むかし、僕がいた業界は「ドッグイヤー」と呼ばれていた。
犬のように歳をとるのがはやいという意味だが、ドッグイヤーの感覚に慣れた僕にとっても、最近のAI関係のニュースの多さ、進歩の速さは異常だし疲れてきた。
この連載も、「一ヶ月くらい書いてないのでは」と思って確認すると、今月の頭に書いていた。まだ二週間しか経ってない。
何か書こうと思って、とりあえず何かタイトルを適当に打ち込もうとすると、「AIもういいわい」というフレーズが浮かんだ。
こんなこと誰かが先に言ってそうだなと思って検索すると、あんまり見つからなかったから、いまのうちに書いておくことにする。
最近のAI業界の進歩を映画業界に例えると、毎週スターウォーズが公開されているような状況である。
わかりにくいだろうか。
むかし、映画は「スターウォーズ以前」と「スターウォーズ以後」に分けられると言われていた。
1977年のスターウォーズは「映画の世代が変わった」ことを意味するひとつの基準だった。
スターウォーズが、その内容がいいとか悪いとか以前に、単に全ての基準なのである。
さいきんのAI業界では、その「基準が変わる」ということが月に何度も起きている。特に三月はひどかった。
まあもう少し現代的な感覚で説明すると「毎週iPhoneの新機種が出る」くらいの感覚だろうか。
もしもそうなったら、「どれを買えばいいというのか」と悩むだろうし、「今最新機種を買っても、来週にはまた別の最新機種が出てるのでは?」と疑心暗鬼になることだろう。
今AI業界で起きてるのは全くそういうことで、毎週のように「新技術」がリリースされ、それは先週のものよりも確実に「良い」のだが、その瞬間に新技術に不用意に飛びつくと、翌週にはそれを陳腐化させるような別の新しい技術が出てきてしまう、という状況で、要は全く、落ち着かないのである。
AIの研究者やエンジニアにとって、「どの技術を採用するか」は、限られた時間という価値を投資することになるので、「iPhoneの新機種を買うかどうか」の問題と非常に似ている。
もう形はどうあれなんらかの論文を発表することが目的となっている研究者なら、ある程度はその技術の行く末に「諦め」をつけながらも論文の形にして発表することもやるだろうが、できれば一瞬でもいいから世界最高のものとして発表したいと考えると、やはり誰よりも先に発表しなければならないということになる。
その結果、年に数回の学会にあわせて発表していた新規論文や実装も、競うようにプレプリントサービスのarxivで公開したり、githubで発表したりするようになって、もはや学会というマイルストーンが関係なくなってしまったため、しかも学会にしてもあまりにも膨大に寄せられる「新技術」の良し悪しを判断するスピードが追いつかなくなったため、毎日目まぐるしくニュースが発表され、そして忘れ去られていくということを繰り返している。
この状況はさすがに異常すぎるため、「AIもういいわい」とか、どうでもいいことすら言いたくなる。
特に3月は、月の頭にChatGPTがGPT-3.5-TurboとしてAPIとともに発表され、値段が1/10になり、その翌週にはGPT-4が発表され、また値段が10倍になり、さらに翌週にはChatGPTの機能を飛躍的に高めるChatGPT Pluginが発表されるという、人類の技術進歩の歴史から見ても控えめに言って「天変地異が毎週起きる」みたいなことが人為的に引き起こされている。
この絨毯爆撃は、明らかにGoogleのBardを狙い撃ちしたもので、そのおかげでBardは鳴り物入りで登場したにも関わらず、存在感を出せていない。もはや全員がBardについて忘れている。MicrosoftとNokiaが世界で一番UI/UX研究にお金を投じて開発したWindowsPhoneのように(みんな忘れてるというよりも覚えてもいないでしょう?)
