「身体性」という言葉がある。
「しんたいせい」と読む。
「身体性」をGoogle翻訳で訳すと「physicality(物理的に)」みたいになってしまう。
ただ、僕の感覚的には「身体性」という言葉を使う人がいるとき、それは「embodiment(具体化)」に近いニュアンスに感じる。
まあ言葉というのは単なる記号に過ぎないので、その言葉を口にする人、文脈なんかによって意味は千変万化する。
以前所属していた研究室のテーマは「身体情報学」であった。
これも「身体性」を強く意識した言葉だと思うが、もしもこれを「物理情報学(phisical infomatics)」のような訳語を当てていたら、かなり違和感があっただろう。
もうひとつ、「身体性」という言葉を頻繁に聞いたのが、某アニメスタジオだった。
「身体性を把握したアニメーターが必要である」というような文脈で使われていた。
その場合の「身体性」の反対語は、「プラモデル」だった。
「プラモデル」とは何かというと、要は寸法がきちんと再現される模型のことである。
僕なんかは3Dプログラマーとしての自分という側面があるから、ともすれば「プラモデル的表現のどこがいけないのか」と思ってしまいがちだ。実際に、アニメスタジオで「それはプラモデルになってしまう」という発言を何度も聞いた時、「プラモデルのなにがまずいのか」ということを理解するまでにかなり時間がかかった。
そこで実際にプラモデルを作ってる人に話を聞きに行きなさいと言われ、師匠のそのまた師匠のご自宅までおしかけて学んだのが、「プラモデルとは、実物を図面通りに縮小したもの"ではない"」ということだった。
と、これを聞いて、気づいたことがあった。
学生時代、某人気ロボットアニメのゲーム開発の現場でバイトしていたのだが、そこではプラモデルのCADデータをもとに寸分違わないロボットをモデリングしていた。
そこにいる全員が「これが正しい」と信じて疑わなかったのだが、なんとなく画面のなかにうつるロボットがちゃちく見えた。
今思えば、プラモデルをベースにしたことこそが大きな勘違いだったのだ。まあ当時は技術的な限界を考えれば、それはそれで仕方ないという割り切りでもあったのだが。
ここまで読んで、僕が何を言ってるかわからないという読者の方も多いだろうが、それは極めて正常な反応である。
僕だって、師匠が、そのまた師匠が、何を言っているのか全くわからなかったのだから。
一つのヒントは、実写映画における月やタワーの表現だろう。
たとえば月をバックにしたシーンを撮りたいとする。
そんなシーンは、実は実写では撮影できない。
特撮が必要になる。
なぜなら、写したい対象物は近くにあり、月はあまりにも遠くにあるからだ。
画面の半分くらいを月で埋めたいと思ったら、特撮を使うしかない。
昔、enchantMOONというタブレットのプロモーションビデオを長崎の離島で撮った時、当然のように月を見上げるカットがあるのだが、そのカットだけ田口清隆監督(いまをときめくウルトラマンZのメイン監督である)に発注したと聞いて腰を抜かしたことがある。
あれをみて「特撮だなあ」と思うのは特撮関係の人だけだろう。
現場にいた僕だって「さすがプロのキャメラマンはいい絵を撮ってくるなあ」と思ったくらいだ。
何を言いたいのかというと、人間が実物の月を見て感じる感情と、絵に描かれた、または画面に写された写真なり動画なり漫画なりを見て心に浮かぶものは、根本的に全く異なる、ということだ。
しかし同じことがひとつあるとすれば、心の動きである。
実物の月を見て動いた心と、同じ動きが平面の写真や絵や動画から伝われば、それが表現としては正解なのである。
ある意味で、表現というのは、お互いの心象風景のなかで、θ(テータ)リンクを形成するのに近い。
θリンクがなんなのかということに関しては、加藤文元先生の名著「宇宙と宇宙をつなぐ数学」を参照されたし。数学の本でありながら数式がそんなに出てこないので読み易いはずだ。
つまり、ある人が何かの事象を見て動いた心の動きAを、その人がなんらかの表現物、文章や絵や写真や特撮やアニメーションなどで表現するとき、その目的は、その表現物を見た人の中に極めて同じような心の動きA'を再現することである。
「身体性」という言葉を翻訳してみて、「physicality」じゃあまりにも違う、と感じた違和感も、プラモデルを原寸のまま使ったロボットに対して感じる違和感も、その正体は一緒なのかもしれない。
俳優やアイドルにしても、静止画で見て綺麗な人と、動いていて綺麗な人は違う。
