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スーパー書評「デカルトのJe pense, donc je suisに込められたもの」
『方法序説』落合太郎訳 岩波文庫(旧版)、谷川多佳子訳(同新版、ワイド版)/『方法叙説』小泉義之訳、講談社学術文庫

2025.06.30

Updated by Yoichiro Murakami on June 30, 2025, 15:06 pm JST

そもそも邦訳のタイトルからして問題ありです。岩波文庫では、旧訳も新訳も、「序説」となっていますが、原文のタイトルの主部分(もとは、後に述べるように極めて長文なので)は<Discours de la Methode>、つまり<discour>は「談話」とか「言説」などの意味であって、<introduction>を意味しがちな「序説」と訳すのは、字面の上では誤訳に近いとされる可能性があります。現に講談社学術文庫の訳者小泉義之氏は、<discours>の訳として「叙説」を採用しておられますし、落合氏の訳も、現在の形に改める前は「叙説」となっていました。落合氏は、改訳に当たってタイトルの訳語の改変に言及して「別に他意はない」とだけ書かれています。

ただ、この書は、孰れ明らかにするように、内容からすれば、デカルトが自分の哲学体系を作り上げるに当たっての出発点を説くもの、また書物の体裁から言っても、実はこの書は光学、気象学、幾何学などに関する詳細な文章が大部分を占め、通常「方法序説」と言われる部分は、此の大著(原著では約500ページ)の初めの極短い部分だけを指すものです。実際には、原著では全体の6分の1にも満たない、岩波文庫落合版の訳文でも僅か94ページです。落合版の残り152ページは訳者の注記ですし、小泉版では、訳者の注記は決して少なくないにもかかわらず、文庫本としては異例の100ページを辛うじて超える、という「薄さ」であります。

それら大部な「本文」の「序」に当たると考えられなくもない、こうした二つの、ある意味ではもっともな理由で、イントロダクションともとれる「序説」が一般化されています。ただ「序」は確かに「序論」などと使われた場合や、書物の最初のセクションのタイトルが「序」とされることも多いので、「イントロダクション」の意味を運びがちですが、漢字の「序」には「述べる」(陳べる)の意があり、ある漢和辞典では「叙」に同じとさえ書いています。こうなると、落合氏の「他意はない」という素っ気ない言い方を肯うべきなのかもしれません。落合氏自身「序」と「叙」は同義である旨書いておられることですし。小泉氏は1ページ以上を割いて、「序」と「叙」の同義性は認めつつ、「それは別の話である」として、「序」ではなく「叙」を採用した理由を力説されています。「別の」が何を指すのかは判然としませんが。

タイトル考だけで、かなり長くなってしまいましたが、実はまだ残っていることがあります。原著のタイトルが、そもそも極めて長いのです。読み易い形で再現してみると、次のようになります。

Discours de la Methode pour bien conduire sa Raison et cherche la Verite dans les Sciencs, plus la Optrique, les Metheores et la Geometrie, qui son des Essais de cette Methode

というわけで、実に30語を越えるタイトルなのです。まあ、当時の書物としては、タイトルに、その書の内実を示す文章を採用することは、別段珍しいことではなかったとは言え、確かに長いです。直訳すれば「人の理性を適正に導き、また諸学において真理を探究するための方法についての言説、加えて、この方法を試みた結果としての光学、気象学、幾何学」位のところでしょうか。

もう一つ、この段階で触れておかねばならないのは、この書が、お判りの通りフランス語で書かれている点です。この書がフランスで刊行されたのが1637年。まだ当時は、学術書が多くはラテン語で書くことが習慣付けられていた時代でした。例えば、この書物が刊行されてほぼ半世紀経った1689年に発表されたジョン・ロックの『寛容についての書簡』は、まことにたとえようもないほど美しい、見事なラテン語で書かれています。

ロックは英語でも多くの著作を残しましたから、一概には言えませんが、16世紀から17世紀は、知識人が漸くラテン語から離れて、所謂ヴァナキュラー(vernacular=英語、ラテン語の<verna>つまり「主人の家で生まれた奴隷」という意味から、「~で生まれた、~に土着の」という意味が発生し、特に言語で「自国語」、「郷土の言葉」の意味に使われます)な言葉でものを書く、という習慣が生まれ始めた時代でした。因みにデカルトにこの本を書かせる刺激の一つになったと言われる、1632年刊行のガリレオの通称『天文対話』(原著の標題は<Dialogo sopra i due massimi Sistemi del Mondo>)、ヴァナキュラー言語を使って発表されました。標題は、一見ラテン語様に見えるかもしれませんが、当時フィレンツェで使われていたれっきとしたイタリア語です。通常「二大世界体系についての対話」と訳されています。因みにこの書は刊行後、日ならずしてラテン語訳が刊行されています。もっとも『方法序説』もラテン語版も刊行されるのですが。