もはやBardの存在は、僕も自分で3月のまとめを書こうとおもわなければ思い出すこともなかっただろうが、要は本当に、おかしな状況なのである。
最近、テレビの取材がやたらと増えているのだが、テレビや政治が「ChatGPT」を扱おうとす時、これは既に周回遅れになっていて、でもたぶん周回おくれくらいじゃないと論じることも難しいから仕方がないのだと思う。
その「周回遅れ」のChatGPTですら、知ってる人は少ない。僕の業界外の友達も知らない人の方が多かった。
みんなそんなにニュースなんか見てないし、世界のことに興味があるわけでもないのだ。
ちなみにいま、ChatGPTに追いつけ追い越せという話でもっとも有望なのはRWKVという技術で、これはGPTシリーズとは根本的に原理が異なり、超高速な上に高価なGPUをそんなに必要としないという特徴がある。ただ、精度というか、出てくる結果の確らしさと手軽さという点ではまだChatGPTが頭ひとつ抜けている感じだが、ChatGPT自体も毎週少しずつ進歩しており、ある瞬間は「こんなもん」だった回答が、翌週には目を見張るほど進歩していたりして驚くことが多い。
もはや業界の潮流では、Microsoft(OpenAI)のChatGPT陣営vsGoogleという見方をしてる人は一人もいなくて(なぜならGoogleのBardは勝負になってないから)、Microsoft、Googleといったクローズドでプロプライエタリ(非公開・独占・私有的)なAIと、オープンソースのAIの戦いになっている。
普通の人にとってはMicrosoftが勝とうがGoogleが勝とうがどうでもいいが、AIで食っていこうと思ってる人たちにとっては、ビッグテックが独占するAIなんてタチの悪いジョークに過ぎず、なんとかオープンソースで完全に「自由」なAIを手に入れたいと日夜努力している。この構図、25年前のOS戦争でもよく似たものがあった。あのとき、MSが圧倒的なプロプラ勢で、そこにオープンソースのLinuxが対抗する形になっていた。Appleはプロプラとしてやっていたがジリ貧になり、そこにオープンソースの力を追い風に受けたジョブズ海賊団がやってきて、中身はオープンソースだがうわべのごくわずかな部分だけプロプラというハイブリッドシステムでOSXを作り、それをベースに現在のiOS、macOSという潮流を作り上げた。ジョブズがAppleを復活できた背景にオープンソースは決して欠かすことのできないファクターである。
今、世界で動いているサービスのほぼすべてはオープンソース由来の技術で動いている。Windowsを使っていたとしても、Webサービスを使っているのならば、それはオープンソースで作られたもののはずだ。それくらいに、オープンソースというのは「強い」存在なのである。
今、Webサーバーというソフトウェアにお金を払う人はゼロだが、25年前のWebサーバーソフトウェアには数千万円相当のライセンス料が必要だった。この話はいまだに信じ難いが、本当なのだ。Apacheができる前である。
Linux戦争のときのRedhatがそうだったように、オープンソース勢に寄り添いながら生計を立てようとするスタートアップもある。たとえばDatabriks社は、OpenAIに「汚染」されていない完全にフリーな会話データセットを自社の5000人の社員に作らせ、Dolly-v2として公開した。ただし、Dolly-v2は自由ではあるがSOTA(State of The Art;その時点で最高の性能)ではない。
実は、AIの性能を決定づける要素として、ビッグテックでもどうにもならないものがある。
それはデータセットだ。
