画像はイメージです original image: uaPieceofCake / stock.adobe.com
「貧乏くさい」は貧乏にはるかに劣る ウイスキーと酒場の寓話(31)
2020.07.16
Updated by Toshimasa TANABE on July 16, 2020, 14:08 pm JST
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2020.07.16
Updated by Toshimasa TANABE on July 16, 2020, 14:08 pm JST
「一見、貧乏ではないのに、やっていることが貧乏くさい」。これは、いまの日本を象徴している。逮捕されても辞職しない、離党はするが辞職はしない、など一部の国会議員の貧乏くささにはまったく辟易するが、市井の人々にも、自覚的かどうかは別にして、貧乏くさい人はたくさんいる。
「貧乏くさい」は、貧乏(単なる状況である)とは違って、自らの姿勢や人生経験、あるいは勉強(学校の成績ではない)をしてこなかったこと、などに起因するおかしな価値観を色濃く反映するだけに、貧乏よりもはるかに質が悪い。貧乏であっても貧乏くさくない、という人はいるし、貧乏くさくない生き方はあるものだ。
ただし、貧乏であっても貧乏くさくないというのは、いわゆる「清貧」とは違う。日本語には、質素、倹しい、吝嗇、節約、ケチなどいろいろな言葉があるが、どれも当てはまらないのではなかろうか。単に出費を減らしたりケチであるだけでは、本来の目的はどこかに行ってしまって、ケチであることや元を取る(この「元を取る」という行為や価値観自体が非常に貧乏くさい)こと、あまつさえ何か多少のおまけ的なものに与かること(「ポイント」などに顕著である)が目的化していまいがちだ。
ところが、「安物買いの銭失い」「二兎追うものは一兎も得ず」「本末転倒」「手段の目的化」「守銭奴」など、貧乏くさい状況についてのある一つの側面を否定的に表現する言葉はけっこうある。これは、昔の人は本質が見えていた、ということの反映であるとは考えられないだろうか。
貧乏くさくないためには、本来あるべき姿や状態を知ったうえで、今はこの部分は無理だから割愛している、あるいはちょっと工夫してこうしている、といった教養的な姿勢とでもいうべきものによって「物事の本質を見失っていない」ことが不可欠なのだ。本質を知らないということが、貧乏くさい振る舞いをしてしまって恥じない、あるいはそれが貧乏くさいことだと感じられない最大の要因なのではなかろうか。
貧乏かもしれないが貧乏くさくない、という様子や生き方に「これだ!」という言葉を探しているところなのであるが、これがなかなかない。そこには、振る舞い(身体性)が重要な役割を果たすような気がする。「凛」あるいは「毅然」といった気概の表れが、作為的ではなく自然に醸し出されている、というのが好ましいだろう。もちろんこれとて、一つの要素に過ぎない。
明治時代の小説家であり批評家である斎藤緑雨の言葉に「筆は一本、箸は二本」があるが、貧乏であっても貧乏くさくないとはどういう姿勢か、ということを強く感じさせる名言である。原典では、「按ずるに筆は一本也、箸は二本也。衆寡敵せずと知るべし」である。「ペンは剣よりも強しなどというメディアの驕りを一刀両断」といった表層的な解釈も成り立ちはするが、やはり下記のように捉えるとその本質がよりいっそう見えてくる。
「一本の筆は所詮二本の箸には勝てない。筆は夢(希望)、箸は生活(現実)。けれども人間の抱くロマンは、それに向かっていってこそ花開くのだ。無勢(夢)に多勢(現実)のアイロニーを日常の筆(ペン)と箸とで表現した名文句。(衣斐弘行氏)」
注)この文章が掲載されていたサイトは既に存在しない。かなり前に私個人のブログで出典とともに引用させていただいた。
ここからさらに、自分なりに考えれば考えるほど、「筆は一本、箸は二本」が深いところで本質を突いていることにますます唸らされる。斎藤緑雨は、1867年に生まれ1904年に37歳で亡くなっているが、この人の言葉には、「寒い夜だな、寒い夜です、夫婦の会話などこんなもの」「貧乏自慢は金持ち自慢よりはしたない」などというものもあって、なんともいえない味わいに溢れている。
さて、貧乏くさい例を列挙してみよう。まず「42/54」に書いた「129. けっして貧乏ではないのに『貧乏くさい』という話」を挙げておく。会社員を経験しておいて良かったと思えるのは、世の中はこの手の貧乏くささに溢れている、ということが実感できたことである。
会社支給の定期券というものも、かなり貧乏くさい。「経路指定の現物支給」だったが、相当する現金を支給すべきだといつも考えていた。経路指定というのがまた貧乏くさい。自宅も職場も最寄り駅ではなかったり、最短あるいは便利な乗り換えではない、などというのが普通だった。総務かどこかに鉄道に詳しい輩がいて「社員に我慢させるとほんのちょっと安くなるルート」などを入れ知恵していたと考えられる。
