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村上陽一郎

エリートと教養14 政治を報道する「言葉」の選択

2021.03.05

Updated by Yoichiro Murakami on March 5, 2021, 15:32 pm JST

2020年は、ウィルス禍と学術会議問題とが、メディアを賑わした。学術会議問題というのは、新規の会員登録の際、会議側が示した候補者リストのなかの六名の方について、政権交代したばかりの菅内閣が任命を「見送った」という出来事である。この問題に関しては、私には私なりの意見があって、それは公表もしているので、本稿では沈黙を守りたい。

問題にしたいのは、この事件を報じるメディアの言葉遣いである。NHKは、私も書いたように、六名の候補者の任命を「見送った」と報じ続けている。他方、私の知る新聞は二紙に過ぎないが、こちらはどれも任命を「拒否」したと書き、以降、常に「任命拒否」と表現している。

「見送り」と「拒否」とでは、与える印象は大きく違う。政府が主語になると、政府に批判的なメディアは、その行為を常に一般に悪印象を誘導しがちな表現を使う傾向がある。上述の場合も、まさしく中立的で温和な表現を忌避して、読者の感情を逆撫でするような言葉遣いを敢えて使用しているのではなかろうか。私は、この傾向を「喚情的人称変化」と呼びたいと思っている。

主語が何であるか、つまり主語の人称の変化に伴って、用言部分の表現が変化するのが人称変化である。この場合は、主語に政権側の当事者が置かれるか、そうでないかによって、用言の表現が人々の感情を刺激する(喚情的)性格のものになる、ということを示したいのである。

余談になるが、日本語を学ぶ者にとってかなりの努力を要求する敬語用法も、同じように一種の人称変化と捉えることができる。「君はあの映画見た?」と「あなたはあの映画ご覧になりましたか」という具合になるからである。

話を戻そう。もう一つ顕著なのは、議会における「強行採決」という言葉である。政府、あるいは与党が提出した法案に対して、反対党が議会での討議と採決を拒否して欠席する。已む無く与党側は、出席する議員だけによる採決を実行する。するとメディアは、必ず「強行採決」と呼び、「採決を強行した」と表現する。

議会制の民主主義なるものでは、最終的には数による採決に頼るほかはない。私は、その原則に必ずしも全面的な正当性を見い出せないという立場だが、メディアは「議会制民主主義」を金科玉条のように守ることを主張する。そうであれば、審議を拒否し、数で負けるから議場には出ない、という反対党の振る舞いにどこまで正当性があるか、という批判が導かれるのが論理的というものだろう。

しかし、メディアは決してそうは言わない。そして、たとえ何時間も審議が尽くされた後でさえも、充分な審議がないままに採決が「強行」された、という如何にも不当であるかのような印象を与える表現を使うのを常とするのである。

もう一つの例を挙げよう。最近の例である。日本オリンピック委員会の責任者であった森氏が、不適切な発言をしたとして辞任した件である。NHKを除くすべてのメディア、新聞もTVもみな「女性蔑視の発言」という表現を使った。NHKだけが「女性蔑視ともとれる発言」という言葉遣いで終始していた。

私は、明らかにNHKの言葉遣いが正しい、と確信している。森氏は、繰り返し自分は女性を軽蔑するような意志は毛頭なかった、と言われているそうである。人々は単なる遁辞としか思わなかったようだが、同年配の私には、森氏の言い分は手に取るように判る。

森氏は、場を和ませるつもりで、自分にとっては「ユーモア」の心算も含めた、サービス精神で発言したに違いない。森氏の過ちは、女性を軽蔑したことではなく、あの種の発言が今は、事有れかしと思う人々にとっては「女性蔑視」と受け取られかねない状況にある、という点に無感覚であったことである。

勿論、そうした人物が、現代において先端的な組織の長であって良いか、ということは全く別の問題である。森氏は所詮どこかで、そうした感受性の欠如で躓く運命にあった、という解釈は成り立つだろう。しかしここでも、政治が絡んだ瞬間に、「事有れかし」派は、大喜びで「落ち度」批判、そしてその落ち度の当事者の人格さえ否定する方向に走るのである。

村上陽一郎

ここまで書いたことは、現政権への感情的な支持宣言と受け取られるかもしれない。しかし、それは全くの誤解である。最近の新聞は、アメリカの真似をして「ファクト・チェック」なる概念を自らに課すようになった。要は、メディアは少なくとも「ファクト」の報道に関する限り政治的に中立であるべきではないか、という極めてシンプルな主張である。これでもか、これでもか、と政府に対して負の価値付けをしようとする表現の暴力は、メディアとして不当な態度ではないか、と言いたいのである。

無論、メディアが政権に批判的な姿勢を持つのは、当然の権利である。しかし、それは社説や記者の意見陳述の場面でなすべきことである。報道すべき客観的(といえる)ファクトに関する限り、喚情的な表現を持ち込むべきではない、という、単純な求めなのだが。

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村上 陽一郎(むらかみ・よういちろう)

上智大学理工学部、東京大学教養学部、同学先端科学技術研究センター、国際基督教大学(ICU)、東京理科大学、ウィーン工科大学などを経て、東洋英和女学院大学学長で現役を退く。東大、ICU名誉教授。専攻は科学史・科学哲学・科学社会学。幼少より能楽の訓練を受ける一方、チェロのアマチュア演奏家として活動を続ける。