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情報通信の「社会実装」の物語

2024.05.22

Updated by Atsushi SHIBATA on May 22, 2024, 13:48 pm JST

Wikipediaに「大西洋横断ケーブル」というページがあります。ヘッダー画像はここから拝借したもので、1901年の通信ケーブル網が赤で表現されています。線を辿ってゆくと、「ヴィクトリア朝」と呼ばれた時代の末には既に、海を越えた通信が盛んに行われていたことが分かります。

「電信」が実用化されてたかだか70年程で、人類は世界中に海底ケーブル網を張り巡らせてしまい、現代のインターネットにも似た通信環境を実現していました。前回の話にも繋がるのですが、19世紀は現代に繋がる特別な世紀だったのです。

「電信」のはじまり

今回紹介する書籍「ヴィクトリア朝時代のインターネット」は、「電信」の歴史を描いた本です。タイトルが奇妙だからか、内容が面白いからか、イギリスではカルト的に親しまれている書籍です。


ヴィクトリア朝時代のインターネット
トム・スタンテージ 著、服部 桂 訳

日本でも2011年に翻訳本が出版されましたが、惜しいことにあまり売れなかったようです。その後「絶版プレミア本」として古書市場に高値で流通していた名著が、最近、早川書房から文庫版として手に入れやすい形で再出版されました。図書館で借りて一度読んでいたのですが、手元に置いて子供に読ませたいと思い、改めて購入しました。

この本によると、電気を使った通信に先行する技術として「腕木通信」があった、とあります。18世紀末から使われ始めた通信技術で、腕のような構造を持つ棒をを人間が目視することで、形によって文字を伝えるのが腕木通信の基本です。

遠くからでも見えるように、腕木は高い塔や山の上に備え付けられました。発信源からリレーを行い、遠方まで情報を届ける一種の「光通信」で、フランスの革命軍や南北戦争の南軍が利用していました。反体制勢力の方が技術的イノベーションを好む傾向が強いのでしょうか。ナポレオンも好んで使ったそうです。

軍事利用の他、民間でも相場の情報を送るのに使われました。江戸時代中期の日本でも「旗振り通信」と呼ばれる光通信があり、米相場の情報を遠方まで届けていました。

電池と電磁石が発明されると、電気の力で信号を届ける技術が登場します。初期の通信線には、スカートを膨らませるための銅線が使われていました。皮膜なしで「むき出し」の状態で敷設された電線を使って通信を行う技術が、数多く考案されました。

イギリスでは、信号線5本プラス1本の共通線を使った「5針式電信機」が発明されました。キーから繋がる電線の先には電磁石が付いていて、パネル上の5本の針が左右に振れて動きます。複数の針が指し示す先には伝えたい文字が書かれていて、送信先でこれを見ることで通信を行います。

大衆はいかに技術を受け入れるのか

5針式電信機は「見れば分かる」式の、今見てもとても気の利いた技術です。通信士の養成が容易、という大きな利点があったのですが、通信の手段として一般的に受け入れられるためにはかなりの時間がかかりました。

普及の契機になったのは、ロンドン郊外で起こった殺人事件でした。犯人はロンドン行きの鉄道に乗り捜査から逃れようとします。しかし、試験的に敷設されていた通信回線を使って犯人の特徴がロンドン市内の駅に伝えられたことで、殺人犯は無事逮捕されました。

汽車より速く伝わる情報の利便性は新聞で報道されました。殺人事件を解決したことで、電信の利便性が伝わり、広く使われる契機となったのです。

スマートフォンを手に日常を送る私たちにとって、通信は当たり前の技術です。生活に密着しすぎていて、情報通信がなかった時代のことを想像するのは、たいていの人にとってはとても難しいことです。それほど便利な技術でも、普及して使われるようになるまでにはいくつもの大きなハードルがありました。

「電気による情報通信」という新しい技術を、ヴィクトリア朝時代の人々が受け入れていった様子が活き活きと描かれているのがこの本の大きな特徴です。「技術の群雄割拠」だけを描いた書籍ではないのです。今回出版された文庫版の帯に、日本のインターネットの父といわれる村井純氏が寄せている「インターネット版三国志」という言葉には、そういう意味があるように思います。