内容に触れる前に、付随的な話が長くなりました。もう少し我慢して下さい。既に示唆しましたように、デカルトがこの書を執筆・刊行することになったのには、ガリレオが『天文対話』を出版、翌1633年にはローマの異端審問所に告発・有罪判決を受けたことが、大きく関わっています。因みに、この異端裁判は通常は地動説(太陽中心説)を直接弾劾した内容と解されていますし、内実にその点が含まれていたことは否定されませんが、表面上は、『天文対話』の内容ではなく(その証拠に、ローマ教皇庁の出版審査部局は、事前の審査で出版を許可しています)、かつてガリレオが異端審問所に果たした誓約に対する違反が問われたもので、手続き上の問題でした。ですから、判決後に彼が呟いたと言われる「それでも(地球は)動く」(Epur si muove)は、弾圧にもめげずに地動説の真理を貫く名言として有名になりましたが、現在では後世の捏造という判断がなされています。

脱線しました。ガリレオは、当時の世俗圏最大の権力機構であったハプスブルグ傘下のトスカナ大公国で大公付の学者という要職に就き、また宗教界(カトリシズム)の重鎮たちとも親しく、例えば俗名バルベリーニ(Maffeo Barberini, 1632年から44年までローマ教皇ウルバヌスⅧ世として在位)が教皇として君臨したときにガリレオ裁判が起こりますが、バルベリーニはもともとガリレオのパトロンとして知られた人で、彼こそアルプスの南の空に輝く星である、といった内容のガリレオ賛歌を彼に呈したこともありました。その彼が、ガリレオの有罪判決に表立って救いの手をさし延べなかったのは謎と言ってもよいかもしれませんが。

デカルトは年齢的には後輩乍ら、アルプスの南側でのガリレオの名声に対して、強い対抗意識を燃やしていて、自分こそはアルプスの北側での宗教界、知識社会の代表となるべき、という野心を抱いていたようです。その好敵手ガリレオが、ともかく筆禍事件を起こしたと聞いたデカルトは、これを他山の石と考えたのでしょう、その頃、宇宙に関して壮大な書物をものするべく、執筆にとりかかっていた計画を一旦白紙に戻し、新たな書物の構想にかかったと言われます。

この点は本書の第六部の冒頭にも、ガリレオの名は出さずに、しかし、きちんと書かれています。そして新たな構想の下に結んだ実が、『方法序説』として実ったことになります。但し最初はオランダで、デカルトの名は伏せて刊行されました。また、初版刊行後間もなく、やはりオランダでラテン語版も刊行されます。この書を不滅たらしめたのは、<Je pense, donc je suis>或いは、そのラテン語<cogito ergo sum>というフレーズですが、この言葉は、第四部に出てくるものです。実際、この第四部は、本書の核心をなすものと言えます。彼が、「適正に理性を使用し、真理の探究に」資する方法は、基本的に、徹底懐疑の方法と呼ばれるものです。落合訳を参照してみましょう。

「いささかでも疑わしいところがあると思われそうなものは、すべて絶対的に虚偽なものとしてこれを斥けてゆき、かくて結局において疑うべからざるものが私の確信のうちには残らぬであろうか、これを見とどけねばならぬと私は考えた」(落合版41ページ)。

こうして「かつて私の心のうちにはいって来た一切のものは夢に見る幻影とひとしく真ではないと假定しようと決心した」、挙句に「一切を虚偽であると考える」私は、その「考える」ことにおいて、「必然的に何ものかであらねばならぬ」ことに思い至った、というのが、かの短い名言に結集されている論点なのでした。一切を疑っても、そのこと自体において、最後に確信を以てその存在を必然においてみとめねばならぬ「私」。それがすべての出発点として前提されることになります。

ここでは、「私」の存在が、如何なる懐疑をも超えて確認できることが示されますが、それは同時に、「考える」言い換えれば「心」の存在をも反射的に確認できることを示していると思われます。その際、「何らの身体をも私が持たぬと仮想することができ、また私がその中で存在する何らの世界も、何らの場所もないと仮想することはできる」(落合版42ページ)というデカルトの言葉から、デカルトは「考える」ことによって明証的に確実にされる「私」は、空間的な存在様式を欠いていると見做していたことが判ります。つまり、ここで彼が確認した存在実体は、「もの」とははっきりと区別される性格を持つものでしかあり得ません。

