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スーパー書評「漱石で、できている」6ホセ・オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』

スーパー書評「漱石で、できている」7
ホセ・オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』

2020.08.25

Updated by Yoichiro Murakami on August 25, 2020, 10:38 am JST

この名著の翻訳は、いま生きているものだけで、私の知る限りでも四種類あります。中公クラシックス版の寺田和夫訳、白水社Uブックス所収の桑名一博訳、神吉敬三訳のちくま学芸文庫所収のもの、そして岩波文庫所収の佐々木孝訳、いずれも、文庫本かそれに近い普及本の形式になっていることでも、極めて人気のある原著であることが判ります。

スーパー書評「漱石で、できている」6ホセ・オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』

四人の訳者を生年とともにご紹介しましょう。この時代(私自身も含めて)の知を求めていた人々にとって、この書がどれほど同時代的な衝撃力を発揮したか、という点にも目をとめて欲しいからです。個人的なことになりますが、一九三二年生まれの桑名氏を除けば、他の三人の訳者にはいずれも面識があります。

寺田氏は一九二八年生まれ。面識どころでなく、学生時代、少壮人類学者、アンデス文化研究の専門家として活躍中であった氏に、大学で初級スペイン語の講義を受けています。神吉氏(「かんき」とお読みします)は一九三二年生まれ。上智大学ではスペイン語およびスペイン美術史の泰斗として、先輩教授でありましたし、佐々木氏は一九三九年生まれ。上智大学では神吉氏の弟子でもあり、一時期イエズス会員として司祭を目指しておられた方で、その後、清泉大学を経て、独自の生き方を全うされました。

どれを推奨するかは、上に書いたような事情でお答えするのは大変難しい。寺田氏を除けば、スペイン語を正面から専門的に研究されてきた方々であって、寺田氏も南米のスペイン語圏の研究者で、南米のスペイン語とヨーロッパ大陸のスペイン語には、差異も生まれてきているそうですが、大学でスペイン語を教えるほどにスペイン語に堪能な方です。スペイン語に素人の私が、何か優劣を考えるような越権は差し控えます。出会ったもので、親しんで下さい。

Jose Ortega y Gasset(1883-1955)は、スペインに生まれた哲学者、思想家です。もともと、あの『ドン・キホーテ』の研究で知られたオルテガでしたが、この『大衆の反逆』は一九二九年に<La rebelion de las masas>として発表されました。

この時代とは、特にオルテガの生きたヨーロッパのこの時代とは、一体どんなものだったか。私は、この時代を象徴するものとして「アール・デコ」という概念を選びたいと思っています。百科事典的にいえば、一九一〇年代後半から一九三〇年代にかけて、アール・ヌーヴォーに次ぐ、ヨーロッパとアメリカで流行した生活様式、建築、装飾などのモードで、一九二五年にパリで開かれた装飾の万国博覧会が、そのエッセンスを伝えるものとされています。

それはそれで良いのですが、この時代、特記すべき出来事を取り敢えず列挙してみましょうか。

一八九五年、フランスの写真師リュミエール兄弟(Auguste Marie Lumiere, 1862-1954, Louis Jean Lumiere, 1864-1948)が動画を造って、ホテルの一室で公開映写をしたのが、映画の第一歩といわれています。一九〇〇年にパリで開かれた万国博覧会では、圧倒的な人気を集めたそうです。

一八九六年イタリアのマルコーニ(Guglielmo Marconi, 1874-1937)は、発信機と受信機の間に、繋ぐ線なしで信号をやり取りすることに成功しました。これが最初の無線通信です。当初、戦争の現場で使われた無線通信技術は、一対一の関係の連絡用でした。さらに、私的な連絡として無線電話などにも使われました。カナダの技術者フェッセンデン(Reginald A. Fessenden, 1866-1932)が、自宅からクリスマス用の音楽とメッセージを友人に無線で伝えたのが一九〇六年のことでした。やがて媒体の普遍性という性格上、発信源は一つでも、受信源は不特定多数であり得ることから、こうした事態が「放送」(broad-casting=つまり、「広く多くの人に投げかける」)という新しいジャンルを生み出すのに、さして時間はかからなかったわけです。

一九〇〇年、アメリカのカメラ・メーカーのコダック社が「ブラウニー」と名付けたカメラを1ドルで発売し始めました。いわゆる<6×6>版の畳み込み式と箱型の双方があったといわれますが、これが普及型のカメラの最初です。日本では、この際に使われたフィルムの様式を「ブローニー・フィルム」と呼ぶ習慣が定着してきましたが、本来はカメラの名称でフィルムの名称ではありません。

