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食は「一期一会」である ウイスキーと酒場の寓話(39)

2020.12.18

Updated by Toshimasa TANABE on December 18, 2020, 12:39 pm JST

久しぶりに若い頃に住んでいたあたりに用があったので、当時、給料が出た後などにたまの贅沢で行っていた美味い寿司屋へ向かった。ところが、寿司屋だったはずの場所は、小洒落たブティックになっていた。インターネットで調べてみると、店のブログは2016年で、口コミサイトのレビューは2017年で途切れていた。去年くらいに昼飯を食べに行ったように思っていたのだが、ずいぶん長いこと行っていなかったことが分かった。40年近く続いていた寿司屋だったのだが、何があったのだろうか。

同じ日に、その近くにあるこちらは60年近く続いている中華料理屋に、大変申し訳ないことだが20年ぶりくらいに行ったところ、来年2月で廃業することにしたと知らされた。コロナ禍が原因ではなく、2、3年前から「ちゃんとしたものを出せなくなる前に手仕舞いをしよう」と考えて準備してきたところだったという。

こんなこともあった。しょっちゅう行く訳ではない某所で、偶然に入った四川系のお店の担々麺が素晴らしかった。その記憶を頼りにある日そこに行ってみたら、1週間くらい前に店主の健康上の理由で廃業していた。また行こう、また行こう、と思っているうちに、もう二度と食べられなくなってしまったのだった。

年末に独りで焼き鳥を食べつつ酒を飲んで、「今年も終わるなぁ」などとしみじみするのに格好の店があった。しかし、年が明けてしばらくしてから行ってみたら、そこは更地になっていた。焼き鳥のネギマのネギの代わりにニンニクを刺して焼いたものが美味かった。イワシには、メザシと丸干しとウルメがあった。その後は知らないが、これもかなりのショックであった。

渋谷の某所のように、再開発で好ましかったお店が軒並み廃業あるいは移転、などということもある。

このように食はまさに「一期一会」。食の本質を表現するのに、これ以上の言葉はないのではなかろうか。

いつまでも変わらずに店が在り続けるというのは幻想だ。「また来よう」と思っても、「また」はないかもしれないのだ。店が変わらず続いているかという問題もあるし、自分の体や都合のこともある。だから、「美味い!」と感じたその時を大事にしないといけない。

もちろん、この一期一会という感覚にはいろいろな側面がある。例えば、若い頃に感激したものが年を取るとさほどには感じられなくなる、ということはよくあることだ。理由としては、味が落ちた、スタッフが変わったなど店がダメになったということもあるかもしれないが、自分の口が奢った、あるいは荒れた、思い出は美しい、といったこともあるだろう。店は存続しているものの、かつての感激はもう味わえない、という意味での「一期一会」である。

実際、久しぶりに入った店に幻滅して、もう来なくて良いな、と思わされることも少なくない。これは、味もさることながら、店のオペレーションだったり、スタッフの問題だったり、変な客が幅を利かせていたり、それが許されていたりなど、気持ち良く飯が食えなくなる理由はいろいろあるものだ。

鰻が高騰するにつれ値上げする鰻屋が続出した。仕入れのコストというものがあるので、値上げそのものに文句を付けるつもりはないのだが、値上げしたにもかかわらず味が落ちた、という店がけっこうあった。かつての美味さはこの店ではもう味わえなくなってしまったらしい、ということで、これも一期一会だったと思わされる例である。

また、店の主人が歳を取ってしまった、体を壊してしまったなどの理由で引退あるいは廃業というケースもよくある話だ。先の担々麺の店の例もそうだし、代替わりして店は続いているけれど、跡継ぎのデキが悪くてまったく変わってしまった、ということもある。

一方で客の側は、健康状態や年齢、転居などによって、その店には現実的には行けなくなってしまうことがある。30代くらいまでは、そんなことは考えもせずに「美味かった、また来よう!」などと単純に思うだけであったが、50代にもなると「もしかしたら、これを食べるのは今回が人生で最後かもしれない」と思うことがけっこうある。

飲食店が味をはじめとしたもろもろのクオリティを長く維持して継続していくことは、並大抵のことではない。今、ここで味わった感激をもう一回、といったことは、自分のコンディションも含めて、なかなかに難しいことなのである。一期一会であることが普通なのだ、と思うべきである。

とはいえ、こんな例もある。先日、野暮用で横浜・桜木町に行った時に、久しぶりに馬車道の中華料理屋に晩飯を食べに行った。数年前の一時期、すぐ近くに住んでいたので、昼飯、晩飯でけっこうお世話になった店である。とてもご無沙汰なので恐縮していたら、女将さん(中国人)が、「久しぶりね、元気だった? 来てくれて本当にありがとう」などと話しかけてくれた。この近くの別の四川料理の店では、女将さん(中国人)が「ご無沙汰だね!? ちょっと痩せたんじゃない?」(この辺に住んでいた頃は太っていた)と話しかけてくれた。両店とも、店の雰囲気もこれを食べようと決めていた料理も全く変わっていなかった。商売というものはこうじゃなきゃ、と思わされるのであった。

いい歳になり、それなりに仕事もしていれば、人生に残されたまともな晩飯の回数などたかが知れている。その中で、何を食べていくのか、ということを考えると、まさに一期一会であり、さらにいえば、その時に自分が何を食べたいのかをどこまで真剣に考えられるかが問われている、と考えなければならない。

だから、店を選ぶ基準が「ナントカキャンペーン」の対象店だったりするのは、まったく貧乏くさい話であって勘弁願いたい。特に足繁く通っていた訳でもないのに、閉店の情報を聞きつけて押し寄せるなどというのも、かなり能天気である。その時、本当に食べたいものをキャンペーンだの閉店だのといった変なバイアスに左右されずに正当な対価で味わっていたいものだ。

特に、昨今のコロナ禍では、続けたくても続けられなくなったという場合ももちろんあるだろうし、苦しかったけれど止めるに止められなかったところに良いきっかけになった、というケースでの廃業もあるだろう。一期一会ということをさらに意識していくべきだろう。

スガシカオさんの「夏陰」という曲にこんな歌詞がある。

「ずっと今日と同じ日々が、願わなくても続くと思ってた」

これほど若い時期の気持ちを端的に表現した歌詞は、なかなかないのではなかろうか。食についても完全に包含している。

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田邊 俊雅(たなべ・としまさ)

北海道札幌市出身。システムエンジニア、IT分野の専門雑誌編集、Webメディア編集・運営、読者コミュニティの運営などを経験後、2006年にWebを主な事業ドメインとする「有限会社ハイブリッドメディア・ラボ」を設立。2014年、新規事業として富士山麓で「cafe TRAIL」を開店。2019年の閉店後も、師と仰ぐインド人シェフのアドバイスを受けながら、日本の食材を生かしたインドカレーを研究している。

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