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村上陽一郎

エリートと教養16 「食べる」ということの本質

2021.03.18

Updated by Yoichiro Murakami on March 18, 2021, 12:03 pm JST

残念なことに、紙媒体としての雑誌は廃刊になってしまいましたが、新潮社に『考える人』というハイブロウな季刊誌がありました(現在はウェブ・マガジンの形で存在しています)。過去の連載から幾つもの私にとって親しい書籍が生まれてもきました。例えば、沢山のことを教えてもらった、今や押しも押されもされぬ賢人 佐藤卓己さんの『輿論と世論』、あるいはあらゆる面でファンとして愛してきた天下の才人『伊丹十三の本』(編集部編)などは、今でも手の届く書棚に鎮座しています。

脚本家 山田太一さんも「月日の残像」という連載を掲載されている時期がありました(この連載も新潮社文庫『月日の残像』として刊行されています)が、二〇〇八年春季号に、「食べることの羞恥」と題されたエッセイがあります。その中で渥美清さんの言葉が引用されています。曰く「うまいもんがあると聞くと、捜してでも食いに行くなんて、なんか、品がないよな」。

そして、山田さんご自身の若い頃の記憶。「好きな同級生の女子の前では、蜜柑も食べられなかった。食べている自分は醜いにちがいないと思った」。あるいは、「うまいもの」のお店や、メニューについて書くことを「大半は断っている。書けないのかもしれないが、四十年余り書いていないのだから、いくらかは意志もあると思う」という文章も読めるのです。

村上陽一郎まさしく、私も全く同じ感覚を共有する人間の一人です。食べることの「浅ましさ」を常に感覚の奥底に積んできている結果なのだと思います。ヒトの生命維持にとって、絶対不可欠な摂食と排泄。どちらも「人間」ではなく、「ヒト」に関わる機能ですが、それだけに「人間」としては、あからさまにそこに踏み込むことへの羞恥とそれに由来する慎み深さが、私たちの文化の中には確かに連綿と受け継がれてきていたはずです。

自分のことになって恐縮ですが、『新潮45』という雑誌の一九八九年四月号に「教養のためのしてはならない百箇条」という戯れ文を載せたことがあります(拙著『やりなおし教養講座』NTT出版、末尾に再録)。その冒頭は次の文章です。

「美味しいもの」とそうでないものとをはっきり区別はするが、食物についてとやかく言わない、書かない。

そうだとすれば、今回のこの文章もそのタブーに触れることになりますが、この文章は「食べる」ということについてであり、上の表現の趣意に反するものではない、ということにしておきましょう。

山田さんは、食べることへの羞恥の理由(の一つ)として、「敗戦前後の乏しい食糧事情のせいである」と述べておられます。「食べられるものはなんでも食べた。素早く食べた」。それも、私が共有する切ない経験であります。山田さんも言及しておられますが、油(当時、最も貴重だった物資であります)を絞り切った大豆の残骸、「豆かす」と称したそれが主食である時期が長く続きました。「ふすま」(麸という字を当てますが)というのも、主食の一部でした。要するに、養分に相当するものがほとんど含まれていないのです。今では、一部の方々の間では美容食になっているそうですが、広辞苑の解説文を以下に引用してみましょう。

小麦をひいて粉にした時に残る皮の屑。洗い粉または牛馬の飼料に用いる。

およそ人間の食べ物からは縁遠いような定義ですが、敗戦前後の私たちは、配給制度の中で、そうしたものを国家から宛がわれていたのです。

当時は「食管制度」(食糧管理制度)というのがあって、農家にはコメの供出が義務付けられ、国家に一旦収納された米は、配給制度の下で国民に分配されることになっていました(現在は、役割のかなり違う「食糧法」として僅かに残っています)。しかし、その量は命を繋ぐには極めて不充分なものでしかありませんでした。法に携わるものとして、国家の約束する食糧以上のものを求めない、とされた山口という判事さんが餓死されたのは、今でも私の記憶に鮮明です。

何故、そうなるのか。国土の荒廃で充分な農業を保証できなかった、という理由もあったでしょう。そして、誠実に米の供出に応じる農家もあったに違いありませんが、一部の農家は国家の買い上げ価格に満足せず、闇のマーケットに高額で流して莫大な利益を得ていたため、供出量が十分確保できなかったということもありました。

あるいはまた、一部の農家には、都会から飢えた人々がなけなしの和服や帯、あるいは高級カメラなどを持参すると、恩に着せながら傲然と僅かな米を提供する、というやらずぶったくりに近い所業も見られました。私の母の和服のほとんど、あるいは、父が大事にしていたドイツ製のカメラ二台は、こうして我が家から農村へと移動したのでした。

