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嘘をつくのは罪なのか。それよりも嘘の情報的価値を考えたらどうか?

2025.05.23

Updated by Hiroyuki Iyama on May 23, 2025, 11:52 am JST

嘘かどうかは受け手の信憑の審理に依存する

「嘘をつくのは罪なのよ」It's a Sin to Tell a Lie(作詞ビリー・メイヒュー )というジャズ曲がある。

Be sure it's true when you say "I love you"
It's a sin to tell a lie
Millions of hearts have been broken
Just because these words were spoken

I love you, yes I do, I love you
If you break my heart I'll die
So be sure it's true when you say "I love you"
It's a sin to tell a lie

作曲は1936年で日本では2.26事件があったし、ファシズムが台頭し世界全体に巨大な嘘がまかり通る不穏な暗黒の時代。そんな社会的背景などどこ吹く風と、歌詞では「愛を語るときに嘘はだめよ、幾百万の心を傷つけるから」と歌う。愛していないのに、愛を語ることは罪だけれど、心中密かに恋心を抱きつつ、表立ってはそれを否定する場合は、それを罪としないのだろう。これは大事な点だ。シラノ・ド・ベルジュラックの隠忍の恋は嘘にはならない。でも、よく考えてみよう。嘘の愛の告白でも、何らかの情報が伝わるはずだ。

アメリカはキリスト教の国だし、愛に限らず嘘の禁忌は理解できる。仏教でも虚妄や偽りなどの妄語は十悪罪の一つに数え上げられているけれど、そもそも嘘とは何だろう。この定義の問題からして決して安易に通り過ぎることはできないし、子供の頃から何となくいけない、と聞かされていたのに、意外と定義を意識しないものだ。ただ嘘がいけないこととされている根底には、何かがある。それを考えよう。

嘘とは「事実でないことを語ること」だろうか。国語辞典には必ずそう書かれている。虚偽を語ること、則ち嘘である。俗にオオカミ少年として語り継がれてきたイソップの「狼と羊飼い」の寓話を例にとって考えてみよう。実際に狼が襲来したわけでもないのに、少年が「狼が来た」と退屈しのぎに嘘をつくと、村人は武器を手に全員総出で無駄に大騒ぎをすることになり、大変な迷惑となった。これを繰り返すうちに、少年は嘘つきの烙印を押され、信用されなくなる。ところが寓話の最後では、本当に狼がやってくる。少年はこれまでと同様「狼が来た」と叫ぶが、またかと思った村人が放置したため、羊が食われてしまう。

概ねこのような話だが、「退屈しのぎ」という記述がなければ、少年の事実誤認の可能性だってある。鹿や牧羊犬を狼と間違えて報告したのならば、嘘つきにはならない。更に言えば、最後の本当にやってきた狼の知らせは、事実性の定義からすると、決して嘘でないにもかかわらず、村人に嘘とされていることに注目すべきだ。嘘かどうかは受け手側の信憑の審理に依存する。嘘つきのレッテルを貼られる。これが注目すべき点だと思う。

誰も信じない大嘘は罪にならないが、他愛もない嘘が国を滅亡させることもある

ジョンソン博士の英語辞典(1755年)で調べると、嘘 lie の第一の意味は criminal falsehood である。つまり嘘をつく人間の側に犯意が認められるかどうか、が問われる。オオカミ少年が誤った情報で村人を騙す意図をもっていたならば嘘になるし、事実誤認が原因ならば嘘とは限らない。より深刻ではない日常の場で用いられる、事実を誇張したり、歪曲する言明も、それが雰囲気を和らげたり、修辞的な目的でなされる表現ならば、決して嘘とされないのも同じ理由からである。「最近コロナウィルスに感染して棺桶に片足を突っ込む破目になった」とか、「清楚系鶏清湯塩ラーメンは死ぬほどうまい」などは比喩表現としてよく見られ、「もう一度顔を洗って出直してきた」と言われ、本当に洗ったかどうか確認する者はいない。「あいつは宇宙人だ」を文字通りに受け取らない一方で、誰も嘘とは言わない。

