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テクノ楽観主義者からラッダイトまで

2023.10.11

Updated by yomoyomo on October 11, 2023, 12:39 pm JST

前回の「先鋭化する大富豪の白人男性たち、警告する女性たち」を書いた後に、「中央公論」2023年10月号に掲載された八田真行氏の「イーロン・マスクは一人ではない」(前半部がウェブ公開されています)を読み、イーロン・マスク、ピーター・ティール、マーク・アンドリーセンといった「シリコンバレーのテクノクラートたち」の思想を表現する「TESCREAL」という造語が紹介されているのが注意を引きました。

「TESCREAL」とは、トランスヒューマニズム(Transhumanism)、エクストリピアニズム(Extropianism)、シンギュラリタリアニズム(Singularitarianism)、宇宙主義(Cosmicism)、合理主義(Rationalism)、効果的利他主義(Effective altruism)、長期主義(Longtermism)の頭文字をつなげたものです。この造語の発明者の一人は、前回取り上げた「警告する女性たち」の一人であるティムニット・ゲブルですが、恥ずかしながらワタシは注意していませんでした。

ワタシも前回の文章でトランスヒューマニズムや長期主義について触れていますが、「これらの関係があるようなないような様々な概念を一つのまとまりとして捉えると、従来のリベラルに挑戦する逆張り的な一つの世界観、信念体系が浮かび上がってくる」と八田氏は書いています。

例えば、効率性とインパクトの最大化を目的とした定量的な評価に基づく社会貢献を謳う「効果的利他主義」は、日本でも支持者が多いように見えますが、暗号通貨取引所FTXの創業者、CEOとして仮想通貨業界の寵児扱いもされたものの、FTXの経営破綻後に逮捕・起訴されたサム・バンクマン=フリードも、その著名な支持者として知られました。

そして、その彼に取材したマイケル・ルイスの新刊『Going Infinite』において、バンクマン=フリードの「効果的利他主義」運動が、グローバルサウスでの病気に対する寄付よりも、遠い未来に銀河系全体で何兆もの人間の命が失われるのを心配するという非現実的な方向に変質し、AI反対運動を優先して「生きている人間に背を向けた」とルイスは厳しく批判しています。このくだりなど、前回の文章の「AI破滅派」に対するティムニット・ゲブルらの批判に通じるものがあり、「TESCREAL」の各要素のつながりが見えてきます。

「TESCREAL」自体、発明されてまだ間もない造語のため、これについて体系的に論じる書籍はまだないと思いますが、今年邦訳が出たダグラス・ラシュコフの『デジタル生存競争』は、シリコンバレーに広がるそうした信念体系に対するある程度網羅的な批判になっています。

『デジタル生存競争』は、2018年に著者が(その年収の3分の1に達する高額の謝礼とともに)大金持ちの米国人男性5人に講演を依頼され、超豪華な砂漠のリゾートに招かれる話から始まります。

テクノロジーの未来予測の話でもさせられるのかと著者は予想していましたが、超富裕の男性たちが本当に聞きたいのはまったく別のことでした。人類の滅亡に関わる「事件」が起きたとき、どこに逃げるのがよいのか? シェルターで外部から支援なしにどれくらいの期間の生存を想定しておくべきか? 事件発生後、自分の警備隊に対する支配をどうやって維持できるか?

人間そのものと人間関係に投資し、人間同士の協力と連帯で危機に対処すべきというラシュコフのアドバイスは一顧だにされず、生存の保証の見返りに警備員に「しつけ首輪」を付けさせたらどうかなど、富豪たちの意見はグロテスクを極めます。

このときの体験によりラシュコフは、彼らにとって「テクノロジーの未来」とは、勝者が他の人類を置き去りにして逃げられることを意味し、そうした人間性に配慮しない運命論的な志向は、暴走したデジタル資本主義の結果ではなく原因なのだと気付きます。

ラシュコフはこの「十分なお金やテクノロジーがあれば、自らが引き起こしたダメージから逃げられる」という逃避的な態度を「マインドセット(無意識のパターン)」と呼び、イーロン・マスクやジェフ・ベゾスの宇宙移住や植民地化、ピーター・ティールのトランスヒューマニズム、マーク・ザッカーバーグのメタバースなどもすべて独善的な孤立主義を促進するものと見ます。そこでは予測不可能で不合理な人間性は排除されるもの、早い話が大部分の人間は無価値として切り捨てられます。

