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ネットにしか居場所がないということ(後編)

The Internet Is Not Therapy

2016.11.30

Updated by yomoyomo on November 30, 2016, 18:16 pm JST

前編はこちら

ウィキペディア編集者の墓標

ワタシもアンドリュー・マクミランの文章を読んで初めて知ったのですが、ウィキペディアの編集合戦がこじれにこじれるなどし、第三者の介入を余儀なくされたエリオットの事例は、実は例外的なものではなかったりします。英語版ウィキペディアは、7人からなるサポートチームを組織しており、ウィキメディア財団は、ウィキペディアにおける編集者同士の(メンタル面の問題を含む)深刻なトラブルを調査し、対応できるようにしています。

具体的には、最近の更新がボランティアのコミュニティのメンバーにより監視されており、何か問題があれば上記のチームに連絡があがる仕組みになっています。7人のメンバーは地理的に離れたところにいるため24時間対応可能で、チームの最低2人が深刻な問題だと判断すれば、警察に連絡がいく仕組みになっています(詳細は不明ですが、エリオットが失踪した晩に警察が家に訪れたのも、このシステムが作動した結果と思われます)。

この緊急応答システムを、今年 Reddit に転職したフィリップ・ボーデット(Philippe Beaudette)が2010年に確立していたというのに驚きます。彼によるとそれ以後およそ7年間で、500件もの自殺や差し迫った被害に応対したそうです。最近のウィキメディア財団のレポートによると、四半期で5件もの自殺案件を処理したとのことです。

そうした警察へリアルタイムに対応を要請するシステムをもってしても、安全が保証されているわけではもちろんありません。毎年、少数のウィキペディア編集者が死去しています。彼らの名前は専用の追悼ページに記録されており、その中には、有名どころではアーロン・スワーツの名前もあります。

個々人の記述を見ると、死因が書かれている人と書かれていない人に分かれます。「インターネットでは、あなたが犬か誰も分からない(On the Internet, nobody knows you're a dog)」ではありませんが、ネットに上がる情報だけでは死因が分からない場合も多いでしょう。それなのに、死因が書かれていない人はやはり自殺なんだろうか……と邪推してしまう自分がいたりしますが、もちろん前述のアーロン・スワーツがそうであるように、たとえ死因がそうであれ、ウィキペディアが原因でない人が大多数のはずです。

それがもたらす残酷な帰結を避けるために

アンドリュー・マクミランの「Wikipedia Is Not Therapy!」もそうですが、自殺を扱う文章だとその最後に、自殺について考える人が読者にいた場合に誘導する連絡先が書かれるのが、欧米の記事では通例になっています。

ネット上のサービスについてもその姿勢は世の趨勢になっており、Google や Yahoo! で「死にたい」と検索すると、こころの健康相談統一ダイヤルの情報が表示されることが知られています。

だからこそ、同様の検索をすると宗教団体(幸福の科学)のコンテンツがトップにきていた iPhone の Stay Foolish さが際立ちますし、またその Google 検索も容赦なくビジネスチャンスにしようとする医療キュレーションメディアを運営する DeNA が悪目立ちするのですが。なお、後者に関しては、炎上系キュレーションサービスの新星というべき注目を集めた挙句、医師や専門家による記事の監修を開始し、不適切な記事は削除する意向を発表しています。

DeNA の創業者、取締役会長の南場智子は、癌で闘病中の夫のために病気について徹底的に勉強を始め、術後の治療法について国内外の専門家に相談し、本を読み漁ったそうです。そうした経験がある彼女は、当時の自分と同種の不安を抱え、藁をもすがる思いで情報を求めるネットユーザに、DeNA が著作権侵害や薬事法違反など順法精神が疑われるサービスを提供していたことについてどう考えているのでしょうか?(※編集部注:本原稿執筆後、全記事が非公開化されることとなった

話が横道に逸れましたが、自傷や自殺の防止のための取り組みは検索サイトにとどまらず、TwitterFacebookInstagram など SNS でも一般的なものになっています。