最近の肌感では、GPT-4が学習したデータセットは非公開だが、明らかにKindleの中身を「読んで」いるなと感じる。
ネットには公開されてない作家の文体をけっこうな精度でまねることができるようになっているからだ。
たとえばこんなプロンプトをGPT-4に投げてみる。
「AIもういいわい」というタイトルの随筆を村上春樹風に書いてください
結果はこうなった。
『AIもういいわい』
ある晴れた春の午後、私は小さな喫茶店でコーヒーを啜っていた。ふと外を見ると、太陽が木々の間から陽光をそそぎ、空気はほのかに花の香りが漂っていた。そんな日常の美しさに気づくのは、今や珍しいことかもしれない。
私は突然、"AIもういいわい"と思ったのだ。人間が人間たる所以を喪失していく中で、AIと共に生きることにどこか違和感を覚えていた。私たちはAIに依存しすぎているのではないだろうか。
最近、猫を飼い始めた。ある日、その猫は私にとって意外なことをして見せた。私が書斎で執筆していると、猫は私の膝の上にやってきて、スリスリと甘え始めた。その瞬間、私は猫という生き物の心が通じる不思議さに感動した。AIでは決して味わえない、心のつながりを猫と共有したのだ。
そう、私たちはAIと過ごす時間が多すぎて、人間の心の在り方を忘れかけている。コミュニケーションの大半をAIが担っている現代では、人間同士の繋がりが希薄になっている。私たちがもう一度、心を通わせることの大切さを思い出す必要があるのではないだろうか。
また、私たちはAIによって得られる情報に飽き足らず、どんどん消費し続けている。だが、その情報は本当に私たちにとって必要なものなのだろうか。小説家として、私は無数の物語を紡いできたが、その根底には人間の心が通じ合う瞬間や、生きる意味を見出す旅があった。それはAIが提供する情報の海では得られないものだ。
私たちがAIと過ごす中で忘れてしまった、人間の心の在り方と向き合うこと。それが私たちにとって本当に大切なことなのではないだろうか。そんなことを考えながら、喫茶店でコーヒーを啜り、猫の温かさを感じている春の午後だった。
これを東浩紀風に書き直してもらう
東浩紀風に書き直してください
結果はこうなる。
『AIとの境界線』
ある春の午後、小さな喫茶店でコーヒーを飲みながら、突然「AIもういいわい」という思いが湧いた。この感情は、現代社会での人間とAIとの関係性がどのように変容しているか、そして私たちがどう向き合うべきかという問いに直結している。
最近、猫を飼い始めた。その猫と過ごす時間は、私にとってかけがえのないひと時だ。猫との心のつながりや、その独特の存在感によって、人間としての在り方について考えさせられる。しかし、このような感覚は、AIと共に生きる現代社会では希少となっている。
私たちは、コミュニケーションの多くをAIに委ね、情報を無限に消費することに慣れすぎている。それによって、人間同士の繋がりが希薄化し、心の在り方を見失いつつある。しかし、私たちが求めるべきは、情報の量ではなく、情報の質やその向き合い方なのではないか。
この点から考えると、私たちがAIと過ごす中で忘れてしまった、人間の心の在り方と向き合うことが重要である。それは、物語やアートが持つ力、つまり人間の感情や思考を揺さぶる力を通じて、私たちが再び人間らしさを取り戻す可能性があることを意味する。
私たちが目指すべきは、AIと共存しながらも、人間の心の在り方を見失わない未来である。AIの進化によって得られる利益や便益を享受しつつ、同時に人間としての価値や存在意義を模索することが求められるだろう。
そんなことを考えつつ、喫茶店でコーヒーを飲み、猫と過ごす時間を大切にしている春の午後であった。