面白いのは、ダグラス・ラシュコフは昔からこういう論調ではなく、彼のデビュー作の『サイベリア』(参考:大森望氏による訳者あとがき)は、サイバースペースなど90年代前半のアンダーグラウンドカルチャーの現場を肯定的に描くものでしたし、『デジタル生存競争』でも、「1980年代のサイバーパンク時代には、かつてないほどのつながりと連携が可能になり、私を含めて多くの人たちが、人間は思い通りの未来を作り出すことができると信じていました」と彼は回顧しています。

かつては生粋のテクノ楽観主義者だったラシュコフの変化を考える上でとても良いテキストが、WIREDに掲載されたインタビュー記事「ダグラス・ラシュコフはデジタル革命に別れを告げる」です。

これを読むと、ラシュコフが一貫してWIREDを嫌っていたこと、そして『デジタル生存競争』において、スチュアート・ブランドの『メディアラボ』が唐突に批判対象になっている理由も見えてきます。

ラシュコフ自身は、この時期をシリコンバレーの同時代人から「初めて距離を置いた期間」と位置づけている。わたしに対しては、サイケデリック文化やレイヴ文化の創造性やオープンさを指摘しながら、「テクノロジーは人間にとってすばらしいものでした」と語ったうえで、こう続けた。「『WIRED』誌と資本主義と搾取と行動主義とファイナンスが、その文化を殺したのです」(ラシュコフが『WIRED』に記事を書いたことは一度もないが、彼が本誌に悪い感情を抱いているのは明らかだった)

これは実は驚くべきことです。1990年代にデビューしたオンラインカルチャーの書き手なら、WIREDに寄稿していないほうが不思議で、実際、『サイベリア』のAmazonレビューにある「雑誌「WIRED」や90年代の文化がお好きな方に」といった捉え方のほうが自然でした。しかし、広告とテクノロジーの融合に常に批判的だったラシュコフにとって、WIREDはそれを先導するものだったようです。

そして、彼の今更のスチュアート・ブランド批判は、テクノ楽観主義者の看板を下ろす象徴とも言えます。

『Survival of the Richest』で、ラシュコフは自身とテクノ主義者たちのあいだに残された最後の1本の橋を燃やし、『ホール・アース・カタログ』誌を立ち上げたテクノロジーメディアの大物、スチュアート・ブランドを特に厳しく批判した。10年前にはブランドを知的な仲間とみなしていたラシュコフが、ブランドのことを「混乱した厳しい現実に目を向けずに、完璧に管理された扱いやすい環境に逃げ込むことからありとあらゆる利点を吸い尽くそうとする、わずかに賢い者もいるが精神的には未熟な白人男性たちの取るに足らないリーダー」とこき下ろしたティモシー・リアリーに賛同を示すようになった。

『デジタル生存競争』には、ティモシー・リアリーによる痛烈な『メディアラボ』批判の言葉が紹介されていますが、実はワタシも「風上の人、スチュアート・ブランドの数奇な人生」でジョン・マルコフの『Whole Earth』とスチュアート・ブランドについて書いたとき、「『ホール・アース・カタログ』に登場してくる人物はほとんどが、WASPに代表されるアメリカ社会のエスタブリッシュメントを形成する、大学教育を受けたアングロサクソン系白人という印象。黒人、アジア人、ラテンアメリカ系などは、あたかも無視されているかのように登場してこないし、女性の登場もきわめて少ない」というリアリーによる批判につながる証言を紹介し、ジェフリー・エプスタイン問題(で糾弾の対象となったニコラス・ネグロポンテとジョン・ブロックマンの名前)について言及したのは、ワタシにもそのあたりについての懸念があったからです。

思えば、「TESCREAL」というコンセプトで考えると、スチュアート・ブランドの志向性にはトランスヒューマニズム、宇宙主義、長期主義が当てはまるでしょう。ラシュコフは、「マインドセット」の源流をブランドに見ているのかもしれません。ブランドのテクノユートピア主義とペイパルマフィア連中のデジタルリバタリアニズムを一緒にするなという『Whole Earth』でのジョン・マルコフの主張が正しいか、あるいはラシュコフが見るように同じ穴の狢かは、今年末『Whole Earth』の邦訳が出るあたりで論じられるべきと思います。