正直に書くと、ワタシ自身はそうした世の流れについて、嫌だとか余計なこととは思わないものの、どこか冷ややかに見るところがありました。ワタシ自身(文章からも多分に伝わる通り)性格が暗く、考え方が根本的に後ろ向きかつ厭世的で、資質的にそうした危険を抱えていることを踏まえると、その冷たい見方は辻褄が合ってないようにも思えます。いやむしろ、そうした資質を自分に強く感じるからこそ、ネット上で見かけるメンヘルや自傷の誇示、自殺の脅しに嫌悪感を覚えるのかもしれません。

この点において、ワタシはネットに毒されてしまっていると言えるでしょうが、本当にいなくなって心から悲しく思うかけがえのない人は、往々にしてそうしたそぶりをあまり見せないまま自死を選んだり、事故により失われてしまうように感じます。前述のアーロン・スワーツも、彼の苦境を知る周りの人からしても突然死を選びましたが、ローレンス・レッシグは、その心情を以下のように書いています

我々の多くは、アーロンを守るために何かできたことがあったのではないかと思いながら残りの人生を過ごすことになるだろう。それこそがあらゆる自殺がいたるところでもたらす残酷な帰結なのだ。

この心情が自殺した人に対してだけに限定されるものでないことを、ワタシは今月雨宮まみさんの訃報に接してにわかに信じられず呆然となり、その後お別れ会に参加した方から、その死は自ら選んだわけではなく、事故であったと聞いたときに痛感したものです。

ジェイク・オロウィッツは、「Journey of a Wikipedian」の最後に、ウィキペディアの編集者に向けて、心に留めるべきことを10個挙げています。いささかヌルく感じるかもしれませんが、以下の10項目は、自死や事故により大事な人たちが失われることによる残酷な帰結を避ける基本姿勢として、規範とすべきものといえるでしょう。

  1. 我々は、深い感情と人間的な複雑さを兼ね備えたまさに実在する人間からなるコミュニティである。
  2. 我々はプロジェクトに深く入れ込んでいるので、それが多くの人にとって情熱や逃避先でもあるにしろ、時に我々はプロジェクトのせいで傷ついてしまうのだ。
  3. 誰かがこれまでどんな境遇だったか、今どんな体験をしているか、あなたは何も知らない。
  4. 我々皆、どこかで助けが必要になる。助けを必要とすること、助けを求めること、援助を受けることは恥ではない。
  5. もし完全に望みを失ったと感じても、ちょっと待った。物事が好転するかもしれない。誰かに相談してみよう。
  6. メンタルヘルスの問題は強力な烙印になる。我々がその問題についてオープンになるほど、我々皆を抑圧する重しは軽くなる。
  7. 耳を傾ければ、我々はお互いから学ぶことができる。
  8. 我々は他者に親切になるべきだ。これは礼儀正しさよりも優先度が高いし、我々の目標達成にも完全に適合する。
  9. 我々の活動は、それに携わる人間次第である。我々はもっとも価値の高いリソースなのだ。
  10. 我々は完成品ではない。時間をかけ、場を設け、支援を得て実践することで人は成長し変化できるし、現実にそうしている。

ネットに取り残されるということ

個人的にエリオットとジェイク・オロウィッツの話を読んで面白かったのは、ウィキペディア編集者の承認欲求の生臭さです。

ジョセフ・リーグルは、ウィキペディアの文化について書いた本に『Good Faith Collaboration善意にもとづく共同作業)』というタイトルをつけていますが、実態はそんなきれいなものではない……と腐したいわけではありません。

そうではなく、Wiki というウェブ上で誰でも編集可能なシステムを基盤とするウィキペディアにおいてさえ、参加者を支える動機の根本に承認欲求があるというのは、長期的に見れば自分の貢献が他の人の文章に完全に置き換わってしまうかもしれない場においても、やはりそうなんだと新鮮に思えたのです。