定期券があるから途中下車する、などという行為も、意識的か無意識かは別として、かなり貧乏くさいことである。行きたい店があるならば、定期券の有無にかかわらず、その駅で降りるのだ。余談だが、定期券はいつも払い戻していたが、払い戻す際に駅員が「会社支給のものではないのか?」などと問い質してくるのが、本当に嫌だった。
クルマを買うという行為には、金はあるのだろうがなんて貧乏くさい選択なんだ、と感じさせられることが多い。例えば、ボディカラーだ。本当に好きな色ではなく、リセールバリューをまず考えて好きでもない色のクルマを買う、などというのが典型だ。やたらとオプションの付いた上級グレードを大した検討もなく買ってしまう、というのも貧乏くさい。その機能は使うのか、本当はもっと別のところに金をかけるべきではないのか、ということは微塵も考えないところに教養的な姿勢が感じられない。金を払ったことで安心している、というのが貧乏くさいのだ。
クルマというものは、メーカー側も貧乏くさいマインドなので、パッと見ただけで最低グレードなのか中位モデルなのか上位モデルなのかが分かるように作ってあったりする。某SUVならば、ベースグレードはコロンとしているが、中位であればリヤハッチゲートにスポイラーが付いている、上位になるとルーフラック用のレールが屋根についている、といった具合である。リヤハッチのスポイラーは順法運転している限りは機能的にはまったく必要ないものだし、ルーフレールに至ってはその車を手放すまでに何回使うことか。また、ルーフラックやルーフボックスを付けっぱなしというのもどうかと思うのだ。
酒を飲んでも、貧乏くさいのはすぐに分かる。例えば、洋風の店に入って酒を選ぶとき、それなりにワインのリストがあるのに「一番安いのでいい」というのは、まったくもって貧乏くさい。産地やブドウの品種さえも確認せず、これから何を食べるのかも気にせずに「一番安いの」の一点張り、というのは一体どういう了見なのだろうか。したり顔で「一番安いものに店の実力が出る」などと仰る御仁も見かけるが、これとて誰かの入れ知恵を無批判に借用しているだけである。ちょっとでもワインを勉強したことがあれば、「おいおい」という程度の拙い品揃えの店はいくらでもある。
「42/54」に書いた「91. ダメなコミュニケーションとは?」の中では、貧乏くさいコミュニケーションにも触れているので以下に引用する。
貧乏くさいコミュニケーションもよく見かけます。例えば、SNSで誰かが美味そうな居酒屋料理とかラーメンなんかの写真をアップしていたとしましょう。すぐに「そこはどこですか?」とか「連れて行ってください!」などというコメントをするのは本当に貧乏くさい行為です。もっとも「美味しそうですね」なんてのも気が利いてなさすぎると思いますが。
「そこはイマイチです。こちらの方が上、私はこちらを愛用しています」なんてのは下衆も下衆。食べるものや店に限りませんが、自分が何かを知っていること示したくて仕方がないがゆえに、スルーする能力がないことを自らはっきりと示しています。
店は無数にあります。その中で自分に合った店(味、価格、雰囲気、行ける範囲等のすべてを考慮した相性)は、そうそうあるものではありません。料理の写真1枚を見ただけで写真の主が積み上げてきた価値観に便乗してしまうことに躊躇がない、というのが貧乏くさいのです。自分が満足できる店は、自分のお金と体力を使って探すのが基本です。そのプロセスを省略して他人の努力の結果だけを便利に頂戴する、というのが貧乏くさいのです。
ま、素朴な仲良しの会話と思えば良いのでしょうが(だからいちいち文句つけたりしませんが)、店名を出していないことの意味などをちょっと考えるべきだと思うのですね。「連れて行ってください」に至っては、そもそも写真の主はその店に行ったばかりなので、しばらく行かないでしょう。そういうことへの配慮がないのも、貧乏くささを構成する要素の一つです。店名を出しているのであれば、検索して自分で行けばよいのです。
特に「他人が時間とコストをかけて積み上げてきた価値観に便乗することに躊躇がない」というのは、食べるものに限らない話である。ノウハウ系のビジネス書や「ライフハック」などというものが貧乏くさいのは、この点に尽きる。こういう本を読むという行為そのものが、かなり貧乏くさい。
自分で考え、それなりのコストと時間をかけて体験することが、何かを本当に身に付けるということなのだ。試行錯誤の時間さえ、経験値の蓄積であって無駄ではない。この自ら体験したり試行錯誤することを厭わない姿勢があるからこそ、貧乏くさい状況を排除したり、そこから脱却できるのではないだろうか。
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登録はこちら北海道札幌市出身。システムエンジニア、IT分野の専門雑誌編集、Webメディア編集・運営、読者コミュニティの運営などを経験後、2006年にWebを主な事業ドメインとする「有限会社ハイブリッドメディア・ラボ」を設立。2014年、新規事業として富士山麓で「cafe TRAIL」を開店。2019年の閉店後も、師と仰ぐインド人シェフのアドバイスを受けながら、日本の食材を生かしたインドカレーを研究している。