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見えた記憶がない人と天ぷら定食を食べて、知覚の「編集」を考える

見えた記憶がない人と天ぷら定食を食べて、知覚の「編集」を考える

2015.10.02

Updated by Asa Ito on October 2, 2015, 11:23 am JST

「百聞は一見に如かず」という言葉があるように、私たちの「ものがそこにある」という実感は、視覚に多くを頼っています。それでは、目の見えない人の「そこにある」実感はどうなっているのでしょうか。リアルとバーチャルの境、そして私たちの「実在感」の未来とは――。目が見えた頃の記憶のまったくない全盲の人との食事から考えます。

目の見えない人の実在との距離感。視覚がなければ、もっと自在に世界を「編集」できるようになる。

 見えるものは実在する。私たちはそう確信して日々生活しています。疑い深い哲学者ならいざ知らず、コップに手を伸ばしながら「このジュースはバーチャルかもしれないから気をつけよう」なんて考えることは普通ありえません。私たちの目がそのくらい慎重だったら、バーチャルリアリティなど成立しえないでしょう。

ところが視覚を遮断したとたん、この大前提がくずれ去ります。さっきまでそこにあったとしても、目をつむってしまえば存在そのものがあやふやになります。ふいにウェイトレスがやってきてそっとコップを片付けてしまうかもしれません。となりにいる友人がこっそりジュースを飲んでしまうかもしれません。確かな実在であったものが、「たぶんそこにあるはずだ」という留保つきの情報に変わること。これが視覚のない世界の特徴です。目の見えない人が生きているのは、まさにこうした世界です。

実際、目の見えない人と話していて一番驚くのは、こうした実在に対する距離感です。実在を確認できないという意味では慎重な行動を求められますが、逆にいえば実在から自由になっているともいえる。ジュースの話は実在に留保をつける例でしたが、視覚を遮断されると、人はもっと自在に実在物を「編集」しはじめます。とくに見た記憶を持たない人の場合、その編集は極めてラディカル。その一端をご紹介しましょう。

© seankate - Fotolia.com

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私たちは本当に同じ「天ぷら定食」を食べているのか?

 その日、私は浅草で、初対面の全盲の方と向かい合って天ぷら定食を食べていました。本当はその人に浅草演芸ホールに連れて行ってもらう予定だったのですが、まさかの満席で断念。仕方なく、人ごみを避けて老舗の天ぷら屋に入ったのでした。

料理が運ばれてきたとき、私は一瞬「失敗したかな」と心配になりました。定食なので、最低でもごはんとみそ汁、そしておかずのお皿が並びます。しかも今回のおかずは天ぷら。いただくにはつゆが必要です。さらには小鉢が二つついてきて、お茶の入った湯のみを加えるとひとりあたり計7枚のお皿がずらりと並びました。その光景は、見える人にとっては確かに「豪華」です。しかし見えない人にとっては食べにくい煩わしいだけのものなのではないか…そう思ったのです。

しかし、すぐにそれが杞憂だったことが分かりました。事情を察したお店の人が料理と皿の位置を説明してくれたおかげもあって、その人はとまどうこともなく食べはじめました。ほっと安心しつつ、しかしすぐに私の研究者魂が頭をもたげます。私たちは本当に同じ天ぷら定食を食べているのだろうか? 片や視覚を使い、片や視覚を使わないで「食べて」いる。この「食べる」は果たして同じなんだろうか? 食事中の失礼も顧みず、私はいつものようにインタビューを始めたのでした。

全盲の人は世界をどうイメージするか

 その方は、見た記憶を全く持っていません。全盲でも見た記憶があれば、頭の中に断片的な視覚イメージを思い描くことができます。「黄色」と言われれば、黄色を想像することができます。しかしその方は、5歳で見えなくなり、今ではもう見るというのがどういうことなのか、思い出せなくなったと言います。「見えなくなって最初の何年間は、親の顔も覚えていたし、景色も映像のようなものとして理解していたような気がするんですが、いまはもう〈映像が見える〉っていうのがどういうことなのかが分からなくなっちゃいましたね」。

