戦争が良くないものであるのは言うまでもない話なのだが、戦争というものがどういう力学で動いているのかについて、あまりに我々は知らな過ぎるのではないか。軍事衝突が起こった時に戦争が始まるのではなく、戦争は常に水面化で起こっている。それは戦地で起こっているのではなく、この画面の中で起こっていて、我々が何かの情報を安易にシェアし、何かの結論を決め込む度、戦争に部分的にでも加担していることになるのだ。
マスメディアやSNSを問わず、安易に正誤善悪が論じられるが、論じている方々は一体何を知っているというのだろうか。私たちが今論じているのは、何かの「情報」を元にしたものであることは忘れられがちだ。情報というのは誰かが「情報化」したものであり、そこには必ず立場・解釈・主張が裏側にある。それに加えて我々の認知には落とし穴がたくさんある。
そんな認知の穴を突いて、戦争はすでに入り込んでいるのだが、私たちはそのことに対してあまりにも無防備ではないか。世界は単純な力学で動いているわけではない上、知らない間に自分自身も何かの役割を担ってしまっていることは十分にあり得ることである。多くの人は、自分は大丈夫で、自分は絡め取られていないと思っている。だが、それが危険であることを拙著『まなざしの革命』では指摘した。今回は、特にその中から戦争の見方に関係するものを取り上げる。第三章「平和」および第四章「情報」から、戦争について論じている節を抜粋・編集した。
実際の戦争(warfare)は、戦闘員の間で戦闘が発生する軍事衝突(military conflagration)や事変(military conflict)などを経て、宣戦布告(war declaration)を互いが行うことで正式に開始される。だが、そうしたプロセスを経ていなくても、非軍事的手段によって戦争が行われている状態が平時である。戦争は、軍事兵器を使用する以前から始まっており、そこにはもはや戦時と平時の区別はないと言える。銃撃戦やミサイルの撃ち合いといった軍事行動だけではなく、二十一世紀における戦争とは、政治や経済、宗教や文化、思想や情報などあらゆる国家の活動が兵器化される。
外交交渉に始まり、経済制裁などの直接的なものから、貿易における関税や当該国の土地や不動産の取得、音楽や映画などの文化的プロパガンダ、食糧や電子製品などの技術による相手国の支配まで、全ては戦争の道具となり得る。こうした非軍事行動は二十一世紀の戦争において75%を占めるとも言われており、それらは「ハイブリッド戦争」と呼ばれている。1999年にはすでに中国では「超限戦」と呼ばれていたが、あらゆるものを兵器化する概念自体はその前から存在していた。それがハイブリッド戦争という呼称で注目され始めたのは、2014年のロシアによるクリミア半島への介入時だ。全てのものを戦争に結びつけることは、古くからの常套手段であるが、現代は高度化した情報技術が合わさり「情報戦」がより複雑化している。それは私たちが考えている以上に日常に溶け込んでいる。
情報システムへのハッキングや書き換えといった目に見えるようなサイバー攻撃以上に、より私たちにとって意識しにくいのは、もう一方の情報戦である平時の「情報操作」である。人間を騙すことでシステムに侵入する「ソーシャル・エンジニアリング」や、人間の認識や認知に攻撃をしかける「アナログハック」、味方のフリをして入り込み事態をより悪化させるような「偽旗作戦」なども増えており、情報戦はより巧妙になりつつある。これらは従来から「偽情報」「誘導工作」「デマ」「プロパガンダ」などさまざまな呼ばれ方がされている。いずれも情報の伝播によってイメージを誘導し、暗示を与え、特定の価値観を煽り、人々を混乱させることで、社会の分断を招く。つまり情報戦では、私たちのまなざしへ戦争がしかけられ、頭や心が外からコントロールされるのである。
このハイブリッド戦争が常態化している世界では、いかなる社会運動であっても、こうした情報操作とは全く無関係であることなど、もはや考えられないだろう。中東をはじめとして世界で起こった数々の民主化運動やデモ、暴動の組織化にはSNSによるコミュニケーションが大きな役割を果たしたことは記憶に新しい。たとえ平和を求める運動であったとしても、それが戦争とつながっている可能性は否定できないのだ。
