スーパー書評「漱石で、できている」2
夏目漱石『三四郎』 小川三四郎の青春、今や遥かなり?
2019.08.22
Updated by Yoichiro Murakami on August 22, 2019, 14:41 pm JST
2019.08.22
Updated by Yoichiro Murakami on August 22, 2019, 14:41 pm JST
前回に次いで、もう一回漱石を取り上げます。比較的最近、ある大学の学生一五〇人ほどを相手にした臨時の授業で訊ねたところ、『三四郎』を読んだ人が一人もいなかったのには、名状しがたいショックを受けました。かつて大学生にとっては、強要されなくとも必読書、という言葉も当たらない、講義の教科書をさし措いても読むべきものと誰しもが思う書物の一つでした。まことに陳腐ですが、時代は変わりました。
明治三十六年来の帝国大学・第一高等学校英語教師の身過ぎ世過ぎにすでに飽いていた漱石は、明治三十八年、鬱々たる気分を晴らすべく、高浜虚子の助言を受けいれて「ホトトギス」に、『我が輩は猫である』を発表し、小説家としての助走を開始します。「ホトトギス」へはその後も『坊っちゃん』、『野分』を投稿・発表していました。そして、とうとう学究生活に見切りをつけて、朝日新聞に入社したのが明治四十年、最初の仕事が『虞美人草』であったことは、前回書いた通りです。
翌明治四十一年、朝日新聞の次期連載小説として九月から執筆を開始したのが『三四郎』ということになります。漱石がどこまで意識していたかどうかは判りませんが、近代ドイツ語圏で生まれた<Bildungsroman>(教養小説)の典型の如くに読める小説に仕上がりました。主人公の小川三四郎が、熊本の第五高等学校を卒業し、九月に東京帝国大学に入学すべく、熊本から汽車を乗り継いで上京するところから、物語は始まります。描かれている時代は、当時の読者が実体験している時代と、ほとんど差が無いもの、つまり明治四〇年代初めころ、と考えてよいのでは、と思います。念のために書きますが、明治四十年代に日本で大学と名乗る(名乗れる)ところは、明治一〇年創立の東京帝国大学と同三〇年創立の京都帝国大学の二つだけ、新しい学年は九月に始まりました。また第五高等学校は、松山中学(そこでの経験が『坊ちゃん』になったことは周知の通りです)の後漱石が暫く英語教師として赴任していた場所です。
三四郎が育った環境は、東京や京都とはやはり違って、「文明化されていない」と評せざるを得ないものでしょう。因みに英語で「文明化されていない」は<uncivilized>でしょうが、この語と同義のものの筆頭は<wild>つまりは「野蛮な」ということになります。しかし、そのことが、人間の品性に否定的な意味を与えるか、と言えば、答えは明らかに「ノー」です。漱石の描く三四郎が、当にその答えを実践しています。汽車の都合で名古屋で下車、一泊しなければならなくなり、奇妙な経緯から、子持ちの若妻らしい女性と同宿することになる。風呂に入っていると、「流しましょうか」と入ってくる気配、すこぶる驚いて慌てて風呂から飛び出す三四郎、宿屋の都合で褥も一つ、彼はタオルを出して「疳性だから」だの「蚤除の工夫」だのと断りながら、宿屋が用意したシーツは女の側に半分だけ巻き上げて、自分の側の片半分に二本のタオルを延べ、その仕切りの幅を一寸も超えずに夜を明かす。翌朝、停車場で別れの際、「あなたはよっぽど度胸のない方ですね」という一大痛棒を食らいます。一瞬は恥ずかしさに呆然としながら、またその羞恥は、折に触れて時に蘇ったりもするのですが、その倫理的潔癖さに、根本的には悔いを示さない三四郎の清潔な人格を、作者は愛おしんでいるかの如くです。