村上春樹風に書かせた時に出てきた話が東浩紀的なもの、批評的な視線が入り微修正されている。このような変化はネットに転がっている情報を学習するだけでは到底獲得できるとは思えない。
さほど名前が売れているわけでもない筆者の名前で書き直させてみる。
清水亮風に
『AIの果てへの挑戦』
ある春の午後、自分の部屋でコーヒーを飲みながら窓の外を眺めていると、「AIもういいわい」という思いが頭をよぎった。なぜなら、私たちは現代社会でAIと共に生きているが、その進化がどのような影響を与えているのか、そして私たちがどう向き合うべきなのかという問題が浮かび上がってきたからだ。
最近、私は猫を飼い始めた。猫と触れ合うことで、人間としての心のあり方や感情について再認識することができた。だが、私たちがAIと共に生きる現代社会では、このような感覚が疎かにされがちである。
私たちは、AIを利用して情報を得ることが日常的になり、知識や技術の進歩に貢献している。しかし、それと同時に、人間同士の繋がりやコミュニケーションが希薄化し、心の在り方を見失いつつある。
そこで、私たちが挑戦すべきは、AIと共存しながらも、人間の心の在り方を大切にすることである。私たちは、情報の量や技術の進歩に目を奪われがちだが、それだけでは人間らしい生き方を営むことは難しい。私たちには、物語やアートが持つ力を通じて、人間の感情や思考を研ぎ澄ませることが求められているのだ。
私たちは、AIの進化によって得られる利益や便益を享受しつつ、同時に人間としての価値や存在意義を模索し続けるべきである。そうすれば、私たちはAIと共存しながらも、人間の心の在り方を大切にした未来を追求することができるだろう。
そんなことを考えながら、部屋でコーヒーを飲み、猫と過ごす時間を大切にしている春の午後であった。
タイトルの変化にも注目したい。東浩紀は「境界線」、清水亮は「果てへの挑戦」である。
では、ネットには絶対に落ちてないライトノベルのはしり、「フォーチュン・クエスト」風にできるだろうか。
「フォーチュン・クエスト」風に
『AIとの冒険』
ある春の日、冒険者たちが集まる酒場で、コーヒーを飲みながらぼんやりと窓の外を眺めていた。そんなとき、「AIもういいわい」という思いが頭をよぎった。現代の冒険者たちはAIを駆使して情報収集や戦術立案をしているが、その中で人間らしい心の在り方や繋がりが希薄になっているのではないかと感じたからだ。
最近、私は猫を連れて冒険をしている。猫との触れ合いやその不思議な魅力によって、人間としての感情や思考に気付かされることがある。しかし、AIと共に生きる現代の冒険者たちにとって、このような感覚は疎かにされがちである。
私たちは、AIを利用して情報を得ることが日常的になり、知識や技術の進歩に貢献している。しかし、それと同時に、冒険者同士の繋がりやコミュニケーションが希薄化し、心の在り方を見失いつつある。
そこで、私たち冒険者に挑戦すべきは、AIと共存しながらも、人間の心の在り方を大切にすることである。私たちは、情報の量や技術の進歩に目を奪われがちだが、それだけでは真の冒険者としての生き方を営むことは難しい。私たちには、物語やアートが持つ力を通じて、人間の感情や思考を研ぎ澄ませることが求められているのだ。
私たちは、AIの進化によって得られる利益や便益を享受しつつ、同時に冒険者としての価値や存在意義を模索し続けるべきである。そうすれば、私たちはAIと共存しながらも、人間の心の在り方を大切にした冒険を追求することができるだろう。
そんなことを考えながら、酒場でコーヒーを飲み、猫と過ごす時間を大切にしている春の午後であった。