一九〇八年、これもアメリカの自動車メーカーであるフォードが<Model T>と称する小型自動車の販売を始めます。後のフォルクスワーゲンと並んで世界で最も成功した車とされています。

同じく一九〇八年、フランスで宝飾デザイナーとして一代を築いたルネ・ラリック(Rene Lalique, 1860-1945)が、香水商コティの要請に応えて、香水瓶とそのラベルのデザインを手がけました。これがきっかけとなり、彼はその後、ガラス細工の名匠としての地位を獲得します。

年代記風に、幾つかの出来事を記述してみました。次に、それぞれの意味を多少とも考えてみることにしましょう。

最初は映画です。映画の題材は、最初は単に機関車が走ってきたり、滝が流れ落ちたり、という眼を引く眺めの動画でしたが、やがて、演劇的な内容を持つエンターテインメントを主題にするようになります。キートンやチャップリンの初期の作品のような、動作の面白さなど、映画ならではの表現を身に着けて行きますが、内容の基本はドラマです。それは本来は、劇場のステージ上で演じられる芝居そのものです。十七世紀から十八世紀には、ヨーロッパの幾つかの国では、劇場が王の宮廷に設えられ、少数の貴顕が楽しむためのものから、一般の人々に解放されるものへと性格付けが変わっていく経緯がありました。映画はこの経緯の極点にあって、圧倒的に芝居を庶民のものに変えてしまったといえましょう。

放送もまた、同じ性格を持っています。<broad+cast>といっても、「広く」電波を受け取る人々の層が存在しなければ、「メッセージを投げかける」意味は全くありません。つまり、この時期にこうした技術開発が行われ、社会に普及するには、どうしてもそれを支える「一般の人々」という社会層が必要であり、逆にいえばそういう社会層が育っていたからこそ、こうした技術開発が目覚ましい結果を生んだのです。

カメラはどうでしょう。ヨーロッパの由緒あるお邸では、ご先祖から当代にいたる家族たちの肖像画が、麗々しく掲げられているのによく出会います。無論、それなりの謝金を払って、名のある画家に描いて貰ったものでしょう。無論、普通の人にはそんなことができる余裕も場所もありませんでした。しかしカメラは、当初は白黒しかありませんでしたが、家族の肖像を簡単に手に入れることを可能にしました。もはや、家族の肖像画は、上流階級の特権ではなくなったのです。

同じことが自動車にもいえます。かつて、移動の手段は、馬に乗るか馬車、場合によっては牛車もあったかもしれませんでしたが。農耕用の馬や牛を飼う農家は別として、都会の人間が、厩舎を持ち、馬丁を雇い、馬車を備える、などということは、おおよそあり得ないことでした。部品の規格化なども含めて、大量生産の手法を初めて造り上げたフォード社が、廉価を切り札に発売したT型フォードは、世界を変えたともいえます。例えば、ある研究者の論考によると、アメリカの性道徳は、この車をきっかけに変わり始めたのだそうです。若者たちが、自分たちだけの密室を簡単に持てるようになったからだといいます。

最後のラリックですが、それまで高価極まりない宝石を材料に、デザイナーとしての名声を得ていた彼が、ガラスという素材に目を付けたこと自体、自分の相手にすべき顧客の層の変化を、自覚的にせよ、半本能的にせよ、感じ取っていたからではないでしょうか。

こうしてみると、一九世紀終わり頃から二〇世紀の二〇年代頃までに、大きな社会的変化がヨーロッパやアメリカに起こっていたことが判ります。一言でいえば、一般市民層という社会階級が決定的な意味を持って確立された、ということでしょう。オルテガが、肌にひりひりするような感覚で感じていた空気が、それであったことは間違いないと思います。

もう一つだけ、これは技術開発とは関係ありませんが、アメリカで起こった教育制度の改革に触れておきましょう。一八六二年、ということは、まだ南北戦争のただ中ということですが、モリル(Justin Morrill, 1810-98)の提案で、通称「モリル法」が制定されました。この法律は、各州に連邦政府が持つ土地を無償で提供する代わりに、各州が農業技術者を養成する高等教育機関(正規の大学とは区別される)を設立・運営することを取り決めたもので、出発点は州立農学校<agricultural colleges>が主目標でしたが、やがて「工」にも照明が当たり、結局「農工学校」(Agricultural and Mechanical Colleges) 設立運動になりました。

アメリカには周知のように国立大学がありません。優れた大学(アイヴィ・リーグなど)は全て私立大学であり、大学への進学は資金面でも大変なことでありました。従って、州民に対しては、非常に負担少なく開かれた、モリル法下の教育機関は、やがて世紀末以降になって次第に正規の大学の資格を得ることになりますが、高等教育を一般大衆(もう、この言葉を使っても良いでしょうか)に開くという意味で、重要な役割を果たしたといえます。