名古屋から東京への車中で、一見教師風(と世慣れぬ三四郎は断定してみます)の不思議な男と知り合います。水蜜桃好きのこの男は、日露戦争の「勝利」に浮かれている社会をよそに、有名な「(日本は)滅びるね」とか、日本に誇れるものは富士山しかないが、それは「天然自然に昔からあったもの」に過ぎない、という有名な警句を、三四郎の中に残して別れます。この男、後に「広田先生」という、小説の重要な狂言回しとして再登場いたします。
さて、このナイーヴな青年の東京での学生生活が始まります。期待に満ちた新学年度、いざ教室へ出ても教師もいなければ学生もいない。大学というところはかつてそうでした。新しい学年が始まっても最初の一二回は当然のことながら、教師・学生相互の暗黙の了解で休講。またこれは英語ですから、本来は海外でのしきたりであったと思われますが、<academic quarter>と言って、教師はいつも当然のように、<quarter>つまり「十五分」ほど遅く教室に入ってくる習慣さえありました。
因みに、今は駄目です。今大学の教師は皆「十五プラス一」の合い言葉に悩まされています。一学期、一週一回の講義または演習で「二単位」とするには、確実に十五週(つまり十五回)の授業を実行しなければならないのです。都合で休講すれば必ず補講を行わなければならない。「プラス一」とは? 定められた授業スケジュールの最後の時間に試験をやると、実質一回分授業が少なくなる。それは認められないので、試験の時間は十五週という正規の授業スケジュールの外に設定すべし、これが文部科学省からの厳重な要求なのです。授業も開始のベルと同時に始まります。もっとも、私の知る限り上智大学の一部の授業では、已に昔から、教師はベルが鳴るのをドアの外で待っていて、鳴ると同時に教室に入り、直ちに内鍵を掛けてしまう習慣がありました。
話を戻しましょう。母親からの手紙で、故郷熊本の先輩が理科大学で研究をしているから、土産に送ったヒメイチ(魚の干物)を携えて訪ねるよう指示されて、三四郎は大学キャンパスの中の理科大学(当時は「学部」とは言わず、それぞれの学部が「単科大学」とされ、全体の雨傘として「東京帝国大学」の名が付されていました)の研究室に、野々宮宗八を訪ねたのです。なおこの人物にはモデルがあり、物理学者であり、かつ文筆家吉村冬彦としても知られる寺田寅彦だということです。実際寺田は第五高等学校で漱石から教えを受けた経験があり、後に漱石山房の同人の一人になります。この研究室訪問が、三四郎の生涯に決定的な意味を持ちます。というのは、地下の研究室から外へ出て、暮れなずむ晩夏、池の端にぼんやりしているとき(今はこの池を「三四郎池」と呼んでいます)、左手の岡の上に現れた女人こそ、「運命の女」里見美禰子だったからです。看護婦と二人、岡を下って水際まできた二人はこんな会話を交わします。「是は何でせう」と美禰子、「是は椎」と看護婦、何の変哲も無いこの会話の驚くべき強烈な印象、私が最初に読んだときの個人的なものに過ぎないかも知れませんが。未だに私の心に響いています。そのとき私は三四郎になりきって、この会話を受け止めていたのだと思います。もっとも、この会話は後の重要な伏線にもなっていますから、むしろ私は漱石の小説上の技巧にひっかかっただけなのかもしれません。
なお、野々宮の実験室を覗いた三四郎が(ということは、とりもなおさず漱石が)、池の端でこんな述懐をしています。
野々宮君は頗る質素な服装をして、外で逢へば電燈会社の技手位な格である。それで穴倉の底を根拠地として欣然とたゆまず研究を専念に遣ってゐるから偉い。然し望遠鏡のなかの度盛がいくら動いたって現実世界と交渉のないのは明らかである。野々宮君は生涯現実世界と接触する気がないのかも知れない。
