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自動執筆機械の憂鬱

2023.04.03

Updated by Ryo Shimizu on April 3, 2023, 08:11 am JST

桜の季節だ。
僕が一年で一番、好きな季節である。
この季節のために、僕は東京に住むことを選択したと言ってもいい。
桜の季節、別の言い方をすれば、花見の季節だ。

花見はいい。
下手すれば花なんかなくてもいい。

外で酒が飲める。
・・・おもえば、それすらできないのがこの数年だった。

花見ができない間は、僕は毎年、近所の花屋で桜の木を買ってきて、家の中に飾って花見をしていた。
それくらいには、花見が好きである。

昨日も朝早くから代々木公園にでかけていって、場所取りをした。
午前六時の代々木公園は、場所取りの必要なんかないくらいに閑散としている。

だがそれがいい。
いつもの習慣が戻ってきているようだった。

レジャーシートを広げ、3coinsで買ってきたポータブルテーブルを置く。
MacBookAirを取り出し、その場でiPhoneにテザリングで繋いだ。

「いきなり仕事ですか」

無粋ですなと言いたげな顔で、一緒に場所取りに来た友人に言われる。

「ちょっとどうしてもすぐにやっておきたいことがあってね」

そして僕は、自作の自動執筆機械が吐き出した「本」の下書き2万字余りを、noteにアップロードし始めた。
GPT4が全自動で生成したもので、僕が与えたのはほんの触りのテーマだけ。あとは全てGPT4が勝手に考えて勝手に吐き出したものだ。

すでに一冊、これを使って書き上げていて、もとは8万字だったのが、加筆修正などを加えて11万字の原稿に膨れ上がり、編集者に渡してまた8万字程度まで圧縮するつもりだ。
本の執筆依頼が次から次に来ているので、こんな機械でもなければ書き上げるのは難しい。この機械の登場で、明らかに僕の手間は激減した。

どんな仕事でも、「さて、やりますか」という静止摩擦係数とでも呼ぶべきものがある。
この「重い腰を上げる」作業が一番面倒くさい。

自動執筆機械は、明らかにこの静止摩擦係数を最小化してくれる。
「こんな本が書きたいな」と言えば、構成から何から全自動で仕上げてくれるのだ。

しかも、同じネタを何度も書かせることもできる。
何度も書かせた中から「ここはいいな、ここはいらないな」という感じで取捨選択もできる。
しかも、出てきた出力を見ると、「まあこの話はこうとしか書きようがないな」という部分が相当数ある。

すると僕の仕事は、いかにも僕が書く文章のように、リズムを整えたり、足りない情報を補足したり、自分の個人的な経験を書き加えたりすることだけになる。
書籍というフォーマットにあわせる都合上、どうしても書かなければならない部分はAIに任せて、自分は自分の書きたいことに集中できる。

「SFだな・・・」

葉桜になりはじめた枝を見ながらそう呟いた。
まったく、SFとしか言いようがない。

子供の頃に、こんな世界が生きているうちにやってくると想像できただろうか。
子供の頃の夢は、いくつかあるが、そのうち一つは、自分の人工知能を作ることだった。

スターウォーズに出てくるR2D2のような振る舞いに興味を持った。
R2D2は言葉を喋らないが、明らかに画面にいる「人物」のなかで最も知的に見える。

その秘密はなんだろう、というのが僕が人工知能に興味を持ったきっかけだ。
他にも、長岡技科大の学祭に連れて行かれたこととか、親父に野辺山天文台に連れて行かれたこととか、原因となりそうなことはいくつかあるのだが、少なくともR2D2がその補助線になっていたことは間違いない。

スターウォーズみたいな映画を作る仕事にも憧れがあったが、それよりも自分で「本物」を作ることのほうが僕には手軽だった。
映画に出てくるロボットはあくまでも想像の上でのつくりものだが、プログラムは実際にある程度は動作する「本物」だ。

会話プログラムもニューラルネットのプログラムもレイトレーシングのプログラムも、小学生の時に一通り試して挫折を味わった。
当時のコンピュータは非力すぎたのである。

原稿を自動的に書くプログラムを書こうとおもったことも一度や二度ではない。
実際に書いたこともある。そんなにうまくは行かなかったが。

それはAIに能力が足りないというよりも、人間の側に「考えが足りない」のではないかと思わせるには十分だった。
たとえば、物語のようなものは、実はある程度は自発的にキャラクターが動いて、動いた結果を記述するだけなのでそれほど高度なAIがなくても作り出すことができる。

22歳の時、ひまつぶしに作ったテキストベースの野球ゲームがあった。
これは、僕としては画期的なゲームだった。

最初に球団名を決め、次にピッチャー、キャッチャー、バッターの名前と性格を決める。
チームをサーバーに「登録」しておくと、登録された他のチームと対戦できる。

対戦結果は、深夜のニュースのダイジェストのような形式で伝えられる。

「一回の表、バッター山本、初級打ちました!しかし凡打で敗退。両チームいいところなしでこの回を終えます」

9回まで9つの実況と、適当に書いた白黒のマンガ(とも呼べないような雑なポンチ絵)が表示される。
携帯電話で遊ぶことを想定していて、少ない情報でゲームを表現する。実際、こんなものでもけっこう楽しめた。