そんなの当たり前だろうと言われそうですし、その承認欲求は万人にとってフリーな百科事典をネット上に作るというウィキペディアの目的と特に矛盾はしません。

しかし時として、ウィキペディア編集者の承認欲求によって取られる行動がウィキペディアの目的に沿わないと見なされ、エリオットのように編集から締め出される編集者も出てきます。

エリオットのメーリングリストへの投稿を読んだジェイク・オロウィッツは、自分だって彼のようになったかもしれないと思ったとのことですが、それは大げさではないでしょう。自殺予告のメールにすら、俺は「爆発する鯨」の作者であり、[要出典]タグを発明したと書き殴るエリオットと、ウィキペディアがソーシャルネットワークである根拠として、ウィキペディアへの参加の情熱を分かち合う他者について書くときですら、自分が仲間から49個ものバーンスターを得ていることを明記するジェイク・オロウィッツは、とてもよく似ています。

それなら二人を分けたものは何か? ジェイク・オロウィッツが、ウィキペディア編集に貢献した実績を活かして引き篭もり状態から社会復帰をしたのに対し、エリオットは経済的苦境が大きな要因となり、ウィキペディア編集から締め出されるトラブルを起こしてしまった──結局は、ネット上に完結することなく自らの価値をいわゆるリアルの社会に反映できたから、というありがちな結論は、個人的には心情的に受け入れたくなかったりします。

が、それを完全には否定できないでしょう。エリオットが事件の後に社会復帰できたのは、たまたまその直後に IT 管理者として食い扶持を得られたのが大きかったでしょうし、エリオットにしろジェイク・オロウィッツにしろ強調するのは、家族(妻と子供たち)や友人たちの現実生活におけるサポートです。

リアルが充実しない孤独な人間は、結局は何をやってもダメで、野垂れ死にする運命にある……なんて書くと、ただの質の悪い煽りになってしまうわけですが、そういうことをワタシが考えるのは、少し前にクロサカタツヤさんが「ネットに取り残されていく人々」について書いているのを読んだからかもしれません。

それがワタシに刺さったのは、率直に書けば、ワタシ自身が「ネットでしか生きていけない人々」「サイバースペースの中でしかアイデンティティを確立できない人々」の側の人間だからです。

それは前から分かっていた話といえばそれまでですが、以前よりもそれを怖いと思う気持ちが大きくなっています。具体的には、ネットでしか生きられない人間がネットでの活動にアイデンティティを託すことの危険性を考える機会が増えました。

ジェイク・オロウィッツの文章を読むと、ウィキペディア編集により2011年のエジプト革命を支援したことを誇りに思っているのが伝わります。彼のウィキペディア編集に本当にその力があったと仮定して、エジプト革命もその一部とされる「アラブの春」により達成したはずの民主化の瓦解、シリアの泥沼の内戦とそれが生んだ難民、そして IS などのイスラム過激派についての中東に関するニュースを見るにつけ、ジェイク・オロウィッツは自分のやったことに疑問を感じることはないのだろうかと思ったりします(もちろん、たとえ「アラブの春」が完全に失敗だとしても、ジェイク・オロウィッツにその責任の一端を負わせることが間違っているのは言うまでもありません)。

ワタシも18年近くウェブで文章を書いてきましたが、いつかウェブにおける仕事を現実的に還元できる機会があるのでは、もっと平たく書けば、うだつのあがらない現実に一矢報いることができるのではというスケベ心がそれを支えてきたのは否定できないでしょう。本連載はその還元のひとつの成果とみなすことも可能ですが、手遅れになる前に自分自身の居場所を確かにし、他者と向かい合うために、読者の皆さんと(しばし)お別れをするときが来たようです。

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yomoyomo

雑文書き/翻訳者。1973年生まれ。著書に『情報共有の未来』(達人出版会)、訳書に『デジタル音楽の行方』(翔泳社)、『Wiki Way』(ソフトバンク クリエイティブ)、『ウェブログ・ハンドブック』(毎日コミュニケーションズ)がある。ネットを中心にコラムから翻訳まで横断的に執筆活動を続ける。