original image: tiero / stock.adobe.com
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昨年末、イーロン・マスクがTwitterで「誰かWeb3見たことある? 見つけられないんだけど」とボケたところ、当時TwitterのCEOを退任したばかりのジャック・ドーシーがすかさず、「aからzの間のどこかにあるよ」とボケ返し、これを契機に小競り合いが起きるという一幕がありました。
ジャック・ドーシーの言う「aからzの間のどこか」とは、暗号通貨などブロックチェーン方面への積極的な投資により、もはやWeb3エコシステムを丸抱えせんとする、大手ベンチャーキャピタルのa16zことAndreessen Horowitzにあてこすったイヤミです。ジャック・ドーシーの批判は、「Web3を所有するのはベンチャーキャピタルとその投資先の企業であってウェブユーザーではなく、結局は中央集権型のものに別のラベルを貼っただけ」と続き、Andreessen Horowitzの共同創業者マーク・アンドリーセンにTwitterでブロックされ、それを自慢するというダメなTwitter芸を見せるオチがつきましたが、それからおよそ半年経ち、件の小競り合いの発端だったイーロン・マスクが、Twitterを買収しようとしているというよく分からない状況になってたりします。
そして、Web3という言葉自体も、よく分からないことになっています。
2014年に「ĐApps:Web 3.0はどんなものか」を書いたイーサリアムの共同創始者ギャヴィン・ウッドは、脱中央集権型のインターネットインフラとしてのウェブを指してWeb 3.0と考えていました。現在でも、例えば星暁雄さんの「ブロックチェーンとスマートコントラクトを基盤とするサービス群」くらいの定義が穏当だとワタシも思います。
が、「NFT」はともかく、「メタバース」あたりまであれもこれもWeb3だと言い立てる人がおり、定義が人によってかなりブレているのが現実です。脱中央集権(分散型)といったコンセプトよりも、何より暗号通貨周りへの投機の過熱がもたらす混乱があり、Web 2.0の提唱者であるティム・オライリーが、今の状況は間違いなくバブルであり、真価が分かるのはバブルが弾けた後、と引き気味に語るのも理解できます。
一方で、前述の通り「Web3イケイケ勢」の代表と言えるAndreessen Horowitzは、先頃「2022年におけるクリプトの状況報告」を公開しています(共著者には、2014年にワタシが初めてビットコインについて書いたときに大いに参照したクリス・ディクソンもいます)。改めて「クリプト」という言葉は、暗号技術でなくデジタル資産を指す言葉になってしまったという感慨もありますが、ともかくこのレポートのポイントは以下の5つです。
レポートの完全版を見ると、「2022年におけるクリプトの状況報告」と言いながら、最初に「Web3とは何か?」「なぜWeb3が重要か」の説明スライドから始まっており、少なくとも「クリプト」と「Web3」が不可分なものと考えられているのが分かります。
少し余談になりますが、ここまでに「Web3」と「Web 3.0」という二つの表記が出ています。この二つを同義と扱う文章も多いのですが、(ギャヴィン・ウッドが上記の文章を書いた2014年当時はともかく)現在では「Web 3.0」は(ティム・バーナーズ=リーが推すセマンティックウェブなど)Web 2.0の延長上にある次世代ウェブ技術を指すのに対し、「Web3」はクリプト界隈が目指すブロックチェーンに基づく分散型オンラインエコシステムを指すものであり、両者は別物という見解を踏まえ、この文章では(引用などを除き)基本的に表記をWeb3に統一しています。
閑話休題。Web3の現状が、かつてのインターネットにおける1995年の段階なのを認めながら、それを逆手にとって「ブロックチェーンは、1990年代から2000年代のPCやブロードバンド・インターネット、あるいはこの10年のスマホのような新しいヒット商品」と訴え、昨今のクリプトの暴落など厳しい季節に入ることを認めながらも、ここでイノベーションを諦めるのは、ドットコムバブル崩壊後にクラウドやSNSやスマートフォンを逃すくらい愚か、と過去の成功体験の記憶に訴えつつ、強気の姿勢を崩さないあたり、匠の技を感じさせます。
一方で、現在のクリプトの状況に対する厳しい声も当然あり、カリフォルニア大学バークレー校講師のニコラス・ウィーバーの「すべての暗号通貨は焼け死ぬべし」などその代表と言えるものでしょう。彼は以前から暗号通貨に批判的でしたが、このインタビュー記事はその総決算と言えます。
つまり、暗号通貨は通貨として機能せず、マイニングに大量の電力を消費するなど非効率的であり、信頼面で分散投資の対象にならない、麻薬取引やランサムウェアの支払いなどオンライン犯罪の温床になっている、「ステーブルコイン」を謳ってもポンジ・スキーム(投資詐欺の一種)に変わりはない、他にも暗号通貨が途上国の銀行口座を持たない人々を救うという話はまやかしだし、スマート・コントラクトやNFTによる所有などについても軒並みなで斬りにした挙句、Andreessen Horowitzを名指しして、自身を法律的には安全圏に置きながら、投資した企業に責任を押し付ける証券詐欺、とまでそのやり口を断じています。