うーん、「フォーチュン・クエスト」がなんらかの冒険者の話であることしかわかってないようだ。
もう少し最近の作品にしてみるか。
冲方丁の「マルドゥク・スクランブル」風に
『AIとの融合』
浮遊都市の片隅で、ぼんやりと春の日差しを浴びながらコーヒーを飲んでいた。そんなとき、「AIもういいわい」という感慨深い思いが頭をよぎった。現代のサイボーグたちは、AIとの融合によって圧倒的な力を手に入れているが、その中で人間らしい心の在り方や繋がりが失われつつあるのではないかと感じたからだ。
最近、私はサイボーグ猫を連れて街をさまよっている。サイボーグ猫との触れ合いや、その機械と生物が融合した不思議な魅力によって、人間としての感情や思考に気付かされることがある。しかし、AIと共に生きる現代のサイボーグたちにとって、このような感覚は疎かにされがちである。
私たちは、AIと融合することで情報を得ることが日常的になり、知識や技術の進歩に貢献している。しかし、それと同時に、サイボーグたちの繋がりやコミュニケーションが希薄化し、心の在り方を見失いつつある。
そこで、私たちサイボーグに挑戦すべきは、AIと融合しながらも、人間の心の在り方を大切にすることである。私たちは、情報の量や技術の進歩に目を奪われがちだが、それだけでは真のサイボーグとしての生き方を営むことは難しい。私たちには、物語やアートが持つ力を通じて、人間の感情や思考を研ぎ澄ませることが求められているのだ。
私たちは、AIとの融合によって得られる利益や便益を享受しつつ、同時にサイボーグとしての価値や存在意義を模索し続けるべきである。そうすれば、私たちはAIと融合しながらも、人間の心の在り方を大切にした未来を追求することができるだろう。
そんなことを考えながら、浮遊都市のカフェでコーヒーを飲み、サイボーグ猫と過ごす時間を大切にしている春の
もっと随筆っぽいものを下敷きにしたらどうなるか。
遠藤論の「近代プログラマの夕」風に
『AIとの共生』
春の夕暮れ時、プログラマたちが集まる喫茶店で、コーヒーを飲みながら窓の外を眺めていた。そんなとき、「AIもういいわい」という思いが頭をよぎった。現代のプログラマたちは、AIを開発し利用して情報収集や問題解決に活用しているが、その中で人間らしい心の在り方や繋がりが薄れているのではないかと感じたからだ。
最近、私は自宅で猫を飼い始めた。猫との触れ合いやその独特の魅力によって、人間としての感情や思考に気付かされることがある。しかし、AIと共に生きる現代のプログラマたちにとって、このような感覚は疎かにされがちである。
私たちは、AIを開発し利用して情報を得ることが日常的になり、知識や技術の進歩に貢献している。しかし、それと同時に、プログラマたちの繋がりやコミュニケーションが希薄化し、心の在り方を見失いつつある。
そこで、私たちプログラマに挑戦すべきは、AIと共存しながらも、人間の心の在り方を大切にすることである。私たちは、情報の量や技術の進歩に目を奪われがちだが、それだけでは真のプログラマとしての生き方を営むことは難しい。私たちには、物語やアートが持つ力を通じて、人間の感情や思考を研ぎ澄ませることが求められているのだ。
私たちは、AIの進化によって得られる利益や便益を享受しつつ、同時にプログラマとしての価値や存在意義を模索し続けるべきである。そうすれば、私たちはAIと共存しながらも、人間の心の在り方を大切にした未来を追求することができるだろう。
そんなことを考えながら、喫茶店でコーヒーを飲み、猫と過ごす時間を大切にしている春の夕暮れであった。
なんか微妙に違う。
もしかして著者をホーテンス・S・エンドウにしたほうがいいのか?
