WirelessWire News Technology to implement the future

by Category

試しに映画の脚本を書いてみてわかった。生成AIではどうにもならないこと

2023.08.02

Updated by Ryo Shimizu on August 2, 2023, 09:34 am JST

ながらくUberEats配達員を名乗っていたのだが、最近忙しすぎて全く配達できてないのでそろそろ返上するか、もしくは配達に復帰するかで悩んでいる今日この頃。

先日上梓した「教養としての生成AI」おかげさまで好調な売れ行きのようで、来週、書泉ブックタワーで開催する出版記念イベントも盛況のようだ。
というか初日に30人の申し込みがあったという話で、たしかキャパも30人くらいだったはずなので、もう一杯だと勝手に思っていたのだが、まだ入れたらしく順調に伸びているそうだ。

前回、本欄で書いたようにこの本の執筆にはChatGPTをフル活用している。
ChatGPTによってなにが短縮されたかというと、キータイプのスピードである。

やはり10万字打つというのは疲れる。コンピュータに触るのが三度の飯より好きであったとしても、物理的な疲労はいかんともしがたいのである。
それがChatGPTによって、タイプすべき打鍵数が爆発的に減った。

むかしだったら原稿用紙に向かって手書きしなければならなかったので、それに比べるとまさしく雲泥の差と言える。

さて、ひょんなことから映画の脚本に挑戦することになった。といってもそんな大作ではない。超低予算映画の相談に乗っているうちに、自分で書くしかないか、と思ったのである。

僕は生来の貧乏性で、とにかく自分が少しでも影響を受けたもの、インプットしてきたものを何らかの形で吐き出す、アウトプットしなくては気にすまないようだ。
できればそれによって最終的なアウトカムを得たいと考えるタチなのだ。

そんなわけで、なぜだかわかないが、脚本というものに取り組むことになった。
物語を作った経験は、ゲームで使う程度の簡単なものしかない。
どんなゲームにも「何らかの物語めいたもの」は必要だからだ。
しかし、ゲームは大作RPGやノベルゲームでもない限り、「ストーリーで感動させる」ことを目的にはしない。
ぷよぷよのストーリーが何だったのか魔導物語の内容を知っていて遊んでいる人は少ない。
しかし、ゲームにはどんなものであれ、一定の世界観が必要であり、そこには物語がからむ。

ところが、映画というのはたった二時間で終わってしまう。
今回の超低予算映画で二時間も撮れるかはわからないが、仮に一時間であったとしたら、それはあっという間だ。

しかし、一時間の体験設計という点では、僕は書籍を何冊か書いているのである程度知っているつもりだ。
一時間でも二時間でもいいのだが、それを作るのに比べたら圧倒的に短い尺の中で何が起きて、何が感情をゆさぶるか。
その上で何を伝えたいか。

全体のプロットをまとめる、いわゆるハコ書きから初めて、そこから脚本作業に入ると、脚本そのものは一日もかからずに書き上がった。
数えてみると25000字くらいしかない。ほとんどがセリフだから、まあそんなものなのかもしれないが、こうしてみて、「一体全体アメリカ脚本家協会はなにを恐れているんだろう」と思った。

僕の知る限り、こういう作業は、ChatGPTはもちろん、他の大規模言語モデルでも、根本的に苦手だからだ。
というのは、脚本というのは表に言葉が現れない。言外の意味を行動やセリフに持たせる。

それはつまり、脚本家の頭の中には、ある程度の映画の全体のストーリーや場面が見えていて、それを実現するためにあえて抑制的な表現で物語を描くことが多いからだ。
これは日本だけなのか?

それに25000字なら人間でも一日あれば書けてしまう。
AIが書いた脚本を修正するより最初から人間が書いた方が遥かに効率が良さそうに思える。

そもそもAIは、筆が乗ってきて書き始めた時と全く無関係な結論に着地したりはしない。
人間が書く文章の面白さは、ほとんどそこで決まる。

伏線をちりばめておいて、あとで回収して「なるほど、そうだったのか」となる。これが文章というか、「物語」の面白さの根本にあると思う。
これはおそらく漫才のネタも、小説も同じはずだ。

最近見た二つの映画は脚本も絵コンテもないという作り方をしていた。
ひとつはトム・クルーズの「ミッション・インポッシブル:デッドレコニング」で、もう一つは宮﨑駿の「君たちはどう生きるか」だ。

作り方は同じなのに、実写とアニメーションでこうも対照的になるかと驚く。
「デッドレコニング」は「やりたい場面を先に作ってあとから話をつけた」ものであり、そう考えるとパズルのように見事にはまっている。
「君達はどういきるか」は、おそらくは作者が自問自答しながら「どうしようかなー」と悩みながら作った作品に見える。

「デッドレコニング」はご都合主義的・・・というかほとんど話は破綻してるが、誰が見ても普通に楽しい映像体験になっている。
「君たちはどう生きるか」は、もはや手紙のような映画であり、本当に見る人に「君たちはどう生きるか」ということをフルスロットルで聴衆に問いかけているのだが、言葉で説明していない(それは野暮だし、誤解や曲解を生む)ので、見る側に相当な想像力を要求される。

これは実は宮﨑駿作品というのは「カリオストロの城」よりも後の作品は、全てこのような作りになっていて、常に伝えたいことは「君たちはどう生きるか」ということだったのだが、これまではラストシーンで大きなカタルシスを与えることで全てを帳消しにしていた。ところが実は映画としてカタルシスを安易に追加してしまうと、そのメッセージが全く雲散霧消してしまう。だからあえて、「なんだったんだこれは」という余韻、違和感をもたせた作りになっているのだろう。

誰かが誰かに手紙を書く、ということが映画作り、もしくは物語作りの本質だとすれば、それは現代のAIが代替不能な機能である。
プログラマーとしては、「ではそのようなAIはどうしたら作れるか」というところに興味も湧くが、それ以上に、人間が人間として生き、それを誰かに伝えるという行為に尊みを感じてしまう。僕とて人間のはしくれなのだ。

WirelessWire Weekly

おすすめ記事と編集部のお知らせをお送りします。(毎週月曜日配信)

登録はこちら

清水 亮(しみず・りょう)

新潟県長岡市生まれ。1990年代よりプログラマーとしてゲーム業界、モバイル業界などで数社の立ち上げに関わる。現在も現役のプログラマーとして日夜AI開発に情熱を捧げている。

RELATED TAG