それは人によっては、静止画で心の動きを再現できないからなのか、そもそも静止画で生まれる心の動きと、動画でうまれる心の動き、もっと言えばカメラを通してうまれる心の動きと、通さずに生まれる心の動きというのは全て違っていて、たとえ生きている人間を撮影しただけの写真であっても、写真になった段階で全く別の表現物と考えるべきではないか。
最近、作画AIと会話AIを使って漫画を書いている。
もはやそれは漫画なのか、自分でも自信がないが、絵が並んで話がついていれば漫画と呼んでいいだろう。
AIだから、自分では描けないようなすごい絵が出てくる。
もともとの作画AIは、同じキャラクターを出すのがとても苦手だ。
しかし、最近出たStableDiffusion2.1のファインチューニングを使うと、驚くほど再現性の高いキャラクターが出せる。
それまではマイケル・ジャクソンやエマ・ワトソン、ドナルド・トランプといった超有名人しか表現できなかったのが、今や自分や自分の友人、家族、愛犬まで学習させることができる。
そうすると、限界を試したくなるのが人間のサガである。
たとえば、別人の顔を混ぜてそれを「一人の人間」として学習させる。
たいがいは失敗するのだが、上手くいくと、「ちょうどその間」みたいな人物の肖像が手に入る。
そうしたら、それをピックアップして、さらに新しいキャラクターとして再学習させる。
これを繰り返すと、完全に新しいキャラクターができる。
それは、あるキャラクターを見て感じた心の動きAが、ある意味でAIのなかに、ある種の「身体性」として把握された状態とも言える。
これの特徴は、決してプラモデル的にはならないということだ。三次元での再構成は可能かもしれないが、常に違和感の付き纏うものになる。もしかするとアンドロイド(人型ロボット)の「不気味の谷」と呼ばれたものの正体はこの「身体性」または、「心のθリンク」にあるのかもしれない。
実はこの原稿では、実はそもそも最初から読者に僕の心の中の動きAを理解してもらうことをほとんど完全に放棄している。放棄しなければこんな原稿は書けない。
ただ、万が一、それが伝わる可能性があるとすれば、まず「θリンク」が何か、概要くらいは知っていて、なおかつ、「プラモデルには身体性が欠けている」ということをなんとなくでもわかる人だけだろう。
ではこの原稿を書いている目的はなにか。
もちろん原稿料をもらうためだが、普通の媒体ではここまで難易度の高い原稿は原稿料がもらえない(まず編集者が理解できないと怒り出す)。
この媒体のいいところは、よほどひどいことを書かない限りは、何を書いても原稿料が出ることである。
もう一つの理由は、いつの日にか、遠い未来の誰かに、僕がいま感じてることAが、伝わったらいいなという希望がほんの少しあるからだ。
いつの日にか、そう遠くない将来に、AI作画もAI作劇も、もっと凄いことになるだろう。一年後にはどこまで進化しているか想像できない。少なくとも音楽は作れるようになっているだろうし、動画も生成されるのが当然になっているだろう。一年後の僕は、AIで一人でアニメ作品を作ってる可能性すらある。
そういう時代が到来すると、きっとここに書いてあるわけのわからないたわ言にしか思えないことが、きっとわかる日が来る、と僕は思っているのだ。これはある種のタイムカプセルで、数年後に読み返したら、「なるほどこういう心の動きAがあったのか」とわかってもらえるのではないかと淡い期待をしているのである。そのときはむしろθリンクがなんなのかわからなくても、「これがθリンクか」とわかってもらえそうな気さえしているのだ。
いや、そもそも僕もθリンクがなんなのか、そこまでわかっているとは言えない。
説明用の図を書いたくらいで、ただ、θリンクについてある程度踏まえた上で、望月心一先生のブログを読むと、「逃げ恥の契約結婚はθリンクだ」とか「サイマジョはθリンクだ」とか書いてあって、ある日突然、「な、なるほど!!!」と思うのである。Aha体験である。
ちょっとでも興味を持ったらこの動画を見ることをお勧めする。
日本語です。
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=fNS7N04DLAQ&w=560&h=315]
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登録はこちら新潟県長岡市生まれ。1990年代よりプログラマーとしてゲーム業界、モバイル業界などで数社の立ち上げに関わる。現在も現役のプログラマーとして日夜AI開発に情熱を捧げている。