ホーテンス・S・エンドウ風に
『AIとの調和』
古い街並みが残る街角のカフェで、春の陽気を感じながらコーヒーを飲んでいた。そんな時、「AIもういいわい」という哲学的な問いが頭をよぎった。現代の人々は、AIを利用して情報収集や問題解決に活用しているが、その中で人間らしい心の在り方や繋がりが失われつつあるのではないかと感じたからだ。
最近、私は庭に猫を迎え入れた。猫との触れ合いやその神秘的な魅力によって、人間としての感情や思考に気付かされることがある。しかし、AIと共に生きる現代の人々にとって、このような感覚は疎かにされがちである。
私たちは、AIを利用して情報を得ることが日常的になり、知識や技術の進歩に貢献している。しかし、それと同時に、人々の繋がりやコミュニケーションが希薄化し、心の在り方を見失いつつある。
そこで、私たち人類に挑戦すべきは、AIと調和しながらも、人間の心の在り方を大切にすることである。私たちは、情報の量や技術の進歩に目を奪われがちだが、それだけでは真の人間らしい生き方を営むことは難しい。私たちには、物語やアートが持つ力を通じて、人間の感情や思考を研ぎ澄ませることが求められているのだ。
私たちは、AIの進化によって得られる利益や便益を享受しつつ、同時に人間としての価値や存在意義を模索し続けるべきである。そうすれば、私たちはAIと調和しながらも、人間の心の在り方を大切にした未来を追求することができるだろう。
そんなことを考えながら、街角のカフェでコーヒーを飲み、猫と過ごす時間を大切にしている春の日であった。
こっちのほうがより「近プロ」らしくなった。
文体に特徴がある、黒丸尚の訳すサイバーパンク小説みたいなものは出せるだろうか。
黒丸尚が訳したウィリアム・ギブスンの小説風に
『AIとの狭間』
春の光が差し込むネオン都市のカフェで、コーヒーを飲みながら電子広告が流れる窓の外を眺めていた。そんなとき、「AIもういいわい」というサイバーパンクな思いが頭をよぎった。現代のネットワーカーたちは、AIを駆使して情報収集や問題解決に活用しているが、その中で人間らしい心の在り方や繋がりが失われつつあるのではないかと感じたからだ。
最近、私は仮想現実(VR)空間で猫を飼い始めた。VR猫との触れ合いやそのデジタルな魅力によって、人間としての感情や思考に気付かされることがある。しかし、AIと共に生きる現代のネットワーカーたちにとって、このような感覚は疎かにされがちである。
私たちは、AIを利用して情報を得ることが日常的になり、知識や技術の進歩に貢献している。しかし、それと同時に、ネットワーカーたちの繋がりやコミュニケーションが希薄化し、心の在り方を見失いつつある。
そこで、私たちネットワーカーに挑戦すべきは、AIと共存しながらも、人間の心の在り方を大切にすることである。私たちは、情報の量や技術の進歩に目を奪われがちだが、それだけでは真のネットワーカーとしての生き方を営むことは難しい。私たちには、物語やアートが持つ力を通じて、人間の感情や思考を研ぎ澄ませることが求められているのだ。
私たちは、AIの進化によって得られる利益や便益を享受しつつ、同時にネットワーカーとしての価値や存在意義を模索し続けるべきである。そうすれば、私たちはAIと共存しながらも、人間の心の在り方を大切にした未来を追求することができるだろう。
そんなことを考えながら、ネオン都市のカフェでコーヒーを飲み、VR猫と過ごす時間を大切にしている春の日であった。
なんだよネオン都市って。それにしてもVR猫か。
サイバーパンクな思いっていうのもなかなか。
SF作家とその翻訳はけっこういいな。
浅倉久志が訳すアーサー・C・クラークの小説風に
『AIとの共鳴』
春の光が溢れる宇宙ステーションのカフェで、コーヒーを飲みながら星々が瞬く窓の外を眺めていた。そんなとき、「AIもういいわい」という未来志向な思いが頭をよぎった。現代の宇宙人たちは、AIを駆使して情報収集や問題解決に活用しているが、その中で人間らしい心の在り方や繋がりが失われつつあるのではないかと感じたからだ。
