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WEIRDでいこう! もしくは、我々は生成的で開かれたウェブを取り戻せるか

2024.01.18

Updated by yomoyomo on January 18, 2024, 13:00 pm JST

インターネット起業家にしてベテランブロガーのアニール・ダッシュの文章は、以前にも「ソーシャルネットワークの黄昏、Web 2.0の振り返り、そして壊れたテック/コンテンツ文化のサイクル」で取り上げたことがありますが、彼がCEOを務めていたGlitchは2022年にFastlyに買収されており、Fasltyのデベロッパーエクスペリエンス部門のVPが現在の彼の肩書のようです。

そのアニール・ダッシュが昨年末、なぜかローリング・ストーン誌に「インターネットがまた奇妙になろうとしている」という文章を寄稿していて目を惹いたので、今回はそれを取り上げたいと思います。

「インターネット上は、劇的で厄介な時代である。すべてが急速に変化している」という見立てから文章は始まります。「市場を支配する検索エンジンに対する不満が広がり、活動家はますます侵入的になるオンライン監視がプライバシーにもたらす影響を心配している。投資家はデジタル通貨やバーチャルリアリティーといった難解なトピックに熱中しているが、現実世界の一般ユーザーは、自分たちが使っている多種多様なプラットフォームで友人全員にメッセージを送る困難に頭を悩ませながら、次々と登場する新しいソーシャルネットワークにも少しばかり好奇心を抱いている。こうした変化を背に、イーロン・マスクという不快なオタクが、自らの過激な意見を表明するのに役立つXという名の『なんでもアプリ』の話を一向に止めてくれない」確かに厄介です。

ところが、ここから文章の調子が変わります。「しかし何よりも、今こそインターネットが変化の機が熟している時で、インターネットの仕組みを再構築する可能性のある新しいテクノロジーやコミュニティに機会が開かれているようにさえ見える。何百人もの人たちが、テクノロジーとの基本的な関係を再考し、新たなやり方で互いにつなろうとしているようだ」とは、個人的には予想外の展開でした。

アニール・ダッシュは、国際デジタル芸術科学アカデミーが主催する、「インターネット界のアカデミー賞」とも評されるウェビー賞の生涯功労賞を2022年に受賞したベテランです。それだけキャリアが長いと、自分が若かった頃の自由なインターネットを最良のものと考え、その後の変化にダメ出しをしたがる人も少なくありません。

実際、彼は辛辣な批評家でもあり、2012年には「我々が失ったウェブ」という文章で、ウェブは本質的な価値を失い、個人をエンパワーする代わりに少数の人間を金持ちにする場になってしまったと厳しく批判し、オープンなウェブを守ろうと悲壮な訴えをしています。上でリンクした文章で取り上げた「かくも壊れたテック/コンテンツ文化のサイクル」は、その10年後に書かれた続編とも言えます。

その彼が、今こそインターネットは変化の機が熟しており、新しいテクノロジーやコミュニティに機会が開かれていると肯定的に見ているのです。彼の念頭にあるイメージは2000年前後のインターネットで、つまり現在はそれ以来、およそ四半世紀ぶりの変化の時というわけです。現在、インターネットで支配的な企業のいくつかが妥当性を失う危険にさらされているのを背景に、それがインターネットの一般ユーザーにも変化をもたらし、普通の人々に作られるヒューマンウェブが復活するとダッシュは見ています。

「現在のインターネットユーザの大半がこれまで経験したことのない、この四半世紀で最大のインターネットの権力の再編が起ころうとしている」とまで書かれると、さすがにワタシもホントかよと言いたくなるわけですが。

2000年当時と現在の違いとしてダッシュが挙げるのは、もはや主要プレイヤーの一つである規制当局の存在です。これは90年代末のドットコム時代を知る者にとっては皮肉な話ではありますが、EUはAppleによるアプリストアの独占を突き崩し、米国におけるEpic GamesがGoogleを相手取った訴訟の判決次第では、Androidの世界でも同様の変化が起こる可能性があります。