この四行に、科学の世界の一つの真実が正確に明らかにされています。この時の野々宮君の実験は、光の圧力の有無を検出するために組み立てられたもの、とされていますが、光の圧力が何ほどか検出されたから、あるいは検出されなかったからと言って、現実の私たちの生活世界には毫も影響はない。つまり科学研究は、純粋に知的な世界に閉じ込められているという特性を持っている、という理解が、この三四郎の言葉を通じて漱石によって語られていることになります。実際二〇世紀初頭の当時、科学研究は、まさしくそうした特性を備えて、成立していた、と考えられます。科学研究の結果が現実世界へ介入し、それを根本から変革するような一種の「力」(その最も典型的な例が原子核研究です)を備えるのは、二〇世紀もかなり経ってからのことになるのです。もっとも、その現実離れをしているはずの野々宮君は、後に大学の運動会で「何時になく真黒なフロックを着て、胸に掛員の微章を付けて」計測係を演じていました。実はその場に美禰子もいたことが大いに影響しているのですが、その野々宮君への三四郎の眼差しは、幾分か揶揄か皮肉、あるいは失望に近いものとして描かれています。
物語は、三四郎と野々宮と美禰子に加えて、野々宮の妹よし子、広田先生、同僚学生(三四郎よりは遙かに世慣れた)与次郎、それに画家の原口といった登場人物の間に生まれる心理的な緊張関係を巧みに描きながら、進んでいきます。美禰子は、『虞美人草』の藤尾ほど「悪女」ではありませんが、異性として自分に関心を抱いている野々宮と三四郎を、意図的と意図的でないとを問わず、かなり技巧的に扱う女性という設定です。最後は別の男性(もとは、よし子との間に話のあった人物のようです)とすんなり結婚してしまうことにもなります。そうした描写のなかに「迷(ストレイ)へる(シー)子(プ)」だの、「可哀想だた惚れたってことよ」(<Pity’s akin to love>という英文に与次郎が付けた訳文)だの、エピソディックな細部が、名画の鮮やかな色彩の妙のように、ちりばめられています。
三四郎が美禰子を愛していたことは、与次郎にそう問われて、「ふん」と言ったなり否定をしなかったことからも判るように、はっきりしていますが、一体、美禰子はどうだったのでしょうか。「あの女は君に惚れてゐるのか」という与次郎の問いに、三四郎は「能く分らない」と答えます。与次郎は「然し能く分ったとして、君、あの女の夫(ハズバンド)になれるか」と返します。それも三四郎が最初から、漠然とではあるが、感じていることだったかも知れません。しかしとにかく、「是は椎」に象徴される、三四郎との最初の出会いに、美禰子が深い印象を受けたことは、その場面を、原口のモデルになったときの絵の構図として、美禰子自らが提案したという事実だけでも、明らかですし、その後の言動の端々にも、恋心に「似た」感情を三四郎に抱いていたことは、確からしく見えます。だからこそ三四郎は、色々に悩み続けるのです。しかし、三四郎は、そうです、名古屋での出来事を一種の恥辱とともに受け入れた、あの行きずりの女の揶揄によって特徴付けられる人格を備えた、小川三四郎なる人間は、それ以上積極的な行動に踏み出すことのないままに、苦い青春を終えることになるのです。
今の若い人たちなら、こんなことにはならない。馬鹿げてさえいる。そうかもしれません。でも、人間の本質はそう変わらないのでは、とも思うのです。少なくとも私はそう思いたいのです。あるいは歳とった私が、若い頃の思い出を勘違いして、そう思いたいだけなのでしょうか。
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登録はこちら上智大学理工学部、東京大学教養学部、同学先端科学技術研究センター、国際基督教大学(ICU)、東京理科大学、ウィーン工科大学などを経て、東洋英和女学院大学学長で現役を退く。東大、ICU名誉教授。専攻は科学史・科学哲学・科学社会学。幼少より能楽の訓練を受ける一方、チェロのアマチュア演奏家として活動を続ける。