「誰かがブロックチェーンで何かを解決できると言う場合、その人はその『何か』を理解していないので無視してかまわない(ウィーバーのブロックチェーンの鉄則)」とまで言われると、さすがに言い過ぎだろうとも思うわけですが、逆に言うとAndreessen Horowitzが現在のクリプトの状況を「1995年」にたとえるのは、ウィーバーのような激しい批判は、それこそインターネット普及期に言われた『インターネットはからっぽの洞窟』のようなものだ、と暗に予防線を張りたいのかもな、とも深読みしたくなります。
ウィーバーは昨年末に「Web3詐欺」という文章を書いており、Web3というコンセプトについても同様に批判的ですが、前述の通り、「クリプト」と「Web3」が不可分なものならば、不思議なことではありません。思えば、それと同時期にイーロン・マスクも、Web3はリアルでなく、現時点では現実というよりマーケティングのバズワード、と切って捨てていましたっけ。
Web 2.0が話題になった時には日常的に利用するウェブサービスが既にあったのに、Web3にはそれが全然ない、という不満は現在まで言われますが、個人的に最近読んだ文章で面白く思ったのは、マルセル・ウォルドフォーゲルの「Web3は高くつくP2Pに過ぎない」です。
この文章は、暗号化メッセージアプリSignalの共同創業者であるモクシー・マーリンスパイクの「Web3についての私の第一印象」を踏まえた上で、Web3とかつてのP2P分散アプリを比較しています。前者を重量級リバタリアン的、後者を軽量級共産主義的と喩えているのに笑ってしまいましたが、これはすべてがマネタイズされるべしな前者の作りを反映しているようです。
P2Pを「共産主義」と呼ぶのに異論が出るでしょうが、確かにかつてP2Pアプリケーションは主流になることはなく、代わりにメインストリームとなったのは中央集権的なビッグテックです。そのP2Pよりも重量級、つまりは複雑なレイヤーを重ね、依存関係があるWeb3が成功するのは難しいのではないか、とマルセル・ウォルドフォーゲルは見ているようです。
モクシー・マーリンスパイクのP2Pに着目する文章は、SF作家のコリイ・ドクトロウの投稿にインスパイアされたものです。脱中央集権の理想は、かつてオライリーのP2Pカンファレンスで委員を務めた自分にはなじみ深いし、今、Web3の支持者と同じような話をしているはずなのに、なにより市場重視な(もし市場に問題があれば、それは「規制当局による歪み」と考える)Web3のエートス(精神)に違和感を表明し、Web3の支持者との間の溝を認めるコリイ・ドクトロウには、個人的にもうなずくところがあります。
しかし、Web3とP2Pの比較論まできて思い当たるのは、Web3の主要な構成要素として語られるものが、実はウェブとあまり関係がない、Web3の意味する実体がウェブ技術からかけ離れている、というどっちらけな話だったりします。
ただ、ワタシ自身はWeb3というコンセプトを実は楽観的に見ています。なぜかというと、結局、言葉は成功についてくると考えるからです。
つまり、Web3というコンセプトに厳密に従ったサービスだから成功するのではなく、今後成功を収めたサービスが自然とWeb3の代表格と見なされると予測するわけです。
例えば、ティム・オライリーの「Web 2.0:次世代ソフトウェアのデザインパターンとビジネスモデル(前編、後編)」に名前が出てくるFlickr、BitTorrent、upcoming.orgなどを、2022年の今、Web 2.0の代表的なサービスとして挙げる人はあまりいないでしょう。
さらに言うと、ティム・オライリーがWeb 2.0を提唱する前にも、例えば、クレイ・シャーキーの「ソーシャル・ソフトウエア」など、多対多の利用、参加型・双方向的になったウェブをうまく表現しようと仕掛けられた(が一般には膾炙しなかった)言葉は他にもあったわけです。
それならなぜ「Web 2.0」が残ったかというと、ネーミングセンスの良さもありますし、ティム・オライリーの「次世代ソフトウェアのデザインパターンとビジネスモデル」のヴィジョンにそれなりの妥当性があり、大枠としてその後成功したサービスの方向性に合致した(ように見えた)からでしょう。
同じようにWeb3についても、もちろんその「魂」を探求する問い直しにも意味はありますが、脱中央集権を厳密に実現しなくても、ユーザーのデジタルアイデンティティやデータのコントロールなど大枠としての方向性をうまく実装したり、ウェブユーザーのペイメントを改善して成功するサービスがあれば、それこそがWeb3と見なされるのではないでしょうか。
もっとも、その前にWeb3という言葉が多くの人に忌み嫌われ、ハイプと斥けられる事態になれば話は別です。そうした意味で、岸田文雄首相が「ブロックチェーンやNFT、メタバースなどWeb3.0の推進のための環境整備を含め新たなサービスが生まれやすい社会を実現いたします」と語り、これが成長戦略の柱と政府に目される日本のガラパゴスな状況が吉と出るかは分かりませんが、その特性を活かした強力な磁場を持つサービスが生まれればいいですね。知らんけど。
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登録はこちら雑文書き/翻訳者。1973年生まれ。著書に『情報共有の未来』(達人出版会)、訳書に『デジタル音楽の行方』(翔泳社)、『Wiki Way』(ソフトバンク クリエイティブ)、『ウェブログ・ハンドブック』(毎日コミュニケーションズ)がある。ネットを中心にコラムから翻訳まで横断的に執筆活動を続ける。