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以前、コンゴ盆地の森に暮らすバカ・ピグミーの狩猟にかかわるタブーから、その背景にあるバカたちの「世界」の成り立ちについて考察した。今回は、そのタブーがあることによって、狩猟の成果、つまり肉が、バカたちの間でどのように分配されているのかを紹介し、その分配のされ方の特徴について「平等社会」との関連において考察してみたい。なお本稿では「分配」という言葉で、人と人のあいだでモノが移動すること一般を指す。つまり、モノのやりとりにはさまざまなやり方があり、それらをひっくるめて分配と呼ぶ、ということである。
何かを平等にすると、しばしば何かが不平等になる
読者のみなさんは「平等社会」という言葉から、どのような社会をイメージするだろうか。誰もが同じくらいの財産を持っている社会だろうか。であれば、資本主義経済が高度に発達し、富の偏在が甚だしい現代世界は、不平等社会だろうか。ただ、現代世界では、少なくとも理念的には法の下の平等は当然のこととされており、その意味では平等社会をめざしているともいえる。
ともあれ、ある社会を不平等社会だと批判するとき、平等であるべき事柄に合意したうえでそれが実現していないのを問題視しているのか、何が平等であるべきかをめぐって論争しようとしているのかは、区別しておくべきだろう。
そもそも、平等という概念はやっかいである。何かを平等にすると何かが不平等になる、というトレードオフが、しばしば存在するからである。機会の平等を実現すれば、個々の能力や生まれた環境によって、得られる結果は違ってくる。反対に、結果の平等を強引に実現するのであれば、わざわざ機会を平等に確保する必要はない。ほとんどの社会は、何らかの意味では平等社会といえるし、別の意味では不平等社会ともいえるのである。
※本稿は、モダンタイムズに掲載された記事の抜粋です(この記事の全文を読む)。
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