悪質な冗談となると、そうはいかない。他愛もない嘘が一国の滅亡にまで進展した自業自得の例もある。古代中国、前八世紀の王朝・西周の幽王は、ある日手違いで敵襲を知らせる狼煙を上げてしまう。各地から兵が駆けつけてみると、王宮は無事だ。肩すかしを喰らって茫然とする兵士を見て、ふだん笑うことのない愛妾の褒姒(ほうじ)は笑い転げる。その婉然たるさまを見た幽王は味をしめて、その後幾度も偽りの狼煙を上げては褒姒の笑顔を楽しむ。その挙句に本当の敵襲が起きる。塞外民族の犬戎が攻めてきたのである。慌てて緊急集合の狼煙を上げるも、兵士は嘘だと思って集まらず、周は滅んでしまった。もちろん最初の誤報の狼煙は敵襲の事実がなくとも嘘ではない。偶然の過ちだから。だがオオカミ少年の場合と同様に、救援要請の最後の狼煙は、事実であるのに嘘だと理解されている。

大地震の予測を外した科学者たちは有罪判決を受けた

しかし、ことはそう単純ではない。事実と犯意の天秤だけで綺麗に整理しようとしても、上手くいかない。ラクイラ地震の科学者の発言あるいは沈黙を考えてみよう。

2009年4月6日未明イタリア中部で、マグニチュード6.3の地震が発生。震源地付近のラクイラ市の被害は大きく、309名の犠牲者が出た。この地震の6日前、イタリア政府は科学者5名(及び行政関係者2名)を含む、大災害の予測と防止のための委員会を招集した。この会議前に市の担当官は「群発地震がエネルギーを解放したため大地震が起きにくくなっている」という情報をメディアに流し、それを新聞やテレビでは「大きな余震はない」という安全宣言のように報じたことが災いした。犠牲者の遺族は集団過失致死罪で告訴し、科学者を含む委員に有罪判決が下された。

この話が嘘とどう関係するかと言うと、市民を安心させようとした発言に根拠がなかったか、あるいは「群発地震によってすでにエネルギーが拡散されているため、大地震を起こすエネルギーが残っていない」という誤った判断をもとに、事実を裏切る予測をした点で、事実性の定義からは嘘となる一方で、市民を惑わす意図はなく、むしろパニック状態を鎮静化するための対策であったという点では、犯意の存在の定義から嘘ではなくなる。有罪判決ではおそらく、ラクイラ地震の起きるまでの6日間に「まったく大地震にならない、とまでは言い切れない」と冷静かつ慎重に、記者会見を開き、市民に懐疑的解釈のあることを伝えなかった、科学者の不作為を重視した可能性が高い。

悪い予測は外れても嘘つき呼ばわりされることはないのに

一般的な問題として、予測が外れたとしても、それで嘘つき呼ばわりされることはない。こと終末予言に関しては、ヨハネ黙示録にある最後の審判の日の西暦千年頃から毎年のように繰り返されてきたが、当たった試しは一度もない。当たっていれば、もうこの世界は存在しないのだから当然だ。だが1999年のノストラダムスの予言でさえも、あれほど騒いだのに、ノストラダムスを嘘つきだとは言わない。社会心理学者フェスティンガーの研究では、終末予言は外れることによって、かえって信頼を得ることになるからだ。

易者や手相見などの辻占では、見料をとりながらも容赦なく不幸な未来を予言する。これは仮に客に予想外の幸運が訪れ、予言が外れたとしても、結果に満足する客から抗議されることがないからだ。反対に、吉運を言い渡せば裏切られたときに嘘つき呼ばわりされる。ある意味占い師の側のリスク・マネージメントだと受け取ってよい。この伝でいけば、ラクイラ地震の防災委員会は「近い将来の大地震の恐れ」を、たとえ裏付けるデータがなかったにしても表明しておけば良かったことになる。だが、それは別の意味で良識を裏切ることにはなるけれども。

