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インディー・ジョーンズ、そういう映画だったのか、そしてY世代における007観、ついでにAI

2023.07.03

Updated by Ryo Shimizu on July 3, 2023, 14:21 pm JST

インディー・ジョーンズの新作が公開されると聞いて、ワクワクするなというのは無理である。
しかし同時に、十数年前のトラウマめいた記憶もまた蘇ってくる。

政府の手先となったジョーンズ、冷蔵庫で核爆発から逃れるという荒唐無稽さ。
突然軽薄な若者が現れ、実は息子だったと知らされる。

ハリソン・フォードが日本語版プログラムに「おれは円盤映画に出るのはゴメンだと何度もスピルバーグに行った」と愚痴なのかなんなのかわからない不安なコメント。
オカッパ頭のケイト・ブランシェットも怖すぎる。そして実際、円盤が最後に出てくるのである。なんでだよ!

そんな暗い気持ちと期待する気持ちが半々のまま、公開初日にアメリカ人映画監督エリック・マキーバーと池袋グランドシネマに見に行ってきた。

エリック・マキーバーは一昨年公開した初の長編映画「IKE BOYS」がカルト的話題を呼び、数々の賞を受賞したあと、ノース・カロライナの映画学校で教職を得ている。
エリックは大の特撮映画ファンで、「IKE BOYS」にも「ゴジラvsスペースゴジラ」に出演していた釈由美子を出演させている。

さて、内容は公開中の映画のためネタバレを避けるが、今回初めて「そうか、インディー・ジョーンズとは、そもそもこういう映画だったのか」と認識を新たにした。

そこで昨日、自宅に映画好きの仲間を呼んで「インディー・ジョーンズ・シリーズ一気見」をしてみた。
このために4K UHDを買おうかなとも思ったが、たぶんすぐにコレクターズボックス的なものが出るのでAppleTVの4K配信で我慢することにした。
我が家のオーディオ装置は2chだが、その分いい音が出る。

さて、改めて「レイダース」から「クリスタルスカルの王国」まで一気に見直すと、確かにジョーンズはマリオンと結ばれるしか道がない。
もう年だし。

ただそれ以上に、ジョーンズ博士の追いかけている聖遺物の類が全て胡散臭い。
子供の頃は気づかなかったのだが、めちゃくちゃ適当な都市伝説を追いかけているのだ。
だから、クリスタルスカルの王国がUFOとか宇宙人とかをネタにするのはある意味で当然だったし、むしろネタとして避けては通れないものにさえ感じる。
欧米の大人はずっとあれを我々世代における「川口浩の探検隊シリーズ」のような目で見ていたのか。

インディー・ジョーンズのテーマは冒険と神秘だと思っていたのだが、この「神秘」の部分がずいぶんといかがわしい。このいかがわしさに子供の頃は無邪気にも気づかなかった。
よく考えれば、インドの奥地といえど、あんな邪教みたいなのが存在しているはずがない。情報化社会の現代では、あの設定は受け入れられないだろう。
そういえば、アメリカのドラマ「ビッグバンセオリー」でも、インド人留学生のラジェッシュ・クースラポリが「あのヒンドゥーに関する偏見に満ちたおかしな映画」みたいなことを言っていた。たぶん魔宮の伝説のことだろう。

もしもこの路線で突き進んでいたとすれば、インディーはそのうち日本にイエス・キリストの墓を探しにきたり、徳川埋蔵金を求めてテレビ番組を企画したりしかねない。

そしてインディー・ジョーンズの肝は、クライマックスでは絶対にあり得ない超常現象が起きるというところにあるのだ。つまり、インディーの世界は、ある種の都市伝説肯定派なのである。
そう考えると、インディアがしきりに「俺は科学者だから」と言い訳のように繰り返すのがむしろ滑稽である。

似たような話で、日本には「トリック」というドラマがあるが、「トリック」の主人公である上田二郎は物理学者を名乗っているが、インチキな仕掛けがわからず超常現象だと思い込む。だが、もう一人の主人公の山田奈緒子は手品師であるため、たいていのトリックを暴いてしまう。

