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「自らの『生』を問う」 ALSを患った女性の死から

「自らの『生』を問う」 ALSを患った女性の死から

2020.07.31

Updated by Yoichiro Murakami on July 31, 2020, 14:08 pm JST

ALSで重篤な状態に陥った患者が、SNS上で安楽死を望む投稿をし、それに二人の医師が応じた事件で、世評はいろいろと喧しい。何でも政治家や政府のせいにしたがる人々は、首相がいち早く否定的な見解を発表しないことを、手抜きとして非難する始末である。また、医師が報酬を受け取ったことを以て、安楽死問題とは一線を画すべき事件である、とする主張も結構流行っている。新聞紙上でも、難病の患者の苦しみに寄り添う医療を医師は考えなかったのか、などという批判もあったが、むしろ医師が患者の苦しみに「寄り添った」からこその結果であった、という解釈も成り立つということをどう考えるのか。

「自らの『生』を問う」 ALSを患った女性の死から

つまり、この問題はそう簡単に賛否を論ずべき性格のものではなく、様々な要素を考え、それらを広げて、判断しなければならないのではないか。患者の親のコメントの中に、医師に対する心配りが全くなかったのは、緊急の発言要求に応えたものとしても、聴いている人間としては哀しかった。

医師が、どれほどの決意を以て、医師免許剥奪という大きな自己犠牲の危険を冒してまで、敢えて嘱託殺人という行為に向かったか。むしろ、報酬を受け取ることによって、この問題を単なる医師の患者への同情・共感という側面からだけで観て欲しくない、社会全体の課題として取り上げて欲しい、という問題提起をしたいからであった、とも解釈できるのである。

既に新聞報道でも一応伝えられているように、先進国といわれるヨーロッパ諸国、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、あるいはスイス、アメリカの幾つかの州では、医師による患者の死の誘導が法的に解禁されてきた。オランダなどでは、直接医師が致死薬を投与することも、条件が整えば法的罰則の対象にならない、とされている。

しかも、必要な条件の中に、患者の死が否応なく迫っていることは、含まれていない。つまり、明日をも知れぬ生だから、医療的処置として少し早めに終わらせる、という意味合いからはすでに事態は離れている。つまり、純粋の医療問題をはみ出した形で、自死の願望を抱く人に社会はどう向き合うのか、が問われていることになる。ただし、医療としては、複数の医師の一致した判断が求められる、という点は、どこの規定にも含まれているから、今回も当事の医師が二人関わったのであろう。

なお、スイスでは、営利的な行為でない限り、患者の意志が固い場合、医師が致死薬を投与しても犯罪としては問わない、という民法上の解釈に基づいて、事実上安楽死が行われている。ただし、仲介役として、法人化された団体に加盟する(当然、会費は支払わなければならない)ことが求められる。

最近、ある日本人の女性が、姉に付き添われてスイスを訪れ、自らの意志で安楽死を遂げたことは、宮下洋一氏の『安楽死を遂げた日本人』(小学館)に詳しく記述されている。スイスの当事者の「自ら死を選択しようとする人の意志が、それぞれの国で尊重されるようになって欲しい」という言葉は、私たちに重くのしかかる。安楽死に関わった医療者が罪に問われない国や地域に、自らの国から移居する人々の<suicide touring>(直訳すれば「自殺行」)という言葉さえ、生まれている。

それでもスイスに向かった彼女の場合は、まだ自力で活動でき、飛行機にも乗ることができた。したがって、死が差し迫っていたわけではなかった。しかし、今回のALSを患った女性の場合、スイスへ赴く手続きをしてくれる人もない孤独の中で、既に飛行機に乗ることもできない状態で、頼れるのはSNSだけであった、という状況下にあったに違いない。その彼女の決断に鞭打つのは、あるいはそれに応えようとした医師たちを、単純に、誰にも生きる権利はある、という正論を振りかざして、非難・糾明するだけでは余りにも空しい。

無論私は、安楽死を日本で直ちに開放すべきである、と主張するものではない。話がそう簡単でないことは充分承知している。 オランダでも、英語でいう<slippery slope>、訳すのが難しいが、このケースに当て嵌めれば、いったん規制を緩めてしまえば、それに便乗して、本来の必要の外にある諸々の利害から、安易に自殺幇助が行われてしまう危険がある、ということになるだろう。まさしく、そうした現象がオランダでは既に起きつつある、といわれている。

もう一つ、ヒポクラテスの誓いにもあるように、医師は、患者にどんなにせがまれても、致死量の薬物を与えない、という医師の倫理は今も生きている。そうでなければ、病苦にある人々が、安心して自分の心身を医師に任せるわけにはいかないではないか。もっとも、そうした規制が守るべき徳目として、医師になる際の誓いの言葉にわざわざ掲げられること自体、既に古代ギリシャ社会に、安楽死への願望がいくらでもあったことを示している。そして、安楽死を推進する確信犯的存在であった現代アメリカの医師(後に資格を剥奪された)キヴォキアンは、そうした医師の倫理を、化石時代の道徳と呼んで現代に見合う新しい倫理の確立を唱道したのだが。