信頼できる情報を集めるために、嘘つきと正直者は区別される。しかし嘘つきはいつも嘘をつくとは限らない

敵を欺く目的で「事実でないと思ったこと」を吐露しながら、つまり嘘だと承知していたのに、結果的に嘘でなくなってしまう稀なケースもある。サルトルの短編小説「壁」が、この場合もっとも示唆に富む例を提供してくれる。

物語はスペイン内戦の時代。反ファシスト側を支援するために潜入した主人公パブロは、体制側に捕縛され、アナーキストの指導者の隠れ家を言わなければ殺される状況に陥る。彼は死を覚悟のうえで、相手を欺くことにする。潜伏の場所は地元の墓地だと、いい加減な場所を教える。部下に調べさせると、パブロの予想に反して指導者は隠れ家を移していて、奇跡的な偶然の一致で地元の墓地で発見され、そして射殺される。明確な欺瞞の意図ゆえにパブロにとっては嘘であるものが、敵からすると死の恐怖に強制された真実の自白となった。嘘とは相対的なものなのか。

悲惨な社会では、拷問により自白を引き出す慣習があった。パブロのように、死を賭してまで嘘をつく者はいないことが前提になっている。あるいは、そこまで極端に至らずとも、嘘をつくことにリスクが伴う状況を作れば、無益な労力を使うまでもない。嘘をつくと閻魔さまに舌を抜かれる。嘘をつくと偽証罪に問われる。『創世記』にある史上最初の嘘は、アベルを殺したカインによるもので、そのためカインは神に呪われる。誠実であること integrity を規範とする社会は、嘘つきを減らし、間違いのリスクを負うことなく信頼できる情報を引き出しやすくなる。

問題の本質は、情報の信頼性にあった。嘘つきと正直者を区別する習慣は、できる限り信頼できる情報を引き出す必要があるために生まれたのだろう。だが、この二分法は決して効率の良いものではない。 嘘つきは常に嘘をつくわけでなく、正直者も毎度正直だとは限らないからだ。愛の告白は本当なのか、狼が襲ってくるか否か、敵襲来の狼煙は事実か、そして大きな余震がないと言えるのか? 反乱の指導者の潜伏先はどこか?これを知るためには、どういう態度をとるべきなのか。

嘘だと認定するとき、受け手は2種の信号を受け取る

ここで視点を変えてみよう。

自然は嘘をつくだろうか?これはナンセンスな問いのように思える。嘘をつこうにも自然には人を欺く意図を持ちようがないからだ。でも平家蟹はどうだろう。ヘイケガニ(平家蟹)Heikeopsis japonica は、ヘイケガニ科に分類されるカニの一種であり、日本近海の浅い海に分布する小型のカニだ。この甲羅の凹凸の模様に名前の由来がある。吊りあがった目(鰓域前部)、団子鼻(心域)、固く結ばれた口(甲後縁)は、まるで怒れる武士(もののふ)のような形相に見える。瀬戸内海や玄界灘沿岸に多く捕獲されることから、壇ノ浦の戦い(1185年)で敗れて海に散った平氏の無念を連想し、「平氏の亡霊が乗り移ったカニ」とされた。

人面に見える甲羅は、人に何を伝えるのか。決して騙そうとしていないことは明白だとしても。天文学者のカール・セーガンはこの現象を進化論の立場から説明する。適応放散の結果たまたま生じた人面様の甲羅のカニを、漁師は気味悪がって食べずに海に戻してしまう。そうでない変異は食用に供されて、子孫を残すことができない。つまり意図せざる負の人為選択の結果、怒れる武士の甲羅が棲息数を増やしていった、という訳だ。セーガンはカニの甲羅に進化のメッセージを読み取る。

同じことが擬態についても成り立つ。枯葉に見紛うコノハチョウ kallima inachus、小枝そっくりのナナフシ phasmatodea は、周囲の景色に溶け込んで捕食者から身を守っているかに見える。コノハチョウの方は羽根を閉じてしまってせっかくの意匠を見せ損なっている、という問題はあるけれど、観察者の眼には偽情報を発信しているように見える。少なくとも博物学者はそう読み取る。擬態は捕食者を欺くものだが、人間には「コレハ擬態デアル」という信号を送っていることになる。ということは、二つの情報系統が交錯しているのだ。