つまり、その方が知覚している世界には、視覚的な要素が一切ないのです。視覚がなくても声が聞こえればそこに人がいることを理解することができますが、あいにく天ぷら定食はしゃべりません。味は想像できるでしょうが、味をイメージしたところで、食べる行為には役立ちません。7つのお皿から成る定食全体の空間的配置が理解できなければ、スムーズに食べることは難しいでしょう。頭の中に、視覚を使わないで天ぷら定食を思い描く…目の世界にどっぷり浸かった私には、てんで理解することができませんでした。

天ぷら定食

天ぷら定食

しかし、それでもしつこく話を聞いてみると、「目で見た天ぷら定食」と「目で見ていない天ぷら定食」の決定的な違いがしだいに明らかになってきました。何と、「目で見ていない天ぷら定食」は「天ぷら抜きの天ぷら定食」だと言うのです。天ぷらだけではありません。きんぴらも、ごはんも、お吸い物もないのです。つまり「食べる物がまったくない天ぷら定食」なのです。

存在しているのに見えなくなった「逆オバケ」天ぷら定食

 いったいどういうことでしょうか。その人の話では、「7枚のお皿の形と配置は思い描きながら食べている」けれども、「その皿に何の料理が乗っているか」の情報は、そこには含まれていないのだそうです。つまり、その人は料理が一切乗っていない円や四角の図形のようなもの、つまり皿の配置だけが記された抽象的な図、あるいは地図のようなものをイメージしており、その丸や四角に向かって箸をのばしていると言うのです。多少とも見た記憶がある全盲の方なら、天ぷらが乗った皿のビジュアルをイメージして、「ただしこれは今この瞬間は実在していないかもしれない」と留保をつけるような感じでしょう。けれども、見た記憶のないその人の場合は、そもそも天ぷらの存在がないことになっているというのです。いわば、「存在しているものを見ていない」状況。「存在しないものが見える」のが「オバケ」ですから、これを「逆オバケ状況」とでも名付けましょうか。

見えない人の天ぷら定食はこんな感じ?

見えない人の天ぷら定食はこんな感じ?

いったい料理はどこに行ってしまったのか。それを説明するためにその人が使った比喩が秀逸でした。「お皿の形や触った感触は、地図的な、空間的なイメージに組み込まれています。そのうえで、お皿を、パソコンで言うところのクリックをすると、《天ぷらです》って出てくる感じかなあ(笑)」。出てきた《天ぷらです》はビジュアルではありませんから、たとえば色の情報は自然には含まれません。「色の情報も付け足そうと思ったら《詳細を見る》とかを開く感じですね(笑)」。

私たちは世界の情報をどう「編集」しているか。「見える/見えない」と「リアル/バーチャル」の境界線を飛び越える

 もちろん「クリック」はあくまで比喩ですから、本当に丸や四角に意識を合わせて叩くわけではありません。確かなのは、その人にとっては、位置に関する情報とコンテンツに関する情報が分離されていて、それらは階層が別になっているということです。つまり、位置情報(=皿の配置)にコンテンツ情報(=天ぷら)がぶら下がるような関係になっている。その人は、そのように天ぷら定食を「編集」しているのです。そして編集を経た皿に意識を(というより箸を?)向けると、《天ぷらがある》という情報がポップアップして出てくる。もっとも、《天ぷらがある》というコンテンツ情報がキャッチできたとしても、実際の味は口に入れてみないことには分かりません。これはいわば「純粋な味」で、見える人が料理の見た目にかなり左右されるのとは異なっています。

見えるものは実在し、実在しないものは見えない。目の見えない人は、そんな見える人の「常識」を飛び越えて、この世界を編集して「見て」います。しかし、この常識もいつまでもつのでしょうか。バーチャルリアリティや拡張現実など、私たちが目の限界を超え、実在から離れることを助けるような技術が普及しつつあります。もしかすると、そんな未来の知覚を考えるヒントが、目の見えない人の世界に隠れているかもしれません。

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伊藤 亜紗(いとう・あさ)

1979年東京都生まれ。東京工業大学リベラルアーツセンター准教授。専門は美学、現代アート。もともと生物学者を目指していたが、大学3年次より文転。2010年に東京大学大学院博士課程を単位取得退学。同年、博士号を取得(文学)。日本学術振興会特別研究員などを経て現職。主な著作に『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)、『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』(水声社)、参加作品に小林耕平《タ•イ•ム•マ•シ•ン》(国立近代美術館)など。