物語全体が、超常現象は存在しないという前提で進むが、ほんの少しだけ、不思議なことがおきるというバランスだ。

対して、インディー・ジョーンズは盛大に超常現象が起きる。
聖櫃は呪いのビームを発し、魔宮の伝説の暗殺教団「サグ」の教祖は素手で心臓を掴み出しても相手は死なない。聖杯の水を飲めば死なないし、ペルーの奥地に宇宙人めいたものはいる。

しかし実はそのダイナミズムというのは、ある意味で原作者(この場合はスピルバーグ)が子供相手に盛大な嘘をついてやろうという、ある種の悪意というか作為で作られているわけだ。
もちろん映画とは嘘である。それがドキュメンタリーだろうが、誰かが現実に起きた事象を切り取って編集したとき、それは多かれ少なかれフィクションの様相を帯びる。

その嘘のつき方を、どのレベルまで高めるか、どこで抑えるか、というのがフィルムメイカーの腕の見せ所だとすると、MIBやゴーストバスターズは許容できてインディ・ジョーンズには許容できないというのは映画を見るファンとして狭量にすぎないか。

とも思うのだが、やっぱり「最後の聖戦」までのインディ・ジョーンズは、嘘がまあまあ抑えられていたように思う。
そこまでド派手な嘘じゃないというか。予算の都合なのかかなり抑制的な嘘で済んでいたので、僕らは無邪気に「嘘のなかにもリアリティ」を感じていられたのだと思うのだが、クリスタルスカルはそのリアリティラインを盛大に破壊してしまったような印象がある。だからトラウマになっているのだ。矢追純一スペシャルみたいな内容になってしまっていて、しかも辻褄がいろいろあっているようにみえず、そのうえ冗長なのだ。

僕の中では、「クリスタルスカルはなかったことにしよう」ということで落ち着いていたのだが、なんの因果か「運命のダイヤル」を見る羽目になってしまって、見るとまあ思ったよりも面白かった。

クリスタルスカルで盛大にリアリティラインが破壊されていたからこそ、今作の「大嘘」ももはやどうでもいいというか細かいことは気にならない。
ある意味でシリーズに一貫性を持たせるとはこういうことだろう。

もはや僕は「これはこれでいいインディの終わりかたじゃん」と思った。
まあ好き嫌いはあるでしょうが。テンポも良くダイナミックで僕は楽しめた。

帰り道、Y世代のエリックといろいろ話をしていたら、「007、清水さんはお好きなんですか?」と聞かれた。

「え、007はみんな好きだよ」

と答えると、

「ぼくはちょっと・・・なんか、完璧すぎませんか?」

意外だった。僕にとってはインディー・ジョーンズと007は似たような映画に思えていたからだ。

「もしかして、007のどれを見た?」

「ええと、ゴールデンアイとか」

「ほかには?」

「ダイ・アナザー・デイとか」

「ああなるほどね。ピアース・ブロスナンとダニエル・クレイグしか知らないんだね」

「そうかもしれません」

日本のおじさんは007が好きである。好きじゃない人を見たことがない。
でももしかして、それはアラフィフ以降限定の話かもしれない。

「実はピアース・ブロスナン以前の007は、もっとギャグ的要素が強いんだ。ロジャー・ムーア版を一緒に見ようか」

そうすると、彼の中での007への印象が少し変わったようだった。

僕にとって007とは、ガジェット映画である。
奇想天外な道具が次々と登場し、思いもかけない使い方をされる。

言ってみれば、実写版ドラえもんのような映画である。
ジェームズ・ボンドはオトボケ野郎で、上司のMは昼間から強い酒を飲みながら国家の重大事を語る。
このスノッブさがボンドの真骨頂だと思うのだが、ピアーズ・プロスナンになってMは女性に変わり、ダニエルクレイグになってQは若い男にかわった。
それでもうガジェット映画ではなくなっていった。