面白いのは、人間の側からおこなう擬態の一種である案山子(かかし)である(他にはコスプレがある)。田圃の中に人間に擬した人形が風に揺らめく。カラスや害鳥にとってみれば、風になびく動きで既に生身の農夫ではないと分かってしまう。これは偽装人形の視覚情報(一次信号)と、人間ではない案山子であるというメタ情報(二次信号)が同時に発信されるためである。逆に、人間が案山子を擬態して田圃に立ち尽くしたら、カラスがどう学習するか興味深い。

この2種(多種でも構わない)の信号系統の図式は、グレゴリー・ベートソンの「ダブルバインド理論」を思い起こさせる。たとえば、子供が母親に菓子を食べてよいか、と尋ねた場合を考えよう。これに対して、母親は言葉では「いいわよ」と言いながらも、怖い形相で子を睨みつける。許諾のメッセージと拒否のメッセージ(あるいはメタ・メッセージ)が同時に発せられ、子供は矛盾する情報の処理に戸惑い、この世界を理不尽なものと捉えてしまう。重苦しく繰り返されれば心の病い、統合失調症を発症することさえあると言われている。

こうしてみると、嘘つき/正直者の二分法は、語られる一次情報と、その信憑の評価にかかわる二次情報とに置き換えて考え直すことができるし、嘘つき少年の狼襲来の知らせについては、タブルバインド理論がヒントの一つを与えてくれる。

強打者は凡打することが多いし、藤井聡太八冠と近い勝率の棋士との差は僅かでしかない

超能力の研究から示唆に富む例を、最後にもう一つだけ引いておくことにしよう。超感覚知覚 extrasensory perception=ESP の持主である超能力者はどのように見付け出すのか。1930年代にデューク大学でライン博士 J. Rhineによって行なわれた今は古典的となった測定実験では、ゼナーカード Zenner Card が用いられた。このカードは、○、+、□、☆、<<<(波形)が裏面に描かれたトランプ大のもので、これを裏側から透視して、正解を言い当てる頻度の高い者を超能力者(エスパー ESPer)とした。もちろん被験者の中には一般人もいるから、超能力者/一般人を二分する実験でもある。嘘つきの逸話と異なるのは、この二分は便宜的なもので、偶然の確率20%程度のヒット率をもつ一般人と、30~40%の正答率を得た超能力者の両極の間には、どちらともつかないスペクトラムが存在する点だ。超能力者と言っても、いつでも透視できるわけではない。誤答率が50%以上もあることを忘れてはならない。


よく似ているのが、プロ野球の強打者だ。安打確率つまり、打率三割(何故か30%とは言わない)以上はそう言われるし、打撃十傑にランクインすることも多い。でも考えて欲しい。凡打する確率の方が高いのに、「ヒットを打てない選手」とは言わない点にも注目して欲しい。

同様に、勝率八割を超えるプロ将棋の藤井聡太八冠を人は天才棋士と呼ぶけれど、これに近い勝率の棋士も多く、藤井さんとの違いはほんのわずかな差でしかない。これも天才/凡人の二分法の枠に無理に押し込めることから生じる矛盾だ。確かに藤井さんの棋譜をみると、強豪棋士でも想像を絶する妙手、ときにはAIですら予想できない奇手が印象的だが、このことと勝率とは関係がない。かつての大名人である大山康晴十五世名人は、どうして強いのですかという質問に対して、「相手が間違えるからだ」と適切に答えている。ライバルの兄弟子で「新手一生」を掲げた鬼才升田幸三元名人は天才扱いなのに、実績では遥かに上回る大山名人は天才とは言われなかった。学生時代に(当時の)最年少記録で名人に挑戦した加藤一二三元名人(通称ひふみん)でさえ天才と賞賛されたのに、である。