「電信」によって変わった世界

この本では、有線の情報通信、とりわけ非音声通信を「電信」と称して扱っています。5針式電信機よりシンプルで機器や通信の信頼性が高いモールス信号が発明されると、イギリス領以外の地域で広く使われ、電信の技術はより広まって行きました。

海底ケーブルが敷設されるようになると、電信を通じた情報は世界中を駆け巡るようになります。初期の通信線がむき出しで済んでいたのは空気の絶縁性が高いためですが、海底ではそうはいきません。ケーブルを被服する必要があり、「ガタパーチャ」と呼ばれる植物の樹液が使われてました。

19世紀の当時、電信は文字通り夢の技術でした。電信が発明される以前は、イギリスからインドまで手紙が往復するのに、船便と陸路で6カ月かかったといいます。海底ケーブルを使えば、ものの数時間で情報のやりとりができるようになります。

遠くの情報がより早く届くようになると、世界の距離感は縮まります。ニュースはより早く広まるようになり、海の向こうの出来事がいろいろな国で伝えられるようになりました。世界中が通信で繋がれば、人類に共通認識が生まれ、やがて恒久的な世界平和が訪れるはずだ、と公言する人までいました。しかし、当時の西欧諸国は平和とは逆の道を歩んで行くことになります。

ヨーロッパから海を越えて送受信される情報は、必ずイギリスの回線を通る必要がありました。ガタパーチャを使った海底ケーブルの製造技術を、イギリスが独占していたからです。イギリスは回線に流れる情報を例外なく傍受し、しばしば都合良く改変しました。世界の情報をコントロールする力を手に入れると、イギリスは覇権主義へ向かって行きます。

記事のヘッダーにある地図の中心はイギリスにあります。赤い線がロンドンに集まっている様子から、情報と共に政治、経済を含むあらゆる力がロンドンに集中していたことが想像できます。電信によって訪れたのは相互理解ではなく、世界の混乱でした。

大英帝国の隆盛が電信と無関係ではなかったのと同じように、その衰退もまた電信とともに起こりました。この本は「電信」が「電話」に置き換えられるところで終わっています。その後、無線通信の時代が訪れると、イギリスと同じようにヨーロッパの列強が覇権主義に染まって行きます。電信が使われなくなってゆくのと歩調を合わせて大英帝国は衰退し、そしてついに世界大戦が起こります。

現代に繋がるヴィクトリア朝

現在、政治や経済、軍事だけでなく、通信の技術は様々な分野で利用されています。海底ケーブルはロイターのような通信社を産み出しました。発明王と呼ばれる前、エジソンはモールス信号の符号化/復号化を行う技術者として働いていました。現場で様々な技術を学びながら、事業のアイデアを温めて行く様子が書籍に描かれています。現代につながるたくさんのビジネスの種が、ヴィクトリア朝の当時に撒かれていたのです。

暗号の分野では数学者が活躍します。書籍には歯車式計算機「ディファレンシャルエンジン(階差機関)」の設計者チャールズ・バベッジが登場します。暗号と数学のラインは、第二次大戦中にナチスのエニグマ暗号を解読したチューリング、暗号理論だけでなく情報理論でも偉大な業績を残したシャノンへと伸ばすことができます。通信の歴史はコンピュータにも繋がっています。

私たちが暮らしているのは、mRNAワクチンやChatGPTのようなAI技術など、いろいろな新技術が社会実装される動きの激しい社会です。そんな現代でも、技術的な優位性だけが普及の十分条件なのではない、という事実は19世紀と変わりがないはずです。私を含めたエンジニアが忘れがちなことを、有線通信の技術をからめた人々の歴史として描いているのが、この「ヴィクトリア朝時代のインターネット」という本の持つ魅力です。

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柴田 淳(しばた あつし)

株式会社マインドインフォ 代表取締役。東進デジタルユニバーシティ講師。著書に『Pythonで学ぶはじめてのプログラミング入門教室』『みんなのPython』『TurboGears×Python』など。理系の文系の間を揺れ動くヘテロパラダイムなエンジニア。今回の連載では、生成AI時代を生き抜くために必要なリテラシーは数学、という基本的な考え方をベースにお勧めの書籍を紹介します。

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