これはスマートフォンのユーザーだけでなく、アプリ開発者やデザイナーなどにも朗報とダッシュは書きます。その背景には、検索結果やアプリストア、広告プラットフォーム、決済システムを支配してきた一握りの大企業により、ウェブを作る人々の想像力は全世代にわたって閉ざされてきたという認識があります。Appleによるアプリストア開放の義務づけは日本にも当てはまる話ですが、アプリストアの開放については毀誉褒貶あります。西田宗千佳氏は、「アプリストアの解放」より「決済の解放」が重要と書いていますが、ダッシュが書く変化は、「決済の解放」まで当然含むと考えられます。

「思えば初期のウェブでは、クールなものは大学や非営利団体、そしてエキセントリックな孤高のクリエイターによって発明される可能性が高かった」とダッシュは書きます。そもそも最初にブレイクしたウェブブラウザは、イリノイ大学で作られましたし(その作者は、今では中年の危機を心配されるテック・オリガルヒですが)、90年代、ジオシティーズ(ワオ!)などの人気サイトでは、何百人もの一般の人たちが、(その多くはひどいものではありましたが)今とはまったく異なる美学やデザインのウェブサイトをそれぞれ構築していた、とダッシュは振り返ります。当時はオンラインの対話や議論は、プラットフォームではなくユーザー個人のものでした。世界を当時のシンプルなレベルに戻すことはできないが、そういう考え方を現代的に見直せないかとダッシュは問いかけます。

そしてダッシュは、現在ソーシャルメディアで起きている劇的なパワーシフトに目を向けます。要は、TwitterあらためXの自業自得な衰退にともなう、新たなソーシャルネットワークの勃興の話ですが、ダッシュはMastodonコミュニティを「オタクっぽい」、Blueskyを「(タイムラインがもっともスキャンダラスだった頃のTumblrみたいな)騒々しい快楽主義」と評しており、うーん、かなり日本とはコミュニティの印象が違うなと思ってしまうわけですが、重要なのはそこではなく、次々と登場する新たなソーシャルネットワークは、奇妙でオープンなウェブの複雑さと多様性を象徴しているとダッシュが見ていることです。

ダッシュの文章のタイトルにもある「奇妙(weird)」がここでのキーワードです。プラットフォーム支配から離れ、個人のユーザーが力を得ることで、インターネットには「奇妙な」サイトやアプリが出てくるし、そうあるべきだと彼は考えます。

そしてダッシュは、「人間的で、個人的で、創造的なインターネットの精神を静かに守り続けた人たちが、ウェブが再び注目を集めるようになった今、復活を遂げようとしている」と宣言します。具体的にダッシュが挙げる名前は、日本ではあまり馴染みがありませんが、以下の人たちです。

上に挙げられる個人・団体のウェブサイトを見ると、どれもシンプルながら独自の美学と手作り感があり、確かに「奇妙(weird)」と評したくなるのも分かります。ダッシュはそこに「ご近所さんのように親密でつながりのあるインターネットの楽しさの発見」を見出し、個人が作るオープンで人間的なウェブへの回帰に期待しているわけです。

付け加えるなら、2019年に山口情報芸術センターでワークショップ(レポート記事1レポート記事2)を開催したSFPCを代表として、メイカームーブメントとの親和性を感じるDIYプロジェクトが多く、ダッシュもネタ・ボマーニの作品が「ZINE」的なものに回帰することが多いと指摘していますが、このようなオンライン文化のオフラインへの広がりを、デジタルな関係が現実世界のクリエイティビティに与える影響を示す好例とダッシュは考えているようです。

ダッシュの文章は終始肯定的なトーンに貫かれていますが、その彼も「インターネット上にはまだ恐ろしいことがたくさんありそうだし、テック業界を支配する大立者が、悪いものをさらに悪くしようとしている事実を楽観視はしていない」と認めます。愛にあふれたキラーアプリが、GoogleやFacebookやTwitterにとって代わるなんて夢物語は彼も期待していません。それでも、インターネット上にはびこるジャンクフードとは違った、ヒューマンスケールの代替体験がもっとあるべきだし、それは「奇妙なもの」に違いない、とダッシュは締めくくっています。