この「もの」という概念の明確な成立は、1649年に発表された『情念論』(Les passions
de l’Anime
=谷川多佳子訳、岩波文庫)において、ということになります。そこで、彼は、「もの」の本性を<res extensa>という形で表現しています。「広がりを示すもの」という意味でしょうか。空間の中に、それがある広がりを以て存在する、それが「もの」の本性だと言うのです。それに対して、上述のように、「身体(空間の中に広がりを持ちますから、明らかに「もの」の一種です)を持たない」という仮定の下においてでも、「考え」ている私は想像できる、という概念付けに従えば、「こころ」は「もの」とは全く次元の異なる存在様式を持つ、とされることになります。ここに、デカルトの所謂「物心二元論」あるいは「心身二元論」が成立することになります。

デカルトにおける「もの」の厳密な定義は、『方法序説』より後の『情念論』においてである、と書きましたが。『方法序説』においても、上の考え方はすでに暗々裏には述べられています。というのも、『方法序説』の第五部の主題は、ある意味ではほとんどこの主題を扱っていると判断できるからです。ただ、その問題に入る前に、第四部で、もう一つ重大な案件が取り扱われていますので、その点を考えてみることにします。

デカルトは、第四部で「疑い得るものはすべて疑って捨てる」という思考実験を試みました。そこで残ったのは「考える」こと、つまり「こころ」と、それに裏付けられる「私」でしたが、もしそうだとすると、「神」もまた、懐疑の臼の中で、否定されてしまうことにならないでしょうか。恐らくデカルトは、誰もが辿り就きかねないこの結論を避けるために、<cogito>を表明した直後に、通常「神の存在論的証明」と言われる主張を展開します。

ごく簡単にその論述を再現してみましょう。私という存在は「不完全」であることを自覚している。しかし私が「不完全」という判断ができるためには、論理的に、その反対概念である「完全」なるものを知っていなければならない。「不完全」な私がどうして「完全」を知っているのか。それは、不完全な私の内実から来たものでは論理的にあり得ない。だとすれば、完全という概念或いは理念は、私の「外から」私の中に注入されたものに他ならない。そして世の中にそれが出来るのは神以外にはない。

大変見事な論述と見えます。しかし、伝統的な宗教における超越的な「神」という概念に照らせば、ある意味では、ひどく涜神的な、という批判はあり得るでしょう。本来人間を超越した存在を神と呼ぶのであれば、ここでのデカルトの論述は、「私」という人間の存在を根拠、或いは出発点において、そこから神を記述しよう、としているように思われるからです。そこにデカルトは、何処まで気付いていたでしょうか。

デカルトが気付いていなかったのでは、という点に拘ってみました。ここで、今までのデカルトの主張のなかで、同じように、彼が気付いていなかったのでは、と思われる重要なポイントが、他にも二つありますので、脱線序に、その二つについても、触れておきましょう。

一つは<cogito>に関してです。デカルトは<cogito>を出発点にして「こころ」の存在を一般化します。<cogito>を抽象名詞化した<cogitatio>が、「もの」と対比されることになります。しかし、デカルトが余すところなく明証的に示したのは<cogito>つまり「第一人称単数現在」の「(私は)考える」でした。それ以上のことは、まだ言えてはいないのではないでしょうか。

ラテン語に不案内な方のために、書かでものことを書きますが、ラテン語の動詞の中で、最も数の多い規則動詞(第一活用と言われます)は、「第一人称単数現在」形が<~o>で終わります。「第二人称単数現在」は<~as>、第三人称単数現在」は<~at>となります。従って、デカルトが親友のメルセンヌと話し合っているときには、メルセンヌが「考える」ことを言おうとすれば<cogitas>、別の人と話し合っているときにメルセンヌが「考える」は<cogitat>と言わなければならないわけです。全く余計なことですが、ラテン語を最初に学ぶ際に、最初に覚えなければならないことの一つが、この第一活用直接法と言われる変化を、第一活用の代表動詞である<amo>(ラテン語の辞書では、それが第何活用であるかを示すために、第一人称単数現在形でエントリーしますから、辞書を引くときは<amo>で引かなければなりません。因みに、定型動詞は大まかに言えば四変形に分類され、そのほか英語の<be>に当たる<sum>、あるいは<can>に当たる<possum>などの不規則動詞があって、それぞれを暗記しなければなりません)の最初の活用、<amo, amas, amat, amamus, amatis, amant>という具合に口癖にしてしまう必要が生じます。それでもこの変化形は、一つの動詞の「能相」と呼ばれるものでしかないのですが、それだけでも、過去、未来、完了、接続法、命令形などなどがあり、同じことが「所相」にも適用され、という話になります。

