正体不明な必需品としての「常識」 (3)常識と非常識はどう峻別されるべきか
2020.12.25
Updated by Chikahiro Hanamura on December 25, 2020, 08:00 am JST
2020.12.25
Updated by Chikahiro Hanamura on December 25, 2020, 08:00 am JST
「非常識」とは一体何を指すのだろうか。それがはっきりと明文化されていそうなのが「法律」である。法治国家に住む私たちは、自分の行動の基準を独裁者に決められるのでもなく、企業に委託するわけでもない。法律に委ねることにしているのである。法律に従うということが法治国家の常識であり、その法律から外れたことが非常識とされるのは、最も分かりやすい判断基準となる。
しかし、法律的に何が正しく何が間違っているのかは、私たちの常識や非常識と必ずしも一致するとは限らない。法廷では、法律に基づき合法か違法かが判断されるだけである。法律には「私たちがどのような権利を持っているのか」、そして「どのような義務を負うのか」が書かれていると同時に、「私たちがどのように行動してはならないのか」が定められている。
私たちが食べて良いものといけないもの、摂取しても良い薬物と摂取してはならない薬物、行って良い場所と行ってはならない場所、というように法律の範囲内に限られた中で、私たちの自由は担保されている。たとえその法律を知らなくても、そこに書かれていることを守るのが、一応私たちの「常識」になっている。もし、私たちがその法律を守らなければ、「非常識な人間」であるとされた上、罪に問われる。
法律とは、基本的には国家という単位で共有された約束事である。当然、国家が異なれば、その約束事は変わってくる。例えば、多くのイスラム教国では飲酒が法的にも禁止されている。もし、イランで私たちがお酒を飲んだとすれば、イランの法律で裁かれてしまうことになる。そこでは日本の常識は通用しない。
また、同じ国の中であっても、条件によって私たちが守るべき約束事が異なる場合もある。お酒を自由に飲んで良い日本でも、未成年には禁じられている。また成人であっても、飲酒して自動車を運転することは法律で禁じられている。このように、法律には膨大な約束事が書かれているが、それら全てが必ずしも「常識」とは限らない。
法律を作る場は国会であり、政治家がそれを担う。役人はその法律が書かれた書類とその手続きのプロセスを管理し、法律の内容やその執行プロセスに基づいて私たちを裁くのが司法である。こうした役人や政治家を選出し管理する立場にあるのは、本来私たちであるはずだが、その「常識」は忘れ去られているか、形骸化している。さらに私たちが愚かなのは、その法律を作る役割を政治家に担わせておきながら、それが成立する過程に直接関われないシステムを採用していることである。
良く考えれば、私たちの自由に大きく関係する法律を、私たち自身が直接決められない仕組みになっているのは奇妙である。もちろん、表向きは国会という場で審議されているように見えるとはいえ、重要な法案であっても、私たちが感知する間も無くあっさり決まって行く仕組みになっている。それ以前に、何を法律として審議すべきかは、事前に私たちが知らない場で知らない間に話し合われたものをベースにしている。
そんな状況の中で、「主権が私たちにある」とは一体何を意味するのかは、真面目に考えなくてはならないことだろう。気を抜けば、私たちがして良いこと、してはならないことを定める法律の中に、我々が話して良いこととならないこと、我々が考えて良いこととならないことのような、私たちの内面の自由に関わることが定められるようになるかもしれない。
一方で、法律とは私たちが「非常識である」と明確に烙印を押されないために守るべき最低限のルールではあるが、常識の範囲としてはかなり限定されたものでもある。法律以外にも、私たちが社会の常識として共有しているものはたくさんある。それらはまとめて「規範」と呼ばれることがある。自分が所属する社会で多くの人が当たり前としている行動のガイドラインである規範は、私たちの日常の常識のイメージに最も近いだろう。
例えば、人と挨拶を交わすことや、エレベーターの中で大声を出さないこと、勤務中にお酒を飲まないことなど、さまざまなものがある。その規範から大きく外れると非常識であるとして白い目で見られるかもしれないが、守らなくても法的に罰せられることはない。
規範には、組織の内規のように文章化されたものもあるが、市民生活や人間関係においては明確にどこかに定められているわけではないものもある。さらに、全ての人が同じように考えているわけでもないため、人によってかなりの幅があるものだろう。