日本のTVでも紹介されたアメリカの若い女性の場合、自分の住まいのある州では、消極的安楽死(医師が患者の希望に応じて致死薬を与える方法。医師は与えるだけで、実際に服薬させたり、注射したりするわけではない。通常「医師の扶けによる死」<PAD>と呼ばれている)が許されていない以上、医師に迷惑をかけるのを避けて、住所をPADが認められているオレゴン州に移した上で、実際に自死を実行した、という例であった。実際、巻き込まれた医師は、自分の天職として、多くの困難を乗り越えて医師になった以上、僅かばかりの礼金で、何もかも失うようなリスクを冒すはずはない。今回の事件でも、礼金の有無が話題にされているが、その点は事の本質ではないはずである。

評論家の西部邁さんの自死に関しては、一応、公知の事実が多いので、ここで詳しくは述べない。西部さんは、以前勤めていた職場の同僚で、職務上いろいろな付き合いはあった。中でも、世間を騒がせた「中沢事件」では、同じ委員会のメンバーとして渦中にあった、という繋がりも。西部さんは、この事件の責任を取るかたちで、勤務先を辞任し野に下ることになる。

同僚ではなくなった後の西部さんに関しては、ほとんど知ることがなく、自死の報を聞いて、驚いたことは確かである。ただ、彼の場合、いろいろな疾病の結果、身体が思い通りに動かず、苦痛もあり、かなり早い時期から、自死の意向を周囲の人々には洩らしていたといわれる。ひたすら生物学的な生を長引かせるだけの医療に頼る意志はないこと、自らの意志で自らの生を終わりにすること(西部自身の言葉遣いによれば「自裁死」)は、人間として正当な行為であることを世間に訴えようとする思いも、自死の実行にはあったと察せられる。

当初、私は、職務上の関わりがあったと報道された二人の「知人」に、準備から実行の手続きまで細かく依頼し、その結果、医師でもない二人が「自殺幇助」、「嘱託殺人」の罪を問われる結果になったことは見逃すことができない、というコメントを発したことがある。その思いは、今回の医師たちについても当てはまる。ただし医師の場合は、職務との繋がりがあったが、西部さんの「知人」の場合は、全く西部さんに巻き込まれてしまったとしか思われなかったのだ。

ただ、事後報道などで少しずつ判ってきたことは、そのお二人はともに、西部さんの思想に深く傾倒し、強い信頼関係で結ばれていたとのこと、その意味では西部さんの「覚悟」と同じものが、お二人にもあったのだろう。今は、西部さんの死後安らかれと祈るほかはない。

一つだけ、西部さんの死を知って、自分の中で何かが動いたような気がしたことを書こうと思う。その時は、はっきりと気付いて言葉にできたわけではなかった。最近、三島由紀夫について書かれた書物を読んでいる間に、その何かがはっきりしたのである。結果的には、同じ自死を選んだ三島と関わりがあることになるけれども、ここでいいたいのは、三島の自死そのものではない。むしろ三島の「生」の方に関わることである。

よく知られているように、三島は戦争末期、召集令状に応じて兵役検査に赴く。そのとき彼は重い風邪をひいていて、発熱し、咳もあり、気管支に雑音があった。検査官はそれを結核によるものと判断し、不合格、即日帰郷という結果に終わる。そのとき、彼は作品の中で、「死でないもの」の方に向かって自分の足が駆けた、と表現している。私は、かつて読んだ、この三島の「死でないもの」という表現を心の奥にしまっていたにも関わらず、以後上手く活用できていなかったことに、初めて気付いたのであった。

考えてみると、私たちは「死生観」と言い、「生死を分ける」と言い、死と生とが、対立概念であるとみなすことにすっかり慣れてしまっている。しかし、生の反対は死で、死の反対は生、それで果たして片付くのだろうか。死の反対は「死でないもの」ではあっても、それが、即「生」であることにはならないのではないか。

西部さんは自ら死を選んだ。無論、病苦に満ちた生よりも、死を快いものとして選んだ。しかし、病苦に満ちた生は「死でないもの」ではあっても、西部さんにとって、「生」ではなかったのではないか。「生」とは「死でないもの・プラス・何ものか」でなければならない。

スイスでの死を選んだ女性にしても、今回のALSで死を選んだ女性にしても、今、瀕死の状態にあって、ただ苦しみだけに耐える時間を少しだけ早める、というのではなかった、という点に特徴がある。