何が起きているのかがわからず、先行きが見えないような不安な時代には、自分が見たいものや信じたいものにすがりたい気持ちが強くなる。そうやって信じ込むことは情報を冷静に見ることを妨げ、世界を単純化して捉える態度を育ててしまう。正義感や理念に基づいているように見えること、正当性がありそうなこと、弱者に寄り添っているように見えること。そんな純粋な問題意識が掲げられる社会変革にこそ、私たちは簡単に賛同し、ともに拳を振り上げてしまう。
だが、その正義感や義憤が利用され、私たちのまなざしがある方向を向くようにデザインする意図は、知らず知らずのうちに紛れ込んでくる。それは戦争が始まるずっと前から、私たちの頭の中に植え付けられているのである。戦争とは偶然に起こるものではない。誰かが起こすものなのだ。そのことに無防備であることは今の時代において危険である。
ほとんどの人々は平和を望み、そもそも戦争などしたいとは思っていない。私たちの心の中には、欲や怒りが実感として確かに存在しているが、それが戦争を起こしたいと思うほど大きなものへと育つことは稀まれである。「あれが欲しい」「良い暮らしがしたい」という日常的な欲はあったとしても、「他国を侵略して搾取したい」ということへは単純には結びつかない。また「あいつは許せない」「腹が立つ相手を困らせてやりたい」という怒りがあったとしても、「相手を皆殺しにしたい」というようなレベルの怒りにまでは簡単には発展しない。欲や怒りが育つには、相当なエネルギーが必要なのである。
では、なぜ戦争が起こることを私たちは容認してしまうのだろうか。それは私たちの感情を刺激するエネルギーが外部から注がれるからである。とりわけ戦争においては、怒りが育てられる。小さな怒りが刺激され、それに大義が与えられ、他の人々の怒りと同調しながら、いつのまにか大きな怒りのエネルギーへと育つ。
それはまず、自分たちの正当化から始まる。平和を愛する私たちに対して、向こう側が戦争を望んでいるので戦争を避けるのは難しい、という見方が整えられる。そして、相手は悪魔のように演出され、その敵を倒すことに大義と使命感が与えられる。私たちの攻撃も相手を傷つけてしまうが、相手はより恐ろしく残虐な方法で私たちを攻撃するので、それを防ぐためにはある程度は仕方がないという言い訳が用意される。さらに、知識人がこの戦いの正当性に理屈を与え、著名人がそれを拡めることで世論が高まり、それを疑う者は裏切り者であるという空気が生まれる。
こうやって小さなプロセスが徐々に積み重ねられ、私たちのまなざしは大きく誘導されていく。ほんのわずかな怒りの炎が、気がつけば望みもしない戦争や暴動へと育っている。心の中にある怒りの火種は、油を注がれるとすぐにその炎を大きくしてしまう。それは何も暴力で相手を支配したいというような欲求が生むだけではない。むしろ正義感や正当性、民主主義や弱き人々を助けるという真っ当な理由が掲げられた場合の方が激しく燃え上がるのだ。私たちのエネルギーが高まるのは自分が「正しいこと」をしていると確信したときだ。そうやって私たちのまなざしを戦争へと誘導する方法は常に同じ道筋を辿る。
私たちがテロリストと指さす人々に戦う理由を尋ねたとしたら、おそらく「正しいと信じている世界と大切な人を守るためだ」と答えるだろう。それは、私たちが怒りの炎を燃やす理由と一体何が異なるのだろうか。善と悪とがきれいに分かれて戦いが生まれるのではない。どちらにも戦う理由は怒りや悲しみである。そんな怒りや悲しみに付け入り、戦いが生まれる原因をわざと生み出す悪意もこの世界には存在する。権利を脅かし、逃げられない状況に追い込み、正当性を囁いて怒りにエネルギーを与え、対立を煽り、そこに資金と武器を与える者たちがいる。そんな悪意を持つ人々は、非難されるような「わかりやすい悪」として表に見えてくるわけではなく、むしろ、多くの人から感謝や尊敬を得る形で堂々と振る舞うのかもしれない。歴史の陰に隠れて悪事を企むことに長けた者たちが、私たちのまなざしを巧みにデザインし、何かを正しいと信じさせるように仕向けている可能性があることに気をつけねばならない。
国と国だけではなく、どのようなレベルであっても、「敵と味方」に分けるところから全ての平和は壊れ始める。だから敵と味方という対立構造が煽られるとき、私たちは注意せねばならない。異なる二つの立場に対して、あちら側が「敵」で、こちら側を「味方」とするような価値判断が迫られる場合は特に目を見張る必要がある。
巧みに対立の図式が設定されていることに気づかないまま、相手にまなざしを向けると、私たちは物事を正しく判断できなくなるだろう。私たちは敵と味方を一度分けてしまうと、敵の考え方が100%間違っていて、味方の考えが100%正しいというように考えてしまいがちだ。だが、ひょっとすると、本当の敵は自分がまなざしを向けている相手ではなく、そこでの敵と味方という図式の中には存在しないのかもしれない。