規範的な意味での常識と非常識の判断基準は、自らの行動において周囲に迷惑をかけないことである。だから、たとえその人が特殊な価値観を抱き、特殊な見方をしていたとしても、それが行動という形で表れなければ非常識として咎められることはない。むしろ場合によっては、相手の規範を犯さなければ、特殊な価値観や認識を持っていることや互いの考えのズレは必ずしも悪いことばかりではなく、好意を以て迎えられることもある。認識の違いがそれぞれの常識の幅を広げたり、常識外れな感覚や発想が個性や創造性として受け止められることもあるからだ。
そもそも、それぞれの人が持つ知識や見方には、共通している部分と異なっている部分があるのが普通である。その「共通している部分」を指して常識と呼ぶが、「共通していない部分」が必ずしも非常識になるとは限らない。そしてそれらは、本人の内に秘められて表現されなければ、特殊な価値観なのかどうかの発見は難しい。なぜなら、本人は当たり前と思っているので、その自分の考えが多くの人とは異なるものかどうかを確かめるには、照らし合わせる必要があるからだ。その結果、自分の考えが特殊なものであったとしても、相手の行動規範の邪魔をしない限りにおいては罪と見なされないことが多い。
しかし、その考えに基づく行動が多くの人が共有する「道徳」から外れている場合には、非常識として排除されることになる。ここでの道徳とは、倫理観とも呼べるものであり、その人が抱いている精神的な価値観である。それは個人的な感覚でもあるが、同時に、その社会が共有する規範や法律のベースにもなっている文化的なものでもある。
多くの場合、そうした価値観は古来より宗教観が培ってきたものが多いが、「人権」や「平等」のような比較的新しい近代的な規範とも関係している。自分の道徳が他の人と大きくズレていたとしても、行動や言動として表に出てこなければ問題は起きない。もしそれが表れたとしても、法律を犯さなければ現代の法治国家では罪には問われることはない。だが、他者に不快感をもたらすことで非常識という烙印を押される。
この道徳の非常識が、時には法律以上に厳しい社会的な制裁につながることがある。頻繁にメディアで問題にされる芸能人の不倫や政治家の発言などが典型だが、多くの人は道徳的な誤ちを許さず、社会的に抹殺しようとする。今の社会の中では、道徳的な非常識を行うことは、法律を犯す以上に「罪」として捉えられてしまうのではないか。
しかし、この道徳的な常識と非常識の基準こそ、判断が最も難しいものでもある。それらは、対象とされる人のキャラクターや印象、そして非常識を判断する側の感情にも大きく左右される。また、その道徳を誰かが破ることに対しては嫌悪感があっても、自分が破ることは容認できるという精神性を人間は少なからず持っている。常識というものは、都合よく使われるものなのである。
このように「常識」は、かなり曖昧なものである。結局のところ、常識とは私たちの「見方」に大きく依存していることが分かる。私たちは、小さい頃から体験してきたことや、周囲の人々との関係の中で自分の見方を培うが、それは自分だけの独自のものではない。私たちの見方は、常に誰かの影響を受けているため、自分の見方なのか誰かの見方なのかをはっきりと区別するのは難しい。
そして、文脈や状況によって見方は変わってしまう上、その物事や人との関係性によっても、私たちは見方を簡単に変えてしまう。持っている知識が変われば見方も変わるし、何かの経験をすればまた見方は変わる。こうやって見方が変われば、自分の中で常識としてきたものは変わるのである。
そして現在、この未曾有の変化が起きている状況の中で問われているのは、私たちがこれまで常識としてきたことは本当に「正解」なのだろうかということである。その社会で多くの人が当たり前に思うことが常識なのだとしても、それが必ずしも正しい見方であるとは限らない。何らかの理由によって誰もが間違っていて、少数の人が正解であったことは歴史の中でよくあることだ。
それに加えて、現在多くの人が共有しているとされる「常識 = common sense」は、本当に多くの人が考えていることや感覚と一致しているのだろうかという疑念もある。会ったこともない大勢の人々が、どういう見方をしていて何を考えているのかを知るのは、多くの場合メディアから流れてくる情報である。そこではまるで、社会の多くの人はこのように考えていると報じられるが、実際にどれくらいの人々がそんな見方をしているのかは分からない。
そんな観点からインターネットを注意深く眺めると、さまざまな見方があることに気付く。その中には、私たちがこれまで当たり前としてきたことが、実はそうではなかった、という見方やその証拠も次々に上がってきている。もちろん、そこには科学的でないものも溢れているし、客観的な装いではあっても根拠が希薄な言説もたくさん見られる。
だが今や、それらの全てが不正解であるとは必ずしも言い切れない時代を私たちは迎えている。そんな中で、これまで常識としてきたものが、この先も常識となっていく保証などどこにもない。
一方で、自分の中で一度でき上がってしまった常識というのは、なかなか修正が難しい。長年に渡って体験の中で得てきた感覚や、小さい頃から教育されてきた知識、多くの人が繰り返し口にする情報。こういった時間をかけて繰り返し身に付けてきたものほど、深く私たちの中に刻まれており、それはいつしか「信念」や「アイデンティティ」と一体となっている。