身の周りの始末まで一切を、他人(スイスへ赴いた女性の場合は、心から信頼しあっていた二人の姉がそれに当り、<他人>という言葉は適切ではないかもしれないが、要するに自分以外の人間のこととしよう)の手を借りなければならない、という未来の自分(現在の、ではなく)に耐えられなくなる。キヴォキアンの助けで、最初に自死をしたアメリカの女性の場合も、アルツハイマー系認知症と診断されて、自分自身で判断し行動することができなくなるような事態がやがてやってくる、そういう未来の時間を自分に許すことができない、と遺言の中ではっきり書いている。

そうした「生」は「死ではないもの」であっても、自分にとって「生」とはいえない。そういう思いを抱くことが、どこまで罪に当たるのか。考えなければならないことの一つだろう。

別の書物でも書いたことだが、日本の刑法には幇助罪が存在する。そして罪刑は、本来の罪に当たる行為を犯した場合と同じとされることになっている。しかし自殺は、刑法のどこを探しても、罪に当たるという文言を見つけることができないのである。つまり、「自殺幇助罪」は、罪でもない行為を幇助したがゆえに罰せられることになる。しかし、そのもとになる行為が罪ではない以上、一体どのような根拠で罪刑が定められるのか、論理は一貫しない。刑法二百二条では「六か月以上七年以下」の罰則が規定されているが、この量刑の根拠は、常識以上に何もないのではなかろうか。

私の父親は病理医だったが、口癖のように、安楽死が無事に済むのは関与する眼が六つ以内なんだよ、といっていた。要するに、関与する人間が三人(例えば、本人、最も信頼する家族一人、医師一人)までならば、法律に問われないままに、暗黙のうちに安楽死は実行されてきた、ということなのだろう。有名な家族の例では、森鴎外の次男不律(フリッツ)は、百日咳の苦悩の中で乳児の段階で安楽死させられた、と伝えられている。鴎外は、『高瀬舟』を書いて、苦しむ相手を見かねて死を与える「慈悲殺」(ドイツ語にいう<Gnadentod>)の意味を小説で問うている。結局、諸々の事情から、私はその道を選ばなかったが、高校二年、まだ医師になる意志を捨てていなかった私に対して父は、医師であることの中に、人の命を救うこととは別に、人の命を救えないことは勿論、人の命を絶つことも含まれているのだ、という教訓を伝えようとしていたと思う。お前にその覚悟があるか、と父は私に問いかけていたのだ。その覚悟を試される時が、医師である以上、必ずある。父は、言外にそう伝えようとしていたのだろう。

「自らの『生』を問う」 ALSを患った女性の死から

今、日本で、国家の人権侵害として大きな話題になっている旧優生保護法(強制的不妊手術の項を含む)は、戦後間もなく、太田典礼、福田昌子、加藤シヅエの三人の唱道で、立法化されたものである。当時、戦争からの帰還兵、彼らの帰還による新生児の増加、海外植民地の放棄による入植者の帰還など、人口増加の圧力が極めて高かった一方、国内の農地の荒廃などによる食料生産力の極端な低下という、二重の要素があって、人口増加の抑制が焦眉の急であった。

現在、保守系の政府がその付けを払わされているが、上の立法に関わった三人の議員たちは、いずれも社会党系である。太田さんは、議員になる前に一度落選したが、その時は日本共産党からの立候補であったし、議員になったときは日本社会党に所属していたはずである。つまり、この当時はむしろ「左翼系」の人たちの間で、労働者を貧困から救う政策の一環として、子供の数を制限し(「貧乏人の子沢山」という言い伝えもあった)、社会の負担となる子供たちの数はできるだけ少ない方が良い、という考え方が支配していたことが分かるだろう。この場合、生きている人間、社会の負担にならない「まともな」(と考えられた)人間の人権が、先ず第一にされていた、とも考えられる。

時代と社会状況の中で、ものの考え方は変わる。自死を望む人々を前にして、今、誰の生(命)も等しく尊重されなければならない、という正論だけを、すべての判断の根拠として良いのか、という問いかけだけは、必要なのではないだろうか。繰り返すが、今の日本において、安楽死を容認するような法律を定めることが必要である、と私は考えていない。しかし、今回起こったような出来事を、一つの思想によって簡単に断罪するのではなく、様々な観点を考え合わせる余裕と寛容さを準備する機会としたい、ということだけは、はっきりさせておきたいと思うのである。

・関連書籍
『〈死〉の臨床学』新曜社 村上陽一郎 著
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村上 陽一郎(むらかみ・よういちろう)

上智大学理工学部、東京大学教養学部、同学先端科学技術研究センター、国際基督教大学(ICU)、東京理科大学、ウィーン工科大学などを経て、東洋英和女学院大学学長で現役を退く。東大、ICU名誉教授。専攻は科学史・科学哲学・科学社会学。幼少より能楽の訓練を受ける一方、チェロのアマチュア演奏家として活動を続ける。