『デジタル生存競争』にはいくつも地雷がある印象で、今では偉人視されているスチュアート・ブランドへの批判の他にも、リチャード・ドーキンス(やダニエル・デネットやスティーブン・ピンカー)批判もそれにあたります。実際、既に出ている『デジタル生存競争』の書評を見ても、それに触れている人は皆無です。

誰がマインドセットに犯されているのだろうか? ラシュコフは典型例として、ジェフリー・エプスタインを挙げる。個人で島を所有し、助けや庇護を差し出すエリート集団を味方につけ、一度に20人の女性を妊娠させる綿密な計画を立てた男だ。ラシュコフ自身はエプスタインに会ったことがないが、有名人を得意とする出版エージェントのジョン・ブロックマンを通じて遠い接点をもったことはある。

『Survival of the Richest』で、ブロックマンの自宅で開かれたディナー会にラシュコフが出席したときの様子が描かれている。その会には、進化生物学の奇才リチャード・ドーキンスも来ていた。ドーキンスは「本質的に道徳的な世界」を信じるラシュコフをあざけり、集まったエリートたちの嘲笑を誘った(エプスタインの犯罪の全貌が明らかになったとき、ラシュコフはこのときの会話を思い出した。この会話こそ、道徳の存在を否定するものだった!)。

上の引用を見ても分かるように、ジェフリー・エプスタイン問題とそれに加担したジョン・ブロックマン批判という文脈を踏まえる必要があります。ジョン・ブロックマンのサロンの腐敗については、過去にもヴァージニア・ヘファーナンが「ポルノ、詭弁、パンティ狩りに終止符を:尊大な男たちの“科学”サークル「Edge」の実態」という糾弾記事をWIREDに寄稿しています。

個人的には、スチュアート・ブランドを批判するのに引き合いに出すのがティモシー・リアリーの発言というのに、晩年の彼についての証言を知ると微妙な気持ちになりますし、リチャード・ドーキンスがラシュコフをあざけったディナーパーティーの場で、ラシュコフに唯一加勢したのがナオミ・ウルフというのも、その後の彼女の凋落を知るとやはり微妙です(余談ですが、彼女と同じ名前のため混同されることの多かったナオミ・クラインが、そのナオミ・ウルフを分析対象とする『ドッペルゲンガー』という奇怪な本を出したばかりです)。

今では「マルクス主義メディア理論家」を自称するラシュコフですが、「脱成長だけが、人類による二酸化炭素排出量を削減する確実な方法だ」という結論には、ワタシはどうしても賛同できません。そうした意味で、『デジタル生存競争』は各論としてかなり良いところを突いた本だと評価しますが、「チーム・ヒューマンはテクノロジーを拒否しない」と宣言した『チームヒューマン』の一線を堅持してほしかったというのが正直なところです。

これは一読しただけでは気付かないかもしれませんが、WIREDのインタビュー記事の通奏低音は、ダグラス・ラシュコフというX世代のメディアスターだった男の不遇です。かつては権威あるニューヨーク大学で教鞭をとっていたのが、今ではそれよりずっと給料が低いニューヨーク市立大学におり、そこの学生の大半は彼が何者かもよく知りません。精力的に著書を著し、テレビドキュメンタリーを手がけたが、(元WIRED編集長の)クリス・アンダーソンのように時代と寝ることはなく、近年はテック批判で知られながらマイクロソフトというビッグテックに籍を置き続けるジャロン・ラニアーのような立ち回りもできてない、というわけです。

逆に言えば、そうした世渡り下手にしろ、テクノロジーの中立性を盾にしてテクノ楽観主義者の立場について口を濁しながらごまかしたりせず、心の底から考えを改めてテクノ楽観主義者の看板を下ろしたことを正直に書くところに彼の誠実さを感じます。たまたまですが、ラシュコフは来週日本で講演を行います。彼に興味のある方は参加されてはいかがでしょうか。