自らが固く信じて疑わないものは、常識というより「固定観念」あるいは「偏見」と呼ばれるものである。アインシュタインが「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう」という言葉を残しているように、常識は偏見が形を変えたものなのである。
そんな見たいものにしか目が向かない状態を、私は「まなざしの固定化」と呼んできた。私たちのまなざしが、自分が信じていることに固定化された状態では、別の事実を見せられても、それは事実には見えない。いくら妥当性がある証拠や理屈が並べられても、自分の信念に合わないものを非常識なものとする方が、私たちには容易なのである。だから、ますます頑なになり、自分が信じているものや固定観念を正当化してくれる見方や理屈、情報や権威を追い求めるようになる。場合によっては、自分と反対の見解や立場を敵視したり馬鹿にしたりする態度を示すことさえもある。
そのまなざしの固定化は、個人だけではなく社会全体に広がっている。そこには善悪や正義、そして利害が関係しており、問題はさらに複雑だといえるだろう。今の社会は、これまでに一度でき上がってしまった常識を前提にして、さまざまなことが動いている。一度正しいとしたことがもし間違いであったならば、それまで拳を振り上げて声高に正当性を主張していた人々は拳を下ろす先を失う。だから、その前提が間違っていても急に修正することができない。
特にそれが科学の学説だったり、それに基づく産業などの利益構造の中にあれば、抵抗はより大きいものとなる。ある前提の下に世界中が巻き込まれ、莫大な利益をもたらしているのであれば、その前提が崩れることは何としても防がねばならないと考えるだろう。
たとえ世紀の大発見があったとしても、それがこれまでの前提を覆し、教科書を全て書き換えねばならない事態になるのであれば、総力を上げて封殺しようとする力が働く。都合の悪い事実は隠蔽、あるいは歪曲などの演出をするか、何事も無かったかのようにほとぼりが冷めるのを待ち、責任を取ろうとはしないだろう。特に専門家や権威になればなるほど、これまで前提にしてきた見方を変えるのには勇気が必要になる。
しかし、これまで世間で信じられてきた常識や前提は、本当に正しいのか、そして、非常識であるとして一蹴してきたことが全て間違いだったのか、ということを今一度問うべきではないのか。非科学的であるとしてきたこと。迷信だとしてきたこと。陰謀論であるとしてきたこと。都市伝説であるとしてきたこと。そうやって非常識という箱の中に押し込めてきた様々なことの中に、一抹の真実がないと言い切れるのだろうか。
もし、今の常識を覆す見方に妥当性があり、それを受け入れる人の方が多くなれば、これまでの常識は非常識へと反転する。それが既に起こり始めているのは、予測が不可能なほど急激な変化が実際に起こり、常識が崩壊する状況が発生したからである。そんな中で「これまでとこれからの常識をめぐる戦い」は始まっており、さまざまな力が巧みに私たちのまなざしをデザインしようと仕掛けてきている。
今こそ、私たち自身がこれまで以上に、何が正しいかを見極めるまなざしを持つ必要がある。その際に、多数派か少数派かを正しさの判断基準にすると見方が正反対になる。なぜなら、本来は「多くの人が当たり前とする常識が正しい」のではなく、「正しいことが多くの人の常識になる」ことこそが当たり前だからだ。だから、私たち自身が今持つべき態度とは、一度立ち止まって今の時代に何が正しいのかを冷静に見つめることだ。必要であれば、素直に自分の非を認めて見方を改めることである。
そしてそれ以上に、私たちが意識しておかねばならないことは、いつでも変わらず正しい常識など最初から存在しない、ということである。何が当たり前であり、何が正解かは、状況や見方によって変化する。この世界では絶対的なものはなく、常に変化して「無常」に移ろうことだけが正しい。であるならば、私たちは常識ではなく「無常識」こそ当たり前にせねばならないのではないだろうか。
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登録はこちら1976年生まれ。博士(緑地環境計画)。大阪府立大学経済学研究科准教授。ランドスケープデザインをベースに、風景へのまなざしを変える「トランスケープ / TranScape」という独自の理論や領域横断的な研究に基づいた表現活動を行う。大規模病院の入院患者に向けた霧とシャボン玉のインスタレーション、バングラデシュの貧困コミュニティのための彫刻堤防などの制作、モエレ沼公園での花火のプロデュースなど、領域横断的な表現を行うだけでなく、時々自身も俳優として映画や舞台に立つ。「霧はれて光きたる春」で第1回日本空間デザイン大賞・日本経済新聞社賞受賞。著書『まなざしのデザイン:〈世界の見方〉を変える方法』(2017年、NTT出版)で平成30年度日本造園学会賞受賞。