公文氏:「データ中心主義」ということを聞いて思ったことのひとつが、統計や確率についてです。デイビッド・マンフォードという数学者が『確率時代の夜明け』という論文のなかで、これからは確率・統計的な見方が主流になり、古典数学の時代が終わると予想していますが、ニュートン力学が量子力学に拡張されたのと似た変化が起こっているという印象を受けました。それこそが、まさに情報というかデータを扱うときの、いや私たちが社会の様々な問題に接する時の基本的な姿勢にならなくてはならないのでしょう。現在、ビッグデータと呼ばれているものの先にある、ひとつの可能性はこういうところです。今はまだ多くの人が確実な何かとしてビッグデータを解釈しようとしていると思うのですが、不確実性を含んでもろもろの現象をを捉えるというパラダイムこそが、もしかするとビッグデータの真髄なのかもしれない。
予測するといっても、ピンポイントでの予測ではなく、分布でしかできないのが今の確率論的な見方。そして、これまではガウス分布で見ることと、確率論的見方がほとんどイコールだった。そこに、べき分布がとりわけネットや社会関係のなかでは重要な分布だということが理解され始めてきました。こういった新しい分布モデルとどう付き合うかも、新たな問題です。
──公文先生は以前から「智民」を提唱されていましたが、ビッグデータが現実に議論されるようになった現在において、智民とはそういった勘所をもった人々のことでしょうか。
公文氏:以前発表したものから最近は「智民」の定義を少し変更しました。広い意味での「ちみん」は「知民」で良い。要するに、ITをある程度つかってコミュニケーションできる人全般のことです。
さらにその中に「智民」と「痴民」がいます。ガラケーやスマホも使うけど、そこで脊髄反射で反応してネットイナゴになるのが「痴民」で、それも一緒の知民なのです。
注意すべきは、痴民はいわゆる「情弱」のことではありません。痴民はデジタルツールを使いこなしてコミュニケーションを成立させていて、情弱はあくまでデジタルツールとの親和性が低い人たちであるとの意味合いに過ぎません。
──智民と痴民が分かれるポイントはどこなのでしょうか。
公文氏:ハワード・ラインゴールドの新著『ネットスマート』は、その答えを考えようとしたものです。ある種の教育と学習で、智民になることは可能だという話です。彼はヒッピー世代の生き残りなので、中心に置くのは呼吸法であり瞑想です。その上で彼が主張するのは教育や学習の重要性です。
──やっぱり教育なんですね。情報との向き合い方は、その国や地域の生き方、考え方を反映するものです。したがって、ビジネスをする人、サービスを提供する人という意味での『智民』は、もう少し異なる要件が必要になるのではないでしょうか。
公文氏:その議論をするときは2つの軸を考えていただきたい。今は第三次の産業革命と第一次の情報革命が同時並行で進んでいます。これまではどちらかというと産業革命からの見方が中心で、ITというときにもっぱらお金のことを考え、ビジネスのことを考えてきた。それは確かにあるが、それだけでは見方が狭すぎます。
一方で、コミュニケーションやコラボレーションの方を重要視する人々が出てきて、どちらかと言えば今やこちらの方の力が強くなってきており、ぐるっと回ってビジネスに逆に影響を与えている。例えば、Googleのあり方やNetFlixのあり方は、情報革命に影響されてビジネスの方が対応してきている。これら両方の交錯の影響は非常に重要です。
もうひとつ、過去の産業社会で起こったことは、都市に人が集まり生活するようになって、市民が誕生した。我々は市民というと起業家であり経営者のことをすぐに考えるけど、実は生産手段の所有の有無によってブルジョアとプロレタリアートの分裂が起こっていた。いまだと智民と痴民のように情報の活用手段や能力を持つ人と持たない人の分裂と言えます。
つまり当時は階級対立と理解されたような激しい分裂が起こり、イデオロギー的にはプロレタリアート側に立つ反体制的イデオロギーが19世紀の前半に出てきた。この歴史を踏まえて考えてみると21世紀前半の今、情報社会の「プロレタリアート」、すなわち痴民が増えてくるのは当然だとも言えます。
では、情報プロレタリアートの側に立った反体制イデオロギーの旗手は誰だろうか。もう出てきているのかもしれませんが、これからそういう人々が増えて来て、政治的・イデオロギー的な動きをし始めるとすれば、それにどう対応していくかという視点が非常に大事になります。下手をすると足をすくわれる。これはデータ中心社会ならではの、古くて新しい社会的な課題といえます。
──今のご指摘は非常に重要だと思います。彼らが反体制の旗手かどうかはわかりませんが、現実にアジテーターのような人々がすでに登場しているように思います。そうした、より実態を見据えた議論こそが、いまや必要な時代になったということですね。
公文氏:実態を見据えるという意味では、最後に経済産業省にお願いしたいのは、国民経済計算の計り直しをやってくださいということです。
ムーアの法則にしたがう技術進歩が広くみられるようになったなかでの現在の国民経済計算は、新しい生産物の実質価値を過小評価する一方で、情報通信機器の在庫ストックの価値を過大評価しています。最新のITデバイスの高い性能を仮に5年前の価値で評価するならものすごい価値があるはずですが、今の名目評価額は数万円でしかない。ということは、フローベースでいうとものすごく豊かになっていると言えそうなのに、統計表現を見ていてもピンときません。
同時に、ストックベースでいうと、手元に残っている古いデバイスはほとんど価値がない。ということは、在庫ストックの価値再評価が猛烈に遅れている。本当は減価償却を毎年、6〜7割やって無税での償却を認めないといけない。
時代に合わない古い手法で評価しながら「日本の国富は世界で何位」というけど、どうも実態に合っていないのではないかという疑念を禁じ得ません。GDPでは過小評価されているけど、NDPでいうと過大評価になっているのではないでしょうか。
──経済社会の捉え方自体がずれているのではとの話は、実は大きな提言だと思います。データ・エコノミーを分析しようとしたときに、やってみたら足場が危うかったということになってしまいかねない。
情報機器はこの10年で使い方が大きく変わってきており、またそれがサービス実態にも影響を与えているはずです。とくにここ4年くらいの変化はものすごく激しいはずなので、モメンタムを明らかにする必要はあります。
公文氏:国民生活を評価したり、経済政策を評価したりするのに、一番の基本となる数字が変だと言うことになるとどうしようもない。
名前は忘れましたが、ある有名な経済学者が「実際の経済で何がどう起こっているか知らなかった時代の経済学者は幸せだった」と言ったそうです。国民経済計算がなかった時代は、景気が良いとか悪いとか言っても、実態の数字がわからなかったから経済学者は好き勝手なこと言って議論できた。しかし、今はまた同じように情報に関して好き勝手を言っている時代になりかかっているかもしれない。そういう実態を正確に捉えることが、データ中心社会を検討するための立脚点となるのではないでしょうか。
〔終〕
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