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言葉に宿る正と邪の「コード」 ウイスキーと酒場の寓話(37)

2020.09.30

Updated by Toshimasa TANABE on September 30, 2020, 12:00 pm JST

アフターコロナのニューノーマルなどといったところで、表層的な部分はまだしも、人間の根幹を構成しているような「コード」(規定、あるいは不文律のようなもの)にまで根本的な大転換が起こるとは考えにくい。特に良い歳にもなっていれば、意識・無意識は問わず、これまでやってきたことやそのやり方、それらのダメなところを構成しているコードを認識して、新しいコードに沿ったやり方や振る舞いに自ら移行する、ということはかなり難しいだろう。

本来こうあるべき、このくらいは踏まえておけ、貧乏くささからの脱却、といった「正」のコードこそをこれまで以上に指針として意識したいわけであるが、一方で、貧乏くさい話や振る舞いに透けて見えてくるような旧態依然とした「邪」のコードは、組織にも個人にも根強く残ると考えるべきだろう。そしてそれは、言葉と分かち難く結びついている。言葉に宿っている、といっても良い。

邪のコードといえば、例えば「ハンコ」である。ハンコという言葉には、いろいろなコードが埋め込まれている。

リモートワークなのにもかかわらず、ハンコを捺すためだけに出社するなどという話もあったようだが、誰がハンコを捺すという仕事のやり方を決めて強いているのか、実は判然としない。それが本当に必要なことなのか、省略できることなのではないのか、という検証もないし、検証しようとする、あるいはやり方を変えようとする試みすらとても少ない。まさにコードである。

本来は会社の代表者が申請すべき手続きを第三者に代行してもらうための「委任状」というものがある。手書きで署名して、法人の場合は代表者印を捺せとある。ハンコを捺して代理人に郵送する。実は、ハンコの真正性は印鑑登録証明書がないと厳密には分からないはずであって、ハンコを信用し過ぎなのではなかろうか。

こんな例もある。某書類にハンコを捺してカラーでスキャンして、PDF化してから添付ファイルでメール送信。先の例と同様にハンコの真正性の問題もあるし、PDFでもハンコは赤くないといけないようだ(元々、朱肉が赤いのには、それなりの意味があったというが)。

聞いた話だが、発注書をメール添付のPDFでもらっていたクライアントに監査が入り、その後は「電子発注を了承した」というハンコを捺した紙の承諾書の提出が必要になった、という例もある。まったく困ったものである。

とはいえ、「こうしろと指示されているだけ」の担当者に何をいっても仕方がないので、黙って対応するのが大人ではあれど、こういう黙って対応してしまうこと自体が古いコードともいえるだろう。

「振込手数料」なども曲者だ。以前、某大企業との契約書をチェックしたら、「報酬は指定の口座への銀行振込とする。振込手数料を引いた額を振り込むものとする。」などという文言を発見してしまって、変更を要求したことがある。担当者は「契約書のひな型を変更する権限はないので、見積金額に上乗せしてくれ」とのことだった。交渉自体が時間の無駄なのでその場はそういうことにしたが、振込手数料を外注先に負担させることも、契約書は見直さないことも、これぞ邪のコードの典型、と思ったものだ。

この振込手数料を外注先に負担させるという貧乏くさい企業(過去に数社遭遇した)とは、その後、一切付き合わないことにしている。法的には厳密には黒ではないのかもしれないが、事前にその旨を明確にしてあればまだしも、仕事が全部終わってフィーが振り込まれてから判明するのはかなり悪質だ。しかも、振込手数料にも何段階かあるとは思うが、税別で400円くらいが普通のところ、700円などを引いてくるようなところさえある(法人契約のオンラインバンキングなどでそういう料金設定なのだろうが)。

コードは言葉にビルトインされる。言葉に埋め込まれて、その言葉とともに行動を支配するようになる点が要注意なのだ。だから、語感が「調子悪い」新語は極力使わないようにしているし、何かを隠蔽する意図が濃厚だったり、変な省略や意味不明な短縮語も使わないように意識している。例えば、こういった言葉だ。

・ワーク・ライフ・バランス
・ライフハック
・ハッカソン
・ワーケーション
・ウェビナー
・マイナポイント
・コスパ
・エンコウ
・コンカツ
・イクメン

「ワーク・ライフ・バランス」などという言葉の空虚さ無意味さが、コロナ禍で露呈したのはむしろ良いことだった、と前向きに捉えたい。「ワーク・ライフではなくて、ライフ・ワークであるべき」などというつまらない揚げ足取りにも呆れたが、何より「変な省略形」(ワラバラなどというのだろうか?)が出て来なかったのが幸いだった。「働き方改革」などもそうだが、誰かが自分のために何かしら整えてくれるのではないか、というような依存の姿勢(コード)が感じられる。しかし、これらの言葉をお題目にしたところで何も変わらない。実際には、自分で考えて自分が正のコードで行動していくしかないのである。

「コスパ」といえば、日常的にコスパ、コスパと連発している人が、コストパフォーマンスあるいはC/Pという言葉を知らなかった、という事例さえある。語源などにはまったく無頓着に、平気で短縮語(とも思っていないのではないか)を使ってしまう神経が理解できない。

列挙した他の言葉については、貧乏くささ(ライフハックなど)と、何かを隠蔽する感じ(エンコウに顕著)、安易で語感が悪い(ハッカソン、ワーケーションなど)といったことで、どうにも使う気になれない。その言葉の裏にある意図(それこそがコード)に乗ってしまいたくないのである。