すごく大雑把に言えば、いまの自動執筆機械と、この野球ゲームのあいだに、本質的な差はない。
もちろん、GPT4は大規模なデータセットを学習しているから、出てくる表現は全く異なるとしても、「生成」する行為の本質は変わらない。

こうした自動執筆機械による下書きは確かに便利だし、実際のところ、一度使うとなかなか手放せない。
それどころか、自動執筆機械そのものを改良することにも興味が湧いてくる。

「もっとこうしたらいいんじゃないか」というアイデアが湧くと、試さずにはいられない。

そうしてAIが出力した原稿を、とりあえずそのままnoteにアップロードするというのを繰り返すと、あっという間にnoteが10万字を超えた。
10万字といえば、ほぼ単行本一冊くらいの情報量である。

これがそのまま単行本一冊分と同じ価値があると主張する気は毛頭ない。

しかし、昨今、GPTの出力以上に雑な認識で書かれた雑本とでもいうべき書籍の出版と回収が相次いでいるのは、AIの進歩と無関係とは思えない。
昔は、書籍の内容が間違っているというのはある程度は当たり前のことだった。

著者が一人の人間に過ぎない以上、全くの過誤過失がない文章というのは書けない。
だからこそ、「校閲」や「編集」という仕事があったのであり、校閲者や編集者はそこに書かれていることが事実かどうか裏取りをする。

僕はこの媒体の原稿は「書きたい時に書いて、投げ捨てる」みたいなスタイルになっているが、ほかの媒体では掲出前に編集者が「ここはエビデンスがあるのか?」とか「この表現に変えてもいいか」など、細かく調整するやりとりが交わされるのが普通だ。

編集者によっては細かく読点の位置を変えたりする。

それが結果として編集と著者の二人三脚で内容が「磨き上げられる」ことにつながる。非常に重要な機能なわけだ。

僕は文章を書く時、基本的にいつもワクワクしている。
「こんな発見があった」「こういうモノの見方ができるのではないか、このモノの見方は新しいのではないか」と読者をビックリさせてやろう、という悪戯心や、一日の出来事を熱心に親に語る少年にもどったつもりで書いている。

ある意味で、「純粋な感動」体験をたくさん積み重ねないと著者はなりたない。
これを連載として何年も続けるには、そうした「感動」を日常的に探しに行く必要性がある。

書籍の下書きを終えることは、かなりヒリヒリする経験である。
とにかくどんな酷い内容でも、最低8万字は書かなくてはならない。

しかし、本というのは、そもそもワンテーマでそんなに書きたいことがあることのほうが稀なのである。
自動執筆機械は、その上で、「書きたくないけどどうしても書いた方がいいこと」を無情にも提案してくる。そしてその提案はだいたい正しい。

しかし同時に「それは俺が見つけた感動体験ではない」という違和感が常に付きまとう。
結局、全部自分で書き直すわけだが、そうしていると奇妙な一体感がAIとの間に生まれる。

どこまでがAIの文章で、どこからが自分の文章なのか、書いているうちにすごく曖昧になるのだ。
ともすれば、AIによって僕が文章を「書かされている」ような錯覚もある。

僕は専門家だし、AIの内部構造についても知っているから、それが錯覚だという自覚は確かにあるのだが、錯覚というのは自覚していれば惑わされないというものではない。むしろ錯覚について詳しければ詳しいほど、錯覚の威力を知っている。僕はGUIというのがまるきり錯覚だと「知って」はいても、目の前の文章が「スクロールしている」という錯覚から逃れることは至難の業だ。

それこそ「THE MATRIX」のネオが、なんだか緑で書かれたソースコード的な世界を見るような感じで、「錯覚から逃れて本質を見る」のは疲れるし、そもそもあまり面白くない。

そんなわけだから、僕はAIを使いながら、AIに使われているという錯覚を土台にしつつ、文章を書いている。これは実に奇妙な経験だ。
しかしもうきっと僕らは後戻りできないところに来ているだろう。

二冊目の本に取り掛かったときにそう思った。
二冊目の本を書こうと思った時、僕は迷わずこの自動執筆機械を使ったからだ。

それでとりあえずの足場(スカッフォード)として、6万字の下書きを生成させた。もちろん僕の本としてはこのままでは全然ダメであるが、考えなければならないことは半分に減る。
すると、また僕の頭の中にある概念が浮かび上がる「こうすれば、もっと楽に原稿をしあげる自動執筆機械を作れるのではないか」

そうなるともうお手上げとしか言いようがない。
僕は自分を錯覚させるための機械を自分で作って、自分自身を自分が作り出した錯覚の中に閉じ込めることをしているのだ。

これが憂鬱でなくてなんだろうか。
それでも、きっと、人類はもう後戻りできない。

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清水 亮(しみず・りょう)

新潟県長岡市生まれ。1990年代よりプログラマーとしてゲーム業界、モバイル業界などで数社の立ち上げに関わる。現在も現役のプログラマーとして日夜AI開発に情熱を捧げている。

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