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居酒屋 カウンター 板前 お通し イメージ

人生には「お通し」が必要である ウイスキーと酒場の寓話(36)

2020.08.16

Updated by Toshimasa TANABE on August 16, 2020, 15:03 pm JST

居酒屋で飲んでいると「おっと、ここでこれ来ますか!」ということがたまにある。これ、意図して注文したものというよりは、その日によって異なる「お通し」などに良くある嬉しい不意打ちなのだ。

ずいぶん前のことだが、東京・恵比寿の居酒屋のお通しが「カスベの煮凝り」だったことがある。意表を突かれるどころか、しばし唖然茫然、子供の頃に住んでいた家の台所が「脳内スワップ領域の最深部から前頭葉にオンメモリ」となり、食器棚などまでがくっきりと浮かんできて頭の中が占拠されてしまった。軟骨にまとわりついているエイの身を燗酒で食べながら、「これ、炊きたての白い飯に乗せて食べると、煮凝りが融けて美味いんだよな」と思うのだった。30年以上の空白を経て懐かしい味に不意を突かれたわけで、これは効いた。

日替わりの3点盛りのお通しを出してくれる居酒屋に行ったときには、その中に「こんにゃくの刺身」があって、これもやられた感でいっぱいだった。私はこんにゃくの刺身が好きなのだが、子供の頃に他所の家に行ったときにご馳走になったのが初めてだった。そのときは、美味しい、美味しい、とエラい勢いでたくさん食べたらしいのだが、親が「刺身を食べさせていないのかと思われただろう。まったく恥ずかしい」と怒っていたのを鮮明に思い出したのである。

こんにゃくの刺身には、生の魚にはない上品さがある。以前にも書いたと思うが、居酒屋の息子だったので、ちょっと生臭くなって客には出せなくなった刺身を食べさせられることもけっこうあったから、ますます上品に感じたのではないかとも思う。プレーンなこんにゃくに加えて、柚子と青海苔との三色盛りなどもとても良い。薬味の回でも書いたが、酢味噌もわさび醤油もしょうが醤油も良い。

こういった経験があるからかもしれないが、頼んでもいないお通しで金を取るとはけしからん、あるいはお通しを出す合理的な理由を示せ、というような無粋な話はまったく認められないのである。最大限譲歩しても「席料(テーブルチャージ)だからそんなに不要なら出さないけれど、ただ単に席料ってのも申し訳ないので良かったら食べてください」というくらいのものではなかろうか。

ひと言で「お通し」といっても、機械的にしょうもないものを出す店もあれば、客の顔を見て出すものを決めるような店もある。馴染みになれば、それなりに気を遣ってくれたりもする。飲み物だけがポンと出てきて放っておかれるより、はるかにマシなはずだ。「早く出せるメニューあります」というのは、作り置きやでき合いを使っていることの方便でもある(それが悪いとはいわないが)。

実際には、褒められたものではない店も存在する。堂々と「席料をいただいておりますが、何かエビデンスがないとご納得いただけない場合もございますので」くらいのことをいえるだけの自信と自負を持ったうえでお通しを出すべきなのである。

以前、首都圏のどこかの大学の学生がお通しについての調査をして、お通しは不要ではないかという結論を出した、というニュースを耳(ラジオなので)にしたが、良い客とまっとうな店とで培ってきた飲食商売の「文化」というものを調査などという野蛮な「文明」で破壊しないでもらいたいのである。こういうことを報道してしまって恥じない報道機関にも呆れたのだが。なお「文化と文明」については、深遠なテーマであり話が長くなるので稿を改めたい。

あまつさえ、店側が「お通しは出しておりません」などと入り口に掲げるような事例も発生している。また最近は、特に二次会などで「お通しなしで」などと要求する身勝手な客もいるらしい。中途半端に世間を知った気になっていて、それがどこでも通用すると思い込んでいる、かなり「痛い」事例である。そういう人は、お通しは出さないスタイルの店に行ってもらいたいものである。そもそも、おそらく居酒屋であろう宴会の二次会なのに、さらにお通しが前提の居酒屋のような業態の店に行く、ということ自体、まったくセンスが感じられない。

売上を積み上げるために仕方なく出しているようなダメ例を以て、訳の分かっていない客が鬼の首でもとったような顔をするな、というのが、お通し不要論の本質なのである。そういう方々は、例えば欧米に行って、チップというものに合理性が感じられないから納得のいく説明をするか廃止してくれ、などという運動を展開してみたらどうであろう。またカフェでは、立って飲むのと座って飲むのでは、同じものでも料金が違うのが普通だったりもする。

お通しというものの食事における役割にも触れておこう。最も大きな役割は「注文した料理が出てくるまで、ただ待っているの?」ということへの良質な回答であるということだろう。焼き物など待っている間、ビールとお通しでちょうど良いのである。飲み物だけ出されて、注文した料理を待っているうちに、飲み物を飲み終えてしまう、というのは何とも味気ないし、飲み物が料理が出てくるまで残っていたら、それはそれで温度や濃度などもろもろが飲み頃ではなくなっているだろう。