人々は米穀通帳を渡され、それによって一人ひとりの米の消費を完全にコントロールされていました。仮に旅館などに泊まることができても、食事をするには米穀通帳を渡して記録してもらわなければなりませんでした。蕎麦屋や街の食堂で、辛うじて麺類やスイトンなどの粉食にありついたとしても、その時は現金以外に一人当たり決まった枚数配られる外食券が必要でした。

満員で、窓からしか出入りができなかったようなひどい状態の列車で、白米のおにぎりなどを開けようものなら、何とも言えぬ周囲の視線を一斉に浴びなければならかったのでした。だから、長時間乗らなければならない列車の中でも、弁当(それがたとえ、サツマイモ二本であったとしても)を開くことは、むしろタブーでした。

戦後の教科書に載った、宮澤賢治の「アメニモマケズ」の一節、「一日玄米四合と、味噌と少しの野菜を食べ」の部分は、政府・文部省の申し入れがあったのでしょう、「玄米三合」に改訂されていました。それでも「三合」は、当時の通念からすれば羨ましい限りの豊富な量でした。今、日本国民の一日当たり、米の平均消費量は一合前後だそうですが、時代が全く違います。人々の主なエネルギー摂取源が米であったことを忘れないで下さい。

あるとき、米軍の放出物資の一つとして、真っ白に漂白された小麦粉が一所帯当り可成りの量配給されたことがありました。配給所へ笊を持って取りに行った夜は、豪奢な悦楽ともいえる一時でした。当時、独特の自動パン焼き機があったのです。金属の板で五つの面を囲い、そこに水でこねたパンだねを入れ、その金属板の相対する二面に直接電気のコードの正負二本を繋ぎます。パンだねは水分を含んでいるので、箱全体に電気が流れますが、熱で内部が焼けてパンだねの水分が無くなると、電気は通らなって自動的に切れるのです。そんな原始的なパン焼き機で焼いたパンの美味しかったこと。

二百坪ほどの我が家の庭は、戦前は芝生が植えられていましたが、戦後すぐにすべて掘り返し、先ずはサツマイモ畑にしました。収量も多く手のかからない「農林一号」(この名前はジャガイモにも米にもありますから、正式には「甘藷農林一号」ですが)をもっぱら植えました。茎の部分は干して保存し、煮て食べました。朝昼晩、サツマイモ二本という毎日でした。小学生だった私の弁当も、変わりはありませんでした。

近所にかなり広い空き地がありました。持ち主は戦後のどさくさで、判りませんでした。私たちは、勝手にそこを耕して陸稲を植え、ナス、大豆、カボチャなどを植えました。今なら、不法占拠で手が後ろへ廻りかねない所業でしたが、背に腹は替えられないと思っていました。肥料は自宅の便所から汲み出したものを肥担桶(こえたご)で畑まで運びました。

要するに、食べることが生きることであり、最も真摯に向き合わなければならないことであった、と同時に、食べ物を得ることが、極めて浅ましい業であることを骨身に徹して悟ることでもありました。ありついた食べ物は、他人と争ってでも、即座に食べて仕舞わなければ生きられない、そんな状況をくぐり抜けてきたわけです。

今、TVでは、食べることを「遊び」としているような番組が溢れています。只管、食べる量を競い合う「大食」番組など、心底観るに堪えない思いで、チャンネルを回します。何かを食べつつある人の口、唇などを大写しで放映するTVの慎みのなさ。それを許す芸人さんやタレントと称する方々の浅ましさ。

ヒトの本能に直結する「摂食」という行為自体は、どこかで人目を憚る思いを誘います。同じような性格の性行為が、人目を憚るのとほとんど同じ基礎に根差しています。それと同時に、逆にそうであるがゆえに、また人間が文化として真摯に向かい合わねばならないものであるからこそ、おろそかに、戯れに、弄ることをも憚る行為でもあると私は思います。

村上陽一郎

禅寺では、食事の際に作法として、静粛を至上と見做しています。沢庵を食べるにも、音を立てないことが求められます。イエスは、晩餐での仕切りを神聖なものと考えたと思われます。ミサは、その名残というか、その考えに則って立てられます。

ヒトの本能に基づく摂食行為から、文化の中にある人間の食事の行為まで、そこに求められる規矩が大切なのではないか、とつくづく思います。現在の日本の状況を振り返ったとき、ほとんど哀しみさえ覚えます。

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村上 陽一郎(むらかみ・よういちろう)

上智大学理工学部、東京大学教養学部、同学先端科学技術研究センター、国際基督教大学(ICU)、東京理科大学、ウィーン工科大学などを経て、東洋英和女学院大学学長で現役を退く。東大、ICU名誉教授。専攻は科学史・科学哲学・科学社会学。幼少より能楽の訓練を受ける一方、チェロのアマチュア演奏家として活動を続ける。