言葉に宿るコードという意味では、他にも気になるものがいくつかある。例えば「食」に関連する言葉であれば、「行きつけ」「常連」「グルメ」「食通」などと自称してしまうのは、かなり痛い。それは、店や他人が決めることなのだ。また「食する」「食した」というのも散見するが、「食べる」「食べた」ではないところに自己陶酔(のコード)が入っていて困ったものである。

お店の人にビールを所望するときに「ビール、ちょうだい」という物言いの人がいるが、これがとても嫌である。「いただけますか?」あるいは「ください」「お願いします」だと思うのだ。飲食店で「ちょうだい」という人とは、たった1回のその一言だけで、その後は距離を置くことにしている。

「お飲み物は?」と聞かれて「生でいい」、あるいは「焼き鳥は塩とタレがございますが」「タレでいい」というのも、かなり聞き苦しいものである。この「でいい」という表現は、『舟唄』にある「肴は、炙った、イカでいい」のような使い方こそが正統なのである。歌詞全体を見ると、「でいい」と「がいい」などを厳密に使い分けている。

この手の「人となり(どんなコードで行動しているか)が見えてしまう言葉」は、生活関連でもいくつかある。例えば人前で、男が配偶者のことを「嫁」(嫁さんではなくヨメ)と表現するのがどうにも馴染めない。実は、若い人にけっこう多いのだが。近しい間柄なら「カミさん」や「連れ合い」など、オフィシャルな場であれば「妻」ではないだろうか。

さらに、自分の家を「苗字+家」(ヤではなくてケ。ヤだとラーメン屋になる)というのも苦手だ。自分が北海道で生まれ育ったということもあろうが、「家」などというものを振りかざす感じが、前述の嫁と並んでとても嫌なのだ。その家の習慣や「お家柄」(そんなものがあったとして)なども関係するかもしれないが、この人はそういう価値観(コード)の人なのだ、これは話が合わなさそうだ、と感じてしまうし、多くの場合、その直感は外れない。

年下と思ったらすぐに「君付け」で呼んでしまう人も避けるようにしている。お互い良い歳でそれなりに自分の世界もあるのだから、社会人同士であるならば、本当の年齢はさておき、まずは「さん付け」が基本ではなかろうか。似たような話では、同級生のメーリングリストで、医者同士が「ナントカ先生」などと呼び合っているのも感心しない。

「ある意味、すごい」の「ある意味」というのも、気になって仕方がない。逃げを打っている(というコード)ことが濃厚なので、どんな意味なのかちゃんと示せ、などと詰問したくなってしまう。

仕事関係のリトマスワードとしては、少人数のチームで皆で考えながら進めようとしているときに、適当に調子を合わせているけれど、自分で考えも判断もせず、最後は「決めてくれれば、すぐやります!」という人は、お引き取り願うことにしている。「決めてくれれば」に宿るコードを考えたら、付き合うべきではない人だとすぐに判断できる。

新しいコード、正なるコードをどうやって見付けていくか、ということになると、これは一人で悶々としていても埒が明かないということもいえる。古いコードでけっこうな年月を生きてきたわけだし、新しいコードを編み出せるならとっくにそうしているだろう。特に、つい陥ってしまいがちな貧乏くさい考え方や振る舞いから距離を置くにはどうするか、という点は重要なのではなかろうか。ここは、人生の師ともいえる人達から学ぶべきだろう。

特に、伊丹十三による「貧乏くさい」についての喝破は素晴らしい。貧乏は単なる状況であるが、その状況を隠そうとするが故に却って貧しさが露呈するのが貧乏くささの正体である、というような話である。著作である『ヨーロッパ退屈日記』や『女たちよ!』などを読んでいると、1960年代後半の話がまったく色褪せていない。ダメなものや振る舞いは、50年経った今でも、まったく同様にダメなままである。世の中や人間の本質は、そう簡単には変わらないということの証左ともいえるだろう。

また伊丹十三は、60年代に既に「本質を理解してパクれ!」という一言を残している。日本人というのは、舶来モノの本質を理解せずに取り入れ、極端な、あるいはつまらない工夫の類を突き詰め、独自の変な世界を作り出すのが得意、という側面がある。それについての辛辣な批判である。例えばちょっと前の話だが、「エクセルを表計算ではなく清書用に使い倒す」などが典型だろう。セルを正方形のマス目だらけにして自在なフォーマットで「見た目だけ美しい」文書を作ってしまい、データの再利用が困難になる、という本末転倒な話である。本質を理解していれば、こういうことにはならないはずだ。

『ヨーロッパ退屈日記』の文庫本の解説に、これも人生の師の一人と思っている山口瞳がこんなことを書いている。

「彼の生きている様は、まっとうな人間がまっとうに生きて行く、ということについての悲惨な実験を見ているようだ」。

「まっとうに生きていく」という表現を「貧乏くささとは無縁に生きていく」と読み替えるとしっくりくる。30代半ばにして、あれだけ世の中を茶化し、かつ「ひどく貧乏でもないくせに大変に貧乏くさい中産階級」をバカにしきった成熟。そして何より、それを書き残してくれたことに改めて感謝したい。

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田邊 俊雅(たなべ・としまさ)

北海道札幌市出身。システムエンジニア、IT分野の専門雑誌編集、Webメディア編集・運営、読者コミュニティの運営などを経験後、2006年にWebを主な事業ドメインとする「有限会社ハイブリッドメディア・ラボ」を設立。2014年、新規事業として富士山麓で「cafe TRAIL」を開店。2019年の閉店後も、師と仰ぐインド人シェフのアドバイスを受けながら、日本の食材を生かしたインドカレーを研究している。