これまでの記述で、知識人としてのオルテガの目に直接映ったであろう諸々の社会現象の中の代表的な幾つかを挙げたことになります。結局、すべては「大衆」という新しい社会層が社会の主役となった、ということを直接・間接に示している、と解することができます。

ただ、誤解されるべきでないのは、オルテガが『大衆の反逆』の中で、ヨーロッパの貴族階級やアメリカの富裕層と、そうでない社会層との差異を指摘し、前者に軍配を上げたのでは断じてない、という点です。もう少し別の観点からいえば、資本制が爛熟期に達して、有産階級と無産階級との断絶が、ロシア革命のような社会的大変革を導いている世情の中で、無産階級を「大衆」と断じ、彼らの専横を訴えようとしたのではない、ということでもあります。

それは、労働者階級にも「大衆」とそうでない人々とが存在する、という彼の言葉の中にもはっきりと表れています。つまり、彼のいう「大衆」とは、社会学的な概念というよりは、どのような行動規範に基づいて判断し行動するか、という誤解を恐れずにいえば、倫理的な概念に近い、と考えられます。

オルテガにいわせれば、彼が糾弾する「大衆」とは「皆と一緒」という状況に最高の価値を求める人々ということになります。これに対して「非大衆」とは、他者よりも自分が賢明であると誇る人間ではなく、他の人々よりも、より多くの義務を自らに科そうとする人間であると定義します。例えば、昔日のオクスフォード卒業生の平均余命は、一般の人々よりも有意に短かったといいます。彼らの<ノブレス・オブリージュ>は、普通の人間が躊躇うようなリスクの高い場所や機会を率先して引き受ける習慣があったからだ、というのです。

皆と同じ車に乗り、皆と同じ放送を聴き、皆と同じ映画を観、皆と同じ装飾品を身に着け、そうした「皆」の中に生きることで安定し、それで満足する人々が社会を満たし、社会の実権を握り、社会を動かす。しかし、それは何処へ向けて?

これは、まさしく「デモクラシー」の極でしょう。戦後の民主教育のなかで、民主主義は至高・無謬の絶対的価値として君臨しています。しかし、デモクラシーの元々の意味は<demo+cracy>ですから、高邁な主義でも思想でもなく、単に「大衆の統治」という意味に過ぎません。つまり<democracy>を「民主主義」と訳すのは、ある意味では誤訳なのです。

実際、民主主義を標榜してきたアメリカでも、<democracy>という語は避けられてきました。むしろ、「民主主義」のことを指すときには<republicanism>という語が使われていました。そういえば、今やアメリカでは「共和党」(Republican)が、トランプ氏のせいもあって、頑迷で保守的であり、「民主党」(Democrat)の方が「民主的」(!)だといわれていますが、かつて奴隷解放に努めたリンカーンは「共和党」で、これに議会で激しく反対し続けたのは「民主党」でした。

オルテガのいう「大衆」に政治が任されたときに生じる悲劇については、古くはソクラテスに死を宣告した古代ギリシャ、第一次世界大戦終結後におけるロシア、第二次世界大戦におけるドイツ、などなど歴史に枚挙にいとまがありません。百万単位の人々が無法に「粛清」されたスターリン治下のソ連邦の人々の全人一致のような大衆のスターリン讃仰、ヒトラーに捧げられた一糸乱れぬ大衆の賛同、こうした「皆が一緒になったコンセンサス」ほど、「デモクラシー」の恐ろしさを語るものはないのです。

スーパー書評「漱石で、できている」6ホセ・オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』

オルテガは、無論この本を書いた時には、ナチスの台頭には巡り合っていなかったのですが、彼は「超民主主義」と訳されている言葉を使って、ナチスの預言をしていたかのようにさえ見えます。

オルテガの中に、一種の貴族趣味を嗅ぎ取って、背を向けたくなる読者も存在すると思います。この本の中に、そう思わせる要素がないとはいいません。所詮は「上流」階級の立場が捨て切れない、という批判もあるかもしれません。しかし、虚心に読めば、とりわけ現代日本社会において、オルテガの批判を受け止めなければならない点が、必ずや見つかるに違いありません。

私たちは、常に問わなければならないのです。他人に求めること多く、自らに求めること尠きにあらずや、と。

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村上 陽一郎(むらかみ・よういちろう)

上智大学理工学部、東京大学教養学部、同学先端科学技術研究センター、国際基督教大学(ICU)、東京理科大学、ウィーン工科大学などを経て、東洋英和女学院大学学長で現役を退く。東大、ICU名誉教授。専攻は科学史・科学哲学・科学社会学。幼少より能楽の訓練を受ける一方、チェロのアマチュア演奏家として活動を続ける。