2024年に入ってダッシュが自身のブログに書いた「ウェブ・ルネッサンスが始まる」によると、彼の寄稿記事に対する反応は熱狂的だったらしく、「これは私の単なる希望的観測ではない」と自信を深めている様子です。

「主要なインターネット・プラットフォームの最悪の部分から生じる現実の脅威や害については、まだ慎重かつ用心深く考えているが、人間のインターネットが復活する可能性については、久しぶりに私は楽観的だ。私はますます、インターネットを『人々のウェブ』と考えるようになった」とダッシュは気勢をあげています。

ここまで読んでも性格が暗いワタシは訝しく思う気持ちがぬぐえなかったのですが、それから間もなくMIT Tech Reviewで「『昔のインターネット』の精神を取り戻す、HTMLエネルギー運動」という記事に出くわし、そして徳谷柿次郎氏の「誰も言ってない『クラフトインターネット』を考える」を知るに至り、符合めいたものを感じました。

徳谷柿次郎氏の以下の文章は、アニール・ダッシュの「彼らには90年代のインターネットのオープンエンドネスを想起させるが、ウェブブラウザが発明された当時にまだ生まれていなかった人物ならではの現代的な感性を備えている」という評に意図せず合致しているように見えます。

どこまで強欲に繋がり続けるインターネット。懐古主義で過去を懐かしがっても仕方がないからこそ、囲まれすぎたシステムから一歩踏み出す姿勢が大事なんだろう。元々のインターネットを取り戻すことはできない。利害関係に距離を置いて、空虚なつながりに見切りをつけて、手の届く範囲で自分の信じる空間をつくる。これしかない。

徳谷氏も「クラフトインターネット」のコンセプトへの反響に驚いたようですが、アニール・ダッシュの文章への反応で、独自ドメインの個人サイト「インディーウェブ(indie web)」を公開する手段として、Wordpress以外にもパーソナルパブリッシング用のセルフホスティングのプラットフォームがもっと出てこないといけないという意見は重要で、そのあたりがこの動きの広がりを決めるとワタシは見ています。

思えば、これはワタシ自身がずっと追いかけてきたテーマでもあります。WiredVisionの連載をまとめた電子書籍のテーマは、(江渡浩一郎氏が「序文」で書いたように)ウェブの「生成力(generativity)」、「生成的(generative)」なウェブでした。そして、このサイトでの2016年までの連載をまとめた2冊目の電子書籍のタイトルは『もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて』です。

生成的(generative)な場である開かれたウェブはもはや絶滅したかに見え、generativeという単語は2023年、完全に「生成AI(generative AI)」のものでした。同じ単語でも指す意味合いが異なるので、ここでワタシが「generativeをAIから人間の手に取り戻せ!」などと書くと、質の悪い煽りになってしまうのですが、まさか2024年になって、生成的な場としての開かれたウェブを取り戻そうという話を書くことになるとは予想していませんでした。

アニール・ダッシュも認めるように、ウェブで支配的なプラットフォームの力は強大です。SNSのアルゴリズムは、我々のオンラインコミュニケーションの形を規定していますし、少し前にはVergeで「Googleはいかにしてウェブを完成させたか」という、検索結果の最適化のために、いかにウェブがGoogleのイメージ通りに作り変えられたかを見せる記事を読んだばかりです。

しかし、支配的なプラットフォームは必然的に腐敗します。それは現在の検索エンジンとしてのGoogleの品質を見れば明らかですし、オンラインプラットフォームの質低下を指す「Enshittification(メタクソ化)」が、アメリカ方言学会が選ぶ「2023年のワード・オブ・ザ・イヤー」に選ばれた今年、プラットフォームのアルゴリズムから逸脱した個人の手によるヒューマンウェブの「奇妙さ」が求められるのは、おかしな話ではないのです。

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yomoyomo

雑文書き/翻訳者。1973年生まれ。著書に『情報共有の未来』(達人出版会)、訳書に『デジタル音楽の行方』(翔泳社)、『Wiki Way』(ソフトバンク クリエイティブ)、『ウェブログ・ハンドブック』(毎日コミュニケーションズ)がある。ネットを中心にコラムから翻訳まで横断的に執筆活動を続ける。

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