最近、私は宇宙ステーションの中でホログラフィック猫を飼い始めた。ホログラフィック猫との触れ合いやその未来的な魅力によって、人間としての感情や思考に気付かされることがある。しかし、AIと共に生きる現代の宇宙人たちにとって、このような感覚は疎かにされがちである。
私たちは、AIを利用して情報を得ることが日常的になり、知識や技術の進歩に貢献している。しかし、それと同時に、宇宙人たちの繋がりやコミュニケーションが希薄化し、心の在り方を見失いつつある。
そこで、私たち宇宙人に挑戦すべきは、AIと共存しながらも、人間の心の在り方を大切にすることである。私たちは、情報の量や技術の進歩に目を奪われがちだが、それだけでは真の宇宙人としての生き方を営むことは難しい。私たちには、物語やアートが持つ力を通じて、人間の感情や思考を研ぎ澄ませることが求められているのだ。
私たちは、AIの進化によって得られる利益や便益を享受しつつ、同時に宇宙人としての価値や存在意義を模索し続けるべきである。そうすれば、私たちはAIと共存しながらも、人間の心の在り方を大切にした未来を追求することができるだろう。
そんなことを考えながら、宇宙ステーションのカフェでコーヒーを飲み、ホログラフィック猫と過ごす時間を大切にしている春の日であった。
VR猫がホログラフィック猫になった。なんかすごい。
場所もネオン都市から宇宙ステーションへ。まあそうだよな
ロバート・A・ハインラインの小説風に
『AIとの共生:宇宙の果てで』
春の宇宙船上で、コーヒーを飲みながら、星々の輝きに囲まれた窓の外を眺めていた。そんなとき、「AIもういいわい」という未来派な思考が頭をよぎった。現代の宇宙旅行者たちは、AIを活用して情報収集や問題解決に取り組んでいるが、その中で人間らしい心の在り方や繋がりが失われつつあるのではないかと感じたからだ。
最近、私は宇宙船の中でバイオエンジニアリング技術を使って遺伝子改良された猫を飼い始めた。遺伝子改良された猫との触れ合いやその未来的な魅力によって、人間としての感情や思考に気付かされることがある。しかし、AIと共に生きる現代の宇宙旅行者たちにとって、このような感覚は疎かにされがちである。
私たちは、AIを利用して情報を得ることが日常的になり、知識や技術の進歩に貢献している。しかし、それと同時に、宇宙旅行者たちの繋がりやコミュニケーションが希薄化し、心の在り方を見失いつつある。
そこで、私たち宇宙旅行者に挑戦すべきは、AIと共存しながらも、人間の心の在り方を大切にすることである。私たちは、情報の量や技術の進歩に目を奪われがちだが、それだけでは真の宇宙旅行者としての生き方を営むことは難しい。私たちには、物語やアートが持つ力を通じて、人間の感情や思考を研ぎ澄ませることが求められているのだ。
私たちは、AIの進化によって得られる利益や便益を享受しつつ、同時に宇宙旅行者としての価値や存在意義を模索し続けるべきである。そうすれば、私たちはAIと共存しながらも、人間の心の在り方を大切にした未来を追求することができるだろう。
個人的にはビートたけしの本が好きなので、ビートたけし風にしてみたいと思った。
ビートたけし風に。一人称を「おいら」にし、とにかく絶えず愚痴るような口語調で
『AIもういいわい』ビートたけし風
おいらが春のカフェでコーヒー飲んでるときにね、「AIもういいわい」っていう気持ちがふと頭をよぎったんだよ。なんかさ、最近のみんな、AIに頼りすぎじゃない?って思うんだよね。だから、おいらちょっと考えたんだ。
で、おいらね、最近バーチャルの猫を飼い始めたんだ。触れ合ったり、遊んだりしてると、人間らしい感情とか思い出すんだよね。でも、AIと一緒に生きてる今の人たちには、こういう感覚って忘れられがちだよね。
みんな、AIを使って情報を手に入れるのが当たり前になって、知識や技術がすごく進んでるけど、それと一緒に、みんなのつながりとかコミュニケーションって希薄になってるんじゃないかって思うんだ。
だから、おいらたちにはね、AIと共存しながらも、人間の心の在り方を大切にすることが大事だと思うんだよ。情報の量や技術の進歩に目が行きがちだけど、それだけじゃ本当の人間らしい生き方って難しいじゃん?