これまで経験した良心的なお通しを少し紹介したい。基本的に毎日お通しが異なる(前日の売れ残りの有効活用だったりもするがそれはそれ)店のものである。まずは、ナスの揚げ浸し。揚げた茄子、しし唐、出汁、大根おろし、おろししょうが、刻んだ小葱。

次は、おでん屋のお通しでタラコの煮物。焼きタラコで中が半生というものがあるが、素晴らしい火加減でそれに近い状態だった。おでん屋だけに出汁も絶妙で、これも子供の頃(こんなものはあまり好きではなかったのだが)を思い出す味だった。主役のおでんは、ちょっと手順を踏んで出してくれるので、少し時間がかかる。このお通しで燗酒を飲みながら待っているのは、待っているという感覚を忘れさせてくれる。

次の写真は、上の左が何種類かの魚の漬け、その右は春菊とキノコのマリネ。下の写真の3点盛りは、アオヤギのヌタ、生シラスのおろししょうが添え、ピリ辛こんにゃくという季節と地域(春の駿河湾)を感じさせるお通し。特に「甘い」としかいえない新鮮な生シラス(一人前だと多過ぎるということもある)が素晴らしかった。

もっとも、自由が丘の名店「金田」のように「醤油を垂らした奴豆腐ひと切れ、夏は冷、冬は温で」というようにお通しを決めている店もある。居酒屋チェーンの白木屋は、けっこうな量の枝豆を出してくれる。別の某居酒屋は、フレッシュな野菜スティックと自家製の味噌だったりする。それはそれで店の流儀でもあるし、こちらもそれを前提として行くわけである。

店のオペレーションを考えると、お通しにはそれなりに手間と原価がかかるとも思うが、定番やそれなりに原価のかかるメニューではないところで工夫して、ほんの少し儲けるネタというお通しの側面は否定できないし、それを否定するべきでもない。季節や地域性が感じられるお通しは楽しいし、ありがたいものである。

店の側から見ると、お通しは要らないなどという訳が分かっていない客よりもむしろ、食が細い客の場合に、なかなかに気の利いた立派なお通しを出してしまったがために一品注文が減る、という問題はあるかもしれない。客に合わせて出さないと、ということではあれど、「あっちの客となぜ違うんだ?」といった面倒なことにもなりそうだ。お通しひとつであっても、商売というのはなかなか難しいものである。

居酒屋などのお通しとはちょっと違うが、某タイ料理屋では、お代わり自由のパクチーを小鉢に一杯で350円くらいで出している。お通しは出さないスタイルの店なので、まずはサクッと出てくるパクチーをお通し代わりに注文して卓上のナンプラーなどを垂らし、タイのビールを飲みながら料理を待つ。料理が来てからお代わりして、料理にパクチーを混ぜ込んだりするととても良い。

某四川料理屋のお通しは、いかにも四川というものだった。紹興酒の小瓶を1本、常温で注文すしたところ、ピーナッツを輪切りの唐辛子と花椒と一緒に炒ったものを出してくれた。辛いピーナッツというだけではなく、花椒のおかげで四川の痺れる辛さになっている。単にピーナッツを出すところもあるが、店のテーマに沿ったひと手間をかけているのは嬉しいものだ。なお、ピーナッツを食べた後に残る唐辛子と花椒は(もちろんそのまま食べても良いし、ピーナッツと一緒に食べても良いが、いずれにしても多少残る)、後の料理を食べるときにも重宝する。棒棒鶏や麻婆豆腐にパラパラと振り掛けると、四川らしい痺れる辛さを足すことができる。

学生や素人が接客するような「接客を伴う飲食店」のサービス料や、そういった店での乾きもの中心のひと山いくらという感じのがさつな皿などを考えたら、お通しは高いなどという言説がいかに的外れであるかが分かるだろう。かなり異なる業態であり客の目的も全然違うので、単純に金銭的な比較だけをしても意味のないことではあるが。

最後にもうひとつだけ。人生、自分が知っている食べ物だけを食べているようでは、かなり味気ないのである。冒頭の「おっと、ここでこれ来ますか!」という体験をさせてくれる店は大事にしたいし、そこで出されたものは、知らないものこそ特に前向きに味わいたいものである。もちろんこの姿勢は、お通しに限らないし、食にさえも限らないことである。


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田邊 俊雅(たなべ・としまさ)

北海道札幌市出身。システムエンジニア、IT分野の専門雑誌編集、Webメディア編集・運営、読者コミュニティの運営などを経験後、2006年にWebを主な事業ドメインとする「有限会社ハイブリッドメディア・ラボ」を設立。2014年、新規事業として富士山麓で「cafe TRAIL」を開店。2019年の閉店後も、師と仰ぐインド人シェフのアドバイスを受けながら、日本の食材を生かしたインドカレーを研究している。