超能力者、天才そして嘘つき。こうした評価は実態を正確に反映したものではないし、思わぬ誤解や不幸を招きかねない。インパクトがあって面白い、とか、話題性があるという点だけが取柄の、事実の誤ったとらえ方なのである。

罪は嘘にあるのではなく、不確かな情報を嘘と分類し、真相を見えなくすることにある

最後に、知識の信頼性をめぐる第三次の情報システムを考えよう。冒頭の歌詞と「狼と羊飼い」の寓話は《拵えもの》である。これには異存がないだろう。周王の偽の狼煙の逸話は史書によるが、おそらく司馬遷が収集した伝承であろう。そのまま事実とするには考証を必要とする。ジョンソン博士の英語辞典の「嘘」のもう一つの意味が fiction であることからして、嘘のメッセージは二重構造を持つことが分かる。つまりこういうことになる。

1)狼がやってくる、と羊飼いの少年が叫ぶ。(最後の機会)fact
2)少年は嘘つきである。(1に対するメタ情報)criminal falsehood
3)イソップがこの寓話を書いている。(1、2に対するメタ情報) fiction

物語の中の村人は最初の二つの情報1)2)を総合的に分析し、実際にはこんな風だったと考えることもできる。「あの野郎、また悪ふざけをしやがって、もう懲りたから皆で出張(でば)るのは止めにしようじゃないか。でも、万一のことがあるから、安全策をとって羊は柵の中に入れておくとしよう」。あるいは「ここのところ誤報ばかり続いて、人迷惑な奴だ。でも番小屋に見張り役を置かないと、いつも振り回されることになる。誰か探そう」。

こんな想像をする理由は、3)のメタ情報があるからだ。イソップは寓話の最後に《教訓》epimythos を添える形式をとる。この物語自体が「嘘をついてはならない」という教訓のための《拵えもの》なのだ。寓話の情報源となった事件が仮にあったとしても、それは実際にはイソップの記述通りではない可能性が高い。そもそも少年の虚言に振り回されるほど、牧夫たちが無防備であるとは考えられないからだ。

幽王の史話についても、嘘と仮構の混在するあやふやな状況のなかで、事実について推論をめぐらせることは可能だ。王からの命令系統にチェック機能がないのか。山東や江南からの派兵だと数日かかるし、徐々に王都に集まってくるので、誤報と判明すれば途中で引き返す兵の方が多かったのではないか。犬戎に都を蹂躙された原因は、愛娼にうつつを抜かした幽王の悪戯にあるのではなく、国境警備の弱体化、国王の失政を諫める功臣の不在など、全体的な国力の衰退にあったのではないか。

嘘をつくのが罪なのではなく、不確かな情報を嘘として分類したり、断罪することで真相が見えなくなることこそが、罪なのである。

参考文献
『イソップ寓話集』イソップ 中務哲郎訳(岩波書店 1999年)
『史記』周本紀 司馬遷(岩波書店)
「裁かれた科学者たち.ラクイラ地震で有罪判決」纐纈 一起、大木 聖子 FACTA2013年2月号 LIFE
『予言が外れるとき』 L.フェスティンガー他 水野博介訳(勁草書房 1995年)
「壁」サルトル 伊吹武彦他訳 (『水いらず』新潮文庫 1971年所収)
『コスモス』C・セーガン 木村繁訳 (朝日新聞出版 1990年)
『精神の生態学』グレゴリー・ベートソン 佐藤良明訳(思索社 1990年)

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井山弘幸(いやま・ひろゆき)

新潟大学人文学部教授を経て、現在同名誉教授。専攻は、科学思想史、科学哲学。好みの主題は、幸福論、偶然性、科学と文学、物語論、お笑い文化論。趣味は、落語などの演芸鑑賞、ピアノ演奏、旅行、ドラマ鑑賞。著書に『偶然の科学誌』、『現代科学論』、『鏡のなかのアインシュタイン』、『パラドックスの科学論』、『お笑い進化論』など。訳書に、『知識の社会史』、『科学が裁かれるとき』、『ハインズ博士の超科学をきる』など。現在、ピーター・バークの『博学者論』の翻訳中。

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