのまなざしを変える「トランスケープ / TranScape」という独自の理論や領域横断的な研究に基づいた表現活動を行う。大規模病院の入院患者に向けた霧とシャボン玉のインスタレーション、バングラデシュの貧困コミュニティのための彫刻堤防などの制作、モエレ沼公園での花火のプロデュースなど、領域横断的な表現を行うだけでなく、時々自身も俳優として映画や舞台に立つ。「霧はれて光きたる春」で第1回日本空間デザイン大賞・日本経済新聞社賞受賞。著書『まなざしのデザイン:〈世界の見方〉を変える方法』(2017年、NTT出版)で平成30年度日本造園学会賞受賞。