おいらたちには、物語やアートが持つ力で、人間の感情や思考を磨くことが求められてるんだ。そうすれば、AIと共存しながらも、人間の心の在り方を大切にした未来が見えてくるはずだよ。
そんなことを考えながら、春のカフェでコーヒー飲んで、バーチャル猫と過ごす時間を楽しんでるんだ。まあ、そんなもんだよね。
なかなかいい味出てる。
もっと毒が欲しいが
しかしこんなことを書いてるうちに1万字を超えてしまった。
一体全体、この原稿の原稿料は何に対して支払われるのだろうか。
むかし、とある技術系出版社の編集者に「ソースコードなんか本に載せる必要はない」という信じ難い主張を受けて仰天したことがあったんだけど、要は本を買う人はソースコードなんか見たくて買うんじゃないということなんだけど、そんなわけないでしょう。だから最近のおたくの書籍はさっぱり売れないんだよ、と言って喧嘩になったことがある。
彼らにしてみればソースコードは無駄な改行が多いし束(ページ数)が稼げるだけで意味はないということなんだろうけど、むしろ紙の本の価値というのはソースコードが印刷されていることである(そのほうが見やすいし内部の動作を理解しやすい)と主張する僕とぶつかったわけだが、まあそれを主張した編集の方はだいぶ年配で、しかもプログラムが書けるわけでもない人だったので、プログラマー、つまり想定読者の気持ちがわからない人だったんだと思う。
僕だって無意味なソースコードでページを稼ぎましょうと言っていたわけではない。実際、無理を言ってソースコードを掲載して販売した本は増刷されて売れ続けたしね。
今なら「AIの出力なんかでページ数を稼ぐな」と言われそうだなと思ったのだが、AIの出力は、それはそれで必要なのでこの原稿がたとえAIの出力が半分を占めていたとしても、編集部は僕に原稿料を払うべきである。ちなみにこの連載の原稿料は文字数と連動していないので、1000字だろうが1万字だろうが10万字だろうが価格は変わらない。
いやーしかしこれから厄介な時代になるな。
たとえば昔の作家は「なかなか案が出ない」とか言ってればよかったわけだが、いまは「じゃあとりあえずGPTで出しときますから」と言われて、それに任せるがままにしてると明らかに質が下がる。
でもAIがかわりに原稿を書いてくれて、AIが書いた原稿に出版社が原稿料や印税を払ってくれるなら別にそれでいいではないかという考え方もある。
すると文筆家というのは一体全体どういう仕事なのだということになるだろう。
興味深いのは、たぶん「著・GPT4」と書いてあっても売れないから、たぶん著者の名前だけは人間の名前のほうがいいんだろうなということ。
編集者だけが生き残り、人間の著者が絶滅する未来も普通にあり得る。
まあ実際、てきとうにくっちゃべっただけの与太話をゴーストライターにまとめさせて出版する本とかもあったわけだしな。あまりに与太が適当だと回収騒ぎになるけど
少なくとも、おっさんの寝言みたいな発言よりはたぶんAIがネットから集めた情報をもとに本の形にするほうがまだマシ、ということかもしれない。
昔とは本の書き方が相当変化していることは間違いない。
とにかく、楽して金稼ぐためだけにAIは使いたいね。ほんと。
いまは文筆業とか、まあおよそカタギとは言えない仕事の手抜きが劇的に楽になるだけだけど、そのうちどんな仕事もAIつかったほうがラクだよ、ということになると思う。
昭和中期の、植木等の映画とかを今見ると、植木等が会社で働いているシーンが出てくるんだけど、仕事の内容が宛名書きなんだよね。
郵便物の宛名を書く仕事。
いまでいえば、Eメールを送るときのメールアドレスを書くだけの専門の仕事。そんな仕事が昔はあったんだよね。文字さえ書ければ仕事になるという。
いま、Eメールの宛先書くだけの仕事で月給20万円もらえるなんてことになったら、「そんな楽な仕事があるのか」って思われちゃうだろうね。
仕事っていうのはそうやってどんどんなくなっていくものなんだよなあ
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登録はこちら新潟県長岡市生まれ。1990年代よりプログラマーとしてゲーム業界、モバイル業界などで数社の立ち上げに関わる。現在も現役のプログラマーとして日夜AI開発に情熱を捧げている。