話を戻します。先にも書きましたように、デカルトがメルセンヌと向かい合っているときに、メルセンヌの<cogitas>については、あるいは、他者と話しているときのメルセンヌの<cogitat>については、デカルトは何も語っていませんし、デカルトが自らについての<cogito>と言えるだけの明証性を以て、それらについて語ることは本来全く不可能なはずです。ですから、デカルトが、自らの「こころ」だけでなく、一般化して他者の「こころ」についても語るためには、どうしても別の議論を用意しなければならないはずなのです。デカルトほど明敏な頭脳の持ち主が、この点に気付かなかった、というのは不可解としか言えません。

もう一つのポイントは<extensa>つまり「広がり」についてです。彼が<res extensa>というとき、様々なこの点を巡る言説から判断して、彼は「空間的な広がり」だけを考えていたとしか言えないのです。しかし「もの」の本性としての「広がり」を言うとき、それで充分でしょうか。例えば煙のようなものを考えてみます。今では煙も、幾つかの種類の原子からなる分子、つまり「空間的に広がり」を持つ「もの」であるとされますが、「煙」そのものとして捉えたとき、それは一瞬たりと同じ形をして、同じ場所(空間)に位置を占めているとは言えない、と考えられます。つまり、一定の長さの(広がりの)時間において、一定の形をもって空間の中に広がりを示す、ということが「もの」を規定するときに考慮すべきではないでしょうか。簡潔に言ってしまえば、デカルトの「広がり」は空間だけでなく、「時空」における「広がり」でなければなりますまい。再びデカルトほどの鋭い頭の持ち主が、この点をみはぐっていたのは、私には不可解です。
 
さて、さはさりながら、『方法序説』の凄さに関して、もう一点どうしても述べなければなりません。それは第五部の大半を尽くして語られる「動物機械論」です。彼は、ウィリアム・ハーヴィ(William Harvey,1578~1657)(と直接は述べず、「イギリスのある一人の医師」とのみ記しますが)の血液循環論(『動物の心臓と血液の運動に関する解剖学的研究』暉峻義等訳、岩波文庫)を引きながら、動物が機械と見做せることを説きます。

「猿の、又は何か他の理性を持たぬ動物の、器官なり外形なりをそなえたような機械があるとして、そのような機械がそれらの動物とまるで同じ性質のものでないと認める方法はどうしてもない」(落合版68ページ)。

つまり、後にチャペックが発明したロボットという言葉を使えば、サルとサル・ロボットとは「同じ」だ、というのです。驚くなかれ、続けて「なるほど言葉を発するような機械を工夫することはできる」ともデカルトは書いています。しかし、人間と人間ロボットとは確実に区別ができる、言い換えれば、人間は単なる機械以上の何かである、ということになります。

人間と人間ロボットを区別する基準は、言葉を構成的、創造的、自発的に操ることができるか、できないか、というところにある、というのが、デカルトの意見です。今風に言えば、機械が言語を使えるのは、与えられたプログラムによって、そしてその内側において、だけであって、そこから外れた言語活動は、人間のみがなし得るのだ、というわけです。この人間観は、今の状況に照らしても、非常に納得の行くものではないでしょうか。

もう一つ指摘しておきたいのは、デカルトの時代には、現在私たちが使うような意味での「科学」はありませんでした(あったのは「自然哲学」であって、この点では彼より遥か後輩に当たるニュートンの時代でさえ、同じことですが)が、後世に生まれてくる「科学」が目指したのは、デカルトの区別で言えば、「もの」の世界だけを追求していくことでした。「時空のなかでの<もの>の振舞いを可能な限り詳細に把握しようとする努力」それが科学になったのです。その意味で、デカルトの出現は、人類の歴史のなかで、極めて重い意味を持っていたことになります。

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村上 陽一郎(むらかみ・よういちろう)

上智大学理工学部、東京大学教養学部、同学先端科学技術研究センター、国際基督教大学(ICU)、東京理科大学、ウィーン工科大学などを経て、東洋英和女学院大学学長で現役を退く。東大、ICU名誉教授。専攻は科学史・科学哲学・科学社会学。幼少より能楽の訓練を受ける一方、チェロのアマチュア演奏家として活動を続ける。

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