ジェイソン・ボーン・シリーズのような、骨太のスパイものを指向したかと思えば、「スペクター」で情けなく地面を這い回るブロフェルドが出てきたり、「トゥモロー・ネバー・ダイ」で思い出したかのようにアナ・デ・アルマスが出てきて去っていき、ご都合主義としか言いようのない理由で物語が決着する。

画像は綺麗だし迫力もあるのだが、話として一貫性がなくロマンが感じられない。
これに比べると、もともと007の監督をやりたいと考えていたクリストファー・ノーランによるスパイ映画「TENET」の完成度が際立つ。まあ時間を逆行する時点で007ではないが、007ではできないワクワクするような展開という点ではTENETは素晴らしい。情報がほとんど明かされない理由も、「無知こそが武器」だからという非常に説得力のある設定になっている。

ロジャー・ムーアの007の延長上にあったピアース・ブロスナン版007は、要は完全に007に感情移入することを習慣にしてしまった大人(おっさん)達に、「俺(007)はもっとかっこ良くてもいい」と接待する映画に変わったのかもしれない。それはそれで気持ち悪いと思い直したのか、ダニエル・クレイグを主役として本来の「殺し屋としてのボンド」に戻そうとしたが、やりすぎて何がしたかったのかわからなくなってしまった、ということかもしれない。

007の原作者、イアン・フレミングは実際に英国情報部に勤務した経験があり、コンピュータ理論の始祖の一人であるアラン・チューリングの同僚だった。
謎に包まれていたアラン・チューリングを主人公にした映画を作る際に参考にされたのがイアン・フレミングの情報部時代の手記だったという。

そういう意味では我々コンピュータ屋にとっても若者の007離れは他人事とは思えない由々しき事態なのである。

まあダニエル・クレイグ編も一息ついたし、また新たな時代にあわせた007が生まれると思うんだけど、本来007が持っていた世界観というのは、東西冷戦が背景にあって、冷戦ということは、表立った戦闘は極力避けられ、秘密作戦や非正規戦がメインになるという話だったはずだけど、今はフランスで全国的に暴動が起きたり(スパイではどうにもならない)、無茶な理由で他国へ侵略しようとしたりする時代なので、ボンドが活躍できる場所も変化してくるだろう。

果たして、スパイとは何か。
新時代のスパイ映画というのはどういうものになるのか。

ここまでAIに関する記述をしなかったが、当然、新時代のスパイ映画はAIが出てくるのです。
ではどんなふうに出てくるのか?

もちろん、一つは、AIがスパイ計画を立案し、人間が何も知らないパターンがある。これはしかしけっこう擦られたテーマで、古くはハインラインの「月は無慈悲な夜の女王」なんかも、AIが直接複数の細胞(スパイやテロの小組織をそう呼ぶ)に指示することで難しい革命を達成しようとしていた。2008年のスピルバーグ映画「イーグルアイ」とかもそういう話。だから古いのでこのままやるというのは変だと思う。

もう一つは、スパイ自身がAIを使いこなし、巨悪に挑む話。この場合も、敵は当然AIで武装している。
AIによる武装というのは、たとえば命中率が100%に近い銃や、成功率が100%に近い作戦立案ということになる。
これを乗り越えるには・・・・まず脚本を書く人がAIを深く理解している必要がある。

これが難しそうだなあ。
昨今の映画でAIをテーマにしているものがどれもイマイチというのは、結局、物語のギミックとしてAIを使うにしても、AIの本質が正しく脚本家に伝わっていない。
脚本家だけでなくてプロデューサーや監督もAIとは結局どういう性質があってどんなものなのか、まず真っ先に勉強する必要がある。

これからの時代、SF映画に求められるリアリティは、AIをどこまで理解しているかに尽きる。
たぶんクリストファー・ノーランあたりがすごいAIものとか作ってくれそうだけど。それまで我々はぼんやりしたAIものを大量に見なくてはならないのか。

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清水 亮(しみず・りょう)

新潟県長岡市生まれ。1990年代よりプログラマーとしてゲーム業界、モバイル業界などで数社の立ち上げに関わる。現在も現役のプログラマーとして日夜AI開発に情熱を捧げている。

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