「わたしは資本主義を非難しましたが、テクノロジー自体は無罪だと思っていました」とラシュコフは認めますが、「テクノロジーは中立だ。テクノロジーに罪はなく、悪いのはそれを利用する人間だ」式の言い訳が苦しくなってきたのは確かで、そうした意味で「当代最高の短編SF作家テッド・チャンへの11の質問」でテッド・チャンが語るように、「技術の中立性」を言う際にはその技術が「冶金学/一般的」なのか「地雷/具体的」なのかを、見極めていく必要がありそうです。

人工知能規制、資本主義批判、民主主義再考」において、新しい技術を批判すると、ラッダイト呼ばわりされる問題についてテッド・チャンは触れていますが、ズバリ、ラッダイトの歴史を辿り、その精神を肯定する(!)ブライアン・マーチャントの新刊『Blood in the Machine』を最後に紹介したいと思います。

私はずっとハイテクが大好きだった。今では、私はラッダイトだ。あなたもそうなるべきだ」とぶちあげる文章でマーチャントは、テクノロジーを愛することとラッダイトであることは矛盾しないと前置きしたうえで、「技術独占と人工知能の時代にこそ、私はラッダイトの精神を高く評価するようになった。今、私たちに必要な先見性は、特定のテクノロジーがどのように害を及ぼしているかを正確に見抜き、必要とあらばそれに抵抗する人たちにある」と説きます。

現在「ラッダイト」という言葉は、(一時期、左派の人たちにとって「反知性主義」が端的に「バカ」の言い換えだったように)非合理、無知、テクノロジー嫌いの蔑称ですが、テッド・チャンも指摘するように、機械をうちこわした服飾労働者の抗議には、工場主の利益が増えているのに自分たち労働者の賃金が低下し、労働条件や児童労働や粗悪品の量産といった問題もありました。彼らは反テクノロジーではなく、経済的な正義を求めていたのです。

そして、ラッダイトの苦境と現代との類似点はいたるところにあり、当時も今も、大企業はテクノロジーを新たな生産方式として、また法律や規制を無視することを可能にする手段として利用している、とマーチャントは指摘します。

『Blood in the Machine』にはSF作家のコリイ・ドクトロウも推薦の言葉を寄せていますが、面白いのは彼もラッダイトの歴史を調べ、それまでの知識がまったく間違っていたことに気付いた過去があります。そして、ラッダイトの目的が技術そのものではなく、むしろその使用を支配する社会関係に挑戦することだったという意味で、ラッダイトは反テクノロジーではなく、むしろSF作家と同じことをしていると主張しています。

ドクトロウがどこまで意識的だったか知りませんが、トマス・ピンチョンも1984年に「ラッダイトをやってもいいのか?」で、「もしラッダイト小説なるジャンルがあるとして、テクノロジーがその行使者の手を離れたときにいったい何が起こるかを警告するものがそれだとすれば、『フランケンシュタイン』こそ最初にして最高のものといえよう」とラッダイト運動の影響を受けたとされ、また最初のSF小説とも評価されるメアリー・シェリーの小説の名前を挙げています。

ラッダイトをテクノフォビア(技術恐怖症)の同義語として使うのは、許されない中傷であり、経済的不平等が広がる今こそ、技術革新の恩恵を労働者といかに分かち合うかについても革新が必要だとマーチャントは訴えます。そしてそのためには、一握りの億万長者が未来の形を決め、その中で誰が勝つか負けるかを決める反民主主義的な技術開発モデルを抑制すべく、規制を整備するために政府が立ち上がる必要があります。

コリイ・ドクトロウの以下の文章を読むと、『Blood in the Machine』がラシュコフ『デジタル生存競争』の人間中心主義とつながる問題意識を持った本だと分かります。

19世紀の織物工場は当代のビッグテックの原型であり、工場主たちのレトリックは時代を超えて響いている。ピーター・ティールのようなハイテク王が「自由は民主主義と相容れない」と言うとき、それは生活のために働く人々に投票権を与えることが、結局は彼のような持てる者たちの制限につながることを意味している。

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yomoyomo

雑文書き/翻訳者。1973年生まれ。著書に『情報共有の未来』(達人出版会)、訳書に『デジタル音楽の行方』(翔泳社)、『Wiki Way』(ソフトバンク クリエイティブ)、『ウェブログ・ハンドブック』(毎日コミュニケーションズ)がある。ネットを中心にコラムから翻訳まで横断的に執筆活動を続ける。

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