敵としているものは本当に一枚岩なのか、あるいは味方には私たちのまなざしを誘導しようとする者が潜んでいないか。敵が噓をついていると思うなら、味方もまた噓をついている可能性についても考えてみるべきだ。異なる二つの主張がある場合、必ずしも片方だけが噓で、もう一方が真実であるなどという単純な図式ではないことの方が多い。「どちらも噓をついている」あるいは「どちらも真実だと思っている」ということもありえる。そして部分的な真実、部分的な噓などが入り込むと、どこまでが真実なのかを見分けるのは格段に難しくなる。
悪の権化に見えるような者も、そう見えるように演出されている可能性はないか。また正義の使者のように見える者が実は最も悪意を持っている、という可能性はないか。そんなサプライズは、映画や小説だけのものではないからだ。本当に何かの悪事を企む者は表には出てこないし、対立の構図で敵に回るような振る舞い方をしない。むしろ、誰からも尊敬されていたり、困った状況で手を差し伸べるような役割を演じるだろう。そこに潜んでいるさまざまな落とし穴を理解しなければ、支持する相手を見誤ることにつながる。勧善懲悪というシンプルな見方はわかりやすく痛快だが、一方でとても稚拙だとも言える。
あるいはプロレスのように、敵と味方という関係を装っていても、双方が結託して、対立の雰囲気を盛り上げているのはよくあることだ。悪い敵がいて、その敵から私たちを救ってくれるようなヒーローが颯爽と現れるという図式。これは巧妙に演出されている可能性はないのか。警察の誘導尋問から詐欺の手口まで不安や恐怖を煽って、救いの手を差し伸べるという、相反するアプローチを織り交ぜるのは、古典的な方法である。
さらに言うと、ぶつかり合う利害は国家が単位になっているのか、という点も今や疑問である。そもそも戦争とは、本当に「国家と国家の争い」なのだろうか。私たちは簡単に「アメリカ」「中国」「ロシア」などと国家をまとめて指さし、それがあたかも一つのまとまりのように考えてしまう。だが、それぞれの国は一枚岩のような単純な構造ではなく、同じ政府の中でもさまざまな利害関係が渦巻いている。
グローバル化が浸透したこの世界では、国民国家という枠組み以上に、別の力学でさまざまなことが動いている。主権国家よりもさらに強い立場から圧力をかけることのできる超国家的な組織が複数存在するのが今の世界の現状なのだ。そこでの安全性の線引きは、非常に複雑な様相を見せており、国家という単位だけで戦争を見ていると本質を見誤ると考えて良いだろう。
私たちは直接体験しない限り、世界で起こっていることは何らかの情報媒体を通じて知るほかはない。だからこれまでは、テレビや新聞などから流れてくる情報こそが、私たちが世界をどのように把握するかを決めてきた。しかし今、そうしたマスメディアの情報の信頼性が大きく揺らいでいる。
私たちが知るべきことに責任を持って報じるはずの報道機関。それらが、もし特定の世論を生み出し、特定の人々の利益を誘導する情報を発しているとすれば、信用を失っていくのは避けられない。そんなことを感じさせるような事件は年々増えている。すでに多くの人の間で、マスメディアの報道プロセスに、諸手を上げて賛成という気運は下がっているのではないか。
だが一方で、インターネットには大きな落とし穴がある。そこで発信される情報の多くは、取材力や情報の正確性、信頼性にさまざまなレベルがあるからだ。誰がどのように情報を集めて、どのような意図で発信しているのかが不明なものもある。その情報を信頼するかどうかは読み手の方に委ねられており、虚偽の情報であったとしても、マスメディアのように大きな社会的責任が発信者に問われることはない。インターネットは、テレビや新聞以上にその裏側の構造が見えにくく、情報にどのようなフィルターがかかっているのかは簡単にはわからない、という問題がある。
そもそも流れてくる情報には「事実」と「主張」が一緒に溶け込んでいる。マスメディアであっても、ウェブメディアであっても、メディアはその性質上、何らかの見方のもとで情報を発信するものだからだ。だから誤解を恐れずに言うと、ある意味で全ての情報はフェイクニュースである。情報は伝えられた時点ですでに意図が入っている。そして伝え方によってどのような演出も可能である。だから伝える者への信頼が怪しくなっているこの時代では特に、提示された情報をそのまま事実として素直に受け入れることはリスクを伴う。
一連の出来事のどこを切り取るのか。その段階ですでに演出は始まっている。ショッキングな部分を切り取る方がニュースになりやすいのは言うまでもない。だが、それ以外の時間に何が起こっていたかによって、そのシーンの意味は変わる。その切り取られたシーンに肯定的な印象が加えられるのか、否定的な印象が添えられるのか。また誰の視点から取り上げるのか。
取り上げ方で、印象を誇張するものと弱めるものを操作し、情報を受け取る者のまなざしをリードあるいはミスリードすることが可能となる。そして何より、取り上げられなかった出来事はなかったことになる。そんなさまざまな主張は、発信された時点ですでに挟み込まれている。インターネットでよく見かける風刺画のように実際の出来事と正反対の内容が「事実」として切り取られることもある。
さらに辿ると、「事実」として取り上げられた出来事が本当に起こったことなのかどうかを、どのように証明するのだろうか。出来事は確かめられない限りは単なる情報である。その発信元が本当に信頼に足るものであるという保証はどうやって得ればいいのだろうか。その出来事を誰が確認したのか。それはどのように確認されたのか。それがどのような方法で共有されたのか。もし、そんな出来事がなかったと後で発覚したときには、事実と言われていたものがフェイクニュースになるのである。今は「事実が情報として切り取られる」のではなく、「情報として切り取られたものが事実になる」ような正反対の社会である。そこでは、なおさら情報を伝える者の客観性と倫理観、そして情報を受け取る私たちの聡明さが大事になる。
一方で、一度疑いだすと、全てがフェイクニュースに見えるようになる。マスメディアやインターネットの情報だけではない。政府から発表される公式見解から研究者のデータに至るまで、その裏側に意図が潜んでいるのではないか、と勘ぐることになるだろう。そんな全てにおいて情報の信頼性が揺らいでいる時代に、一体何を信じればいいのだろうか。ファクトチェックをする団体は信じられるのだろうか。クロスチェックされた情報は信じられるのだろうか。この社会では正しいものは何もなく、「正しそうに見せる」ことに成功した情報だけが受け入れられる。情報の発信者は、自分の主張を信じてもらうために、客観を装うことで、私たちのものの見方を操作しようとするのだ。だからこそ、私たちはなおさら、何が実際に起こった「事実」で、どこからが伝える者の「主張」かを注意深く分けて見なければならない。
それ以前に、その情報が「なぜ」流れてくるのか、それを流せば人々がどのように反応するのかまで、計画されている可能性についても想像力を働かせるべきである。戦争は前線で起こっているのではなく、私たちのまなざしに既に仕掛けられている。それは常に形を変えてやってくる。それはある時は軍事侵攻であり、ある時はウイルスであり、ある時は気候変動であり、ある時は食糧危機かもしれない。変わっていく対象物に目を奪われていると、また新しいものがやってきても気付けないかもしれない。
だからこそ私たちは、無関心になるのではなく、そして分からないことを分かったように語るのでもなく、分からないことは分からないままで騒ぎに加担しない冷静な態度が必要になるのではないだろうか。
山極壽一氏(人類学者)推薦文!
「過剰な情報が飛び交い、民主主義の非常事態に直面する私たちに、時代の真実を見抜き、この閉塞感から解放されるまなざしを与えてくれる。」
目次
第一章「常識」 第二章「感染」 第三章「平和」
第四章「情報」 第五章「広告」 第六章「貨幣」
第七章「管理」 第八章「交流」 第九章「解放」
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登録はこちら1976年生まれ。博士(緑地環境計画)。大阪府立大学経済学研究科准教授。ランドスケープデザインをベースに、風景へのまなざしを変える「トランスケープ / TranScape」という独自の理論や領域横断的な研究に基づいた表現活動を行う。大規模病院の入院患者に向けた霧とシャボン玉のインスタレーション、バングラデシュの貧困コミュニティのための彫刻堤防などの制作、モエレ沼公園での花火のプロデュースなど、領域横断的な表現を行うだけでなく、時々自身も俳優として映画や舞台に立つ。「霧はれて光きたる春」で第1回日本空間デザイン大賞・日本経済新聞社賞受賞。著書『まなざしのデザイン:〈世界の見方〉を変える方法』(2017年、NTT出版)で平成30年度日本造園学会賞受賞。